episode89・便り(Waka. mother side)
「水瀬さん、通訳の依頼が来ているわ。
ドイツに半年程、滞在して欲しいとの事よ」
「…………………」
「………水瀬さん?」
てきぱきとした女性の上司の声音を聞いて、
和歌は心底、複雑化した気持ちを拭えなかった。
いつもなら二つ返事ではっきりと申すのだが______。
(今は返事が返せない………)
和歌が話せる語学は、
英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語と多彩だ。
それは大学で国際文学・語学学科を専攻した影響した影響である。
大学で異国の語学を学んだ事が
それが全面に和歌の人生では、生かされている。
だが、
和歌が二言返事で仕事を承諾出来ず
返せない理由は様々で、一つ言えば、
彼女を取り巻く人間関係にある。
母親の事は勿論、従兄の実母が現れた事で
和歌や杏子、そして何よりも廉の取り巻く人間関係が複雑に、解けない蔦の様に絡み始めた。
杏子を一人置いて何もなかった事には出来ない。
舞子の被害に遭い、重体のまま眠っている従兄の容態も気掛かりだ。
加えて美岬と再会して、
美岬からまた何かしら依存されるのでは、と危機感を抱き、
最初こそ日本を離れたいと気持ちもあったのだが、
次の仕事まで待機していた。
けれど、心情は様変わりした。
母や従兄の事は無視出来ない。舞子の事も尚更だ。
「………あの、暫く有給休暇を下さらないでしょうか……」
「………水瀬さん、どうしたの?」
「…………実は親戚、に……」
言葉が上手く紡げない。
スマートフォンを取った手は震えている。
和歌の教育担当でもあった上司・大倉は、
いつもは凛然としている和歌の声音が
弱々しく震えているのが解った。
和歌は公私混同は一切しないが、
追い詰められている、そんな感じがした。
(………水瀬さん、親戚が居たの?)
大倉が最初に浮かんだ疑問はそれだった。
和歌は良く言えば脳ある鷹は爪を隠す、
反対に言えば口が重く硬い。プライベートな話は一切聞いた事がなかった。
思い返せば
親会社であり、取引先である外資系会社
キャリアウーマンの娘だと噂になった時期がある。
現に火のないところには煙の立たぬ。
名字は水瀬であるし、容姿や容貌が似ている事もあって
関連の社内では“水瀬和歌は、水瀬杏子の娘”という事は確定視されている。
加えて双方が否定していないので、確定事実だったと思う。
しかし
母娘が以外の人間関係は、見えないのだ。
水瀬杏子がシングルマザーだとは周知の事実だが親戚関係は淡いに霧に包まれている。踏み込もうとしても、
キャリアウーマンとしてでも無く、
和歌は基本的に凛然としていて、時折に見える物憂げな横顔を見せる。
その現実離れした雰囲気が、
優秀な成績とキャリアは高嶺の花、印象を付けて
近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
けれども実際は少し変わっている。
淡い花故に踏み込めば崩れそうなのだ。
だからこそ、周りは強く出れない。
ボストには、白い一通の手紙。
杏子は不意にそれを手に取ると、
水瀬杏子様と達筆な文字で書かれていた。
杏子は送り主を見て絶句する。送り主は………。
“水瀬 杏子様
貴女に文字を認める事は、
何年ぶりとなります事をお許し下さい。
杏子。
あの日、僕はどれだけ
無責任で不甲斐ない男だと思い知りました。
君のお兄様から訃報を聞いた時は、打ちひしがれ憔悴した。
僕は君に対して合わせる顔はもうない事は分かっています。
千歳の仕来たりや家柄のせいにして、
僕はそれを果たないといけない立場であると思い混んできた。
でも、僕は今日まで生きてきた後悔している。
本来、守らなければならない君の事を、守れなかった。
一人の男性としてなんと情けない事か。
あの時、千歳家と絶縁を決めて、待っていてくれた君を守るべきだったと、己の無力さと甲斐性の無さを噛み締めている。
君が亡くなったと
鵜呑みし信じた僕は罪人だと思う。
その間、僕は何も知らずのうのうと生きている時間に
君は責任を一人で背負い、娘を産み、育ててきた。
大変な事は勿論、苦悩も人一倍経験した事だと思います。
夫の責任も、娘の父親の責任も果たさなかった事はどうしようもない人間失格者です。
あの時、言葉を鵜呑みにせず、
自分自身で確かめれば良かったのに
僕にはその行動力もなく、千歳家の決めたレールを生き、
操り人形となっていた事を猛省するばかりです。
数年前、
君が亡くなったというのは嘘で
同時に一人娘がいて、シングルマザーとして生きている事を知りました。
申し訳ない。
僕は本来に果たす責任や
役目を放棄してしまった。それはとても罪深い事だ。
本当に申し訳ない。全て君一人に責任を背負わせてしまった事を。
ごめんなさい。
そして今更、父親面をつもりはない。
娘の存在も知らず、何も出来ず
君の一人抱えてきたものを知らないまま生きてきた。
僕にはそんな資格はないのだから。
千歳家には渡しません。誓います。
その子には
千歳家の呪縛に縛られず自由に生きて欲しいと思う。
それが僕に唯一、出来る事だと思いたいのです。
ただ。ただ。一つ、人間失格者の僕が、
一つだけ君は知ってほしい、現実があるんだ。
きっとこれは、君は知るべきだと思う。
あの子の母親である以上は。
お時間がある時、返信を頂けば幸いです。
その事について、話をしたい。
千歳 賢一”
(………被害者面しているのか、後悔しているのか)
手紙を置いて、杏子は短く溜め息を吐いた。
賢一はとあるルートで、杏子が生きている事も
和歌が生まれていた事も知ってしまったらしい。
千歳家に取られてしまう、という不安が脳裏を余儀ったが
賢一の文面を読むとその意図はないらしい。
この手紙が本心か偽りかは知らない。
けれども。
“_______ただ。ただ。一つ、人間失格者の僕が、
一つだけ君は知ってほしい、現実があるんだ。
きっとこれは、君は知るべきだと思う。
あの子の母親である以上は”
この文面が心に引っ掛かかる。
賢一は何か知っているのか。
不安が入り雑じる中で、杏子は項垂れた。
(秘密って………?)




