episode40・掟と略奪 (Misaki side)
千歳美岬という人格を捨てて、誰かに成り済ます。
知らない誰かの人格を演じる。
千歳美岬以外の“誰か”でいたい。
千歳美岬というお嬢様の人格を脱ぎ捨てたら、
本来の飾らない自分自身になれる気がした。
美岬は、美岬でいる事がプレッシャーだ。
誰かの仮面を被って生きている間、
千歳美岬以外の人間として生きてみて、初めて自由を手にした。
千歳美岬として生きている限り、常に緊張感と隣り合わせの毎日。
だが、自分自身の欲しい、温もりを目の前にしている間は楽になれた。
楽になれた。自分自身の本能のままに呼吸が出来て、苦痛なんかじゃなかった。
渇望した心の穴を温もりで満たせるのならば
ずっと美岬ではない、誰かのままがいい。
初めて千歳美岬という自分自身を捨てる事で、
自分自身の”本当に欲しいもの“が得る事が出来た。
千歳家では決して与えられる事のない温かな温もり。
その温もりが、
初めて美岬の心の隙間風を埋めてくれたのだ。
長年に渡って分からなかった、自分自身の欲しいものを手にしたのだから。
今更になって手離そうという気はない。
けれど。
長年に渡って美岬の求めていたものは、
(ねえ、誰か)
この心を満たしてみせて。
美岬は、幼い頃から漠然と
空いた心の穴をもどかく感じていた。
お人形、玩具で遊んで見ても、そのもどかしさは拭えない。
幼い頃から、何不自由のない生活を送ってきたけれど
本当に自分自身は自由の身だったのだろうか。
まだ幼い頃は良かった。
けれど年齢を重ねる度に美岬が置かれたのは
千歳家の末裔、令嬢、国会議員・千歳賢一の一人娘。
千歳家の名を、父親の名を落とさぬ様に、
何時しか無意識に完璧な令嬢像が、美岬に求められていた。
名家・千歳家に相応しい人物である様に、
何時かは自分自身も
千歳家の為に貢献し、千歳家に見合う人間になること。
千歳の家柄に逆らってはいけない。
千歳家に従っていればよい。
資産家であり名家である家柄に従っていれば、
自分自身の幸せは必ず約束される。
けれど本当にそれでいいのか。
本当に千歳家に従えば、幸せなのだろうか。
ただ、盲目的に人の温もりを求め続け生きてきた。
心にぽっかりと空いた穴を埋めるかの如く。
愛情依存症である自分自身には、愛情しか要らない。
嫁入りによって、美岬は、
自分自身が求め欲するものを奪われるのでは、と不安に苛まれていた。
現に、花嫁修業の料理の練習により、温もりを求める、夜遊びは奪われた。
政略結婚に、愛情なんて発生しない。
互いに家柄を、親を守る為の、政略結婚というだけ。
相手に期待をしても、伴侶となる青年からの愛情は望めない。
相手は、家柄を守る為の政略結婚だと承知しているのだから。
自分自身を欲し、求めていたものは、棄てるしかなさそうだ。
「______っ………」
考え事をしていると、指先に痛みが走った。
「あら、大変!!」
自身を指導する料理研究家の声で、美岬は我に返る。
ふと視線を落とすと、指先からは鮮血が滲んでいた。
(…………これで何度目かしら……)
ふと手先を見ると、絆創膏に包まれた指先。
ネイルアートを楽しんでいた、傷一つない指先は何処かへ行ってしまった。
ネイルアートのネイルは、料理を作る際に相応しくないと止める様に言われ、従うしかなかった。
今まで包丁一つ握った事はなかったからか、未だに包丁を持つのは不慣れで切り傷ばかりだ。
(なんだか腑に落ちない)
これは、千歳の名を守る為だとは何処かで解っているけれども。
代わりに自身の欲しいものを奪われてしまうのは。
まだ自由奔放なお嬢様な気分が
抜け切っていない美岬が感じたのは、違和感と腑に落ちない感覚。
解っている。何の為に花嫁修業をしているのか。
しかし自由奔放に生きてきた美岬がまだ、欲望が
蠢く千歳家の掟に慣れてなどいない。
“誰かの為だけの存在になる”事が、まだ受け入れられない。
自分自身が欲するものを手に入られる。
安心感を得られる時間にまだ浸っていたかった。
まだ欲しいものを奪われるのは、
美岬にとっては早かった様だ。
(こんな傷だらけになるくらいなら、)
傷一つ負わない、温もりを求める方が有意義だ。
時間を無駄にしているとしか美岬には思えない。
軈て、千歳家の大人の一人にならなければ
いけないという腹を据えていたつもりだった。
けれどそれは、腹を据えていたのではなく、ただの漠然とした未来を見ていただけ。
美岬には、何の覚悟も備わっていなかったのだ。
(人に尋ねられた時に、なんて言おう)
こんな、傷だらけの指先を。
もし、男性と会う機会があった時に
見られてしまった時はどんな理由ではぐらかそう。
「……………なんて、こと」
「賢一さんは、こんな女を今も愛しているというの?」
答えのない自問自答が、静寂に佇む。
紙切れを握り締め、
喜子は怒りと困惑に震えていた。
紙がくしゃり、となる程に彼女が握り締めていたのは。




