episode84・立場のすれ違い (Waka. Misaki side)
美岬の罵声に、和歌は動じずに聞いていた。
血走った双眸に、怒りに満ちた形相。
それは今にも泣きそうな表情だった。
美岬の本質は分かっているつもりだ。
立場は変わっていても、本質は変わらないのだ。
箱入り娘で悠々自適、自由気ままに生きていた彼女にとっては、家庭に収まる事は苦しい事だろう。
それに相手が千歳家に匹敵する程の名家ならば
責任もプレッシャーも多大な筈だ。
「……………言いたい事は、以上でしょうか」
ぽつり、と和歌は口を開く。
美岬が、ぽかん、と絶句している。
こういう時の美岬の行動は分かっていた。
だからこそ。
刹那に和歌の瞳は、鋭い眼光に変わった。
「こういう時、
他人にすがりよって依存する。それが貴女の癖よね」
「呆れたわ、人の心もないの? それにあたし達は他人じゃないじゃない!?」
「…………やめて。血縁で縛ろうとしているの?
_______悪いけれど私、それが一番、嫌い。
血縁では異母姉妹でも、戸籍上は他人同士。
それに、“今の私”に関わらない方がいい」
生憎、今の和歌にも余裕はなかった。
千歳家の血を引いているだけの、
自分自身は千歳家の人間には成り得ないと思っていた。
事実上の、血縁だけ引いているのだ。
けれども其処にはそこに形はない。
血縁というのは”見えない鎖”だと和歌は思い込んでいる。
血縁という鎖は、無作為に心を縛り付けて苦しめるものだ。
無自覚に、無意識的に、血縁の束縛は現れる。
この世で、酷いものは血縁の縛り、とさえ彼女は思っているのだから。
風の噂では、千歳家は血縁関係を重んじ執着する、
という話は聞いた事がある。
(どうやら、噂は本当の様ね)
現にその血の束縛によって、和歌の人生は台無しにされたのだ。
自分自身を拐った人間は千歳家の人間。
本音を言えば、千歳家に良い感情等、抱けないのだ。
冷俐で無機質な声。
美岬は、目の奥が熱く、赤くなった。
あの頃の和歌の面影はない。寧ろ、冷たい血も涙もない人間の様に感じる。
突き離された様に、蔑ろにされた気持ちになった。
「血縁がどうこうですって?
あんたが、千歳家の血を引いているのを事実よ。
本来、千歳家の責任は、長女であるあんたが果たすべきだった。
代わりにあたしが長女となり、全部、背負っているの。
千歳家の重圧も責任も……ねえ、異母妹の人生を壊して楽しい?
あんたのせいで、あたしの人生は滅茶苦茶よ。
どう? 人の人生を壊しておいて、自分自身だけ
自由に生きているなんて不平等よ!!
あたしの姉が、こんな冷たい人間だなんて……悲しいわ」
顔を両手の掌で覆っていた美岬が、刹那に床に崩れ去る。
「…………………ねえ。貴女は表しか見ていないでしょう?」
「は?」
立場故に自身の人生を嘆いている、
己の利己的な感情で動けている美岬が、和歌には自由には見えた。
十人十色に美岬は己の感情を持っている、それを表せる。
対照的に、和歌はもう“感情”というものを亡くした。
美岬は怪訝に睨み付けたものの、和歌の表情と態度は変わらない。
美岬には、言えない。
自身の叔父が自分自身を誘拐したなんて事は。
この事を悟れば、美岬は更に傷付き、壊れてしまうだろう。
「………私が自由に見える? それは幻よ。
………私は、引きこもりだった。ある事がきっかけで」
「それが何よ? 自分自身も不幸だったって言いたいの?
自分自身が悪いと思わないの? 自分自身のせいで、誰かの人生が犠牲になっているのよ?
それを痛む心もないの?」
美岬は声を荒くする。
和歌の心理が読めず、掴めない事に焦っていた。
自分自身のせいで人一人が不幸になり、肩身の狭い思いをすればいい。
この惨めな立場で生きている、と思い込んでいる美岬にとって心の鬱憤を
ぶつけるのは、最早、和歌しかいない。
「………そうとは言っていない。
貴女には、悪いと思っている。
貴女の言い分や、言っている事は解る。
でも、私が解決出来る事でも、替わる事も出来ない。
………でもね。
私は、とても千歳家には受け入れて貰えない。
………私には影があるから。
私自身もそんなつもりは更々ない。
私は、千歳家の血を引いている、というだけ」
和歌が通訳者として世界を飛び回っているのも、
哀しい思い出が漂い佇む日本から離れたい、という心の奥底に潜む心理が働いている影響かも知れない。
影がある、という和歌の言い分に、
美岬の脳裏にある言葉が過る。
『貴女、誘拐された事があるんですってね。
12歳の時、それからは在宅の療養生活を送っていたらしいじゃない。
心を無くした人形みたい。
輝かしき千歳家の中で、貴女は汚点。一族の恥じよ』
(………和歌に怒りをぶつけても、意味がない)
和歌は、売られた喧嘩は買わない。
美岬は改めて思い出した。
和歌は12歳、中学校に入学した矢先に誘拐事件に遭遇した。
それらは母親が和歌を誘拐した時に言っていた言葉だ。
自分自身だけ不幸だと思い込んだ。
和歌は自分自身に不幸の重荷を背負わせ、
自由に華々しく生きているのだと思った。
「貴女の言う通り私は酷い人間よ。貴女にとって。
それは変わらない。だから恨むなら恨んで、憎しみ続けて。
だからこそ私達、会わない方がいい。
貴女はきっと私を見れば更に苦痛を味わう。そんなの本末転倒になる。
他人同士として無縁で生きましょう?
貴女は私を憎んでいい。辛くなったら、私を恨みちぎって」
「………………」
「私は、貴女の憎しみを贖罪として背負っていくから」
『私は、千歳家の人間でなくてよいです。
元々、戸籍上は無関係なのですから。
ただ私が、この家の方、全ての人から
憎まれているのは分かりました。
…………貴女も、娘様も、ずっと、私を憎んで下さい。
それが私の、贖罪ならば受け入れます。
美岬の幸せだけを、願って、私は消えます。
貴女にも美岬にも危機感など加えません。誓います。
偉大な千歳家の血を引いた誇りに思いながら、
息を、潜めて私は生きていきます………』
嘗てドア越しに和歌が、
途切れ途切れの和歌が話した言葉。
美岬は赤くなった双眸をゆらゆらと、虚空にさ迷わせる。
千歳家の責任の重荷に耐えかね、行き場のない怒りを和歌に向けていただけだ。
和歌はとっくの果てに悟って、受け入れていた。
大人になれず、割り切れていないのは、自分自身の方だった。




