episode90・崩れた約束 (Misaki.uncle side)
アクリル板越しの向こう側にいる男は、
驚いた表情を浮かべたまま、石膏の様に固まっている。
その向こう側にいた女性____姪が居るとは信じられない。
女性は深い哀れみと軽蔑の瞳で、男を見詰めていた。
(なんて、あたしは気楽に優雅に過ごし生きてきたのだろう)
現実味がない、見る事はあっても
自身が足を運ぶ事はないと思っていた景色は
冷たくてまるでモノクロームの様だった。
美岬は、御忍びで刑務所に来ていた。
理由は他でもない伯父に、和歌を拐った張本人に出会う為に。
千歳家・樹神家の関係者がこの場所に
来ていると要らぬ噂がたってしまえば
真之助の地位や両家の立場が問題視されてしまう。
恨めしく美岬はコンクリートの建物を、見詰める。
影を落とした表情。
うっすらと浮かんだ目の下の隈が、
より一層その瞳を、目許を険しく映した。
まさか人生で訪れる事になるとは毛頭も思っていなかったからだ。
千歳家の呪縛に見舞われながらも、
それと引き換えにするかの様に
私生活は何事も不自由もなく、願い事は全て叶ってきた。
自我と自尊心は豊かに、危ぶまれる事無く生きてきた。
同じ血を引いた姉妹でありながら、
和歌は母親と慎ましやかに暮らし、そして何より
彼女は自尊心や心を奪われ壊されてしまったのだ。
(命は助かっても、魂は殺められたも同然だ)
どれほど、怖かっただろう。
千歳家の呪縛の為に見知らぬ伯父に拐われた事は。
千歳家の血縁でありながら無縁だった彼女は、
家のプライドとしきたりの為に心を殺められた娘だった。
和歌が苦しみの枷に縛られていた時、
美岬は自由に生きていた。
何十年ぶりに見た男は、すっかり痩せこけて
嘗て面影等、消えていてまるで別人かと思う程に。
「………いや、気付けなくてごめんね。
何年ぶりかな。美岬に会うのは。
すっかり大人になって。綺麗になったね」
「……………………」
その優しい言葉さえも、穢らわしいと感じてしまう。
言葉と声音に滲む、
微かな動揺を微笑みで隠そうとしている。
美岬は影を落とした表情のまま、総司を見詰めていた。
伯父は気さくながら真っ直ぐで聡明な人だった。
だから和歌を拐って監禁した事実が手から溢れてしまいそうになる。
(その嘘が、言葉が、表情が、
見苦しくて痛々しくて堪らない)
反吐が出そうだ。
箱庭で育った、大人の事情や黒さを
知らない令嬢はずっと曲がった事が嫌いだった。
犯罪者に対しては哀れみと嫌悪感、赦されない人間という思いを抱いていたのだ。
けれどもまさか身内に罪を犯した者がいると知ってからというもの、複雑化していく感情。
(何故、美岬が此処に……)
総司の感情は混乱したままだった。
12歳の時、姪には本当の事は告げず、そのまま姿を消した。
だからあの頃の美岬しか脳裏に思い出せない。
愛くるしくて無邪気な笑顔が絶えない少女。
向こう側にいる女性は、その面影を残した女性だった。
兄はきっと綺麗な言い訳を口にして、
父親を慕っていた姪はその言葉を信じ込んでいる。
だからこそ、この場所にも、伯父にも彼女は再会する事はないだろう。
そう思っていたのに。
「………美岬、帰りなさい」
「…………何故」
「君が来て、居て、いい場所ではないのだよ」
上手く呂律が廻らない。微笑みがひきつる。
姪には知られたくない。否、悟られてはいけないのだ。
(兄様との契りを破る訳にはいけない)
そんな後ろめたさが総司を焦燥感へと誘う。
しかしそんな総司の言葉に微動打をせず、
怪しく見詰めているだけだった。
「…………嘘を重ねるの? 隠したがるの?
あたしはもう大人よ。結婚もしていて、母親にもなったの。
もうあの頃の柔な子供じゃないわ!!」
面会室に怒号が残響した。
「あたしには嘘を突き通すつもり?
名家である千歳家に泥を塗った事を………。
少女を誘拐し監禁した、という事実をなかった事にしてしまうの?」
その冷たい声音に、総司は絶句した。
(何故、美岬がその事を………)
「ねえ、伯父様」
「………なんだい?」
「もし、あたしが、伯父様が拐った女の子を知っていると言えば、どうする?」
「………………は」
真剣な瞳は、怜俐なものだった。
あの頃の様に無邪気に自分自身を
慕ってくれていた眼差しは何処にもない。
何かを軽蔑する眼差しを向けながら、話を乗り出した。
「何を言っているんだ、美岬。美岬は……」
しどろもどろの声音は、明らかに困惑している。
「あたし、知ってしまったの。
あたしには異母姉がいる事に」
「…………」
総司の顔は
どんどん青ざめ、顔面蒼白になっていく。
「その子に、あたしは憎しみを抱いた。
千歳家のしきたりに囚われずに自由に過ごしている事を思うと憎くて憎くて堪らなかったの。
だから、
自分自身で探して、その子を見て見たかったの。
そしてあたしと出会った事で、あたしという存在を目の当たりにする事で
千歳のしきたりに囚われて
生きている妹の存在を知らしめて、
後ろめたく罪悪感を与えて、苦しめばいいと」
影を落とした表情で
淡々と告げる美岬に恐怖心を抱いた。
あの記憶にある影のない明るさと天真爛漫な少女の面影はない。
何処かで闇を落とした一面に驚愕している、という言葉が正しいのかも知れない。
アクリル板の向こう側にいる女性は
あどけない愛らしい面影を残しながらも
表情や雰囲気は悲壮感を漂わせている。
美岬は優しい子だ。
こんな暗く意地悪な事を考えない。
いつの間に変わってしまったのだ。
まるで今の姪の姿は自縛霊と変わらないだろう。
総司の背中には悪寒が走り、冷や汗が迸る。
「その子はね、
ある時、苦しい思いをしたんですって。
あたしは、それすらもそういう目に遇って当然だと思った。
だってあたしは千歳家のしきたりに囚われているのだから、
自由に生きていた代償だと、ね。
でも………。
その子を苦しめた人を知った時、
あたしは逆恨みしていたのだと気付いたわ」
絶句する中で、わかわなと唇が震えている。
美岬は、俯かせていた顔を上げて
上目遣いに険しい瞳を向ける。
「…………伯父様でしょう。あの子を拐ったの」
「あの時、しくじったんだ!!
それにあの子のせいでもある。
僕が失敗していなければ、あの子を
千歳家に迎えて……君にお姉様が出来る筈だった。
美岬は、兄弟を欲しがっていただろう。
なのに、ごめんな。伯父さんがしくじってしまったから……」
厚顔無恥。苦し紛れの言い訳。
この人には反省というものがないのだ。
千歳家の血を引いた子供を迎えに行ったと思い込んでいる。
誘拐ではないと、あくまでも失敗したと言いたいのか。
あの優しく、気さくな
好青年の人物像が打ち砕かれ、美岬は幻滅した。
自分自身の為なんて云わないで欲しい。
和歌は心を閉ざし喪い、美岬は混乱を陥れた。
「あたしに、謝らないで!!」
冷たい面会室に怒声が、響いた。
はっとして姪に目を向けた時、美岬の瞳が赤くなっていた。
「謝られたら、惨めになる。侮辱しないで。
酷いわ。あたしが、罪人が許せない人間だと
知っているでしょう………。なのにこんな惨めな思いをさせないで……。
それに、謝る相手は、あたしじゃない……」
美岬の瞳は潤み、
発狂した影響か肩で息をしていた。
瞳に留められなくなったのか、頬に雫が静かに伝った。
「あたしが、しきたりに縛られていても
悠々自適に過ごしている間、あの子はずっと苦しんできたの。
千歳家のエゴでしかないわ。
でもね、あたしは傍観者だと思ってた。
異母姉を他人事の様に傍観するだけで、
此方には非はない、悪くはないとは思っていたのに。
貴方が誘拐しようとした女の子、最初は、
何処と無く影を落とした、覇気のない雰囲気と表情に
苛立ちも覚えていたわ。恨めしく思っていたから。
だけど傷を負わせた相手が、
身内にいるって最近、知って、絶望した。
伯父さんが負わせた傷だなんて…………」
「………………」
「信じたくない、信じたくないないわ……こんな屈辱。
まさか罪を犯した人間が、伯父様だなんて………」
美岬は手を覆って泣き崩れた。
総司は息を飲んだ。
この事は墓場まで持って行く。
その代わりに純粋無垢な姪には絶対に知られてはならない。
そう約束した筈だったのに。
それは、赤子の手を捻る程に呆気なく崩れ去ってしまった。




