episode86・重圧と重荷 (Misaki side)
和歌に、依存しようとした。
けれども何故か、和歌は此方が追おうと、捕まえようとすると、するりと、すり抜けて自然と距離が遠退いていく。
まるで透明人間の様に。
愛しい娘は、自分自身を好いて懐いて
くれるけれども一人きり育児をする中で
美岬の孤独感・疎外感は殊更、強くなり
少しずつ膨らんで行った。
「お義母様……」
「久しぶりね。美岬さん」
美岬は穏やかな表情を浮かべながら、リビングに招いた。
嫁いびりなんて無縁な関係で、付かず離れずの距離感を保ち、
ただ本心を必死に隠し樹神家の当主の支える妻としての威厳と
フリをする事を努めている。
(………妻の務めは、しているつもりよ)
惜しみ無く注がれた陽の光り。
その向こう側には植物庭園に劣らない花壇と、整えられた木々や草木。
ソファーに座り、
紅茶を嗜みつつ、
その庭園を眺めながら紅茶の香りに微笑みを浮かべる貴婦人は
まるで絵に書いた様な人物だった。
樹神 弥生____美岬の義母。
名家の妻という品格と上品な貴婦人という、
雰囲気と威厳を纏った出で立ちをしていた。
「七美は?」
「………幼稚園へ」
「そうだったわね」
おとしやかな上品な声音。
たまに訪れる姑を上手く相対しながら、
姑嫁関係は上手に言っているつもりだ。
紅茶を置いて、弥生は不意に言葉を口にした。
「ねえ、七美も4歳でしょう。
そろそろ2人目を次を考えてもいいのではないかしら?」
「………………………」
ガシャン、と何処か硝子が割れる音がした。
一人娘でも手一杯の美岬にとって、子供二人
の育てられる余裕も、自信も器量もない。
第一、樹神の子女を育てている。
否、立派に育てられるだろうだろうか、と不安と隣合わせにいるのに。
疎外感と孤独感に苛まれる。
千歳家の娘という信念と覚悟を持った上で
嫁いだと思っていた。けれども結局は
何の覚悟もなく嫁ぎ、一人になっては
昔の自由な記憶に焦がれている。
樹神家の冷気に触れる度に、妻は他人なのだと痛感した。
この家で千歳家の血を引く人間は、自分自身だけ。
美岬の飽き性な性格は相変わらずで、
真之助との夫婦仲は良好な立場にあるものの
七美を育ている両親、という意識が強い。
でもそれ以外は冷えきっている、と言った方がいい。
(昔の癖が仇になるなんて)
美岬は沈黙の後に、漸く(ようや)く口を開いた。
「私は、
七美の成長を見守り見届けていたいんです。
七美だけを見ていたい。真之助さんと。
今後
七美がやりたい事があるならば、応援し見守り
七美が迷う事があるならば、その道標を示したい。
勿論、樹神家の子女としての自覚を教えます。
…………そのつもりで、おります」
弥生は、凛とした美岬の瞳の奥にある熱意と母性愛、
心から我が子を思っているのだと強く思った。
なんだか下手に口出しをしまった様で、申し訳ない。
「美岬さんは、愛情深いのね。
ごめんなさい。下手に口を挟んでしまったわね。
美岬さんが母親なら何も心配要らないわね。
七海は幸せ者だわ。
真之助、七美を、よろしくお願い致しますね」
「……………はい」
朗らかに微笑む弥生に、美岬は微笑みを返した。
美岬のなく七美への思いや母性愛を知って満足したのか
弥生は機嫌良く、家を後にした。
(上手くはぐらかせたかしら?)
兄弟が居て、学ぶ事。
表向き美岬は一人娘となっているが
美岬は異母姉の存在を知って妬み嫉み、羨み
そして、人の憎しみというのを学んだ。
個人的に兄弟がいる事は対してあまり前向きに取られない。
もし、和歌と姉妹で居られたのならば、
どんな姉妹関係を築いていただろう。
微塵も想像が出来ないけれど………。
もし和歌が、
千歳家の“長女”として生きていたのなら、
自分自身は自由に生きていたのだろうか。
この立場には和歌が立っていて、自身は
自由の身で居られていたら、と少し羨ましく思ってしまう。
こんな醜い感情を抱く事もなく。
誰かに甘えたい、温もりに溺れたい。
愛されたい。安心したい。安堵したい。
もし身分を捨てられる事が許されるのなら
すぐにでも……。
(…………せめてあたしの思いは七美に悟られない様に。
………七美には、あたしの様な醜い感情を抱かせたくないのよ)
一人になっては頭を冷やした時に
同時にまだ
あの頃の依存症は治っていないのだと気付いた。
あの温もりを求めて、夜の街をさ迷っていた頃。
今でも不意に戻りたい、という衝動を覚えてしまうのだから。
自由な蝶になりたい、と時折不意に思ってしまっている。
美岬は今も、愛情と温もりを求める。
それは変わらない。
あの頃は自由でそれなり幸せだったのかも知れない。
結婚し月日が経つにつれて
いつかは忘れていくもの、と甘い考えでいた。
けれども、それは違う。所詮は自分自身で押し殺しているだけだ。
美岬は現在 昔が恋しくて愛しくて堪らない。
嫁いでからしみじみと知ってしまった。
愛情に飢えている小娘。今も何処かで温もりを欲している。
この樹神家の孤独感と疎外感を感じる度に強くなっていく。
後悔している。
千歳 美岬として、生を受けてしまった事を。
母親になれない。
寧ろ、女でいたい。




