episode5・他人のふりをする青年(Ren Side)
廉のお話。
眠気を覚ます勢いに、膝を抱えながら、
枕元に置いておいた携帯端末が、鳴り震えた。
すがる様に携帯端末を掴み、画面を見ると、
電話の着信音で見慣れた名前が画面に浮かんでいる。
「…………はい、」
『和歌? 今、大丈夫かな?』
「…………うん。お母さんはまだ帰ってきていないし、私はさっき帰ってきたの」
『…………そっか。お疲れ様。大丈夫?』
「…………平気。廉こそ、どうしたの?」
川嶋 廉。
和歌の従兄であり幼馴染、和歌と生まれ月が1ヶ月違う影響で特に仲が良い。
同い年で幼い頃から互いを知っている唯一の仲だ。
電話越しであるが、
和歌の様子が何時もと違う事を廉は気付き見抜いていた。
なんせ、和歌とは長年の付き合いだ。大体の事は予想は付く。
「今日、父さんに会ってきたんだ」
「………そう」
そう言われてしまったら
和歌は、何と言葉を返したら良いのか分からない。
今日は天候の良い日だった。
都心部から少し離れた場所にあるホームに、廉は足を運ばせていた。
(此処に来るのは、何度目だろう)
花壇には彩り鮮やかな花々が植えられ、咲き誇っている。
赤いコスモス、青いチンパンジーに、黄色のチューリップ。
花が絶える事はない花壇の花達を見送った後で、
ホームの中へと足を運ばせて中へと入り受付で、確認を取った。
「あら、廉君。久しぶりね」
「こんにちは。今日は……父の面会に来ました」
「分かったわ。ヘルパーさんに連絡するわね」
もうこのホームの受付、ヘルパーの人達とは顔見知りだ。
何故ならば長年、毎月、廉はこの場所へ通っているのだから。
廉の父親は、
若年性アルツハイマー型認知症を患っている。
それは信じ愛していた妻の不倫や犯してしまった罪の過ち、
世間からのバッシング等が関係しているのではないか、と
担当医師は推測していた。
廉が息子だという事を、父親はもう認識してはいない様で、
息子の事を『若いお兄さん』と呼んでいた。
加えて廉の母親____妻が犯した罪についても、父親は忘れているようだった。
けれど母親を信頼し心から愛している父親にとっては
彼女が犯した罪を知らぬまま居る方が良いのかも知れない。
きっと母親が犯した罪を悟ってしまえば、彼は荒れ狂う事になるだろう。
それなれば、
(きっと現実を直視すれば、壊れてしまう)
人間は、知らない事もいい方がある。
妻の全てを知らない方が、父親にとって良い方が良いかも知れない。
改装工事され、新築されて間もないホーム。
ウィンドウガラスからは太陽の光りが惜しみ無く
注いでいて、自然でしか作り得ない温かな光りの空間を作り出している。
広い庭を見ると、
車椅子に乗りヘルパーと散歩している父親を見かけた。
悟った面持ちを浮かべながら、廉はゆっくりと父親に近付いた。
「こんにちは」
複雑化した心情を隠して
廉は作り笑顔で、語りかける。
すると父親の様子を見守っている後ろの女性ヘルパーが、廉の声かけに気付いた。
「あら廉君。こんにちは。受付の方から話は聞いているわ」
「最近は父の様子はどうですか」
そう告げると、ヘルパーは微笑みかけて告げる。
「今日は体調が良くて。天候も良いから、散歩に出ていたんです」
「そうですか。ありがとうございます」
「せっかくだから、廉君と散歩したらどうですか?
川嶋さん、いいですか?」
そう語りかけると、父親は微笑んだ。
其処には自分自身の記憶にある優しい父親と微塵も変わらない笑顔。
しかし反面、廉はその笑顔を見るのが辛くも感じた。
複雑化した感情が交わる中で、
廉はお得意のポーカーフェイスでその心情を隠し、微笑む。
それは自分自身の感情に気付く前に押し殺したというべきか。
父親を乗せた車椅子を押しながら、
ゆっくりと散歩していると、不意に父親は語り出した。
父親が語り始めたと同時に、廉は車椅子を押していた手を止める。
「私には妻が居てね…………」
その瞬間。ぴたり、と廉の手が止まった。
父親の、妻というワードにみるみる心が無情になっていく。
父親は息子の事を完全に忘れているけれど、妻の事はしっかりと覚えている。
「妻は慈愛に満ちていてね。私は今でもそんな妻を愛している。
穏やかで優しい人だ。反面、寂しがり屋な人だから
私が居なくなった事で、寂しい思いをしてなかろうか。
それが心配でね」
父親が妻である、母親の事を語る表情は安らかで、
朗らかで優しい表情を浮かべている。
(………………)
しかしそう語る父親とは反対に
廉の中では、みるみる感情が複雑化していく。
まるでクモの巣を張っていく様に、言葉には現せない複雑な感情が生まれていく。
反面、廉は悟った。
(俺の事は忘れても、母さんの事は覚えているんだね)
反面、複雑化した感情が、廉の心にまた闇を落とす。
息子の事は忘れていても、妻の事は穏便に何事もなかった様に語っている。
その姿は穏和で安らかなものだけれど、嫉妬心が生まれるのは否めない。
廉の中で、母親という存在は父親と自分自身を壊した張本人。
己の身勝手な執着心から、二つの家庭を壊した女。
そんな女、母親という存在は、廉にとっては忌まわしい存在でしかない。
“あの時”母親が狂乱と狂気に狂わなければ、
父親も壊れる事はなく、廉も犯罪者の息子、というレッテルを貼られずに生きれただろう。
端から見れば犯罪者、殺人者となってしまった妻を
愛しているというのは美談にも似た綺麗な話だろう。
けれど記憶を失い、時を止めている父親の中では母親は優しい人物に他、代わりないのだろう。
(………母さんは、愛されている。
父さんにとって、大事なものは母さんなんだ)
(…………それに対して俺は………)
きっと、息子の事はどうでも良いのだろう。
現にそうだ。息子の事を完全に忘れようとも、
父親は、妻の事の事だけはしっかりと覚えているのだから。
父親は、母親を愛し続けている。
例え全てを忘れつつ中にいる中で、
妻であった女性を覚えているのは、執着にも愛情なのだろうか。
父親は愛している母親の帰りをずっと待ち続けている。
それは、愛している人が
犯罪者となり殺人者となってしまったとしても。
妻を愛している彼の気持ちは微塵も変わる事はないだろう。