とある公爵令嬢と第三王子の恋人ごっこの顛末記
アンジェリーナ(リーナ) 公爵令嬢
ロナルド(ロン) 第三王子
山も谷もない、ちょっとだけ普通ではない二人の普通のお話。
冊子、それは学園入学時に全生徒に学園から配布される薄くない本である。
中には、恋に恋するお花畑令嬢から、突っ込める穴があれば何でもいい発情期のクソガキたち…もとい、学園で過去に起きた恋愛、婚約にまつわる笑えない騒動とその顛末が個人情報を削除された状態で掲載されている。
実例と対処法と、問題点とその顛末まで書かれたそれは、まともな生徒ならドン引き間違いなしの内容である。
どうしてか毎年のように新しいケースが出たり、「お前ちゃんと読んだの?!」と言う類似ケースが発生するのが学園関係者の頭痛の種。
すでに冊子と言う分厚さではないのだが、学園側はかたくなに冊子と言い張っている。
……たとえ目を背けていても、そこにある現実は変わらないですよ、先生方。
当然学園に通っていた親世代も冊子のことは十分知っている。
子供たちから話を聞くたびに「また分厚くなって」「ワァ、これ私たちの代の話だわ(震え声)」などと言う親子間のコミュニケーションの道具として一役買っているとかいないとか。
近年、頻発するのはケース1および3と、5な模様。
ケース1は庶民の女子生徒による複数の上位貴族男子へのハニートラップ。
3はそれに類するもので、男子生徒が婚約者である女子生徒を無実の罪で罵倒し、婚約破棄を行おうとしたケースである。
ケース5は男子生徒からの庶民や下位貴族の女性に対しての関係の強要や、婚約者や夫がいる女性に対して不適切な行為を行ったケースについてまとめられている。
もちろん女子生徒から男子生徒に対する行為も冊子には書かれているが、数は多くない。
と言うよりも、女子生徒が主犯となる場合は内容が複雑化しやすいようで、なかなか普遍化できないらしい。
そう言う意味では、思春期の男子は単純なのが多いって話かもしれない。
これは、そんな冊子がある学園を舞台にした物語。
どこにでもありそうな、ごく普通の、貴族の結婚にまつわる物語。
本日の物語のタイトルは――。
そう、とある公爵令嬢と第三王子の恋人ごっこ。
公爵令嬢アンジェリーナは、自国の第三王子の婚約者だ。
生まれた頃から決められている間柄で、家族ぐるみのお付き合いと言えばいい方で、要するにゴリゴリの政略結婚であった。
彼女自身にはそのことについては不満がなかった。
そういう教育を受けているともいえる。
高位貴族の令嬢としてふさわしい立ち振る舞いと精神を幼いころからみっちりと教育されてきている彼女には、そのことに疑問も不満も感じなかった。
そういうものなのだ。
そしてそれは彼女の婚約者である第三王子にとっても同じこと。
王族の一人として、そしていずれは臣下に降りて貴族の一人となるための教育を受けている。
長男である王太子に何かあった時のためのスペアとして教育されている第二王子に比べれば幾分か気楽な、だがまた違った気苦労のあるポジションで、それでも彼はそれを当然のことと受け止めてきた。
そういうものなのだ。
そんな二人なので、これといったロマンスがあるわけもなく。
誰かによって決められたスケジュールに従って、決められた時間に、決められた場所で、話題さえも誰かが決めたそれを、誰かが用意してくれた好きでも嫌いでもない菓子を食べ、お茶を飲み干す。
彼女にとって、彼にとって、婚約者との時間はそういったものだった。
それが変わったのは、二人が学園に通う時だった。
もちろん学園に通っている間は授業などは決められているが、それでも学園に通う前に比べれば随分と緩いスケジュールだ。
早い話、登校時間と帰宅時間さえ明確にし、授業にさえしっかり出ていれば、他は何をしていようと構わないのだ。
加えてよほどのことがなければ生徒は全員寮住まいと定められている。
親の目が届かない、今までにない自由がそこにあった。
そんな中で、第三王子は自身の婚約者に告げた。
入寮手続きや、荷物の運び入れも終わり、明日から寮で過ごす。そんな日の茶会でのことだった。
「学園に通っている間だけでいいんだ。市井の若者たちのような恋というものをしてみたい。恋人というもののふるまいを体験したいんだ」
「そうですか」
婚約者の申し出に、令嬢は頷いた。これもよくある話だ。
親の抑圧から解放された少年少女が、痴情の縺れだの決闘騒ぎなどに発展することは、多くはないが、珍しくはない。
学園では今まで王族や高位貴族が直接関わらなかったような下位貴族や裕福な商人の子息女なども通っている。
そんな彼らと関わる中でカルチャーギャップに陥り、自分を見失うものも、これまた珍しくはない。
この国に限らないが、高位貴族というものはどいつもこいつも血が濃すぎる。
令嬢と第三王子にしたって、五代も遡れば確実に親戚同士だ。それも、従姉妹程度の近しい間柄である。
そのせいか、血の濃さは様々な悪影響をもたらしていた。
まず高位貴族同士の場合、子供が生まれにくい。生まれても体が弱かったり、先天性の異常を持ったものが多い。
異常は何も外見でわかるものだけではない。精神に異常を持つ者も少なくなかった。
何代か前の王族は、美貌の伯爵が自分に靡かないからと薬を盛って夜這いを敢行したとか。
結果として失敗に終わったが、夜這いを受けた方は女性不信となり、そのまま独身を貫いたらしい。
跡取りは親族から迎えたようで、今もその伯爵家は残っているのが幸いだろう。
夜這いを行った王女は別に婚約者がいたのだが、そちらは当然破談。同盟国の王の後妻として嫁いで行ったという。
しかも彼女の兄王子は以前に婚約者である公爵令嬢を卒業式で一方的に事実無根の冤罪で罵倒。国王に無断で自身の婚約を破棄したとして離宮で一生幽閉となっており、王位を継いだのは第二王子だった。
しかしながらその十数年後。
その王位を継いだ国王の息子の一人が、これまた別の家の公爵令嬢を自身の婚約者だと思い込んで卒業式で冤罪をかけて罵倒したというから、あの時は王権の失墜が酷かったと言える。
ちなみにその間違われた令嬢というか、夫人である。そう、既婚者だ。しかも一児の子持ちであったという。
初めに聞いた時は「どうしてそうなった」と思い、さすがに盛ってるだろうと思ったが、学園の入学準備の際に渡された「学園に入学する皆様へ、あらかじめ知っておいてほしいことと諸注意」という冊子に、当時のことと思われるケースが書かれていたので、誇張なしに実際にあったことなのだろう。
もちろん他にもいろいろ王族や高位貴族がやらかしたことはある。だが学園でのことに限定すると、大体が恋愛がらみが多い。
ちょうどそういったことに興味が出る年頃ということもあるのだろう。
もちろん教師や関係者も目を光らせてはいるものの、毎年大小関わらず何かが起こるものだ。
「冊子はお読みになりまして?」
「もちろんだ」
令嬢が問いかけると、王子は頷いた。暗記するほど読んだらしい。
読んだうえで先ほどの発言だとすれば、度し難いともいえる。
読めても理解できなかったのかもしれないわ。と、令嬢は冷静にそう判断した。
令嬢の王子に向ける感情は、良くも悪くもフラットだ。
いや、だったというべきか。
令嬢とて学園生活に対する希望と、ほんの少しの浮かれ気分はあるのだ。
いったい彼はどうなるのだろうかと、面白い動物を見つけた時のようなそういった興味が出た。
彼女の肯定的な気分が雰囲気ににじみ出たのか、王子はほっと息をついた。
「もちろん、卒業後には、いや違うな。卒業式には君の婚約者としてエスコートさせてもらう。それ以外でも公式の場ではキミを私の婚約者として遇する。
だがそれまでは、好きにさせてほしいんだ」
「わかりましたわ。どうぞ、あなたのお好きなように、あぁですが、正式な書面を交わしましょう」
さて、どこまでその約束が守られるだろうか。
令嬢はそう思いながらも頷いた。
王子が目を輝かせる。
「わかった。それでは明日、書面を持って迎えに行くよ」
王子はそう言うと、嬉しそうに立ち上がる。
足取り軽く立ち去っていく王子の背中を見送り、令嬢は決められた時間いっぱいまで一人で王城の中庭を楽しむと、その場を後にした。
明日から学園だ。この景色もしばらくの見納めだった。
*
翌日、令嬢が暮らす女子寮のロビーの一角で、王子は待っていた。
もちろん女子寮であるから、ロビー以降の入場はたとえ王子でも許されておらず、彼がここにいるのはある意味当然である。
いたのは彼だけではなく、一緒に見慣れない壮年の男性もいた。
「アンジェリーナ嬢、昨日言っていたことを書面にまとめたものだ」
そう言って差し出された三枚の羊皮紙に、令嬢は目を通す。
上から下まできちんと目を通し、昨日の話と違いがないこと、三枚とも内容が同じであることを確認する。王子のサインはすでに入っていた。
令嬢もそこにサインを加えると、王子は二枚の羊皮紙を受け取り、一枚を男に渡す。
「ランドリー事務官、これを正式な契約として申請するよ」
「……分かりました」
どうやら王城の役人らしい。
彼は微妙な顔をしたが、王子から恭しく羊皮紙を受け取ると足早に立ち去って行った。
「それではこれで、契約はすんだ」
「そうですわね」
男を見送ることなく、手の中の羊皮紙を丸めると王子はニコリと微笑んだ。
令嬢も頷く。
「そ、それでだな、こ、これからだね」
「殿下?」
いきなり挙動不審になった王子に、令嬢は首をかしげる。
傾げた後に、「あぁ」と頷く。ここは女子寮のロビーだ。つまり、彼女以外にも女子生徒はいる。
これから彼の思い人でも来るのかもしれない。彼女はそう判断すると、スカートのすそを持ち上げ、淑女の礼をしようとした。
「殿下、私はこれ」
「その、リーナと呼んでもいいだろうか」
「…………は?」
突然の言葉に、令嬢はらしくもなく動きを止めた。
そんな彼女に気が付かずに、王子はまくしたてる。その顔はもしかしなくても真っ赤だ。
「市井での恋人同士というのは、愛称で呼んだりするらしい」
「はぁ」
「アンジェリーナという名前も高貴で可愛らしい名前でキミによく似合っているが、その……ダメだろうか」
「……いいえ」
どこか上ずったような声で令嬢の名前を褒めたたえた後、あまりのことに反応ができないでいた彼女に、王子は眉を下げて尋ねる。
ワンテンポ遅れて彼女は自身のスカートから手を離すと首を振った。
途端に王子は顔を輝かせる。
「そうか! ではリーナ、私のいや、オレのことはロンと呼んでくれ!」
「殿下」
「ロンと!」
ズイッと、顔を近づける王子は、かつてないほど力強い口調で言った。
その態度に令嬢は、「もしかして」と思い当たったのである。
「あの、確認したいのですが」
「なんだ?」
早く呼んでくれないだろうかとワクワクしていた王子は、令嬢の言葉に首をかしげる。
「でん……ロン、様の恋人というのは、その、私で間違っていないのでしょうか?」
「何を言っている」
令嬢の言葉に王子のワクワクとした表情が真顔に変わった。
そのあまりの落差のある変化に、令嬢は内心で冷たい汗をかく。自分の言葉が何か王子の不興を買ったのかと脳内を激しく回転させ始める。
だがそれも、王子の言葉に見事に空転した。
「当たり前じゃないか。君以外に誰がいるんだ!」
「はぁ」
王子の詰るような言葉に、思考が空転した令嬢の反応は鈍い。
そんな令嬢の態度に、王子はロビーの隅に用意されているソファセットへと彼女を優雅にエスコートすると、ソファに座らせる。
それから令嬢の顔を覗き込み、王子は「どうしてそうなったんだ」と尋ねた。その表情は穏やかなものだったが、王族特有の内面を伺わせないタイプのものだ。
令嬢は王子を見上げながら、強張った舌を何とか動かしながら告げる。
「てっきりその、他に懸想されている方がいて、学園にいる間はその方と過ごされたいとか、別に恋人を作りたいとか、そういうお話かと」
「なぜ君という婚約者がいて、他の女性に目を向ける必要があるんだ」
「…………ソウデスネ」
心底わからない。と言う王子の反応に、令嬢はそれ以上何も言えない。
そんな彼女を見下ろしていた王子は、少し首を傾げた後にハッとした顔をする。
「もしや、キミには他に好きな男がいるのかい?」
「いいえ」
令嬢は食い気味に否定をする。
実際そんな相手はいなかったし、王族である婚約者のこれ以上の不興を買うつもりはなかった。
一瞬だけ刺々しいものになった王子の気配が緩む。
「そ、そうか。よかった。
君は王族の婚約者として何の過不足もなく素晴らしい女性だ。だから、学園に通っている間の恋人らしいことをしたいというのは完全に私の我が儘なんだ」
「恋人らしいこと」
どうやら王子は本当に婚約者である令嬢と「恋人ごっこ」をしたいらしい。
婚約者と恋人同士はどう違うのかと言う話だ。
鸚鵡返しに呟いた令嬢の声にそのあたりの戸惑いを察したのか、王子は頬を染めながらぼそぼそと呟く。
「その、手を繋いで登下校をしたりとか、一つのケーキを分け合ったりとか、手ずからクッキーを食べさせたりとかだな。アンジェリーナ嬢、いったい何を笑って!!」
「リーナですわよ、ロン様。それと、笑ってはおりません」
微笑ましいと言うべきか、細やかと言うべきか。
そんな王子の要望に、令嬢――リーナは艶やかな笑みを浮かべた。
大輪のバラのような、と、家族に褒められる笑みを意識して浮かべる彼女に、王子――ロンは顔を真っ赤にさせて見惚れた後、ごほんと、咳払いをする。
それからソファに座る彼女へと手を差し出した。
「それでは、一緒に登校しよう。帰る前に一緒に学内のサロンでお茶をして、そうだな。まずはキミの好きな茶葉を探そうか」
「あら、ご存じだったんですか」
ロンの手を取り立ち上がったリーナの意外そうな言葉に、ロンは苦笑いを浮かべる。
二人の茶会で出される紅茶も、菓子も、彼女がほとんど最低限しか手を付けていないのはロンも気が付いていた。
「キミは自分が思っている以上に顔に出ているぞ。ついでに言うなら、あの茶はオレも苦手だ」
「それは、気が付きませんでした……」
リーナも今更ながら婚約者の好みを知らなかったことに思い当たり、呆然とする。
二人の婚約は生まれた時から決まっていた。そういうものだった。
それに不満も疑問もなかった。だってそういうものだったからだ。
だがそれに一石を投じたのは王子の方だった。
ショックを受けるリーナに、ロンは首を振る。
「兄が好きなんだ。それゆえに王宮では言い出せなくてな。苦労を掛けた」
スペアでもない第三王子である彼が、兄の好きなものに文句を言えるはずもなく。
婚約者が味を苦手としていることを理解しながらも何の手も打てなかったことを短く詫びる。
そんなロンに、リーナは握る手に力を込めて微笑む。
「いいえ。私もでん、ロン様が好きな茶葉が知りたいですわ」
リーナの笑みに、ロンは微笑む。
なりたての恋人同士の学園生活は、まだまだ始まったばかりである。
しばらくして、ロンとリーナは学園内のサロンにて向かい合っていた。
二人の間にあるのは少しばかりスモーキーな香りの強い紅茶。
これをリーナはミルクと砂糖をたっぷりと入れて、ロンはミルクだけを入れて飲むのが好みだった。茶菓子は口の中でほろりと崩れるクッキーだ。
お互いの授業の内容や、友人達の話をしながら恋人同士の話は弾む。
もうすぐ王宮の庭ではクチナシが咲くね。などと話していた二人に向けられる視線は穏やかだ。
今の学園内で最も高貴な二人が「恋人ごっこ」をすることは始めは奇異の目で見られていた。
高位の貴族にとっては結婚は家同士の繋がりであり、契約だ。ゆえに市井の者のような恋人などは夢物語の中でしか存在せず、せいぜいが愛人がいいところだろう。
三男や次男など、まだ婚約者がいないものが学園内で庶民や下位貴族を相手に恋人を作ることもある。だが、その多くが期間限定のお遊びで、そこから婚約に至るケースは少ない。
結局のところ、高位貴族にとっては恋人と婚約者は別物なのだ。
そんな中で、市井の者のように婚約者と「恋人ごっこ」をする二人は変わり者に違いなかった。
だが、家同士の繋がりである婚約者ではなく恋人ならば、紳士淑女の〝適切な距離〟が少しだけ短くなる。それはほんの一歩、いや、場合によっては半歩の距離なのかもしれない。
だがそれでも近いのだ。
婚約者を寮の入り口まで送るのは義務ではなく権利であると王子は言う。
ロビーの隅で別れを惜しむように話すことも、別れ際、お互いの手を握ることも、明日また会うことを約束することも。
サロンでテーブルの上でお互いの手を握り合っていても、自分だけの愛称で相手を呼んでも、呼ばれても、恋人同士ならばいいじゃないかと言う。
貴族の、家同士の、婚約者同士なら「はしたない」ことでも、市井の恋人同士の間柄なら、むしろそれくらいは可愛らしい部類だ。
しかも彼らはちゃんとした婚約者同士だ。他の誰かを相手にちょっかいを出しているわけでもない。
そしてそんな彼らを見て、真似する者が出てくるのも早かった。
何しろ彼らだってそういうことに興味を持つお年頃なのだ。
市井の恋人同士をはしたないなどと言いながらも、本音を言えば興味があるし、何なら試してみたい。
だが婚約者のいる身で恋人を作るわけにもいかない。だが「恋人ごっこ」ならば? 何よりそれをしているのは今学年の生徒で最も高貴な二人である。
あの二人がしているのならばと、免罪符を手に入れた生徒たちの行動は早かった。
おかげで現在の学園の雰囲気はかつてない程ふわふわしている。
「そういえば、入学式の日に高位貴族用の校舎付近で迷子になっている生徒がいたね」
「まぁ珍しいですわね」
そんなふわふわした空気の中で、ロンが「そういえば」と話題を変えた。
リーナは首を傾げつつも驚いた。この学園は様々な経験をもとに、現在は校舎が大きく五つに分けられている。
卒業式や入学式を行う講堂を中心に、王族、高位貴族が学ぶ場所と、下位貴族、平民が学ぶ校舎に分かれ、さらには男女も校舎そのものが分かれている。
男女が一緒の授業ももちろんあるが、多くが別々に分かれており、昼食も別々の場所に食堂がある。もちろん、中庭などで男女が一緒に取ることも可能だが、リーナもロンも友人達との社交に努めており、別々にとることが多かった。
「高位貴族なら一人で動かないだろうし、下位貴族や庶民なら高位貴族の校舎にそもそも用がないだろうしね」
高位貴族が下位貴族や庶民と一緒に学ぶこともあるが、その場合は必ず高位貴族が下位貴族の校舎に出向くことになっているし、呼びつける場合は講堂までだ。
庶民が立ち入り禁止と言うわけではなく、高位貴族と一緒ならば校内を歩くことや施設の利用は可能だ。ただし、行き帰りは必ず高位貴族が付き添うことが決められている。
これは警備上の決まりであり、破れば高位貴族側が罰せられるのだ。
そういうことになるまでに、最初に渡される手引書のページが倍になったらしいと聞けば、卒業生も在校生もそれ以上は何も言えなかった。
ゆえに下位貴族や庶民が、ロンたちが学ぶ校舎に一人で来ることはほぼない。
「ロン様はどうしたんですの?」
「警備に言っておいた。それでその足でキミに会いに行ったよ」
王子である彼が直接庶民や下位貴族に声をかけることはない。かけられた方も困るだろうということをしっかり理解している彼は、適切な対応を取るとリーナのもとへ駆けつけたのだという。
また別のある日のことだ。
食堂でリーナは友人たちと昼食をとっていた。
恋人同士の甘い会話とはまた違った、ファッション、観劇、誰かの噂話と少女たちの会話は楽しいものだ。
ある令嬢が恋人と街に出て、花屋で一緒に花を選んで買ってもらったと嬉しそうにいえば、別の令嬢がやはり恋人と観劇に行ったときに手を握り合ってみたと恥ずかしそうに告白する。
そのたびに小さく歓声が上がり、次はアレをしてみたい、これをしようかとお互いに情報を交換してはクスクスと小声で笑い合う。
中には所詮は親に決められた婚約者同士と、入学以来ぎくしゃくしていた者たちもいたが、「恋人同士だって喧嘩をしたりしますわ」の一言で、お互いの胸の内を吐き出しあった。
その後は恋人としては別れたものの、前よりはずっとましな婚約者同士の間柄に納まったものもいる。
もちろん、そんな彼女たちの「ごっこ遊び」に眉を顰めるものが生徒にも教師にもいないわけではないけれど、恋に恋する乙女たちにはどこ吹く風。
どうせ限られた時間だけのお遊びなのだから、楽しまなくてはもったいない。
そもそも始めたのが王子とその婚約者なのだから、表立って文句を言えるものなどいなかった。
そんな、一通り話が終わった後、不意に令嬢が表情を引き締めてリーナに告げる。
「アンジェリーナ様、最近こちらの校舎で不審者が目撃されているそうですわ」
「まぁ」
令嬢の言葉にリーナや他の令嬢たちも声を上げ、顔色を悪くする。視線でお互いの顔を確認し、彼女以外にも同じ噂を知っている者がいることを確認し合い、信ぴょう性を確認する。
どうやら本当に不届き者がいるらしい。
「アンジェリーナ様はロナルド殿下が常にご一緒にいらっしゃいますから安心ですわね」
「そ、それは」
そうでなくても高位貴族の彼女たちが一人で行動することはまずない。
学園内ですら使用人が付いて回っているのだ。――授業中は近くに待機場所がある。
そんな中、一緒に花を買ったという令嬢が不安そうな顔で呟く。
「私は婚約者が校舎が別なので、少し不安で」
その言葉に、リーナは首をかしげた。意味が解らなかったからだ。
だが彼女を慰める友人たちにそれを聞くのはなんとなく憚られて、令嬢は手っ取り早く婚約者の王子に尋ねた。
彼の方でも同じ話題が伝わっているようだが、こちらは更に詳しい情報が出ているようだ。
「不審者? あぁ、どこかの男爵令嬢が高位貴族用の校舎まで来ているようだな。
本人は迷ったと言っているようだが、そもそも迷うような場所でもなければ、用があるとも思えん。何らかの裏がないかと現在調査中だそうだ」
男女の情報の違いが、その男爵令嬢が男子生徒に声をかけているせいらしい。
自分からわざわざ名乗っての行為らしく、声をかけられた方も困惑しているようだ。
もっともだいたいが「恋人がいるので」と言う趣旨の言葉を返すと途端に離れて行くらしい。
恋人ではなく婚約者と言うと離れて行かないという話なので、高位貴族の男子生徒の間では警戒が高まっているらしい。
「警戒」
「冊子ケース1および5に対する警戒だ」
どちらも婚約者以外の女性にうつつを抜かし、婚約者を不当に扱ったケースである。
被害者は女子生徒ではあるが、まっとうな男子生徒は己がそのような不貞行為に巻き込まれたくはない。
警戒するのは当然だろう。
「どちらもハニトラでしたわね。わかりました。こちらでも下位貴族の恋人や婚約者がいる令嬢に話を流しておきます」
「よろしく頼む。下位貴族は被害が少ないせいか軽く考えるものが多いからね」
その場合胃を痛めることになるのは、その下位貴族の寄り親である高位貴族だ。
寄親と寄子の子息女が同時期に学園に通っていることも多く、彼らはこうした面でも将来の上下関係や対処方法を学ぶのである。
公爵家令嬢であるリーナも当然寄り子の子息女が学園に通っており、週末は彼らを誘って茶会でも開こうと手配を入れた。
「さて、難しい話はここまで。リーナ、アレクに聞いたんだが、最近城下町で話題になっているお菓子屋のクッキーを手に入れたんだ」
「そうですわね、ロン様。私もキャスリンに聞きましたわ。バニラの風味がいいとか」
さすがに王子と公爵令嬢の二人は、他の者たちのように気軽に城下に出ることはできない。
ロンが手に入れたものだって毒見までしっかり終わっているものだ。
だがそれが何だというのか、これは「ごっこ遊び」なのだから、細かいことは目をつぶってしまえばいいだけである。
リーナはメイドが淹れた香り高い紅茶に目を細め、皿の上に並べられたクッキーを指でつまむとロンへと差し出した。
それからまたしばらくして。令嬢の一人が「そういえば」と口にした。
「そういえば、男爵令嬢が一人退学になったとか」
「あら?」
「それが、例の不審者だったとかで。安心しましたわ」
「まぁ」
さざめく令嬢たちの間に安堵が広がる。
すでに高位貴族の男子生徒にちょっかいを出す男爵令嬢の話題は男女にかかわらず広がっており、ピリピリとした空気が校舎を満たしていたのだ。
「プラータナ伯爵家の方が頭を抱えていましたからねぇ」
「まぁ、プラータナ伯爵の寄子だったんですね」
「えぇ。なんでも男爵家の御父上に言われても態度が改まらず、仕方なく学園でプラータナ伯爵家の方が直接注意されたのですが聞き入れられなかったとか」
「男爵家、ですのにねぇ」
「えぇ」
寄り親はきちんと仕事をしていた。と言う言葉に、かの家を擁護する声が上がり、それ以上責める言葉は出ない。
聞けば、かの伯爵家の派閥の下位貴族の子息女たちが揃って件の男爵令嬢を諫めたり咎めたりしたようだが効果がなく、敵対派閥や中立派はこぞって距離を置いた。
そうなれば庶民だって男爵令嬢から離れていくだろう。
それを受けて男爵令嬢がいじめだのいわれのない中傷だと騒いだものだから、寄り親の令嬢が出て行かざるを得なくなり、結果として男爵令嬢本人は退学処分となった。
「その彼女は、何がしたかったのかしら?」
「さぁ?」
呟かれた素朴な疑問に答えられる令嬢などいない。
結局彼女たちの疑問が解決されることはなかったのだが、それっきり話題に出ることもなく、次第に風化して消えたのである。
「そういえば、ロン様、恋人ごっこの知識はどこから?」
二人のお気に入りの紅茶を共に、今日も恋人同士の語らいは始まる。
不意に尋ねたリーナに、ロンは苦笑いをしながら答えた。
「母上だ」
「王妃様が?」
リーナが驚いた。というように目を見開くのは訳がある。
王子であるロンの母親、つまり王妃は公爵家出身だ。
リーナとはもちろん別の家の出身だが、それでもそれなりに歴史のある家の令嬢で、いつも穏やかな笑みを浮かべている女性だった。
「あぁ、母上はお婆様の鶴の一声で父上の婚約者に決まったそうなんだが」
「私もそのことは存じております。たしか陛下は当時第二王子だったとか」
「あぁ、第一王子と第三王子が才にあふれる人物で、パッとしない第二王子とか言われていたらしい」
「はぁ」
国王自らが自分をそう表現しているらしい。
リーナはどう答えていいかわからず曖昧な声を出す。
身内間のジョークと言えども、国王を貶める内容に公爵令嬢がそれを笑っていいものかは悩むところだ。
そんなリーナの前で、ロンがため息をつく。
「ところがどっこい、第一王子が学園時代に隣国の姫君に強引に迫って危うく国際問題に発展しかけたことで廃嫡。そこで台頭したはずの第三王子は、怪しげな魔術の生贄に庶民どころか貴族の関係者を巻き込んだという理由で廃嫡。
気が付いたら父しか残っていなかったらしい」
「そうですわね」
数代前の悲劇再びか、と、親世代が頭を抱えたことはリーナも知っている。
しかも今回も引き続いて三兄弟であるから、何かやらかさないかと王子たちは何かと窮屈な生活を送っていたらしい。
ちなみにそのやらかした王兄である第一王子も王弟の第三王子もすでに亡くなっている。現在の国王が即位してしばらくして病で儚くなったとされているが、実際には――と言う所だろう。
「まぁそれについては母上が〝だったら四兄弟にすればいいわぁ〟と言って弟妹を作ったんだが」
「…………そうでしたわね」
ロンの二つ下の妹姫と四つ下の弟王子を思い出してリーナはあいまいに頷く。
それでいいのか王族よ。などという不敬なことは思ってはいけない。
それで三兄弟のジンクスなどと言い出した面々が、自分たちの言っていることのバカらしさに気がついて意見を撤回したらしい。
そもそも、前回の時は男、女、男と言う並びだったので、兄弟の数は関係ないだろう。
ともかく、優秀であった上と下の兄弟が見事に潰れてしまって、残ったのが今の国王だったわけだ。
「母上は公爵令嬢だったので後ろ盾に問題はなかったんだが、即位する前はどうしてこうなったと二人してぼやいていたらしい」
割と今でも言っているんだけど。と言う王子の言葉は国民の一人として聞き流すことにした令嬢である。
ともかく、そんな風にもともと王位を継ぐ予定はなかった二人なのでかなり自由に過ごしていたというのだ。
そのため、婚約者ともっと親密になりたいと悩む息子に授けた秘策が「恋人ごっこ」だったと言うわけである。
「母上と父上は表立ってはできなかったようだけれど私たちなら大丈夫だろうとね」
母の頃は他にもいろいろあったみたいだから。と言うロンに、リーナは「そうでしたの」と頷いた。
王妃と国王の年齢差は五つだ。その年齢差だと学園に一緒に通った期間はないので、それもあるのだろう。
「それでは……今度は何をしましょうか」
「天気のいい日に、膝枕をしてほしい」
「……まぁいいでしょう」
せっかくですから、ランチボックスを用意しましょうか。と言うリーナに、ロンは嬉しそうに微笑む。
それはともかく、リーナとロンの恋人ごっこの時間は、まだまだ続くのだ。
「それと、お婆様に会いに行こう」
「ロン様のお婆様ですか?」
「あぁ、皇太后殿下ではなく、母方のお婆様だ」
ロンの祖母はすでに夫に先立たれ、王都で息子とともに静かに暮らしているらしい。
「まぁ、そうでしたの」
「あぁ、公爵家に後妻に入った方で、現在は隠居している先妻の息子と一緒に暮らしているそうだ」
ロンの言葉にリーナは珍しいな。と思った。
貴族が後妻を取ることはそう珍しいことではないが、そのまま先妻の子が跡を継ぐというケースは意外と少ない。
やはりなんだかんだ言って自身がお腹を痛めて産んだ子供の方が可愛かったり、今の妻の生家に忖度するケースが多いからだ。
ただそれは、公爵家の先妻が隣国の王族だったことと、後妻があらかじめそのあたりを織り込み済みで嫁いできたことが大きいという。
「まぁそれでもうまくいかないケースの方が多いらしいが、お婆様は何というか……いや、お婆様と言うよりも叔父たちがアグレッシブで…………」
ロンはそう言って遠い目をした。
家を継がなくてラッキー!!! と、全力で喜んで家を飛び出していったらしい叔父や甥、その他親戚の話を聞くと、自分もその血を引いていることに、確かに血の繋がりを感じずにはいられないロンだ。
「あと今の公爵は、お婆様が産んだ長女の子だ。先妻の子である長男、前公爵が独身だったので、養子にとって跡継ぎにしたんだ」
お婆様と叔父は八歳しか違わなくてね。と、ロンが言う。
リーナは思わず目を輝かせる。そこに、ほんのりとしたロマンスを感じ取ってしまうのは、やはり年頃の少女としては仕方がないだろう。
「とは言え、お婆様ももう八十だ。お爺様が亡くなられたのが八十五の時だから、あと五年は生きると言っておられるけど、やはり心配でね」
元気なうちに君を紹介したい。と言われ、リーナは笑顔で頷いた。
「ところで、亡くなられたお爺様はどのような方だったんですか?」
「あー……なんというか、すごく怖かったことだけは覚えてる」
「……え?」
ちなみにこの後、卒業して「恋人同士」ごっこは終わりましたが、結婚して仲のいい夫婦になるでしょう。
アーゴン公爵は亡くなっています。
第三王子は母方の祖父(アーゴン公爵)に初めて会ったときにあまりの恐怖にギャン泣きした。(ちなみに兄弟全員同様に泣いた)今も会う前に深呼吸必須。単純に顔が怖い。
訓練で遭遇したオーガの方が怖くない。母方の祖父母は王都のタウンハウスに住んでいます。
前王妃は、なんとなく気に喰わない女をコケにしてやろうとぼんくら次男に彼女の娘を嫁がせたら、ぼんくら次男が王位を継いでしまい、気が付くと同じステージに登っていたという悲劇。