episode66・確かな傷痕の末に (Waka side)
和歌のお話。 後半、美岬が登場します。
杏子は、未だに玄関に座り尽くしていた。
そのスーツのスカートには零れ落ちた涙がぽたりと落ちる。
その時、カチャリとドアが開く音がして、ゆっくりと顔を上げた。
真っ直ぐな癖のない長い黒髪。
すらりとした脚がスカートから伸びている。
まるで静かな怒気に満ちていた顔付きは、少し消えて何処か儚さを称えている。
しかし瞳は、何処か虚ろなのは変わらない。
「…………………」
娘にかける言葉が見付からず、杏子は佇む。
和歌は素通りするかと思いきや座り込んでいる母親に対してこう呟いた。
「…………暫く一人にさせて」
「…………分かったわ」
和歌の自室は、そのままだった。
此処に帰ってくるのは数日ぶりだろうか。
和歌はベッドに座ると仰向けに横になり、横に向いた。
(私の人生は、何だったのだろう)
13になる年に誘拐され、それから傷付いたまま生きてきた。
傷痕という重い心の足枷を引き摺ったまま、
前を向く事はなく過去の傷痕の蔦に
心を束縛にされて後ろ向きに生きてきた。
『……………全ては、千歳家のせい』
何気なく、ぽつりと呟いた言葉にはっとした。
母親と二人三脚で過ごしていた頃は平和で、何もなかった。
父親なんて居なくとも母親が全て穴埋めをしてくれていたのではないか。
全てはあの日、
千歳家の人間に拐われ、
千歳家の娘だと知らされてから歯車は狂ってしまった。
(私の父親は……千歳賢一は、私に害しか与えない人)
(……………そんな人、父親だなんて思いたくない。認めたくない)
自身は母親の戸籍に入っている。
千歳賢一が血縁上の父親だとしても、
戸籍上では他人であり互いが生きていく中で
接点はない。人生で父親と娘が混じ合う事もない。
(全ては父親に、千歳家に狂わされ、苦しめられてきた)
和歌は嘲笑う。
それは、自分自身にか、千歳賢一、千歳家か。
そう思うと馬鹿らしくなってきた。
何故、血縁関係のあるだけで、人生とは無関係の人間、一族に手のひらで踊らされなければならないのだ。
人生を踊らされ自分自身の人生を潰されなければならないのだ。
そうだ。あの日、あの場所に花を手向けたではないか。
無関係に葬り生きていくと。その決意が静かに和歌の心に浮上する。
きっと千歳家に存在が知られたとしても
自分自身は、千歳家の人間としては認められない。
(私が引いているのは単なる血縁だけ。
誰も知らない事実に怯える必要なんて何処にもないわ)
和歌が部屋から出てきた。
相変わらず、杏子は玄関の前に座り込んで佇んでいる。
「…………お母さん」
「……………」
凛とした声が、静寂な廊下に響く。
ぴくりとした肩は微かに震えていて、彼女は此方を向いた。
目許が赤い。何処か憔悴仕切った表情。
それは気のせいなんかではない。
「…………私はお母さんの娘よね?」
「……………それは勿論よ。貴女が私の娘である事には変わりないわ」
「……………そう」
後ろ手にパタン、と
自室のドアを閉めた後に母に歩み寄る。
「さっきはごめんなさい。でも頭を冷やして覚悟を決めたわ」
「………覚悟?」
和歌は立て膝で、母親に視線を向ける。
彼女表情は何処か憑き物が落ちた様な、淡い笑みを浮かべた表情。
「私は____お母さんの娘でしょう?
お母さんの戸籍に私はいる。
あの人は、無関係よ。
あの人は、私達を苦しめる事しか出来ない存在。
現にお母さんも苦悩して、私は無自覚ながら傷付けられた。
………酷薄 (こくはく)に。
そうでしょう?」
“あの人”というのは、千歳賢一の事か。
杏子は娘が何かを悟り腹を括ったと、そんな気がした。
和歌は少し口角を上げて、そのまま話を続ける。
「______私の親は、お母さんだけよ。
千歳家の人間である事は葬って生きていくわ。
今まで秘密にしてきたのならば、このまま葬りましょう?
私も墓場まで持って行くわ。
私は水瀬和歌。
千歳家の人間、私の千歳賢一の娘だなんて
誰も知りはしない。そして私は認めないわ。
…………私の親はお母さんだけよ」
「…………和歌」
「今まで通りに生きて行こうと、思うの」
杏子の目頭が熱くなる。
今までの、弱き娘は何処にもいない様な気がした。
今までの娘とはまるで正反対の様なもので、
何処かで心境の変化があったのだと確信し、
そして何処か娘が娘ではない様な気がした。
「………今まで通りになるだけ。そうでしょう?」
________大学キャンパス、教室。
和歌は朝早く大学へ行き、受講している教授達に
連絡もせず休み続けていた事に、お詫びとして誠実に頭を下げて、
休んでいた間のノート分のコピーが欲しいと要望を出した。
和歌は成績学業優秀賞を得る程の、最優秀成績者。
教授達が一目を置く才女に、NOを言う人物はいない。
そのノートコピーを貰い
教室にいち早く座り、ノートに素早く写していた。
ノートを写している間、生徒が一人、また一人と
入っていく内にざわざわとした賑やかな空間が生まれる。
けれども誰も、和歌に視線を向ける者はいない。
和歌も書き写しているノートから視線を反らしたりはしなかった。
孤独を愛し、今や孤高の近寄りがたい存在として、
また和歌は存在感を消してまるで空気と同一化した様に。
此方へこつこつとした靴音が、近付いてくる。
丁度、ノートコピーの内容を全て写し終えた所だった。
和歌は無意識に右側を視線を向けた。
ふわふわのカールした髪。
華やかで淡い春服のワンピースに、メイク。
しかし“彼女”は何処か、唖然としている様な感じで和歌の前に立ち尽くしている。
そんな何処か、挙動不審で目が泳いでいる彼女に
青空のした。淡いカーテンの紗の様だ。
神秘的で羽の様にふわりとした彼女は、淡く優しげな微笑みを浮かべた。
(______何故、そんな平常心で要られるのかしら)
水瀬和歌は、
過去に誘拐が引き金となりPTSD<心的外傷後ストレス障害>を
発症しその治療に専念していたという。
それは現在も。
今回の誘拐や
自身の出生の秘密を知って打撃を受けた筈だろう。
けれども憔悴して落ち込んでいる素振りは、何処にもない。
(…………どうなっているの?)
最初に和歌を見た瞬間、
今までとは違う印象と表情をしていた。
まるで何かを悟り開いた様な、そしてそれが自信となっている様なものに成っている様に感じた。
和歌は、どう解釈し飲み込んだのだろう。
自分自身に怯える事もなく、いつもと毅然と凛とした冷静沈着な水瀬和歌が隣にいる。
もしかしたら、
ショックで全てを忘れてしまったのだろうか。
その素振りが分かれば問題ないのだけれど、
和歌の表情や態度は凛然として掴めないので分からない。
美岬は、一方通行に不安を抱えていた。
和歌の態度もそうだが、彼女は何を決めたのだろう。
千歳家に入る事を決めたのか、今まで通りに過ごすのか。
それによって美岬の立場も180℃変わるのだから、
どうなったのか、知りたい。
(和歌が長女として迎えられれば、あたしは自由を手に出来る)
母親は、
感情の鬱憤を晴らす為に誘拐したのはいいが
上手くいなかったせいで、まだまだ怒りを静めて
おらず、“水瀬和歌”は禁句用語になった。
出来る事ならば、早く自由の身になりたい。
その気持ちと和歌の読めない凛然とした態度に
焦燥感は募るばかりだった。
放課後。
美岬は和歌を旧校舎の一階階段の踊り場に呼び出した。
…………それは、和歌の心理を確かめる為に。
和歌は時間ぴったりに現れた。
「…………回りくどいのは、嫌いだから聞くわね。
貴女はどうなったの? どうするつもりなの?」
「……………?」
和歌は静かに小首を傾けるだけ。
その微笑みは何処か掴み所のない、そして焦燥感に
駈られている令嬢の怒りを再燃させるには、簡単だった。
「…………貴女、全て覚えているの?」
「…………そうよ」
美岬は固まった。
和歌は全てを覚えている。
「あんな事をされたのに、
どうしてそんな平然で要られるの?
出生の秘密も、自分自身が誰の娘かも、何者かも
全て知ったでしょ!?」
だん、と美岬は和歌を壁に向かって突き飛ばす。
和歌は一瞬、よろけて見せたが直立不動で立っているままだ。
その表情は変わらない。
再会してから、
また他人行儀になり、一言も口を聞いていない。
水瀬和歌の身がどうなったのかも知らない。
だが、軈て彼女は微笑みを浮かべて
「…………ええ、知ったわ。
納得もした。そして気付いたの」
「………何に?」
和歌はまるで
童話の語り部かの様に、ぽつりぽつりと話し出す。
「私は、千歳家に、父親に、
傷付けられ、振り回されてきたのだと。
けれども“貴女のお父様”とはこの先、接点を持つ事はない。
それらに踊らされてきたと思ってしまえば
なんだか馬鹿らしくなってきたわ。
全てを悟った、それだけよ。
それ以外は何も変わらない」
和歌は微笑みを浮かべたままだった。それは何処か余裕を感じる。
その凛然とした冷静沈着で掴み所のない態度と
表情に秘められていた感情はこれだったのか。
「…………だから、安心して?
貴女から“千歳の立場”も“父親”も奪わないから」
少し小首を傾け、微笑みながら言う。
「だって私達は、戸籍上は他人よ。
張り合っても何も生まれはしないわ。私は今まで通りに生きるだけ」
「ふうん、そんな事よく言えるわね。千歳家の血を引いてるのに」
「千歳家? 千歳家は、私と母を苦しめる存在でしかないわ。
そんな場所に帰るつもりはない。私の父親も認めないわ。
_______私は、水瀬和歌よ。
何処にでもいる、ただの人間」
冷悧な言葉。
そう言った瞬間に、美岬は固まった。
そして和歌は静かに唇の前に人差し指を翳す。
「内緒よ。誰にも認められない秘密は葬ったまま、墓場まで持って行けばいい。
私は一人親家庭の一人娘、貴女は千歳家のご令嬢。
これっきりにしましょう。他人は他人同士で生きていくのが最善。
……………それでいいでしょう?」
美岬は、背筋が凍った。
しかし、美岬は張り上げた意地を見せる。
「………千歳家の礼儀知らずとは、貴女の事ね。
良いわ、貴女が認めないのなら、千歳賢一の娘だと否定出来ない出来ない様にして上げる。
千歳家を、お父様____千歳賢一を侮辱した罰よ。
覚えて居なさい。貴女がまた息を出来なくなる様にしてあげる!!」
覇気と怒気の入り混じった声で、美岬は叫ぶ。
しかし和歌の態度は一ミリも変わらない。
虚勢の意地を張っている事、自分自身の自由が欲しい事を見透かしていた和歌は
そっと美岬に近付いて、耳許に顔を近付ける。
「出来るものなら、して見ればいいわ。
でも……“アレ”はどうするの?」
「“アレ”?」
美岬は、横目にきっと睨んだ。
しかし微笑みを浮かべている和歌は変わらない。
「私、知っているの、“貴女の別の姿”を_____」
そう和歌が呟いた刹那、
美岬は声を失い絶句した。
ご気分を不快にされた方、
申し訳ございません。




