episode65・閉ざされた秘密と顔 (Waka.Ren side)
あの時、なんと言えば良かったのか。
母親の気持ちに寄り添って礼を伝えるべきだった。
それとも、母親の言う通り、罵倒して責めた方が良かったのか。
どちらにせよ、
二つ共に今の和歌には、出来ない事だった。
暗雲の空からは、
ほろほろと粉雪が柔く優しく降り注いでいた。
気付くと歩く度にざく、ざくと独特な音がして
俯くと雪の橋がかかっている。
自分自身が
拐われている隙に、雪の季節になっていた様だ。
同時に肌寒い、冷たい風が、背中に感じる。
そんな淡い銀世界を、
和歌は茫然自失の感情と共に歩いている。
一人歩きはあまり出来ない筈なのに、何故かあの時、
家から飛び出してしまった。
普通ならば、外界は何処かで怖いと警戒心を鳴らす筈なのに
今は不思議と何とも思わず、たまに空を見上げながら
和歌は淡々と歩いている。
混乱している頭で母親に寄り添ったとしても
どうかける言葉すら浮かばない。
けれども母親を責めるという事は尚更、出来ない。
その背景には、れっきとした理由があるからだ。
自分自身の母親と、廉の父親は、実の兄妹。
孤児院で引き取られ、二人三脚で兄妹は生きていた。
両親の顔は知らないという。
兄には兄の人生がある、という思い込み自立心が
母親にはあったという。いずれ一人になるのだと。
その話は幼い頃から、
ずっと見に染みる様に聞かされてきた。
それは従兄である廉だって同じだと思っている。
叔父は、婿養子に入る形で結婚したという。
けれど、同じ年であるその妻とも母は仲良しだったので
幼い頃から度々、二家族揃って出掛けたりしていた。
『兄さん、貴女の叔父さんだけは、知っているわ』
だからなのか。理由は分からない。
『_______和歌は可愛いな』
叔父がまだ健全だった頃、
彼は実の娘の様に可愛がって貰った記憶がある。
まるで本当の父親と変わらぬ情を貰ったのだと思い返す。
後から聞いた話だが時折に廉が焼きもちを焼く程だったらしい。
(…………やっぱり私って罪深い人間だわ。
廉から父親さえも奪おうとしていた)
そんな疫病神であり、罪深い人間である自身に
誰かを責める権利なんてないのだと思い知り、己をまた知る。
母親と二人三脚、生きている中でも
母親とも献身的に思い出作りに出掛けていたので、
父親がいない寂しさは感じぬまま幼少時代を過ごしていた。
だが。
『千歳家は暗黙めいた家柄でも有名でしょう。
そして血統を一番重んじる。
他人は要らなくとも、
千歳家の血を引くものは家元に置く。
もしも貴女の存在が、千歳家に知られたとしたら
貴女を奪われて取り上げられてしまう。
そうなとれば貴女には生き別れたままになる。
そんなの私には耐えられなかった。
それが私にとって、ずっと怖かったの』
父親の姿は、
直接で無くとも、モニター越しで見つめていたのだ。
遠くて近い存在だったのだ。…………自分自身の父親というものは。
もし千歳家から母親と生き別れ奪われる形で、
千歳家で育っていたらどうなっていただろうか。
美岬は“長女として育ち、千歳家の責任を果たす”と言っていたけれど、そうはいかない気がする。
和歌は“隠し子と扱われて、ぞんざいな扱いを
される”と思うが、それとも美岬の言う通りになるか。
自分自身は血を引いただけの者であり、
千歳家で生まれ育っている娘、美岬の方が案外正論かも知れない。
感情の赴くままに
飛び出してきてしまったが、これからどうして仕舞おうか。
母親を残して飛び出してしまったのは後ろめたい。
そんな和歌の心には、
杏子を責める気持ちは毛頭ないのだけれど。
朝の淡い暖かな光りで、目が覚めた。
テーブルに置いてあった
慎ましやかな文字で書かれたメモ。
”迷惑かけてばかりで、ごめんなさい。____ありがとう”
そのメモを見つけて時、和歌は消えていた。
うたた寝してしまったのは不覚だった。
自分自身が目を離してしまったのが原因なのだから。
従妹は書き置きを残したまま、何処に行ってしまったのだろう。
また見つけなければと家を飛び出した時、
遠くに長い黒髪を靡かせて歩いている後ろ姿を見つけた。
それはまるで厳冬をさ迷う、精霊の様な儚さを佇ませながら。
気配を殺して、距離を縮めながら廉は言う。
「和歌」
「………………廉」
そう呟いた彼女のの表情と姿は、
心なしか今にも消えそうだった。
彼女は魂が抜けた如く、
俯いてベッド脇に背を預け体育座りをしている。
その神秘的に整った横顔はやけに儚げで、薄幸だ。
もう一度、廉の家に舞い戻る形で、廉が和歌を連れて戻った。
「廉にまた迷惑かけてしまったよね。ごめんなさい」
「気にしないでよ。何年の付き合いだと思っているか」
道を歩いている時
姿を消してからの出来事は聞いた。
水瀬家に帰宅した事、母親から“秘密”を打ち明けられたこと。
「私の出生には複雑な事情があった事、初めて知ったわ」
「……………どんな?」
廉は、和歌とは従兄妹であり幼馴染だ。
けれどもよくよく考えてみれば、和歌の事情は知らない。
それは12の時に水瀬家に引き取られ18になる年まで居たというのに。
「…………私は、千歳家の人間だった」
「え………?」
塞ぎ混む様に、和歌は体育座りしたままだ。
その表情には言葉には出来ない複雑さが入り交じっている。
_____千歳家。
多くの政治家を輩出してきた
名門の家で、財閥で資産家の家だと記憶している。
言わずと知れた名家で政界では有名な知らぬ者はいない。
「千歳家と、和歌に、何の関係があると?」
「……………千歳賢一っていう国会議員の人、知ってる?」
「その人ならテレビで見た事がある」
最近、メディア露出が増えてきた国会議員の名前。
廉もテレビでちらりと見た事がある。
「…………その人が、私の父親だったの」
和歌の複雑化した表情とは反対に、廉は呆気に取られた。
確か和歌の父親は和歌が生まれる前に亡くなった筈だ。
なのに。
「思い出したの。
9年前、誘拐された時の記憶を。
男の人に拐われて。その人から
私の父親は千歳賢一だと。私は千歳家の人間だと聞かされたわ。
でも受け入れたくなくて、自分自身でその記憶を消した」
「……………………」
「言えなかったんですって。………本当のこと。
私の存在が千歳家に知られれば、千歳家に奪わる形で引き取られるから
ずっと誰にも私にも、知らせなかったって………」
「……………………」
「それに転勤族だった理由も分かったの」
「それは伯母さんの仕事の都合だよね」
「それもある。…………けれども根本的には、
千歳家から目を付けられない様に、気付かれない各地を転々としていたものらしいの。
「……………そうだったんだ」
「ごめんなさい。全部、私のせい。
千歳家からの目を逸らす為に各地を転々していたのも。
あの頃、傷心を追ったばかりの廉は振り回されたわよね」
自分自身さえ居なければ、
母はキャリアだけを考えて生きて行けた。
気持ちの整理が付き落ち着き始めた今
そう思うとどれだけ罪深い人間だと思い始めて
母親にも従兄にも、申し訳なくなる。
(そんな大人の事情が、)
廉は別の意味で、衝撃的だった。
和歌の出生の秘密は誰も知らない。それを周りには
絶対に悟らせない様にしていた伯母の鉄壁な根性には言葉にしようがない。
千歳家から目を逸らす為に。
そして自分自身は『殺人者の息子』だという
身を隠す為に各地を転々していたのか、と思い込んできた。
申し訳ない気持ちで水瀬家で暮らしていた。
そんな自分語りをする和歌の目には光がなく、何処か虚ろだった。
その表情も、瞳も、何処か、虚ろだった。
ただ1人だけ知っている人は、自身の父親、
和歌の母親の兄だけだったらしい。
けれども廉の父は妻以外の全てを忘れ去っている。
だから現在、知っているのは、和歌の母親だけだったの筈だった。
しかし廉の中で、朧気な点と線が繋がった。
9年前、和歌が誘拐された時、近隣住民の温情による捜索だけで
決して伯母は、警察に捜索願を提出しに行こうとはしなかった。
『………警察には言えないの。
もしね。和歌の存在が警察に知られてしまったら、
和歌は、もうお家には戻って来られないのよ。
だから
廉がもしお巡りさんに会っても、
和歌の事は、この事は秘密ね』
伯母の言葉と表情が脳裏に浮かぶ。
そんな複雑化した大人の理由があったのなら、
警察等、伯母や和歌にとっては危険地帯の何物でもない。
(だからだったのか)
千歳家の血縁者だと、公になれば
和歌は千歳家が拐ってしまうのだ。
伯母はそれを悟り恐れていた。
「…………だから」
「………え?」
「9年前、和歌が拐われた時に俺は余計な事を言ったんだ。
警察には、って。でも窘められた。
警察に言うと和歌に会えなくなる、って。
警察の捜索は行われてなくて
その時に住んでいた近隣住民の人の捜索だけだった」
「………そう、だったの………」
和歌は、知らなかった現実に絶句する。
母親は徹底的に公にしなかったのだと痛感した。
(………落ち着いていないよな。色々と混乱しているだろう)
22年間。
母親から葬られた事実。
全てを知った今、今までには生きては居られない。
そしてこれは運命か。
千歳家に、二度も心を壊された。
その面では千歳家を恨めしく思いながら、奥歯を噛み締める。
けれども強く込み上げていく感情があるのだろう。
自分自身の出生には
大人の事情の複雑に絡み合っているのだと。
そして千歳家とは悪縁なのだと。
母とはどう接しよう。自分自身の出生の秘密が
悟ってからは申し訳ない気持ちになるばかりだ。
【補足】
恐らく和歌の事は勿論、
廉の事も考えて、杏子は行動し
生きてきたのだと思います。




