2話 森の中で
しばらく呆然としていたクルミは、少しずつだがようやく頭が回り始めた。
先ほどまで玄関にいたはず。
けれど、今は木々に囲まれている。
夢か?
疲れて夢でも見ているのか? と思ったが、手で触れる地面の草の感触は生々しい。
それに匂いだって森の草木の匂いがした。
夢と言うにはあまりにも現実的な感覚があり過ぎる。
一体これはどうしたことか。
とりあえず立ち上がって足に付いた汚れを払う。
家の中に入る前で良かったかもしれない。
おかげでまだ靴を履いていたのは幸いだった。
すぐ側には鞄も落ちていたので、それを拾って周囲を見渡す。
人っ子ひとりいない森の中。試しに鞄に入っていたスマホを取り出して現在地を確認しようとしてみるも圏外の文字。
がっくりと肩を落とし、スマホは制服の胸ポケットにしまう。
「ここはどこなのよぉぉ!」
クルミの疑問に答えてくれる者は当然いない。
これからどうすべきか、必死で考える。
急に森の中に移動することなどあり得るのか。
最後の記憶はまばゆい光とめまいのような感覚。次の瞬間には森の中。
あまりに現実離れしていたが、クルミは普通の女子高生ではなかった。
地球ではない世界で生きた記憶を持つ魔女だった。
「……まさか、帰ってきた?」
確信があるわけではなかった。
けれど、前世で親交のあった精霊から、時々違う世界からやってくるものがいると聞いたことがあったのだ。
地球の漫画やアニメならよくある異世界転移。
それが実在することを知っていた。
それが理由だというならこの状況も納得できるが、生憎と判断材料がない。
異世界に転移したとして、自分が前世で生きていた世界なのか、はたまたまったく別の世界なのか。
世界がいくつもあるのかとか、そういうことまで聞いていなかった前世の自分を責める。何故もっと詳しく聞いておかなかったのかと。
前世で生きていた世界ならなんとかなる自信があるが、まったく別の世界となるとすごく困った事態になる。
「と、とりあえず森を出よう。人がいるところまで出ないとどうにもならないわ」
そう決めたものの、どっちへ行けばいいか分からない。
高い木に囲まれているから全部同じ景色だ。
遭難という嫌な言葉が頭に浮かぶ。
せめて目印さえあれば……。
特に高そうな木の前まで来ると、上を見上げる。
これを登れば、少しは周りの風景が見えそうだ。
けれど、問題なのは、これを登れるほどの力が普通の女子高生にあるとは思えないこと。
クルミは少し考えた末に、制服のスカートを、鞄に入れていたジャージのズボンに履き替えて気合いを入れた。
「いっちょやってみるか」
これまで一切使ってこなかった魔法。
しかし、ここには誰もいないので、見られる心配をする必要もない。
生まれ変わって初めて、クルミは魔法を使ってみることにした。
目を瞑って体の中を巡る魔力を感じ取る。
そこに確かにある力を意識しながら手と足に移動させ、強化させる。
大きく一呼吸すると目を開け、足に力を入れてジャンプした。
只人なら決して跳べない高さを軽々と跳び、枝を掴み、さらに上へ上へと跳んでいく。
自身の魔力を対価に精霊の力を借りて行使される精霊魔法ではない、自身の魔力のみを使って体を強くする強化魔法だ。
己の魔力を使った魔法は精霊魔法以上に魔力制御が難しい。
しかし、前世ではクルミの得意とした魔法だった。
まあ、それもそうならざるを得ない理由があったからだが……。
息を吐くように自然に強化した体で、ひょいひょいと猿顔負けで木の上まで登ったクルミは、辺りを見回す。
どこまでも続く緑色の景色。
「うーん、思った以上に大きい森だなぁ」
町や村は見えない。
「せめて目印があれば……」
と、周囲をキョロキョロを見回していると、地球でも見慣れた精霊がふよふよと呑気に目の前を飛んでいるのを見つけた。
クルミはこれ幸いと、迷わず精霊をわしづかんだ。
『きゃー、ひとさらいぃー』
「人聞きの悪い! ちょっと聞きたいことがあるんだけど、ここは……」
『やだ』
質問が終わる前に即答して拒否る精霊に、切羽詰まっているクルミは握り潰してやろうかと心の中で悪魔が囁いたが、そこは理性を総動員して押し止めた。
可愛い姿をしているが、精霊は怒らせると国ぐらい簡単に壊してしまうほどの力を持っているのだ。
怒らせるのは得策ではない。
まあ、虫のように捕まえた時点でギリギリ怪しいのだが。
クルミはポケットからスマホを取り出し、ストラップにしていた猫の形のスクイーズを外して精霊に見せた。
「これと交換でどう?」
『なにこれー?』
「スクイーズって地球の玩具」
『わー、初めての触感』
精霊は何度も触っては感触を確かめている。
「面白いでしょ?」
『これくれるのー?』
「私の質問に答えてくれたらね」
『答える~』
どうやら精霊のお気に召したようで、ほっとする。
「人がたくさん住んでる所に行きたいの。どこか分かる?」
『えっとねー、あっちー』
精霊が指を差した方向を確認する。木がたくさんで分からないが、精霊は嘘をつかないので信用していいだろう。
「あともう一つ。ここは地球じゃないわよね? この世界にいる最高位精霊は十二? 時の精霊リディアはいる?」
『うん、いるよー』
「……分かった、ありがとう。はい、これ」
『わーい』
精霊にお礼のスクイーズを渡すと喜んでどこかへ飛んでいった。
本当はもっと聞きたいことがあったが、これ以上質問攻めにして精霊の機嫌を損ねるのはよろしくないので諦めた。
「時の精霊リディアがいる、か……。ってことはここは前世の世界……」
時の精霊リディアとは、前世のクルミと面識があった精霊だった。
その精霊がいるということは、前世の世界である可能性が高い。
とりあえず知らない世界でなかったことは僥倖だった。
けれど、クルミが生きていた時代からどれだけの時間が経っているか分からない。
その辺りのことを先ほどの精霊に聞こうかと思ったが、精霊は寿命がないので時間の感覚が人とは違うのだ。
精霊にとって一年も百年も対して変わらない。聞いたところで正確な時を聞き出すのは難しいだろうと質問はしなかった。
「まずは人里を目指すか」
精霊の指差した方向へ向かうことにした。
けれど、普通に歩いていてはいつ辿り着くか分からない。
足だけを身体強化し、鞄を持ってクルミは走り出した。
今が何時か分からなかったが、できるだけ日がある内に人里に行きたかった。
夜になれば、街灯もない森の中は真っ暗になり、身動きが取れなくなる。
この世界がクルミの知る世界なら、地球にはいなかった魔獣といわれる凶暴な生き物がいるはず。
そんなのに夜に出会いたくはない。
幸い少しだが、水と食料は鞄に入っていた。
家に帰る前にコンビニで夕食やお菓子やら色々と買いだめていたのだ。
あの時コンビニに寄った自分を心から褒めたい。
けれど、何日分もあるわけではないので、早く食料を調達できなければこの森で行き倒れる。
そうなる前に人のいる場所に辿り着かなければ。
魔力がどこまで保つか、それが心配だった。
「くぅ、精霊魔法が使えたらひとっ飛びするのに」
精霊魔法は精霊に魔力を対価として力を貸してもらう魔法。
しかし、精霊は気まぐれな性格の上、好き嫌いが激しい。
魔力には質があり、精霊の気に入る魔力の質をしていれば精霊はたくさん力を貸してくれるが、嫌いな魔力をしていたら力を貸してはくれない。
クルミの魔力の質はあまり好みではないようで、十回使った内三回成功すればいい方だった。
風の精霊に力を借りられたとして、空を飛んでる途中で『やっぱりやーめた』などと言って魔法を止められてしまったら、クルミは真っ逆さまに落ちてしまうことになる。
なので、今精霊魔法を使うのはリスクが大きすぎた。
その点、身体強化は己の魔力を使って発現する魔法。
魔力さえあれば使い続けられる。
つまり、今もっとも信用できるのは己だけということだ。
時々枝や草に邪魔されながらも、オリンピック選手も真っ青の早さで森の中を疾走する。
「きっと地球で強化魔法使ってたらオリンピックで金メダルも夢じゃなかったのになー」
まあ、クルミは目立つことが好きな性格ではなかったのでそんなことはしなかったが、オリンピックにでも出ていたら両親からの目も少しは違っていただろうかと不毛なことを考えた。
けれど、それも今さらだ。
本当にここが異世界ならば、地球に戻る術はない。
来ることができるなら戻ることもできるのではないかと思うが、地球からこちらへは来られるが、こちらから地球へは行けないものらしい。
そう前世で精霊に教えてもらっていたクルミは、戻れないことを理解していたが、特に悲しみは浮かんでこなかった。
むしろ、生まれて初めてかもしれないほど気分が高揚している。
自分が生きていた世界。
もう戻れないと諦めていた場所。
クルミとして地球で十八年生きてきたが、クルミにとっての故郷は前世での世界なのだと実感する。
なんだか抑圧されていた色々なものが解放されたような心の軽さを感じた。
けれど、喜んでばかりもいられない。
何せ今のクルミは森で遭難中なのだから。
一心不乱に駆ける。
もうどれだけ経ったか分からないが、数時間は走り続けている。
そろそろ日も傾き始めていて、クルミに焦りが出始める。
森の中で夜を明かすことも覚悟しなければならないかと思った頃、急に視界が開けた。
急ブレーキをかけたクルミは立ち止まって確認する。
「道だ」
そこは人が通る道のようになっていた。
クルミがこれまでいた場所のように舗装されてもいない土だけの道だが、そこには誰かが通っただろう足跡と、車輪の跡のような轍があった。
ようやく見つけた人の痕跡に、クルミは少しほっとする。
この道を行けば、いずれは人のいる所へたどり着くだろう。
少し休憩しようと、道の脇に座って、鞄からお茶の入ったペットボトルとおやつのチョコレートを取り出す。
お茶をゴクゴクと飲んで一息吐き、チョコレートをを口に放り込む。
「大分来たと思うんだけどな……」
精霊に示してもらった方向へちゃんと進んでいたらの話だが、こうして人が通った跡があるということは、そう遠くない所に町か村があるはず。
しかし、いかんせん地図アプリなんて便利なものが使えないので、後どれくらいで人のいる場所に着くか分からない。
「はぁ、私が愛し子ぐらい精霊に好かれてたらこんな苦労しなかったのに……」
愛し子とは、特別精霊に好かれる体質の者のことを言う。
基本頼まれなければ力を貸さない、それも好みの魔力を持つ者限定という精霊が、頼まれずとも手を貸してしまうほどに好意を持つ存在。それが愛し子だ。
愛し子のためなら精霊は我も我もと手を貸し、愛し子を害する者には徹底的な報復を行う。
愛し子が理由で滅んだ国さえあるというほどだ。
あんまり好かれていないクルミとは正反対の存在だが、そんな特殊な者はそもそも滅多に現れない。
現れたら、大抵は国に取り込まれてしまう。
それは保護を目的とするが、保護を名目に危険人物を隔離しようという権力者の思惑もあるのだろう。
天然記念物よりも珍しい愛し子だが、クルミは前世で愛し子の知り合いがいた。
遠い遠い昔のこと。
冗談を言い合って、喧嘩して、一緒になってふざけた。
ひだまりのようなその場を温かく照らす笑顔がクルミの脳裏を過った。
「さすがにあいつは生きてないかな……」
あれからどれだけの時が経ったのだろうか。
前世で残してきた国や人達はどうしているだろうか。
色々な思いがクルミの中を駆け巡る。
目を閉じれば数日前のことのように鮮明に思い出される記憶。
辛く、楽しく、そして悲しい記憶。
少し、記憶を引き継いだことを後悔しそうになった。
クルミは両手で頬を叩き、気持ちを入れ替える。
「駄目だ駄目。疲れてるせいで余計なこと考えちゃう。早く人のいる所へ行こう」
そうして、重い腰を上げて、再び身体強化をしようとした時。
遠くからガラガラと音が聞こえてきた。
段々と近付いてきた音に、クルミは大きく反応する。
道の先を見ると、馬車がこちらへ向かってきていた。
クルミは表情を明るくし、「おーい」と馬車に向かって手を振った。