episode91・執着の香り (Misaki side)
お久しぶりです。大変、お待たせ致しました。
申し訳ございません。
夜の華やかな繁華街の立地が隅々分かっているのは、
やはり自身は変わっていないのだと思った。
もう何年も経過しているから、
忘れていると思い込んでいた。
けれども期待を裏切り、記憶は鮮明で、
心情が疲弊し憔悴している美岬を、
無意識に、夜の繁華街へ運ばせていた。
あの頃、誰かの目を盗んで毎日訪れていた場所。
地下に繋がる階段を降りると、
アーコスティックなクラシカルな空間。
懐かしいと思えた優雅な香りが、彼女を誘う。
「あはは………」
泣き笑う度に、虚無感が広がる。
泣いても何も変わらないのに。
誰も贖罪の意識なんて持ち合わせていない。
そんな純粋な心情を持っていたら、
冷酷非道な千歳家の人間としては成立しないのだ。
一番大事なのは、穢れのない面子。
和歌を苦しめるのなら
今までの無自覚な罪を謝りたい。
そんな気持ちでさえ、千歳家の人間としては異常なのかも知れない。
和歌に謝罪が出来るのなら、
許されるのならば代わりに行ってしまいたい。
けれど。
(………あたしの気持ちが、軽くなりたいだけ)
世界で一番、幸せだけれども不幸なのは、
自分自身だけだと思っていた。
人生のレールを決められ千歳家の蔓に縛られていた。
何不自由のない、
衣食住の生活が保証される代わりに大人の事情に踊らされ、
千歳家の子女としての人格を求められ、家の望む政略結婚。
全て千歳家が望むレールをその通りに生きてきた自分自身は
可哀想で不幸だと一人で嘆いていた。
(………誰も気にも止めないのに)
淡い照明。
からり、と踊る氷。慣れないアルコールの香り。
グラスの中では紅葉の色彩が鮮やかに踊っている。
リキュールの淡い香りが、何処か儚げだ。
慣れないアルコールで紛らわしてみようとするけれども
虚しさとショックは変わらない。
千歳家が上級国民として権力を使い、
法をねじ曲げた事も。
伯父が、水瀬和歌を誘拐した事も、
それに反省の意を示さない事を。
箱入り娘故に、世間の風当たりを知らず
美岬の性格は純粋無垢、曲がった事が大嫌いだった。
穢れを知らない純粋さ故に真っ直ぐ過ぎた。
正義感が強く過ぎるあまり、それに反する現実を目の前にしては受け入れる事に、
拒否反応を示してしまう。
(…………だったら、あの頃のあたしは?)
あの頃、自己顕示を、
心に空いた隙間を埋める為に、ただ愛情を求めていた頃。
この虚無感の残る心の貞操観念さえ
どうでいいと、眼中になかったあの頃を。
(結局、正義なんてないのよ………)
自分自身も、周りの取り巻きも。
千歳家は心が破綻した人間の集まりだと思うと、
その醜さに反吐が出そうだ。
背伸びして、
度数の高い美酒を選んだせいかなのか
泣き果てて、心が憔悴しているせいかなのか
思考回路が曖昧になっていく。
カクテルの口当たりは、
程よく甘く、そして独特の苦味を残して去っていく。
それはまるで自身の人生のようだ。
その味のせいか、また泣きそうになる。
泣き腫らした瞳は虚ろなまま、机に伏せる。
涙が頬を伝う。その現実に打ちしひがれたまた少女の心を残した女性の涙。
それは綺麗だった。
息を飲んだバーテンダーは、
その今にも崩れてしまいそうな儚さを持つ
美岬に放っておけない様な、魅力に惹かれてしまう。
雄弁な香りを纏う華に惹かれた蝶のようだ。
「悩み事ですか」
「………いいえ」
向こう側には若い男性のバーテンダー。
彼は無表情のまま、此方を見詰めていた。
表情が読めないからか、意図は分からない。
いつの間にか
甘いカクテルが差し出されていた。
その甘さは、今の美岬にとっては、ほろ苦い。
(堕ちる所まで、堕ちてしまえ)
悪魔の声が脳裏で、囁いた。
所詮は張り付けただけの、中身ないの正義感。
やり場の思いが腐食して、どんどん心身を憔悴していく。
何に自惚れていたのだろう。
「………貴方は、」
この腐食した感情を、虚無感を埋めてくれるのか?
千歳家の白亜屋敷の婦人の部屋では、
淡いランプが灯す優しい世界が広がっている。
けれども
その主は不穏の不協和音が心に広がっている。
きつく睨んだ瞳。ガリ、と奥歯を噛み締めた。
(…………美岬とは、違う………)
喜子が見詰めている
くしゃり、と握った紙は、身辺調査票。
その相手は水瀬和歌だ。
夫の隠し子の存在を、憎しみ未だに無視出来ず
ストーキングの様な事を繰り返しては、彼女のその素質に嫉妬する。
大手外資系の会社からスカウトの形で内定を貰い
世界を飛び回る通訳・翻訳家のキャリアウーマン。
千歳家の血を引く人間としては“完璧”という二文字が似合う。
地に足を着けて生きている才女。
水瀬和歌に、執着してしまうのは、
きっと、
千歳家の気質に見合う人間性を持ち合わせているからだ。
だからこそ嫉妬の眼差しを向けられずには入れない。
彼女を見ると、
自分自身の娘がくすんで見えてしまう様にも見えない。
だが、
千歳家に匹敵する名家・樹神家に嫁がせ
当主の若奥様としての地位に居座らせた。
それに対しては鼻高々なのだが、
けれど、美岬には何かが足りない。
(………美岬は、千歳家の人間とは思えない)
千歳家の人間性は、美岬には感じられない。
世間知らずの純粋無垢なご令嬢。
ただそれだけ。
千歳家の人間性を見合う様にと、育ててきた娘は挫折した。
美岬には政治家には、向いていない。
帝王学・経済学、経営学に教えても
経営者としての向いていない気質というのは千歳家から見抜かれていた。
だからこそ花嫁修業をさせ、
名家に嫁ぐという政略結婚を千歳家は目論んだ。
今、千歳家には、跡継ぎ問題が囁かれ始めた。
一人娘の美岬は樹神家に嫁ぎ、
孫娘の七美のも樹神家の跡継ぎとして生きるのだろう。
千歳家は何かピースが欠けている、という事に危機感を覚えている。




