episode94・心に秘めた切り札、心ない虚無感 (Waka side)
全て上の空だった。
ぼんやりと心此所に在らずの賢一に、和歌は問う。
「千歳官房長官。体調は優れませんか?」
「………いや」
(図星をつかれた)
娘が現れて、
心が動揺しているのは否めない。
ずっと、赦されるのなら、会いたかった生き別れの娘。
賢一は頭を横に振った。
冷や汗は水瀬和歌が現れてから絶えない。
顔色も伺っている辺りに普段通りには出来ないのだろう。
娘を遠巻きで見た事はあるが、
こんなに近くで見た事は一度もなかった。
水瀬杏子との間に生まれた一人娘。
清楚で凛然とした雰囲気と滑らかな言葉のネイティブ。
時折に杏子の面影を感じる節もあり、
杏子に似ている、と思った。
ジュピター社の有力社員と噂されるだけあり、流暢ながら丁寧なネイティブ。
ミスのないドイツ語と時折に見せる微笑みに、ウィーンの議員は絶賛の声を
残して去った。
(………焦燥で上の空。
官房長官の品格すら忘れる程に)
和歌は理解していた。
仕事の依頼を受け、内容を見てから
相手は千歳賢一官房長官だと分かり切っていた。
それでも依頼を承諾したのは、
身近に見る父親という人物はどういう人間なのか、見て知りたかった。
もし、自分自身が現れたとしたら、
彼はどんな表情を浮かべるだろう。
和歌が抱いた結果は_____”家柄の為に生かされている優柔不断な男“
千歳家の道しるべが無ければ、意思のない人形も同然。
千歳家に動かされている。
「あんたのせいよ!!」
仕事終わりに、
鬼の形相の千歳家の貴婦人に呼び止められた。
ドン、と壁に追い込まれ、和歌は善子に睨まれた。
怒気の籠る喜子とは正反対に、和歌の瞳は物憂げに冷めている。
「………何の事でしょう?」
「今日の会談が散々だったのは、
あんたのせいよ!!」
「………………」
「どういう意味? 千歳家に土足で入るなんて」
「………誤解しないで下さいませ。
私は通訳者としてのご依頼を受けて、
参ったに過ぎません」
(………何も知らない、哀れな人)
思わず、軽蔑してしまいそうだ。
自身の娘ではなく妾の女に必死になるばかりに。
(………何も知らないのね)
ぎりぎり、と歯軋りの音。
あの頃、誘拐した弱々し意味女の面影は等はなく、余裕綽々な凛然とした
キャリアウーマンの顔だ。
「他人である
私等に目線を向けてもどんな価値も生まれません。
それにビジネスに私情を持ち込むのは、いかがかと思います」
「煩い!! そんなの分かってるわよ!!」
和歌は、瞳を伏せる。
そして意味有りげな影を落としながら呟いた。
「………それより、
なんの価値もない私よりも
大切な娘様に目を向けてはどうです?」
「……………何が言いたいの!?」
何故かの含みのある言葉、何を知っている表情。
眉間に走る縦皺。怒気の籠る瞳に、
追い詰めた拳はわなわなと震えている。
掴み所のない人形の様な無表情、
和歌の読めない態度を示す度に苛立ちを覚えるのに
その感情を探りたくなるのは、何故なのだろう。
この貴婦人が、“娘の秘密”を知れば、
きっと正気を保てるか分からない。
今だけだ。こんな無知な威勢を張っている余裕はないだろう。
「私情を持ち込んで躍起になれば、
身近な存在を見失ってしまいます。
私に何かを申されても、それは時間と大切な事を見失うの無駄なだけです。
あなた様には不釣り合いでしょう」
和歌は静かに諌めた。千歳家は何かを仕掛けている。
その時限爆弾が姿を表すのはいつか分からないが
それならば敵よりも先手を打たなければ。
ただ、ひとつ。
この貴婦人は、娘が現在どうしているのか眼中にない。
個人的に興味があった。……異母妹の本性を。
興信所の探偵に樹神美岬の同行を調査を依頼している。
千歳家に押し潰されてしまいそうに
なった時のいざという時の切り札だ。
美岬の重き弱みを見付けてしまった
現在、痛くも痒くもない。
もう柔な少女ではない。
安易にダメージを受ける精神ではいけないのだ。
守る盾を、その為に切り札を持っていないと、挑めないと
潰されてしまうのだと10年前のあの日に知ったのだから。
強くならねば、潰されてしまう。
千歳家の引いているからと盾に、
千歳家に迫られるのなら
彼等が有無を言えなくなる程の力と事情の切り札を持たねばならない。
(私は私のやり方で
お母さんの身も、廉の身元も守っていく)
それが、卑怯と言われ様と構わない。平和に過ごしたい。脅威が迫る事のない家庭を。
もしも、その横槍が入るとしたら、
だとしたら、千歳家しかいない。
(厄介なものは、黙らせないと)
秘密を匂わせながら、
自身に後ろめたい事が無ければ、
堂々としていればいい話だ。
(やはり、杏子は知らなくてはいけない事だ)
娘の顔を見る度に、焦燥感と罪悪感に襲われていく。
募る罪悪感は賢一は蝕んでいく。
娘の人生を台無しにしたのは、
彼女の表情にある、翳りは、紛れもなく、千歳家なのだ。
(私はどうなっても、いいのだ)
和歌はただ、杏子と廉を守りたいだけなのです。




