episode69・闇夜が迫る前夜 (Ren. mother side)
チャキ、チャキ、という
一定のリズム感のある定の音が聞こえる。
控えめな淡い蜂蜜の照明は淡く落ち着いた空間に温かみを与える。
ヘアカットの為に美容室の椅子に座り、
椅子に座っている青年は目の前のメンズ系の雑誌を眺めている。
カットモデルにスカウトされて数年が経ち、
すっかりカットモデルにも慣れて板に付いてきた。
メンズ系雑誌に載っている
男性モデルのポージングには固く目を止めながら、
髪型が映える、ポージングはどれがいいか、等と
考えながら美容師との会話も廉には隙がない。
暗めのアッシュグレーのショートヘア。
「アシンメトリー風にするね」
「はい」
「廉はさ、出身はどこ?」
「東京です。あ、でも、母の仕事の都合で海外に住んでいた時期もあったな……」
「へえ、凄い。帰国子女なんだ?」
「そういう事になるんですかね…? 生まれて物心付いてからですが」
美容師は器用に、
鋏で髪を切りながら、軽快に話しかける。
名前は敬。 廉と同い年でこの美容室では顔見知りだ。
「そうだ。廉って何人家族なの?」
敬に悪気はない。
けれども、こんな何気のない会話も廉には毒物である。
足で心の領域に踏み込まれた感覚は否めない。
でも、廉はそつなく答えた。
「母と妹が居るんだ、………3人家族だよ」
母と言えど叔母、妹、と言っても従妹だが。
実子と変わらぬ愛情を注いで育てくれた叔母、
和歌と兄妹同然の様に育ち、暮らしてきた事実は変わらない。
後ろめたい両親の影が付き纏う廉に、
廉を引き取き取った日、杏子は宣言の様に言った。
『廉は、水瀬家の子よ。
貴方は叔母さんの息子も同然だわ。和歌、廉、私の3人家族よ』
『貴方が後ろめたい想いを抱える事はないのよ。
廉。もし家族について尋ねられたら言いなさい。
僕には叔母と妹がいるんだって。廉、良い? 人生には嘘が必要な時もあるの』
言われた通りそうする事にした。
元から反論の意もなくそう思われている事に救われた。
下手な冷たい同情を受けるよりかは、
れっきとした家族がいると主張した方が穏便に住む。
優しい嘘。
叔母を母と呼んでもよいか、と言った所、
杏子は喜んでいた事を思い出す。
和歌にも事前に、妹と主張してもよいか、と言った所
誕生日が一ヶ月しか変わらない同い年なのだから、双子で通したらどうか、と言われた。
心が広いのは、母親譲りなのか、二つ返事で快諾してくれ、
自分自身も言ってもよいか、と交換条件まで提示されてしまったけれども。
現在はそれに救われている。
(甘えている事は分かり切っている)
けれど、
不倫の代わりに息子を捨てた女を母親とは思いたくない。
実子でもないのに、娘と変わらぬ愛情をくれた叔母を母親と呼びたい。
願わくば全てを忘れ、本当に水瀬杏子の息子に成る事は出来ないだろうか。
20年間、何処かでそう思い、
彼女の血を引いた本当の娘である和歌を微笑ましく思っていた事を否めない。
(………卑怯だな)
そう思いながら、ふと、
雑誌を膝に置いた時、目の前にある鏡に目を遣る。
紛れもなく写った自分自身の表情。
甘く端正に整った顔立ちに、淡い微笑みを浮かべた人の良さそうな顔付き。
優しく人が良さそう、と
絶賛の言葉を浴びた男の面影が脳裏を掠めて
無意識に鏡から瞳孔を反らして、書き消す。
けれども、
それはペテン師が浮かべた微笑みの虚像。
固いぎこちない表情を浮かべている鏡の向こう側にいる青年は呟いた。
嘘つき、と。
本当は放火殺人犯の女の息子。
罪人の血を引いた人間なのだと。
(_______罪深いのは、僕もそうだ)
仮出所は明日。
舞子は机の上にある手紙の箱を、見詰めた。
そして一番、色褪せた手紙を取り、中身を開ける。
______あの子は、水瀬の子です。
心配しないで。私が責任を持って貴女の息子を育てます。
代わりにお願いがあります。約束して下さい。
________もう二度と、廉の前に現れないで。
不倫の代わりに、捨てたものは、一人息子。
舞子には一人息子がいた。優しい思い遣りのある子だった。
息子は夫とその妹が育てているのだろう。
元恋人の顔は思い出せても、
何故か全く息子の顔は思い出せない。
20年という冷たい時の間、舞子は息子の事等、どうでも良かった。
(…………今はもう、大人の年齢よね)
けれども、
息子の成長した姿を、一ミリも思い描けない。
どんな青年に成長したのか、すら、解らない。
たまに、元義理の妹から定期的に来る手紙。
手紙にそれらしい事が書かれていても、どうでも良くて無視してきた。
それは、
息子の事を記しているのだが、興味が湧かない。
“愛情の裏返しは無関心”それを表す様に。
仮出所はするが、何処を頼ればよいか。
手持ちは刑務作業によって得た、お金のみ。
家族には勘当された。頼りになる居場所等、数十年前に失った。
だけれど。
(…………違う)
舞子にある思いが浮かぶ。
家族には勘当された、それは親からだ。
息子は? 息子からは見切りを付けられ、勘当されただろうか。
(いるじゃない。____家族)
たった一人、自分自身を、拒絶しなかった人間いる。
舞子は、微笑みを浮かべた。
息子は優しい子だから、ノーとは言わない。
母親なら尚更。自分自身を助けてくれるだろう。
(あんたに口を出す権利はないわよ、杏子)
(…………廉。遅くなったけれど、また家族になりましょ)
________次の日の早朝。
外の空気を吸ったのは、何十年ぶりだろうか。
後ろを振り返って巨大なコンクリートの塀を
見詰めた後に前を向くと、舞子は歩き出した。




