七章 純水
堤端総は考えた。竹神音に好感を持って近づいている以上聖羅欄納を説得するのは不可能。彼女の行動を止めるには強引にでも竹神音から遠ざける。そのためには竹神音の犯罪を表沙汰にする。それが現実的でないことは竹神音をずっと近くで観てきた堤端総が一番よく解っていた。「新たな罪を犯させる」。堤端総は、その考えに行きついた。
──お前さんには、似合わんよ。鈴音も、あの押掛け女もな。
あのようなことは、聖羅欄納に対する感情がなければ言うまい。
堤端総は聖羅欄納を餌に使った。彼女の身に何かが迫れば竹神音は必ずアクションを起こすと踏んで、母から堤端産業の人間を五人借り、彼女に接近させた。竹神音が堤端産業の人間を傷つけると推測して──。
竹神音が逮捕される姿を目にして作戦がうまくいったことを堤端総は知った。聖羅欄納もこれで竹神音に近づくことができない。曰く一目惚れ。彼女のそれはかつての言葉真音へのそれであろうことを堤端総は実体験から察した。竹神音にはもとから好感のいだきようがないことを、名門の出である彼女なら此度の件で冷静に考えられるだろう。そして犯罪者に好意を寄せ続けることなどなく離れていく。そう考えて、堤端総は学園に向かった。
外で、聖羅欄納が署名活動を開始していた。
……なぜなんだ。
そこまで竹神音に入れ込む理由はなんだ。堤端総には全く理解できなかった。接触不足で竹神音の悪性を善性の裏返しとでも取ってしまっていたのか。だとしても、身近の誰かが逮捕されるというぞっとするような現実が冷静に考え直す機会にならないはずがないだろう。
……なのに、なぜ。
天才同士にしか解らない何かが、二人のあいだにはあるのだろうか。
けれども堤端総は諦めるわけにはいかなかった。解放された竹神音に彼女が近づくことも、彼女が堤端産業や五大旧家の不正について探りを入れることも、看過できなかった。何より、彼女が竹神音に殺されるかも知れない状況は避けなくてはならなかった。
堤端総は、学園を休んだ──。
広域警察本部署の帰途、どうしようもなく足取りが重くなったララナの気を引くものがあった。魔力の流れ〈魔力流動〉だった。駅方面の上空に突如として現れた渦状のそれは、魔力集束すると紫色となり視認できた。
……空間転移の兆し。召喚魔法ですね。
ララナやオトの空間転移には見られないが、本来、空間転移など時属性魔力を用いて魔法を使うとああして紫色の〈余光〉が発せられる。
余光を発する渦の奥に巨大な魔物が潜んでいる。
空間転移の渦を見上げる人人に声を掛けてララナは避難を促した。それとほぼ同時に渦から毛むくじゃらの何かがゴオッと伸び、高架のプラットホームの屋根を押し曲げながらどすんっと地上に接する。爪のついたそれがほんの一部、四足型魔物の前脚であることをララナは察した。
……前脚だけで二〇メートルはございますね。
全体は二倍を下らないだろう。四足型魔物は加速に優れ、四つ脚が地上に這い出せば手がつけられなくなる。魔物の脚を見た人人がパニックになって散り散りになっていく。逃げるにも風上には逃げにくい。ララナは、魔物を風上にした微弱な風魔法を起こして人人が魔物から遠ざかるよう誘導しつつ状況を観察する。
……召喚は、明らかに人為的です。
広域警察本部署も近い駅のど真ん中に魔物を呼び込む意味があるのか。駅や周辺の襲撃が目的なら不可解だ。騒ぎが大きくなるは当然として広域警察の部隊が駆けつければ襲撃が成功する可能性は低くなる。特定の駅や列車を破壊するのが目的なら別の攻撃的魔法でも事足りた。無差別攻撃なら魔物を目立たせて標的となる人人の逃走を促すのは効率的でない。恐怖を与えることを主体として、あるいは逃げ惑う人間をその的にすることが目的なら理解はできるが、その場合魔物を召喚しようとしている魔術師は魔物と同じように皆を見渡せる位置に構えていそうなものだが、駅周辺は小路が入り組んでおり死角が多く、開けた場所が少ないので目的と環境が合わず、いくつか見える高い建物にそれらしい魔術師の気配もない。
……だとすると。
視界が通って衆目の集まりやすい駅の空域から巨大な魔物を呼び出そうとしているのは、目立たせるためでしかない。目的の完遂は、魔物の役割ではない。魔物は囮なのだ。
ララナは避難誘導を継続して、広域警察本部署の魔力反応を探った。同じものはないとされる個個の魔力〈個体魔力〉を潜めているオトを発見できるとは思えなかったが、万一、彼の身に何かがあったら──。案の定オトの個体魔力を見つけられず、魔物の出現に気づいた大勢の刑事が署外に出てきているが、摑んだ状況はそれだけではない。
……あの個体魔力は、総さんです。
高い探知技術を有すれば個体魔力は持主の形に捉えられる。ララナの探知は総の個体魔力をまさに総の輪郭で捉えられ、同人と確信を得られた。朝、署名活動中のララナに挨拶した総は登園を急いでいたようだった。それがなぜ広域警察本部署にいる。
状況把握の傍ら少し気になって動向を見守っていると、広域警察本部署を出た総が急速に南下した。魔物に気づいて避難したか。
……広域警察には、オト様の面会に訪れましたのでしょう。
それは直感であったが、混乱する人人の声がララナの危機感を煽る。
総の行動理由は定かでないが深夜の一件もある。ララナは総の個体魔力を捉えつつ、まずは魔物の対処をすることにした。右手で周囲の魔力を集めて小さな魔法弾を形成、時速一五〇キロほどで魔物の脚の付け根に飛ばした。それが当たるのを確認する前に次の魔法弾を形成、同速で飛翔させた。
一つ目の魔法弾が当たって弾け、根本から捥げた脚が薄黄色の光の粒子を放って消えた。渦から続けて飛び出した別の脚を二つ目の魔法弾が押し返した隙に渦を塞ぐ魔法を施して、広域警察本部署方面へとララナは向かう。
空間転移の渦はララナの魔法で徐徐に縮小している。あれを作り出した魔術師が近くにいたとしても、魔物を呼び込むことはできない。刑事が集まりつつある状況でさらなる召喚魔法を使えば居場所を把握される危険性が高まるからだ。
……総さん、どちらに向かっていますか。
空間転移の渦を対処していたあいだに、総が先程より四〇〇メートルほど南に。視界に捉えられないが尾行する分には距離が離れていたほうが見つかりにくくていい。
ララナは総の個体魔力を追う傍ら、遽しく外へ出ていく刑事を躱して広域警察本部署に入りオトを捜した。面会した一室にはいなかった。玄関ホールに引き返すと、先程オトを連れてきた看守がなぜか署の外からやってきたので、刑事が入り乱れた乱雑な場に乗じて捕まえオトとの面会を申し入れた。
すると、留置場から戻った看守が思わぬことをララナに伝える。
「申し訳ありませんが、急ぎの用ができたので今日はお帰りください!」
言うやララナの脇を抜けていく看守。
……只事ではございません。
魔物の対応は別の刑事が当たっており、看守が急ぐことはないはず。
広域警察本部署長こと天白和の執務室に駆け込む看守の個体魔力を感じ取った。ララナは執務室前に空間転移、開け放たれた扉から漏れる声に耳を傾けた。
「──大変です!」
「駅の魔物だろう」
「いや、それはそれで大変なんですけども、違うんです!留置場が!」
「何があった」
天白和が立ち上がる気配。
看守が焦燥感のままに発するのは、
「竹神オトの姿が消えました!」
「何……!」
……オト様が──、まさか。
ララナは直感した。……総さんが連れ出したのでは。
天白和がどう動くかで、オトの処遇がまた変化してしまうかも知れない。
……それをオト様は見越していらっしゃったでしょう。
暇潰しを再開するため、総に連れ出されることをよしとしたというのか。今度こそ広域警察に正当な逮捕をさせるため逃亡した、と。
……──。
彼の愉しみはもとは不当逮捕へ誘導した不合理なものだった。が、それが正当だったとしてララナは黙って見ていただろうか。少なくとも、不当を正当に掏り替えて愉しむ彼の姿をララナは見ていたくはない。オトがそのようなことを続けていては、未来改変以前にきっと碌でもないことになる。
……過去や未来を重視する……私はやはり斯様な考え方しか……。
逃避だから、それは間違っているのか。
いや、そうではない。逃避ではあるが、間違っているのではない。
……全て、繋がっています。それはやはり、切り離して考えられないものなのです。
過去も未来もついて回る。逃避しないためには、どこに主眼を置くかが重要ではないか。
……過去も未来も大切です。でも、その前に、現在を見つめるためには……。
拒絶されたが、オトを追わねばならない。
……いいえ──。
ララナはオトを追いたい。
……急ぎましょう。
〔──。
変わり果てていた。
本当にあれが、自分達の知る幼馴染なのか。
いつかまた同じ道を歩むことなど想像もできない。拒絶された今となっては、本気で求めたとしても叶うまい。
過ぎ去った恐怖に震えたのではない。ならば、あれはなんだったか──。〕
大通りを抜けて人気の少ない道に入ったところで、竹神音が口を開いた。
「いい加減なんか話せ。何も俺を助けたいわけやないんやろ」
魔法を封ずる魔導手錠が竹神音に掛かっていることを知る堤端総だが、竹神音に武術の心得があると知っているので彼の後ろから動きを見張っている。
歩きながらの会話が始まった。
「君と話すことはさして多くないよ。思い出話をしたくなるような、そんな場所に、行こう」
「何も憶えとらん癖に」
「こちらの台詞だ。君は、ぼくらにあまりに冷酷だった。八年前から今までずっとね」
「浅い話なんぞする気はない」
「浅いものか。ぼくらに取って八年前の君の豹変がどれだけショックだったと思ってる」
「さあね」
堤端総は思わず拳を握っていた。
「淳はいったよ、『いつかもとに戻るさ』って。桜もいったよ、『何かつらいことがあったんじゃないかな』って。でも、違うだろう。君はただ、悪に目覚めただけだ」
「そうやとしてなんやの」
「ヒイロはいったよ、『もとに戻せないかな』って。葵もいったよ、『みんなで手を練ってみよう』って。そうしてぼくらは君と話をすることにしたんだ」
堤端総は聖羅欄納に友人と住所を教えたが、ただ一点、豹変した言葉真音と話をしに行ったことを語らないよう友人に口止めしていた。聖羅欄納はだからそれを知らない。堤端総達と話してから言葉真音が姿を見せなくなったことも。
「……、君はぼくらに心を開いてくれなかった。ずっと一緒に遊んできた、一緒に笑い合ってきた、仲間だったのに」
「仲間。違うね」
「──上っ面だったんだろう」
「ああ──」
その肯定に、堤端総は、尚一層、拳を固めた。
「可憐はいったよ、『どうしてこんなことになっちゃったんだろう』って。太一はいったよ、『時間が解決してくれる』って。ぼくは未だ可憐の問に答えられない。太一の言葉を現実に見ていない」
「お前さんらの越度やないよ。気に病むな」
「それをみんなに伝えてくれよッ……!」
堤端総は竹神音の背中を睨むようにして、「君が心を開いてくれなかったあの日、リュートはなんていったと思う。自分のことも満足にできなくて、他人のことなんか考えられなかったリュートがいったんだぞ、『オトさんにしてあげられること、何もないんですね』って──。それを聞いて、ぼくらがどれだけ絶望したと思ってるんだよ!」
「『過ぎ去った恐怖に震えたのではない。』答は出たか」
「っ──」
「その絶望はお前さんのもんやよ」
その言葉に、堤端総は反論の余地を奪われた。
「それに、リュートは淳と仲良くやっとるんやろ」
みんなから聞取りを行った聖羅欄納が竹神音に伝えたのだろう。
「リュートが毎日泣いてたのを知ってもそう言えるのか。淳が君に悪いからってリュートを慰めるのにも気を遣ってたことを知ってもか!」
「どうなるか想像できる。関わる気はないな」
どうして。
「どうしてそんなに淡淡と話すことができるんだ……。ぼくらはこんなに苦しんできたのに、君に苦しめられてきたのに、……君は、全く心に懸けてなかったんだな」
「悪いことは忘れればいい。それで幸せになれる、賢しき人間性やよ」
「それで忘れたっていうのか、君は。ぼくらにしたことを忘れたって。それで何をした。鈴音さんに、何をした!」
閑静な住宅街に、堤端総の声が木霊した。
竹神音がなおも淡淡と。
「知っとるやろ。鈴音はこの手で殺した。逮捕されんのが未だ理解できんよ」
「その点は同感だ……、君の策略だろうけどね」
「勝手な決めつけを。やからお前さんは二位止りやったんよ。想像力の欠如と状況の読み違え、経験不足を棚に上げたおぼっちゃま気質の能無しめ」
「っ……」
歯に衣を着せぬ物言いは八年前と同じだ。固めた拳を、いつぶつけてやろう。堤端総は我慢していた。
「ときに早苗はどうした」
と、竹神音が言った。
「……君には関係のない話だ」
「婿養子になるんやったっけ。早苗のほうが家格が上なんやから仕方ないが、ちゃんと支えたれよ」
「君には関係ないだろう!」
「今日はよく吠えるな」
「っ!」
竹神音の背中に、堤端総は渾身の拳をぶつけた。
竹神音は転倒せず容易く踏みとどまり、何事もなかったかのように歩き出す。
「男はみんなそんなやな、都合が悪くなるとすぐ暴力だ。阿呆どもめ──」
「君もその男だろう」
「暴力にもさまざまあるが、俺が振るうは物理的じゃない分、精神的に応えたもんが多かったみたいやね」
「八年経っても消えない傷になっているさ。君には、欠片も傷がないようだけど」
「精一杯の皮肉も浅いな。お前さんでは俺に傷を作ることなんかできんわ」
「そう言っていられるのも今のうちだ。ぼくの憎悪が、みんなの悲嘆が、いかほどかすぐに思い知ることになる。いくら君でも、魔導手錠で魔法を封ぜられた状態でぼくの最大火力の魔法を受けて手傷一つ負わないはずがないからね」
「勘弁しとくれ、顔やら腹やら殴られたばっかで結構痛んどるんやぞ」
「因果応報だろう」
「それもそうやね。早くやれば」
そんなことは承服するのか。竹神音の思考回路がやはりどこかずれている。以後、堤端総は言葉も出ず、攻撃もできなかった。それでも目的の場所に向かったのは、豹変する前の優しかった言葉真音に戻ってくれるのではないかという期待と願いがあった。
四〇分ほど歩いてようやく目的地に到着した。見るまでもなく竹神音はそこに向かっていることを察していたようで、途中、
「九年ぶりやな」
と、呟いていた。
そう、九年ぶり。
脇を流れる二つの川が一つの川となって流れていくさまを見下ろすように建っているそれは〈木下城〉。瓦を葺いた和式の城だ。四階建てのそれは過去に武将が三日、二日か一日で作ったという逸話を遺しているものの過去とは別の姿となっているとされる。建造主も城主も定かでないが現在は地元の歴史資料館として運営されている。
堤端総や竹神音が城を訪れたのは九歳のとき、歴史の授業であった。
「園外授業。みんなで来たことは憶えてるかい」
「俺が記憶力悪いの知っとるやろ」
「君に勝てたのは算数と記憶力だけだった。……本当に憶えてないのか」
「さすがにあれは憶えとる。大変やったもんな」
初めてまともな会話になった気がして、堤端総は城を望む橋から川を見下ろした。
目的地は、正確には城ではない。武家社会の名残か、勾欄に瓦を葺いたこの橋だ。初めて訪れた当時小さかった堤端総達は、橋の勾欄に体ごと乗っかるようにして数十メートル下の川を見下ろした。そうして、身を乗り出しすぎた結崎桜が勾欄から転落した。
「君はあのとき桜を助けた。ぼくらには使えないような繊細な風魔法で桜を舞い上げて、橋の上に戻したんだ。あれも、上っ面の仲間意識だったっていうのか」
「サクラジュの下には死体が埋まっとるなんて迷信があったやろ。で、桜が死んだら化けて出そうって思ってね」
「ちゃかすな。……正直に答えてくれ」
自分と同じように川を見下ろしている隣の竹神音を、堤端総は窺う。
「君は桜を助けたあと、いったんだ。『この川のように存ろう』って。みんな、意味がよく解らないっていって君の言葉の真意を尋ねた」
「ばらばらになってもいつか一つに戻れる」
その言葉を、堤端総は、九年前に、ここで、聞いたのだ。
……憶えてるんじゃないか。なら、なんで──。
堤端総は、涙腺が緩んだ。「なんで君は変わってしまった。あるいは桜がいったようにつらいことがあったのか。ぼくらが知らなかっただけで、あの日、いわなかっただけで、もしか、ぼくらにはいえないようなつらいことが、……あったのか」
それに気づいてあげられなかったから堤端総達は言葉真音に心を開いてもらえなかったのではないか。それに気づかないで排除しようとした堤端総には心を開かなかったのではないか。堤端総はそんなふうに自分を責めたが、
「なんもないよ」
と、竹神音がひょいと跳んで勾欄に腰を下ろした。「それと、お前さんらは俺があのあといおうとした落ちを遮った」
「落ち……」
「前略、『いつか一つに戻れる。が、いつかまたばらばらになっていくのが川であり海である水の原則』」
「……そんな、冷たいことをいおうとしてたのか」
「魔法学的解釈だ」
「……ひどく、ひどく冷たいさ」
「当時はそれなりに笑える落ちとして考えとったけど、いやはや、真理やな。人間の五割から七割は水ゆえか」
「ぼくは、やはり間違ってたんだな」
堤端総は魔力を集めて魔法刃へと転ずると、竹神音の魔導手錠を一振りで切り落とした。
「お見事」
「君には及ばないだろう。だが、これで君は脱走犯だ」
「お膳立て有難く頂戴する」
「なんならぼくを殺してみるかい」
「深度の浅いお前さんに用はない」
と、竹神音が言って木下城を見やる。その瞳は暗い。
「……君は、悪だ。逮捕され、裁かれ、日の下から消え失せるべき存在だ」
「結構。淫虐の闇のほうがよほど目に馴染む」
「救いようのない変質者め」
「そんな応を寄越すお前さんに残す未練はないな」
「こちらの台詞だ」
堤端総は魔法刃を消して、携帯端末を手に取り、予め用意していたメールを母に送信した。
「警察の手配をした。君は逮捕される」
「いい暇潰しになった。お前さんにしてはよくやったと褒めてやろう」
……母さんのようなことをいう。
堤端総は危ない橋を渡って訴えたが、彼は、戻らなかった。変わらなかった。変わる余地があるなら暴力に訴えてでも変えてやろうと思ったが、そこまでのことをする意味も、価値も、彼にはもうない。
竹神音の言葉ではないが、もう未練はない。木下城を観る竹神音を置いて、堤端総は立ち去ろうとした。
そこにララナは立ちはだかった。
「あなたが、なぜ、ここに……」
予想だにしていなかったのだろう。目を見開いて総が驚いた。
ララナは手にしていた魔導カメラの録画を停止して、隣空間にしまった。
「今のカメラ、もしかしてぼくらを撮ってたんですか」
「許可のない撮影は肖像権侵害、盗撮に当たりますので私も犯罪者です。が、」
ララナは制する。「総さんがオト様を連れ出し、形はどうであれオト様の逃走を手助けしたような、またはオト様が自ら逃走したように偽装したことは、十分に伝わることでしょう」
「また余計なことを」
と、下りたばかりの勾欄にオトがうっかかった。「逃走犯でも構わんかったんやけど」
「生憎ですが私はもう止まりません。オト様が牽制なさってもオト様に降りかかる不当の嵐を私は一切看過致しません」
オトがおかしな暇潰しを愉しむことがなくなるまで、至極まっとうな扱いの中で得るものを愉しいと感ずるまで、ララナはオトを助けることを決意したのである。
オトが呆れたように、それに反して感心したように口を開く。
「……一時間程度で随分と強くなったもんだ」
「ご示教くださりありがとうございます」
「いや、そんなつもりは露となかった」
だとしても、オトの拒絶は過去の未来を引き摺ったララナの考え方を大いに改めさせた。
「(無駄に広く多くのものを抱えて観てしまう)私にはよい勉強になりました。総さん」
「……ぼくを、広警に引き渡しますか」
「それは総さんにお任せします。ただ、その前にオト様お立ち会いの許、私の解釈を一つ述べたいのです」
「お前さんの解釈。なんのか知らんがいってみ」
オトの催促に応じて、ララナは言った。
「ばらばらになっても一つに。一つになってもばらばらに。水は、循環するが原則。なれば」
「──また、一つになることも」
と、総が呟くように。
「なるほど、それもまた魔法学に準じとる。うまいことをいったもんやな」
と、オトが褒めるように言うも束の間、「安心しろ、その中にいわれとる〈水〉に最初から俺は含まれとらん」
「……どういう意味だ」
総の問に、オトがいつものポーカーフェイスで答えた。
「俺は人間上りの化物崩れ。お前さんらとは相容れん汚物のような存在だ」
凄まじいまでの拒絶感は、オトの自覚と他者の認識のずれを正すかのようだった。
「……どうあっても、心を開かない。そういうことか」
「薄薄感じとるんやないの。そもそも俺に心なんかないんよ。お前さんらと相容れんというのは、そういう意味だ」
「……、……解った」
総がうなづかず、ララナに顔を向けた。「ぼくは、出頭します」
「魔物は総さんの手配ですね」
「はい。母の部下に手伝ってもらいました。全ては彼と話をするため、……いいえ、彼を陥れるためです」
「取調べに同様の供述を期待します」
「必ずそうします。泥のような罪を浄化して、真水に戻れるように、人間らしく頑張ろうと思いますから」
拒絶や別れによって、新たな道が拓けることもある。
「泥水も濾過すれば真水になる。素晴らしい考えです。陰ながら応援します」
「……、はい」
橋の片隅に腰を下ろして自らが手配させた警察官を待つ総。それを遠目に、オトがララナの横で口を開いた。
「うまく尾行してきたもんやね。魔導カメラまで持って」
「オト様を暴行した刑事の像を撮影し、データを広域警察本部署長に提出してそのまま持っていたものです。ちなみに尾行は昔取った杵柄です」
「変な杵柄」
「私も此度に役立つとは。生きるか死ぬかの情報戦のために身につけた技能です」
「生命力が溢れとっていいんやない」
オトがそう言ったところで、ララナの携帯端末がクラシック音楽を鳴らした。
「着信か」
「メールですね」
瑠琉乃からである。
「オト様に関わりがございますので読み上げましょう。
〔言葉真本家本邸と警備大臣の本邸に正式
に世界魔術師団の捜査員が入りました。
癒着の物証らしき書類を押収。先達て解
読された誓約書から解析した自然魔力環
境と合致する環境を言葉真本家本邸にて
発見。これにより、押収された書類も癒
着のある関係者との誓約書の類と推察さ
れる。
上述の推察から、世界魔術師団は竹神オ
トさんへの取調べを所望しています。〕
だそうです。癒着の件はこれで片がつきそうですね。オト様はいかがなさりますか。オト様が証言を断られるのでしたら──」
「暇潰しに証言するよ。窃盗罪で起訴されて因果成立やしな」
「それはどうでしょう。取調べを所望しているのは広域警察ではなくレフュラル政府所管の世界魔術師団です。五大旧家の一角とダゼダダ政府重鎮との癒着を暴く突破口を作った功績を挙げて恩赦を与えてしかるべき、と、談じ込むのではないでしょうか。そうしてオト様とのパイプを作ることも見越すでしょう」
「パイプ云云はお前さん特有の贔屓目やと思うけどね、そうやとしたら正義というのはご都合主義やな。国が違うだけで定義が変わる。おまけに自分達の利益になるなら基の悪事も是とするんやから」
「正義の定義は思想に拠るので国ごとに異なることは確かです。しかし、」
ララナは勾欄に手を添え川を見下ろす。「厳密には個人単位でも異なりますから柔軟に対応すべきときもあるのではないでしょうか。オト様が結崎さんをお助けになったように」
「化けて出られると困るからっていったやん」
「私がお会いした結崎さんはさばさばした方でした。化けては出ないでしょう」
「死に際だ。何を思うかはそのときの本人やないと判らんことやし、ほとんどの人間は誰かに何かを念うもんやないかね」
「一理ございます。現実にはオト様が結崎さんをお助けになって彼女は無事、化けることがございませんでしたね」
オトがララナの横で、同じように川を見下ろす。二つの清流は、大きな川となり、海へと流れ、水蒸気、雲、雨と変わって山に降り注ぐと再び沢となりこの川に辿りつく。そのサイクルがいったい何日なのかは計算こそできるかも知れないが、ララナは計算しない。オトもしないだろう。
「オト様は周りに合わせて生きていたと仰りました。それに疲れてしまったのだとも。ですがそれも一つの柔軟性だと存じます。疲れてしまうことも含めて、柔軟性です」
「窃盗罪で捕まるのはなしって言いたいわけか」
「左様に考えております」
「そうか」
オトが勾欄に手をつき、「たぶんこれが初めてになるか。付けで悪いが、一つ質問するぞ」
「オト様から私にご質問を。無償にてお伺いします」
「ふうん。じゃ、遠慮なく」
「なんでしょうか」
本人も言ったが取引もなくオトが質問するのは初めてのこと。ララナは緊張に胸が打った。
「俺は確かに桜を助けた。俺は確かに鈴音を殺した。その二つは釣合が取れる行動とは思えんが、天の采配か俺は捕まらんかった。なぜだ。決定的物証だとかくだらんこといわずに俺の言葉を素直に受け入れれば広域警察や検察は俺を逮捕・起訴できたのに。なぜ、それをしない」
自白に頼った取調べをしないのは警察・検察として当然だろうが、難しい問だった。何せララナ個人が答えられるレベルの問題ではなく国の体制や規則に踏み込んだ問題だ。しかもオトは組織や社会の性格を知らないわけではないだろう。当り前の回答では意味を成さない。
ララナは問に答えなければならない。いや、彼を追うことと同じだ。ララナは彼に、応えたい。
「私は、刑事でも検事でもないので正確性を欠くとは存じますが、一個人として申し上げられることがございます」
「ん。言って」
「……各人が、オト様を疑ったからではないでしょうか」
オトは真実を淡淡と語る。それは他者とのコミュニケーションを取ってこなかったことも大きいだろうが、そも他者に合わせることをやめたオトは他者が自分に合わせるように促すような感情表現をすることに一定の抵抗や自制を持っているのではないか。ここ数日毎日会っているララナに対してもそうだったから、そのスタンスは誰に対しても変わらなかっただろう。開き直りに取れる言動を目にすると嘘に映ることがある。だから、ララナは解る。
「刑事も、検事も、状況や物証を集めた書類や現場を認めて、面する前にはオト様の犯行を疑わない。しかしオト様と面して、オト様の言葉を直接耳にすると、そこにあるはずの体験者としての実感が欠如しているように感ずるのです。それは、犯罪者なら隠しても隠せない雰囲気というものです。が、オト様はその雰囲気を消しておられます。法に携わる者にあってはならないことですが、判断を決定づけたものは、心象だったのではないでしょうか」
「お前さんにはそう観えるってことか」
「はい。検察での取調べは、魔法監視官によって万一の魔法使用を監視・警戒・記録される状況で行われています。失礼ながら、オト様には検察官を引き込むための賄賂を送る財産がござりませんよね」
「なかったわけじゃないが、お母さんの離婚前に借金で消えたからな」
瑠琉乃の調べによれば、オトの父親の借金である。また、オトの所有する銀行口座の記録には、取調べ前後で目立った動きがなかったと報告を受けている。
「──。従って、検察官の調書をねじ曲げる要素が、心象以外には考えられません」
「ふむ……」
「そうでなければ、鈴音さんを刺したナイフを提出してなんの罪にも問われず、起訴されもしなかったとは考えにくいのです。オト様を調べる側の全てのひとが、オト様は『やっていないという疑惑』を共有・増幅して、やがては不起訴処分へと運んでしまったのではないでしょうか」
そうして、黒だとする疑惑と白かも知れないという疑惑が綯い交ぜとなって中途半端に蟠ってしまっている。二つの相反する疑惑が存在することで、ある者はオトを暴行するほどに黒だと信じ、ある者は白かも知れないと疑って極度に慎重になってしまった。図らずも、オトは自身の持つ非一般性によって信用を欠き、素直に自供したにも拘らずその言葉を疑われてしまったのである。
「ほな、もう一つ訊こう。とりあえずこれが最後だ」
警察車両のサイレンが遠くから聞こえる。
ララナはオトにうなづき返し、
「なんですか」
「俺は噓ばかり言って惑わせたはずだが、お前さんはなぜ俺の言葉を、鈴音殺害の真実を信ぜられた」
その問は、ララナに取っては易しい問題だった。
「私は、仮にオト様が嘘を仰っても、それを信じます。信じていただけるように、まずは信じようと決めたのです」
「それだけか」
「はい。……、おかしいですか」
「……いや、考えさせられたわ」
オトが勾欄にうっかかった。「他人の思考は心の中だけで動いとるもんやないってことは昔から解っとったつもりなんやけど、それでも、お前さんみたいに馬鹿みたいに心のままの奴もおらんかったからな。これがお前さんのいうところの、俺に対した捜査陣の心象ってヤツなんやろうな」
オトが両手首をララナに差し出した。
「オト様、なんですか」
「お前さんのことやから、周到に魔導手錠でも用意しとらんかと思ってね」
「一般人も現行犯の逮捕は許されておりますから、現行犯逮捕用のものがございます」
ララナは魔導手錠を隣空間から取り出した。「お掛けになりますか」
「これでもお前さんに恩を感じとるからな。変な疑惑が掛からんように一つ手を打とう」
「あの、オト様の言葉を信ずるといって早早なんなのですが、」
ララナは一つ疑う。「オト様は隠していらっしゃりますね」
「ん。何をだ」
「魔導手錠を掛けるのは、総さんの容疑を一つ減らすためではございませんか。総さんがオト様を連れ出して魔導手錠を切り裂いたことをなかったことにされたいのでしょう」
オトの足許から壊れた魔導手錠を拾ってララナは指摘した。
オトが無表情のまま。
「なんでそう思ったん」
「総さんに何かの負い目がなければ、広域警察本部署から出ることはなかったでしょう。メンドーですから」
「なかなか俺のこと解っとるやん。なら、魔導カメラのデータ、消しといてくれるよね」
「総さんを守りたいのですね」
総は自白する。オトの些細な動きによって、総への情状酌量を決定づける心象が生ずることもオトは解っているだろう。
「総は総で苦しんだやろう。ま、謝る気はないから罪滅しするつもりもないが、お前さんの言葉を借りるなら、俺に負い目がないわけでもない。それに、総に降りかかったことが不当やとは思うんよ」
ララナが広域警察本部署を再訪したとき、看守が外からやってきた。あの看守以外の看守も恐らく魔物召喚の騒ぎで外に出ていた。看守が一人でも見張っていたなら、総がオトを連れ出すことは不可能。事が総の思惑通りになったのは看守の手落ちにほかならず、それは普通なら起こり得ないようなミスだ。「降りかかったことが不当」。万一を許されない警察組織のミスによる偶然の出来事、それが今回の一件だったのである。
「納得致しました」
ララナは、魔導カメラを隣空間から取り出し、オトの前でデータを消した。そうすることで総が心から悔い改めることができる、とも、ララナは考えた。
「あっさり消したな」
「申し上げました。私は──」
「俺を信じるね。アホか」
オトが再び両手首を差し出した。「手錠頼む」
「──私は、オト様を必ずお助け致します」
ララナは言って、オトの両手首に手錠を掛けた。
「半ばストーカやな。尾行力は疑えんし」
「訴えますか」
「いや。その非一般性を買ってみることにした」
これまでのようにオトは表情を変えていないが、何かが違うように観えるのは思い做しか。
「私を信用してくださるのですか」
「さあね」
オトの応答を掻き消すように、赤色灯を回した警察車両が橋の取付路に停車。下車した刑事がオトのもとに駆け寄った。
「竹神音だな。留置場から脱走した件で話がある」
「ああ、連行よろしゅうに」
オトと刑事の横にやってきた総が、早くも自白を始めた。
「ぼくが彼を脱走させた張本人です。彼は自らの意志でここへ来たのではなく、ぼくが無理を通して来させたんです。その辺り、お間違えなきよう」
刑事が目配せしたのは、通報内容と状況が違っている。オトが事の成行きをすらすらと説明して、手錠を壊したことに言及する隙を総に与えなかった。壊れた手錠はララナがオトの指示で彼のポケットに忍ばせたので壊したことは署に連行されたあとばれるだろうが。
「要するに、この少年が竹神音の脱走を手助けした、と、いうことでいいのかね」
と、年輩刑事がララナに訊いた。
「左様です」
と、ララナはオトの話に合わせる。それがオトの望んだ筋書であるし、オトと総が不当に責められることを回避できると考えてもいた。
「君は何者かね」
と、年輩刑事がララナの素性を疑うので、ララナは迷わず答えた。
「聖羅欄納と申します。ボランティアです」
──七章 終──