episode18・見えない傷痕 (Waka Side)
和歌のお話
ある場所にいた。
自分自身には冷たく重い、鉄製の手枷足枷を嵌められている。
木製で出来た小屋には、木のテーブルと椅子が数脚。
倒れた木製は錆び付いて、少し木が削げて脚が壊れかけている。
開きかけた扉。
空気は厳冬の冬の様に冷たく、肌寒い。
「___________っ」
唸りながら、和歌は目を覚ました。
その紺色の瞳は大きく見開かれ、意識はざわつき始めた。
和歌の表情は弱り疲れ切った表情を浮かべている。
心臓を騒ぐのを押さえるかの様に胸に手をやった。
気分が悪く、喉の奥がざらつく様な感覚に陥る。
呼吸を整えながらすがる様に、
軈て枕の下に置いている薬ケースに
手を伸ばすと薬を数錠、口に含み水と共に流し込んだ。
睡眠導入剤と、安定剤だ。
項垂れ、倒れる様に、和歌は横になった。
憂いを帯びた瞳で闇を見据え、軈て目を伏せる。
発作だ。
夜な夜な魘されては、過呼吸に襲われ酷い不安感に襲われる。
そして眠れなくなるのだ。
もしもの為と、
御守り代わりに、枕の下に薬を忍ばせている。
(しばらくなかった、のに)
大学生になってから、PTSDの症状は落ち着き始めた。
最近はあまり魘されて目覚める事もないのだが、
明らかに心臓が騒ぐ程の焦燥感は久しぶりだ。
普通に過ごせる事に感謝しているのだが、
時折にして過去の囚われた傷痕は、気まぐれに現れて自分の首を絞める。
(あれは、夢? それとも………)
現実、と思いがけて首を振った。
もう過去の事だ。辛く苦しみに苦しんだ傷口を今更、思い出したくはない。
けれど夢にしてはリアリティーが有り過ぎた。
今までも魘され起きた事はあったけれど、こんな身近な体験の様な光景を見る夢は、初めてだ。
和歌には、誘拐された後の記憶はない。
自分自身でも全く思い当たらないのだ。誘拐され、気付けば病床に居た。
誘拐された後の事を何度も尋ねられたけれど、
不思議とぷつり、と糸が切れた様に思い出せない。
記憶の道を辿ろうとしても、暗闇に包まれていて、何も見えないのだ。
思い出したくはないのかも知れないが。
精神的なショックから、自分自身で記憶を消してしまったのではないか。
和歌の主治医である、遠藤はそう言っていた。
『水瀬さん。
無理をして思い出さなくても良いのよ。今はゆっくりと、傷を癒していきましょう』
しかし何かしらあった筈だ。
姿を消した1ヶ月、自分は何処に居て何を見ていたのか。
だが。
自分自身の身に起きた事を知りたい反面、
和歌の心の何処かで、記憶を呼び起こすのに恐怖を感じている。
きっと記憶を呼び起こしてしまったら、またあの時に巻き戻されてしまう。
そうなってしまえば、6年の歳月をかけて心療治療を捧げてきた事は水の泡になる。
それに、もし思い出してしまったら
自身はまともに立ち上がる事も息をする事も出来ないだろう。
現にあれだけ苦しみにの中にいた。
自身に過去の傷痕を受け止める器量がないのを、和歌は分かり切っている。
だから後ろを振り返らず、震える足で前を歩いてきたつもりだ。
だが、心の余裕が生まれた今。
自分自身の過去にも、視線を向ける事が出来る。
(…………どうなっているの?)
誘拐された探し人のポスターが存在しないこと。
誘拐されたという情報が一切、ネットワークに流れていないこと。
先日、こっそりと足を運んだ
地元の警察機関に行き尋ねても、そんな素振りがなかった。
探してみるだけ探し尋ねるだけ尋ねても、水瀬和歌の情報は得られなかったのだ。
(誰かが、何かを隠している)
それだけは強く思っていた。
誘拐されてから、母親、従兄、主治医は、和歌をまるで腫れ物に触る様に接していた。
廉も固く口止めされていた筈だ。誘拐の件は触れるな、と。
それに従兄が下手をする人物ではないと、和歌は理解している。
自分自身も
誘拐された事も聞かず、治療に励む為だけに生きてきた。
あの頃は、精神的なショックから余裕もなく
全てを奪われ絶望し切った、屍の様な毎日を送っていたので
気にも止めず、そんな事を考えている余裕はなかった。
現に和歌は、自分自身が誘拐され、
その深い心の傷痕だけは覚えているが、“それ以外”は何も知らされていない。
誰かがうっかり口を滑らせた事もなく、和歌の傷痕を察して、皆、その傷痕を無視している。
『和歌、自分を責めなくていいのよ。
貴女は何も悪い事をしていない。憎むなら、母さんを憎しみなさい』
『……………』
母親に抱き締められながら、
彼女が呪文の様に呟いていた言葉。
それは今も和歌の脳裏に深く焼き付いている。
心に追った傷はあまりにも大きく、心神を喪失した。
和歌の人生は、ほとんど全てを奪われた人形の状態で
傷口が塞がさがらないまま過ごしていた期間の方が長いだろう。
無意識に過ごしていた中、人の優しさが痛く辛かった。
自分自身が経験した傷痕が蘇ってきそうで、
自分自身の身に何かがあったのだと実感させて。
そして
誰かに心配をかけたまま、過ごしているのだと実感せざる終えない。
深い傷痕から、孤独を好み出した心が、大好きな人を拒絶してしまいそうで怖かった。
思い出したくはない、忌まわしい記憶。心の傷痕。
しかし、何処かでフェイクされ葬られた部分は、
ますます和歌に疑問を募らせた。




