episode93・心のない居場所 (Waka side)
和歌は、現在、
立派な社会人として、生きている。
その背景にある過去の誘拐の傷痕、という嘆きは打ち砕く程に。
近頃はメンタルヘルスの医療機関、
主治医の遠藤とも疎遠気味だ。
それに対して不安を感じる面もあるが、
和歌は微塵もそんな素振りを見せない。
強いて言えば、最近は逆に憑き物が落ちたかの様な清々しさを感じてしまう。
海外を飛び回り言葉を通して、
人との繋がりを結ぶ愛娘の姿は、
見違える様に様変わりした。
娘様の職種は、最適だったのかも。
人間関係の限られた日本だけではなく、
他国に飛び回る事は、客観的に
自分自身を見詰め直せる機会です。
人は思考能力があるからこそ、
どうしても“自分自身だけが不幸”と思い込んでしまいがちな生き物ですからね。
他国、多民族、との交流を通して、
和歌ちゃんに何らかの変化が生じたのかと思います』
今まで接触してこなかった賢一が、
何かに追い詰められた様に、
何かを知らせたがっている。
その背景は読めないものの、
疑心暗鬼に陥る中で何かを危ぶませる変化があったのか、と思ってしまう。
娘の存在に気付いたのならば、
身辺調査を施し、彼女に接触している可能性もあるのではないか。
あれから、
母子の間に隠し事はないけれど
和歌はミステリアスで近寄りがたい、読めない性格をしている。
杏子のそんな心配を他所に
いつだって、和歌には凛然としていた。
(まさか賢一は、和歌に近付こうとしているのかも知れない)
娘の存在に気付いたのならば、
身辺調査を施し、彼女に接触している可能性もあるのではないか。
もし千歳家と接触する事があれば
娘を取られてしまいそうになる。
………娘を身近に傍に居ると、
凪の様な不安と焦燥感に押し潰されそうになる。
それは現在も変わらない。
だからこそ、娘が在宅療養中は、
心の何処か安心していた事は否めない。
外界に触れなければ和歌はずっと傍にいる保証がある。
対して現在は、杏子のいといけない、と思いつつ
千歳家のあの容赦のない脅威が愛娘を傷付けるのだとしたら
(発狂してしまいそうよ)
和歌は、ある時から、
杏子へこう口にする事が多くなった。
“お母さん、“私の翳り”は、忘れて、ね?”
その微笑みが、声音が、怖い。
そんな彼女に嘗ての弱々しいしい姿は微塵も見えなかった。
だから、余計に怖くなった。
千歳賢一の事を問えば、愛娘は
どういう対応を見せ、どう言葉を示すのか。
ホテルの一室のいた。
端から見れば優雅な独身貴族に見えるのかも知れない。
通訳の仕事は、明日。
失敗の許されない会談の準備の為に
前日から用意周到で挑まなければならない。
ウィーンの名を馳せる議員との通訳を
仕事として任されたのは急な事であった。
会社から支給されている
タブレット端末。ドイツ語の復習と、
会談でのおおよその予測される会話内容を見詰めていた。
通訳のテーブルで
タブレットで仕事内容を確認し、目を通している。
淹れたてのココアからは淡い湯気と
カカオシュトゥーベの香りが淡く広がっている。
イヤホンから耳に伝うのは、悲哀を唄うクラシック。
声楽家の切なき言葉が残響している。
通訳のテーブルで
タブレットで仕事内容を確認し、目を通している。
何時からだったのだろう。
あの、記憶と塞ぎ込んだ数年を“翳り”だと考え着いたのは。
ずっと弱々しかった自分自身が赦せないのだ。
弱々しいあのままでは、
千歳家にも負けてしまう。ならば、
ならば必然的に千歳家が恐れる程の技量と能力や地位を手に入れるかしかないのだ。
(棄てた事を、後悔させるくらいに)
(権力に殺められない程の、
力を自ら持たないと潰されてしまう)
弱々しいあのままならば、足が鋤くんで何も出来ない。
変わらねばならない。
母を悲しませ棄てた、
あの千歳賢一官房長官。
自分自身の心を弱々しくさせた千歳家。
実父と知りながらも良い感情を抱いていないのは、明白だった。
だからこそ彼の娘である千歳美岬が、
どうなろうと、和歌にはどうでもよい話なのだ。
虎の威を借る狐。
彼女のあんな脅しは、ままごと染みた
猫のじゃれ合いみたいでそれに反応するのは、幼稚に見えた。
寧ろ、あの頃よりも幼稚で変わらない彼女を軽蔑の眼差しで見詰めてしまう。
(愛憎と復讐に似ているのかも知れない)
この得体の知れない感情の理由は
今日も分からない。
ただ今は母を悲しませない事を
また千歳家の罠に嵌まるという過ちを繰り返してはいけないのだ。
伯父が正気を失っている今、
天涯孤独の母を守れるのは、自分自身しかいないのだから。
杏子は、十分に苦しんだ。
通訳の仕事は、明日。
失敗の許されない会談の準備の為に
前日から用意周到で挑まなければならない。
都心部の夜景は、とても綺麗だった。
闇に灯るネオンの光りは眠る事を知らない。
少し眩しく見えて、自分自身には慣れないモノだと感じる。
ガラスの窓の向こう側にいる“彼女”は、
酷く冷静で冷悧な表情をしていた。
酷く緊張感が、心を騒ぐ。
官房長官としての責務に慣れたと思い込んでいたが、まだの様だ。
水を飲んで緊張感を紛らわせながら、賢一は会談に備えていた。
「大丈夫よ、あなた」
傍には、喜子がいる。
夫として、官房長官としての責務を果たさねばならない。
と深呼吸した刹那にノックと共にドアの向こうから声がした。
「千歳第一官房長官、本日、
通訳を担当するお方が挨拶に参りました」
「_____ああ、通してくれ」
威勢良く返事を返したものの、後に固まった。
「______失礼致します」
大人のスーツ姿。
ストレートロングヘアに凛然とした端正な面持ち。
何処か薄幸の顔付きと雰囲気を佇ませながら、
彼女は淡く微笑むとはっきりと伝えた。
「______本日、翻訳をさせて頂きます。___水瀬和歌です」




