episode35・世界で一番憎き人、忘れられない人(Ren.Mother side)
廉と、ある母親のお話。
【始めに】
自傷後描写という言葉あります。
血、などの表現はありません。
母親が人を殺めた。
自身は罪人の子供になったという事実を噛み締めながら
彼女はもう戻ってこないのだと思うと、時に悲しくなった時もあった。
…………もう遥か彼方、昔の事だが。
自傷によって流れる血を止血しながら、
廉は虚空の空を見詰めながら、静寂な空間な中で舌打ちした。
あの時、溢した純粋無垢な涙さえ、今では憎い。
自分自身は所詮、彼女に裏切り捨てられたのだ。
邪魔な子だったに違いない。
(そうとも知らずに俺は………)
もしも、父親が壊れずに居たら、
適切な対処やケアをしてくれていたのだろうか。
去っていく警察車両を追っていく自身に向けた、”ごめん“と言葉と共に。
父親は真っ直ぐで誠実な人間だったから、
妻の不倫と、放火殺人の罪を犯した現実に受け止め切れなかった。
だから、妻を愛し込んで、
それを否定を息子に虐待を働いたのだろう。
(過ぎた事を思うのは、止めよう)
母親は、
無期懲役の判決を下され、地方の女子刑務所にいるらしい。
10年前に捕まった母親を見たきり、母親の顔を見た事はない。
母親と刑務所での面会は一度もしていない。同時、頭が混乱の最中に居たのと
優しい母親ではなくなり、殺人鬼となった女には会いたくないと思ったからだ。
自分自身を裏切った女に、会いたくもない。
それに廉には、自身を救ってくれた育ての母親がいる。
和歌の母親が、伯母が居なければ、どうなっていた事だろう。
和歌の母親に感謝を覚えながら、実母には年々、憎悪の感情が膨らんでいた。
だから恩義を感じている育ての母親に対して
実母に会う事は彼女を裏切る様に感じて、気が引けた。
現に舞子は、殺人鬼になってから豹変した。
自身が犯した罪を正しいと思い込み、更正の余地等、一ミリもなかったのだから。
和歌の母親は、
廉を舞子を会わせるまいか、悩んでいたらしいが、
廉が自発的に母親を会いたいという要望を口にするまで、会わさないと決めたらしい。
廉の記憶にある舞子と、殺人者となった舞子は別人だ。
また面会した事で、廉が戸惑い混乱してしまうかも知れない。
もしも廉が、
母親に会いたいと言えば、別だっただろうが_____。
______地方女子刑務所のとある房にて。
「2059番」
看守の女性の凛とした、言葉が響いた。
房の隅にぼんやりと座っていた女性は、此方を見詰めてくる。
「貴女に手紙が届いています、受け取りなさい」
食事を運ぶドアの小さな隙間に、女性看守は茶封筒を置いた。
小さく一礼をした後、舞子は裏表を繰り返し見詰めながら
疑問符を抱いた。
(………誰?)
川嶋 舞子様、と書かれただけで、
宛先は無記名だった。
自身に手紙が来るとは珍しい。
牢獄に入ってから人間関係は皆無となり、誰もが舞子を忘れている。
舞子は気難しい性格、その無惨に起こした身勝手な罪故に、
他の受刑者も舞子には近付かない。
舞子は手紙を受け取り、また片隅に座ると、
無造作に封筒の先を千切り封筒を逆さまにして中身を出す。
それらは、はらりはらりと床にばら撒かれ落ちた。
四角い白い紙が数枚と、小さく折り畳まれた紙。
興味本位で四角い紙に触れた時、独特の触り心地から、紙ではないと確信した。
写真を裏返す。
その刹那。
「ひっ、」
舞子は唸りと共に、表情が固まった。
写真には、まだあどけなさが残る少年が写っている。
家の前で撮られたと思われる写真、食事中の写真。
桜の季節に花見をしたと思われる写真。
ぎこちなさが存在しながらも、少年は微笑んでいる。
忘れられない。
全て舞子の記憶にいる、忘れられない少年だ。
端正に整った面持ちと共に、普段の何気ない表情を
浮かべる少年は、舞子の心を無条件に揺さぶり震わせた。
(………廉?)
間違いない。
自らが腹を痛めて産んだ息子だ。間違える筈がない。
しかし殺めた不倫相手を思うあまり、
自身に息子がいた事も、息子の顔さえも舞子は忘れつつあった。
全て擲って元恋人に走った女にとって、
夫と息子の存在等、どうでも良かったのだ。
頭がパニックになるのを感じ、咄嗟に写真を放り投げてから、
「誰よ、こんなものを送ったのは!!」
感情的にそう叫んだ。
額に冷や汗、背筋が凍ってしまう感覚に襲われる。
指先が俄に震え出した刹那、
折り畳まれた紙に視線が行った。
恐る恐る、折り畳まれた紙を広げると、
「拝啓、川嶋 舞子様、
月日が流れるのも早い事ですね。
あの子も、22歳になりました。
あの子の、優しく真面目で誠実な姿を見ていると、
若かかりし頃の兄の姿を思い出します。
貴女の事は許す事は出来ませんが、
どうか、この子の存在は忘れないで下さい。
この子と兄を記憶に留めておく事が、貴女に出来る贖罪でしょう」
手紙には、達筆にそう書かれてあった。
手書きの文字と内容で、なんとなく舞子は差出人が解った気がした。
けれど舞子の脳裏に、一つ疑問符が浮かんだ。
(_______今の廉の写真は一枚もない)
けれど舞子にとっては、どうでも良かった。
捨てた息子がどうなろうと、もう今の自分自身には全く関係がない。
ただ舞子にとって後ろめたい過去なだけだ。
息子の存在は思い浮かべても、見たくはなかった。
舞子には今も、不倫相手が全てなのだから。
だが。
『_____母さん!!』
不意に、少年の悲しそうな声が脳裏に木霊する。
刹那、
言葉には表せない気持ち悪さに襲われた。
自分自身には不倫相手が大事、夫と息子の事なんてどうでもいいのに_______』
「ああああ………」
ぽつり、と響いた残響。
だが、
「_____ああああああああああああ____!!」
「2059番、どうしたの!!」
頭を抱えながらのたうち回る受刑者の叫びに、
直ぐ様、女性看守は房に飛び込んできた。
しかし舞子が落ち着きを取り戻す素振りはない。
女性看守は素早く、
舞子の手首に手錠をかけると立ち上がらせ、房から離れる。
何故、こんなにも心を揺さぶられるのだ?
女性看守に連れられる中で暗い面持ちで、瞳を伏せる。
(たかが、捨てた息子の幻聴如きで……)
見たくなかった。聴きたくなかった。
思い出したくなかったのに。
忘れてしまいたかったのに。
何故、蒸し返す様な事をするのだろう。
息子と夫を裏切った罪人は、絶望に呑まれる如く、叫び続けた。




