episode32・令嬢の退屈、隠された陰謀 (Misaki. mother side)
美岬と、ある人のお話。
(美岬がmotherになった訳ではありません)
『賢一様には、嘗て恋い焦がれた人がいた』
その言葉に対して癪に障る人間が居た。
賢一の妻であり、美岬の母、喜子だ。
賢一が嘗て、燃え上がった恋をし愛した相手、
今も賢一はその恋い焦がれた相手が忘れられないなんて事は
とっくの果てに喜子の耳に入っている。
単なる過去話ならば、見過ごせた。
しかし、使用人の言う通り、賢一は未だにその女性を愛しているらしい。
それが、喜子にとって悔しさの何物でもない。
初めて会った時から、惹かれ
箱入り娘だった喜子が賢一の優しさに恋に落ちるのに時間は要らなかった。
最初は純粋に愛して、尽くしていた。
けれど。
賢一の心の中には燃え上がる程の恋をした末に
愛した女性の存在が居ると知り、絶望した。
同時に悟ったのは、自分自身とは政略結婚で結ばれた縁でしかないということ。
賢一の心の中に居る、愛している女性には、自分には勝てないということ。
官僚の一人娘で、
挫折や失敗を知る事を生きてきた
世間知らずの箱入り娘だった喜子の初めての挫折とショックは、それだった。裏切り、とも思っていた。
賢一からは、夫からは愛されていないのだ。
ただ家柄が決めた“婚姻の契り”に逆らえなかっただけで、形だけ繕っても
内心は違う。賢一の心の中にいる女性には、喜子は勝てない。
彼女が居る以上、自分自身は夫から心底愛される事はない。
喜子にとって、賢一の心の中にいる女性が憎らしかった。
消えてほしいと、殺意さえ抱いた事すらあった。
(貴女さえいなければ、私は愛して貰えた)
何も見えない闇夜の中で、
ガーデンスペースを見渡せる洒落た窓から憎悪を募らせる。
夫を奪った女を、許せる筈もない。
表向き愛妻家で、妻を愛しているふりをしている男が内心では堂々と妻を裏切っているだなんて、誰も信じない。
周りには自身の屈辱的な思いも理解してもらえない、それも喜子を泣かせている。
愛した人には振り向いて貰えない。
それは喜子にとっては惨めで屈辱的だった。
(美岬には、絶対に惨めな思いはさせない)
美岬が本気の恋を燃え上がらせ、
相手とは結ばれないと知り、衝撃を残し
後を引き摺りながら生きるなんて、惨めだ。
だから早く美岬に恋愛での挫折は味合わせまいと
彼女が恋を知る前に婚約者を用意し、縁を結ぶ様にと喜子は賢一よりも積極的に動いていた。
千歳家に匹敵する程の、樹神家なら
美岬は何も不自由な思いをする事もなく、生きていける。
挫折も惨めな思いもせずに。
夜風が淡く頬を撫でる。
樹神家のガーデンスペースには、婚約者同士の男女がいた。
「寒くないかな?」
「はい」
桜色のシンプルなワンピースに背に流した髪。
彼女は庭を彩る鮮やかな花々を見詰めていた。
反対にオーダーメイドのスーツを纏った青年は、空を見上げている。
美岬は、複雑な心中にいた。
婚約者として御披露目、知り合ってから真之助とは
度々に会うようになっていった。
“婚姻前から相手を知り、婚姻後はミスなく相手に尽くせる様に”
両家が決めた盟約。
婚約者と定めされた以上、婚姻前から伴侶の事を知り見詰め、支えれる存在になる様にと。
端正に整った真之助の横顔を見詰めながら、美岬は視線を伏せた。
(つまらない)
真之助は見るからに誠実で、理知的、帝王学に長けた人物だ。
樹神家の後継ぎには相応しいと呼べる人物だろう。
しかし婚姻前というのもあり、美岬には手を出してこない。
他愛のない話を交わすだけだ。
夜な夜な夜遊びを繰り返し、男性を取っ替え引っ替え
渇望した愛情と温もりを求める愛情、恋愛依存症で
刺激的な毎日を送っていた美岬にとって
真之助との交流はつまらないものだった。
美岬の夜遊びを知らない人間は、
早く真之助と仲を深め、夫婦になる事を望んでいる。
しかし美岬は気乗りがしない。
真之助が現れてから、美岬の生活スタンスは変わった。
毎日の様に夜遊びを繰り返し、
愛情と温もりを求めていた前の生活とは違い、
真之助と交流する日は前の様に自由に生活は出来ない。
当たり前の事だが、真之助と交流がある日は
愛情と温もりを求める夜遊びすら、出来なくなってしまった。
夜遊びはもう美岬の生活の一部となっていたから、それを制限されるのは、美岬にとって好ましくない。
自由に羽ばたきたい。
こんな大人が決めた婚姻話よりも、自分自身を優勢したい。
けれど千歳家の令嬢で、嫁入り前の身としては許されない。
つまらない相手と過ごすよりは、アポイントを取り
夜の町に、繁華街に出たいのが美岬の本心だ。
婚姻話はまだ先の事で、目の前の娯楽に溺れていた
美岬はつまらなさと、逃げてしまいたいという
気持ちが心を疼かせる。
真之助は紳士的で優しいけれど
何度も会えば在り来たりに思え、飽きてしまいそうだ。
それに彼が話す哲学は勉強になるけれど、
帝王学や哲学を知らないまま生きてきた美岬には、
つまらない話を延々と聞かされ、飽きてしまっている。
以前の生活に戻りたい。
刺激的でセンセーショナルな飽きない、
無条件な愛情と温もりを与えてくれる生活に。
けれど
膨大な金と権利を持ち合わせている、相手には立ち向かえまい。
それが千歳家の身内だとしても。
美岬の母親、表記が間違えておりました。
正しくは善子ではなく、喜子です。
長らく気付かず仕舞いのまま、物語が進んでしまい
申し訳ございません。




