「壮絶な人生」があるのではなく、「人生とは壮絶な何か」だということ
うちの父の話は大半がつまらない。だが、時にすごいことを言う。
東京大空襲の生き残りで、そこから自分の家を建て、子供2人を大学に行かせたのである。
「焼夷弾っていうのはよくできててな、爆発した時点じゃ火がつかねえの。タールでくっつくようになってる。ガソリンが飛び散ってな、何か燃えるもんにくっついて発火するんだよ。体にくっつくと、砂でこすっても消えねえからな」
「進駐軍が来てなあ、夜中じゅう、ゴーゴー音たてて走るもんだから、寝られやしねえの。あー、チョコレートだろ。もらったよ。子供がいるとばら撒いてくれんの」等々。
本当に父の生涯を本にしたら売れるのではないかと思うのだが、当人はその気がない。
「オレの人生なんかおもしろくねえよ」と一蹴。
だが、現代に生きる後期高齢者の中には、かような経験をしている人々が多くいるであろうことを考えると「おもしろくねえ人生なんて本当にあるのだろうか?」といぶかしく思われる。
ひるがえって現在であるが、その戦争直後と同じくらいの数だけ生活保護受給者がいるご時世となった。
戦争直後ほどと思わないが、われわれも十分エラい時代に生きていることになる。
テレビをつけると、みんな楽しそうにしている。
特にCMは楽しそうな人、魅力的なモノ、かわいらしいお姉さん、カッコいいお兄さんでいっぱいだ。
でもわれわれはみんな知っている。
こういうのはほとんどがウソで、ウソを楽しむものがテレビだということを。
でもそれでいて、ひとに「それなんでなん?」と聞くと「あ、テレビやってたから」ということも多い。
テレビには正しいこともあるし、娯楽として十分評価できるものもあるのだから、悪いとも言えない。
ただ、こんなに生きづらい世の中の割には、生きづらい世の中をストレートにぶつけてくる番組というのは少ない。
だからテレビ情報というのは、深刻な生きづらさに直面したときには、ほぼ役に立たない。
人間は死にゆく運命にある。
だが、老い衰えゆくこと、肉体的美を失っていくこと、病気の痛み、貧困のわびしさ、孤独の退屈さなどなどから、現代の文化は背を向けてばかりいないか?そして、われわれの生が、ますます労働を中心として編成されていないか?ある結婚紹介サービスの広告のコピーにこんなのがあった。
「俺のスペックってどのくらい?」スペックって……。
人間の性能を数値にしてもらわないと、自分の価値がわからないらしい。
というより、価値というものはそもそも人間を根底に据えて、その土台から編成していくべきものだから、「人間の価値」という発想自体に病的なものを感じる。
ちょうど、昔の優生学者がさかんに人間を測り、最下層にいるとされた者に断種手術を施したり、彼らを平然と大量虐殺したようなあの病的な発想のことである。
そんなわけだから、人間が「何者か」を言うときに、自分の職業を言うのは昔からのことであるが、年収でいうことも多くなってきた。
「この人は一体、どういう人なんでしょう」「年収○○円を稼ぐカリスマ××です」で、説明がついたことになってしまう。 こういう世の中は生きづらい人でいっぱいである。
生きていれば疲れもするし、病気にもなる。
家庭のいざこざも絶えない。
労働環境もストレスでいっぱいである。
それでも人間はいつもいつも、そしていつまでも、健康で美しく、頭がよく、たくましく、気が利いて、元気いっぱいでなければらない。
これはもはや義務とされていて、理想ではなくなってしまっている。
だがそもそも現実的ではないから、目の前の現実とのギャップに苦しむのは当然である。
こういう世の中にあって、逆境にある者にとかく頻繁に向けられる言葉が「頑張れ」である。
だが、われわれはこの言葉の正確な意味と暴力的な性格をよく把握していない。
天沼香『頑張りの構造』吉川弘文館、はあまりよくできた本ではないが「頑張る」の病的性格を知るには良い本だと思う。
この本の中で、天沼は直近一年間で使われた「頑張る」の用例を新聞記事から収集している。
執筆がたまたま1985年中だったようで、日航ジャンボ機墜落事故があった。
ほかの期間では、主要新聞紙上中の「頑張る」の用例の使用回数を、天沼はきちんとカウントしているのだが、この事故があった、1985年8月から2か月間はカウントしていない。
あまりにも用例が多いので、カウントしきれずギブアップしているのである。
要するに日本人がこの時ほど他者を頑張らせ、また頑張ったときはほかに例を見ないというのである。
私は、この「頑張れ」がいったいいかようなものであるのか大体想像がついた。
というのも、私の母が死んだとき、少数ではあったが、「頑張れ」に類する言葉を受け、私が普段通りの平気を装っていると「しっかりしているわねえ」などと、称賛されたからである。
親が死んでも平気なツラをしていると、何かいいことをしているとでもいうのか?日常の平凡な生活の中の平凡な言葉の中に狂気が潜んでいるものだと思った。
私は内面的には重度に病んでいて、大量に服薬していたのだが。
日航ジャンボ機墜落事故に話に戻ると、このとき生存者が4人いたが、若林一美『死別の悲しみを超えて』岩波書店、によると、この4人のうち、当時12歳だった少女が助かったとき、多くの人が感動し、「生存者あり」の報に安堵したという。
彼女が退院した日、花束が彼女に手渡されたが、それは無数のカメラマンがたく容赦ないフラッシュの嵐の前であった。
そしてマスコミ関係者と思しき者どもから以下のような言葉が少女に浴びせかけられたという。
「〇〇ちゃん、笑ってください」
「こちらを向いて笑ってください」
彼女が、九死に一生を得たのは確かに喜ばしい。
だが、この少女も同乗していた両親と妹を亡くしているのである。
関係者はこれを分かっていて、以上のように言い放ったのである。
狂っている。
そして今もこの手の狂気はいたるところで見られるのではないだろうか。
彼女は少しはにかんだ笑顔をしたそうであるが、これが「頑張れ」の求めているものである。
グラビアになって買われ、消費されたそうだ。
このような世の中に生きていると何が狂気で何が正気なのかもわからなくなってくる。
もはや正気であるほうが狂気に近い。
正しく生きようと思えば、疲れてくるのはむしろ当然である。
だから、2000年前に生まれた、絶対に正しい、人の子はこう言っている。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」〔マタイの福音書11:28-30〕。
歴史上産まれた世界中のすべての人々の人生は壮絶であったし、今も壮絶であるし、これからも終末の日まで壮絶であり続けることだろう。
少し世の中から離れる工夫でもして、休んでみたらどうだろう。
この工夫のためのハウツー本は教会に行くとたいていただでもらえる。
カネなど要らない。
「聖書ください」とただそれだけ言えばいいのである。
生きづらさを詠める
暴力の 高速巨大の 世に生きる 家無き人見つ 都庁の麓