三章 想定外の想定
八年前のことを知る教諭陣からオトや鈴音に関する話を聞いてララナがアパートに戻ったのは日が沈んだあとだった。
報告したいことや聞きたいことがあったがララナは焦らず翌朝を待ち、オトの分も朝ご飯を作って隣室一〇二号室を訪ねた。
呼鈴を押すと、閉じたままの扉からオトが声を寄越した。
「なん」
「朝ご飯をお届けに上がりました」
「それ、不審すぎるって言わんかった」
「『おはぎ』ですがいかがでしょう」
と、ララナはドアスコープから見えるように平皿を掲げた。炊いて搗いた糯米に粒餡を纏わせた手作りである。
オトがおはぎを窺ったか、
「むやみに砂糖をぶち込んで小豆を殺したおはぎなんぞ要らんぞ」
「ご安心ください。最小限の砂糖と塩で素材の風味を活かしたさっぱりとした味わいです」
「……」
二日ぶりに扉が開いて、オトが顔を出した。
「ちょっとは見所があるな」
「甘味については私、少少煩いのです。ゆえにそれなりの水準であると自負も致します」
「ふうん……」
と、鼻を鳴らすオトの顔色は前にも増して悪い。
……何日も飲まず食わずの戦災者のような顔です。
伊達にボランティアで飛び回ってはいない。ララナは相手の顔を観れば少しは栄養状態が判る。オトの顔色が悪いのは栄養失調と窺える。心の面にも問題があるようなのは思い做しとするがそちらにも心を配るなら甘味がよい。洋菓子は脂質に偏るので、食物繊維が豊富な小豆を用いた和菓子に決めた。
ララナは平皿をそっと差し出した。
「例の如く余り物ですので、遠慮なくお受け取りください」
「……そうか」
と、オトが肯定的な応答をするも、「別のヤツにでも配れ。俺は要らん」
と、掌を返したように扉を閉めようとしたので、ララナは透かさず扉に顔を突っ込む。容赦なく閉められた扉に顔を挟まれた。
「ん゛っ!」
「おまっ、アホか……。何がしたいん」
わずか緩まる扉。ララナは顔を引っ込めず、
「召し上がりませんか」
と、窺う。「お話したい事もございます」
「おはぎを餌にか」
「駄話の些細な彩りとして扱ってくださればと存じます」
「駄話ね……。ふぅ……」
オトが額を手で押さえて、「顔、痛くなかったか」
と、尻餅以来初めてララナを気遣った。
ララナはちまっとうなづいた。
「はい、少しひりひりしますが、問題ございません」
「……素直にいえばいいんよ」
と、いう言葉が、彼の先の行動の理由をララナに察せさせた。
……余り物だなんて、私は、嘘をついておりました。
オトが気兼ねなく受け取れるようにと配慮したつもりだったが、ララナの心を読めるオトにしてみれば嘘を見破ることなど簡単なこと。それを判っているはずのララナがわざわざ売り口上を用意しておはぎを渡そうとしたことが気に食わなかったに違いない。先日の麻婆豆腐にしても同じことだったのだ。
ララナは自分の行いを反省して、思いきって本意を伝えることにした。
「おはぎを、オト様のために作りました。ご迷惑かも知れませんが、明らかに顔色が優れませんのでとかく何かを召し上っていただこうと考えた次第です。甘いものがお好きだとは麻婆豆腐の件でも裏づけが取れておりましたが、私が得意とするケーキ類は脂肪も糖も炭水化物も多く血糖値の急上昇を招いて芳しくございませんし食物繊維も不足しますので除外。ダゼダダで主食とされる米の中でも腹持のよい糯米を採用し、食物繊維も豊富な小豆を使いましたのでレシピは自然とおはぎに絞られました。よく嚙んで召し上がれば過剰な摂取を控えられます。いかがでしょうか」
「いやに売り文句っぽいのは気のせいか」
「お金は不要ですよ。私が勝手に作ったものです」
「只より恐いものはないんだが」
オトは前にもそんなことを言っていた。
「では、交換条件を。私の話をお耳に入れていただくことが代金ということでいかがですか」
「交渉上手やな。馬鹿よりいい」
オトが扉を開いて、「一人暮しの男の部屋に入るのは躊躇われるだろうが、入るか」
「上がってよろしいのですか」
「悦びの気配がするのは気のせいか」
「気のせいではなく悦んでおります」
「ポーカーフェイスやな」
「オト様もです」
「いや、俺は素なんだが、それはまあいい」
オトが奥に入っていくので、ララナは、
「失礼致します」
と、扉を静かに閉め、「施錠はされますか」
「するな。俺は手が早いからな、密室は危険と心得ろ」
遠回しに、出て行け、と、いうニュアンスを感ずる。
ララナは施錠した。
オトが振り返り、
「阿呆か」
「私としては懸念される妙な横槍を回避する所存です」
「来客なんかないから安心して解錠していいぞ」
「私が参りました」
「異例だ」
「油断していると訪れるのが来客というものです」
「お菓子のないときに来るとか」
「はい」
「だからおはぎなん」
「そこまでは考えておりませんでしたが、そうですね、お菓子がなければ私もおはぎを頂戴してお話したいと存じます」
「それはお前さんのやから謙譲語を使う必要はないと思うが」
「おはぎはオト様にお渡しすることが決まりましたので、私の所有物ではございません」
「……変わっとんな、お前さん」
「頭が固いだけです」
「そうか」
奥へと進むオトの背中を追うようにして、ララナも奥へ。間取りはララナの部屋と同じであるが、一人暮しというオトの言葉を裏づけるようにここは男性然として、散らかってはいないが殺風景であった。そんな室内で印象的なのは南向きの窓を塞いだカーテンと、そのカーテンの開放を拒むように置かれた本棚。日当りがいいはずの室内にひっそりと沈んでいるのは、整列した多くの漢字辞典や国語辞典、高さの揃ったノート。
「言葉の勉強をしていらっしゃるのですね」
「ん、ああ、辞書のことか。昔買ってたまに開いとるだけやけどな。基本的な語感を学べて面白いと思うぞ」
オトがそんなことをしているとは、ララナは知らなかった。
「オト様はフリーライタですか」
「平日の朝から髭伸ばしとるヤツにまともな仕事が回ってくると思うか。無職だ」
「そうなのですか。学園での聞取りによれば魔法の才も優れていらっしゃるとのこと。魔術師の仕事は適性が高いのではござりませんか」
「お前さんは職業案内所の職員かなんかか。俺に人助けは向かん。メンドーだ」
「なるほど」
「そこは普通、フォロを入れるところやないん」
「オト様は面倒なことはなさらないのではござりませんでしたか」
「まあ、そうなんやけど。そう簡単に納得されると拍子抜けする部分もある」
オトを再教育しようとした教育者は、オトの言葉を「でも」だの「だが」だのと言ってことごとく否定したのかも知れない。
オトの人格や気質を否定するほどララナは彼のことを理解できていない。考えなしに否定はできない。まずは彼を知る。そこから始めなければならないとララナは考えている。
「ところでおはぎを召し上がりませんか」
「ああ、もらう」
あっさりおはぎを手にしたオトが右目を眇めた。「この手触り……。お前さん、思った以上にできるな」
「おいしいですよ」
「判っとる。この、吸いつくような絶妙な水分量の小豆、口に含めば──」
一口齧り、咀嚼して、口を空にしたオトが小さくうなづく。「糯米の水分量もしっかり計算されとるな。小豆とともにべたっとせず、さらっとしながらにして素材が香味を失っとらん」
「ゆえあって感覚に頼っている部分も多多ございますが、今日はやや湿度が高かったので小豆も糯米も少し水分を飛ばすようにしております」
「ふむ……。糖も塩も加減が完璧。老舗のおはぎもここまで俺の舌には合っとらな」
「申し上げました通り、オト様に作って参りましたので、想像力で補完してお好みの食感や味を目指しました」
「……ふむ」
テーブルセットに掛けることもなくオトが一つ目のおはぎを食べ終えて、「これ、俺が全部もらってもいいん」
「召し上がるのでしたらいくつでも。ただし、しっかり咀嚼してください。先程は少なかったですよ」
「そこは否定すんのか。頭が固いんやな」
「はい。それも申し上げた通りです」
「……そうか」
絶賛したおはぎをオトが次次口にしていった。
ララナはオトがおはぎを完食するまで平皿を持って待機するのみで、聞取りの結果を報告したり、それを基に質問したりしなかった。オトの過去の出来事が気にならないはずはなく質問はしたかったが、オトと初めてまともに顔を合わせて時間を共有できるこの状況に──。
「ご馳走さん」
と、オトが両手を合わせると、
「お粗末さまです」
と、ララナは応じて、「今日はもう充分に満たされた心地です」と、本音を漏らした。
オトがテーブル席に掛けて、
「ん。なんのこと」
「昨日の聞取り結果を報告し、質問する予定がございました」
「する気が削がれたか」
「オト様の顔色が少しよくなられました。それだけで、今日はいいような気が致します」
「ふうん。でも、それはやめとくれ」
と、オトがテーブルに頰杖をついてララナを見やる。「どうせメンドーな話を聞く破目になるんやから早いほうがいい。後回しにせず、今日じゅうに済ませてくれへん」
「今のお言葉を質問にお応えくださるご承諾と受け取らせていただきますがよろしいですか」
「構わん。お前さんの提案に則って商品を食った。代金を払わんのでは食い逃げだ」
「オト様……。ありがとうございます」
お辞儀したララナに、オトが念を押す。
「勘違いするな。今回のおはぎには価値があっただけのことやから。甘いもんで何回でも釣れるとは思わんといて」
「心得ます」
ララナは自惚れることなく、次は次で全力の準備をするつもりだ。
ともあれ、オトとの対話の準備が整った。
オトに勧められて彼の正面の席に座ると、ララナは天白達との話を要約して伝えた。その次に、オトに質問する。
「鈴音さんとは五学年のときに初めて出逢ったのですか」
「女らしい質問やね。そうでなければ刑事か。女の影が気になるん」
「それもございます。オト様が鈴音さんの殺害容疑を掛けられたと聞き、その事実があったか裏づけを取ると同時に動機を探っております」
「疑っとることを隠さんのやね」
「ご存じですよね」
「まあね」
疑われていることになんの不都合もないのか、オトは泰然としている。その様子を観ると無実に思えたが疑惑は黒に程近い。ララナは質問を続けることにした。
「グラウンド隅のアスレチックで天白さんが目撃した様子、オト様が鈴音さんとお話をしていた、と、いうのは事実ですか」
「さっきも相槌を打ったが、改めて答えよう。事実やよ。って、いっても、一回きりやけど」
「一回きりの出来事を天白さんは捉えていたのですね。オト様と鈴音さんが再会されたのは、一四歳の頃、この緑茶荘ですか」
「そ。完全な偶然。姓が変わる前に会っとる人間に引っ越した先で会うとは思わんかったから自然と話をするようになった。お前さんも知る通り俺は学園でやらかして行きづらかったし、そうでなくてもメンドーやったから、五学年のときに鈴音と話して間もなく家に籠もった。鈴音も病弱で、俺と話してからずっと不登園になっとった。早い話、お互い暇やったんよ」
家に籠もったという期間を除くと、オトが鈴音と関係を深めたであろう期間はやはり、鈴音が亡くなるまでの約三年間ということになる。
「お二人は仲睦まじそうだったと日向像さんから聞きました。約一年前、三年間続いた関係は良好だったということでしょう。なぜ殺害容疑を」
「俺が自白したからだが」
あっさりと、オトが言った。
「聞き及んでおります。が、それは真相と異なるのでは」
「それは心象やな。お前さんは俺に対する疑いの余地を残しながら、俺が正当な行為をしてきたかのように観るきらいがある」
「……仰る通りです。省みます」
好意がそうさせてしまう。ララナは理性と論理で客観視を保ってきたつもりだが、オト本人に指摘されては世話がない。
「で、こっちから質問するのも変な話やけど、お前さんは何を目標にこんな調査をしとる。殺人者の俺に接触するリスクとか、この辺の治安の悪さとかを考えると、女一人で渡るには危ない橋やと思うんやけど」
「一〇三号室の借手がつかないそうで、その原因究明と解決を目指しております」
「リスクと目標が釣り合わんな」
と、オト。「ほかに何かあるやろ。いっておくが隠しとっても判るぞ」
褐色に閃くオトの半眼と、ララナは向かい合った。
「……未来がなくなる可能性がございます」
「なるほど」
ただちに理解できるほど簡単な話ではないのだが、オトが納得した。
「あの、オト様。どのような意味か、お尋ねにならないのですか」
「要らんよ。どう解釈したか話したろうか」
「誤認があるといけませんので、よろしくお願い致します」
「前も触れたか、要は、未来は俺が握っとるってことやろ。会ったことのないお前さんがいうからには、未来の俺が少なくとも一昨日より前の過去に飛んで未来改変、それも数多の生命危機を回避するための事象に関わった。違うか」
物の見事。
「仰る通りです。お詫び申し上げます」
「構わん。法整備は飽くまで危険を見越したもんであって、過去だの未来だのに干渉できるヤツは普通にはおらん。お前さんの感性は一般性を保っとるよ」
ララナを気遣うような言葉は裏を返せば、オトがひととは全く違う感性を持って生きていることを自覚していると伝えている。
「どうしても解らないことがございます」
「なん」
「オト様は一〇歳のとき、大きく道を逸れられたように感じました。それまでは総さんを始めご友人方と仲良く過ごされていたようでした。それがなぜ、独りの道を選ばれたのですか」
名鎚弘也への働きかけと思われる要望書作成と、名鎚弘也と菊地澄子を介した児童に対する間接的な働きかけ。どちらも誰からも理解されず孤立するということをオトは当時から判っていたはずである。だというのにその選択をしたのはなぜか。あるいは、その選択が後の鈴音殺害容疑とも関係してくるのではないか。ララナはそんな推測をして尋ねたのである。
オトの答は短い。
「楽やん」
「……、はい」
首を傾げたララナに対して、オトが説明する。
「学園に行って、俺のことをなんて聞かされた。さしづめ、気が回るとかなんでもできたとか、果ては神童とかなんやない」
「はい、そのように」
「そんな大層なもんやないよ。幼いなりに無理して周りに合わせとっただけ」
「──、そうでしたか……」
「何か思うところでもあったん」
「……はい。身に憶えがあるのです」
おはぎのなくなった平皿を指先で触れて、ララナは昔話をする。
「私の名前は聖羅欄納と申します」
「粗品に書かれとったな。聖といえば、レフュラル表大国にある三大産業が一つ聖産業やな。そこの社長令嬢なんやろ」
「はい。ですが、いいえ」
「なるほど」
オトがすぐ理解した。「養女か」
「はい。私は、レフュラル表大国の隣に位置した亡国の、唯一の生き残りなのです」
「レフュラル裏国か。大分前に滅亡した国やけど生き残りがおったんやな」
「じつのお父様とお母様は、赤子だった私を逃がすために命を落としました。そうして、私は聖産業の社長である育ての父に預けられ、生い立ちゆえにじつの娘として育てられることとなりました」
「それで周りの人間に気を遣って生きてきたか。お菓子作りなんかもそのためのスキルってわけやな」
オトが容易く察した事実はララナの義妹ですら察しなかったことである。
「今では趣味になっておりますので苦ではないのですが、幼い頃には居場所を作ろうと躍起になっていたかと」
「自分のことなのに不確かやな」
「感情を伴って記憶していないのです。機械的に、自分の存在が否定されることをなんとか避けようとしていたのでしょう。ひとは独りでは生きていけません」
「そうやな。それが、お前さんと俺の決定的な違いやろう」
オトもおはぎのなくなった平皿を指先で触れて、「俺は他者との関わりを必要とせん」
「私やご友人方とは相容れませんか」
「重ねていうが必要がない」
本当にそうなのだろうか──。オトがそのように考え始めたであろう一〇歳時の事件以降、一時期とは言え鈴音と接触し、話していた。楽だから他者を排除して独りになったという言葉と相反しているではないか。
「鈴音さんは病弱だったそうですが、オト様が看病していたのではござりませんか」
「そんなことはやっとらんよ。軽く走っただけでも死ぬって診断されとるヤツを誰が看病したいん。無駄な手間やろ」
「……勘ですが、オト様は嘘を仰りましたね。看破する材料として、鈴音さん殺害の物的証拠を拝借できませんか」
突拍子もなく間抜けな要望だがララナはあえて伝えた。鈴音殺害の証拠はそのまま鈴音との関わり方を示す重要な証拠と成り得るはずだとララナは考えた。なぜなら、オトも言うように病弱だった鈴音を殺す必要があるとは考えにくい。放っておいてもすぐにオトの前から消えるはずの相手だったのだ。それをわざわざ手づから消した際の物的証拠には思い入れが宿っていると考えられるのである。
要望のおかしさには触れず、
「広域警察に引き渡したよ、鈴音を刺したナイフをな。血液指紋がべったりやぞ」
と、オトが平然と言った。
……疑っていたのではございませんが、日向像さんのお話は事実だったのですね。
日向像は報道でオトの自白や凶器となったナイフの情報を知ったようだが。
「共犯者とされている三人はどこに消えたのでしょう。まだ一人も逮捕されていないようなのですが、オト様は所在をご存じですか。特徴も伺いたいです」
「詳しい年齢は知らんが、当時一五から一八歳くらい、身長はみんな俺より少し高かったから一七〇センチ程度やな。事後に会っとらんから所在は判らん」
「どのように知り合われたのですか」
「町の不良でな、路地裏で話が弾んでそのまま共謀したんよ」
「病弱な鈴音さんを四人掛りで殺害するのは不自然に感じます。殺害は、オト様の発案なのですか」
ララナはそうは思っていない。
「抵抗したから刺して黙らせただけのことだ」
と、オトが言った。「知っての通り俺は一〇歳の頃からの性犯罪教唆犯。女を犯すことに快感を覚える変質者だ。おまけに他者との関わりを必要とせん。意味が解るか」
「後先を考えることも関係に煩わされることもなく行動できるということでしょうか。ゆえに鈴音さんを蹂躙して殺したと」
「そ。理解できんのは仕方ないわな。お前さんとは全てが違うんよ」
閉めきった部屋より、なお暗い瞳。
「養女といったか。しかしお前さんは環境に恵まれ、家族に恵まれ、富に恵まれ、さらには人格に恵まれ、自由を享受してきた。俺はその全てを持たん。正反対の存在がいかな人生を感じとるか、想像してみ。結論として、他者のことなんぞ必要とはせんくなる。過程において欲しても、捨てたくなるんよ。邪魔やからな」
「……邪魔、ですか」
それが、オトの本音か。
「また理解不能って顔やね。それが一般性、マジョリティってヤツだ。よかったな」
多数派でよかった。
オトの皮肉が心にぐさりと突き刺さった。
……私は、オト様を、きちんと観ているのでしょうか。
過去に逢った未来のオトとはあまりに掛け離れた現在のオト。彼自身が言う通りララナとは明らかに思考回路が異なり、独自の他者排斥論を平然と語っている。
……理解しがたいですね。
オトの姿をしていなければ、理解を断念してしまいそうだ。未来のオトを知っているから、その姿に縋ってしまう気持がどうしても湧き出す。現在のオトに対して迷ったら負けだと解っているはずなのに、気持がなかなか慣れない。
そうであるならば、いっそ、現在のオトと未来のオトとは別人と考えるべきだろう。
……そのほうが、きっと、向き合うことができますね。
未来のオトを切り捨てるようだが──、気持の切換えが必要だ。
ララナは痛む胸に鞭打って、質問を続ける。
「鈴音さんはナイフを刺されたとき既に亡くなっていたという話もありますが、それについてはどのようにお考えですか」
「刑事がそういっとったな。だがどうあろうと俺が殺したことには変りないやろ。警察組織は万一にも誤認逮捕できへんから慎重に捜査しとるんやろうけど、それで犯罪者を見逃しとるんやから駄目、能無しだ」
オトが口許に悪質な笑みを浮かべている。
一方のララナはと言えば、オトの言葉が心のどこかに引っかかっていた。
「(そうです──。)オト様」
「ん」
「オト様が鈴音さんを殺したのですね」
「そうや、って、いっとるやん。何度もいわせるなて」
「共犯者は、鈴音さんを殺していない。と、いうことですね」
「……」
オトがやや目を細くして、「重要なことなん」
「重要です。オト様は先程いいました。鈴音さんは、走るだけで命に関わるほど重篤な状態であったのだと」
「そうやね」
「そのような状態で何人もの男性から暴行を受けて、鈴音さんは生きていられたのですか」
性行為にも労力を要する。重病人ともなれば命に関わる。一方的な暴力ならなおさらだ。恐怖に強張る全身の筋肉。緊張と悍ましい予感に震え上がって強まる心拍。生きながらに殺され感情を凍らせて、爆発しそうな心臓が暴力による流血を加速させる。
ララナの問にオトが表情一つ変えず、
「当時の警察組織より想像力があるみたいやな。その通りやよ」
と、オトがララナの推察を認めた。ララナの中で、一つの願望が絶たれた。オトは殺人者ではないという願望だ。
……鈴音さんは、オト様がナイフを突き立てるまで、生きていたのですね。
「虫の息やったけどな」
と、オトが心の声にも応じた。
それはそれで、オトが鈴音に止めを刺したという自白を裏づける証言と取れて、ララナは複雑な心境であったが。
「鈴音さんは、なぜ、そのような状態に。改めてお尋ね致しますが、共犯者三人と、オト様が共謀したのですか」
「犯人の特徴は主観的事実だが、関係や経緯は噓だ」
あっさりだ。不良の特徴は正しいが、路地裏で出会ったところから四人掛りで鈴音を襲ったというところまでが嘘ということ。
「なぜそのような嘘をいわれたのか、お聞かせください」
「鈴音の名誉に関わることやからな」
「……」
「先程の話は筋書通りに行った場合の話だ。まあ、俺のやったことは結局無駄だったが」
「暴行内容が報道されてしまったからですね」
「一人の少女が強姦されたと聞くだけで嗜虐心を刺激されて妙に昂る輩がいくらでもおる」
オトが爪先で弾くようにして平皿を打ち鳴らす。「斯くいう俺も、知合いでもなければ想像力を膨らませてどんな行為にどんな声を上げてどう死んだのかとか、興奮しながら妄想したのかも知れんがな。顔見知りとくれば話は別だ。俺も所詮は神に成りきれん、人間上りの化物崩れだ」
「……、お怒りになったのですね──」
日向像が鈴音の家に駆けつけるきっかけとなったオトの叫び声。それは、鈴音を襲って瀕死に追いやった犯人を憎悪して発せられたのだ。それと時を同じくして鈴音の両親の帰宅を察知したオトは、鈴音がどこの誰ともつかない不良に乱暴されたと悟られないよう自身が止めを刺すことで、怒りの矛先を自分に向けさせ、さらに、己の罪を咎めさせ、鈴音の名誉を最大限守れるようにしたのだろう。実質的な恋人だったオトなら鈴音に性的接触を持っても不自然とは受け取られにくい。その際に鈴音が死に至ることなど若い男子なら想像が至らないこともあり得て、鈴音への興味本位な注目が集まるより先に、行為に及ぼうとしたオトへの、さらには殺害したことへの非難が集中するようにも計算したのだろう。
時間が経ってみれば、名前は伏せられていたものの暴行内容が報道されて、オトが想定した形で鈴音の名誉が守られることはなかった。
「まあ、いいんやけどな、俺は捕まらず自由の身だ。文句をいう必要もない」
と、オトが平皿を弾きつつ。「問題は鈴音に関する報道だ。あれのせいで鈴音の両親がひどい目に遭ったと噂で聞いた」
「病弱な鈴音さんを一人にしていたことを非難する声がネット上に。ほかにも、鈴音さんの養育を放棄していたのではないか、家を出ていた弟につきっきりだったのではないか、自棄を起こして昼から吞み歩いていたのではないか、などなど、ご両親に対する憶測任せの物言いが目立ちました」
「やっぱ知っとったか」
「鈴音さんのご両親にもお話を伺えたらと考えまして」
「で、話は聞けたか」
「訪ねておりません」
鈴音の両親の居場所は判っている。が、我が子の死によって苦しんだ両親が行動の不備に自責の念を感ずることは想像に難くない。そのような状態の相手に聞取り調査を行うほど無神経にはなれなかった。同じ意味で、想像以上に打撃を受けていた教諭陣からの聞取りも今後は控えたいところである。
「鈴音さんに関しては、オト様からお聞きしようと考えました」
「ご尤も。やけど、話はここまでやな」
と、オトが人差指・中指の先端で器用に平皿を抓んでララナに差し出した。「釣を要求したいくらいだが、小銭なんぞ要らん」
今日はもう話さないから帰れ、と、いう意味だろう。
「承知致しました。ただ、最後に一つだけ、お尋ね致します」
ララナは平皿を両手で受け取り、席を立った。
「オト様に取って、鈴音さんは恋人でしたか」
「向こう次第やな。そればかりはもう聞けんが、俺はあの子が好きやよ」
初めて、オトが瞼を閉じて答えた。
ララナは、オトの瞼の裏に本心を感じた。
「──お応えいただき、ありがとうございます。新たに気になることもできましたので、本日はこれにて失礼致します」
「糯米に倣い無駄に粘らんのは美点やな。ほな、ばいばい」
座ったまま手を振るオトに見送られて、ララナは一〇二号室をあとにした。
オトの話が事実なら、鈴音を殺したのは間違いなくオトということになる。オトの容疑が限りなく黒になって、ララナはしかし気になる点が一つある。オトの共犯者とされ、本当はどんな関係があったか不明な三人の不良についてである。
……広域警察も行方を摑めていません。
日向像の証言によれば、鈴音の両親の前から立ち去ったオトは、降り積もった雪を巻き上げて町へと駆けていった。オトに刺されるまで鈴音が生きていたことを考えると、鈴音が襲われてからオトが駆けつけるまでに時間はそう掛かっていないだろう。と、なると、鈴音を襲った三人の不良をオトは目撃したと考えられる。オトは鈴音の家を出るや不良を追って町へと出たはずである。オトや日向像の走力がどれほどかララナは存じないが、世の競争から脱落したであろう不良が、神童と称されていたオトの走力に優るとは考えにくい。
……積雪が、足跡を追いやすくもしたでしょう。
しかも誰もが外出を控えるような冷気の立ち込めた日で足跡が多いはずもない。オトは三人の不良に容易く追いついたことが推測できる。
だが、広域警察は未だ三人の不良を見つけていない。
……オト様は、恐らく、三人の不良も手に掛けています。
一〇歳にして独りでいることを選び学園支配の種を蒔いたオトだが、だからこそそのあとに築いた関係は手放しがたいものだっただろう。それを自らの手で絶つことになって苦しくないはずがなく、そのきっかけを作った不良を感情的に排除したとしてもなんら不思議はない。また、鈴音の名誉を守ろうにも事実は変えようがないことから、オトは真相の不明瞭化を狙った可能性が高い。広域警察が採集した犯人のDNAと被疑者のDNAの照合可能性をゼロにして公式情報において事実確認不能状態にすることで真相をぼかし、「暴行はなかった」とも言える状況にしておくことでそれが可能だ。すなわち、不良の遺体を隠すことを徹底した。
……焼却ですね。
DNA照合できなくするためには強力な火力が必須だ。公に火葬場を利用するとは考えにくい上、DNA照合に適さないとは言え骨が残る。焼き尽くすには骨の主成分リン酸カルシウムの融点であるところの一六七〇度以上の火力が必要となる。これがただちに手に入るのは炎の魔法で、町中で使えば不正な威力行為として通報される強力なものだ。オトが捕まっていないことを考慮すると、魔法行使を火事で偽装・隠匿した可能性がある。
ララナはすぐに出発できるように自宅前で携帯端末を操作、一年前に起きた火事や小火騒ぎの新聞記事に的を絞って検索、その場所をメモした。骨すら残っていないとなると三人の不良の遺体が見つかるとは考えられないが、やれることをやっておいて損はないだろう。
……早速参りましょう。
まだ昼前。時間はたっぷりある。
聖羅欄納が竹神音の家を訪ねて屋内に招かれたのを感じて、堤端総は気が気でなかった。
……君も、彼女が気になってるのか。
元友人竹神音。何をやっても勝てなかった。誰からも好かれ、誰からも慕われ、誰をも見捨てない完璧なリーダとして君臨した彼を、堤端総はライバル視していた。
……君は、彼女と何を話してる。
住居が二〇二号室だったら一〇二号室の物音を拾うおうと床に耳を押し当てて盗み聞きするところだが、斜め下の部屋には聞き耳も立てられない。聖羅欄納の動向が気になった堤端総は週末跨ぎで今日も学園を休んでいる。
……出てきた。
覗き穴から屋外を観察しつつ一階の物音に耳を澄ませていれば、竹神音の家の扉が開いて聖羅欄納が出てきたことくらいは把握できた。見送りもないのに、律儀に「お邪魔致しました」と、声を掛けて静かに扉を閉める聖羅欄納に好感を増した堤端総だが、気にすべきは竹神音のほうであった。
……君は、彼女に、何をする気なんだ。
橘鈴音の事件以来、竹神音が日向像佳乃以外の他者と話している様子はなかった。それがここ数日で聖羅欄納と三回は話している。橘鈴音と接触していた頃を彷彿とさせた。
……放置したら、もしかしたらララナさんも。
危機感が、堤端総に一つの決心をさせた。
息を殺して覗き穴から外を窺っていた堤端総は、何事もなかったかのように扉を開いて一階へ下りた。一〇三号室に聖羅欄納らしき魔力反応がないので、彼女は外出したのだろう。
ばくばくと脈を打つ心臓を深呼吸して落ちつけた堤端総は、一〇二号室、竹神音の家の呼鈴を押して、震える手でノックもした。
「堤端総だ。開けてくれないか」
待っていたかのようにすぐに扉が開いて、竹神音が顔を出した。
「なんか用なん」
「っ……、随分、老けたな」
「八年もまともに顔を見てないんやから、当然やない。お前さんは苦労が少ないのか歳より若いね」
「……君は自分のしたことをまだ判ってないんだな。ぼく達は、君のせいで要らぬ苦労をしたさ、嫌というほどにね」
「ふうん。そんな文句をいいにわざわざ来たんや。それも平日の午前に。高等部の首席ってのは単位や論文も不要なんやね」
竹神音の言回しに腹が立つが、なんとか吞み込んで堤端総は尋ねた。
「君は彼女に何をする気だ。ぼく達や鈴音さんに飽き足らず、まだ他人を蹂躙する気なのか」
「お前さんには関係ない話やない。それともあの子を気になっとるん」
「答えろ!」
「判りやすくて助かる」
竹神音が冷静なのが余計に腹立たしい。堤端総は思わず彼の胸倉を摑み上げようとしたが、その手を上げる前に竹神音に二の腕を摑まれて制されてしまった。
「暴力を振るう暇があるなら、向けるべき相手へ正しく労力を向ければいいのに。お前さんにはその相手が存る」
「っ……、君は、いつもそうだな」
「そうとは」
「他人を見透かしたようになって侮ってる。君はいつかその傲慢で破滅するぞ!」
「忠告が遅すぎたな」
「──」
二の腕を離れて間もない手にとんと胸を押されて、堤端総は一歩退かされた。その間に閉まった沈黙の扉を見つめる。
……どういう意味だ。
何もかも彼には勝てなかったのに、勝る余地があったかのようであった。
……ぼくが、昔に注意したら、君は事件を起こさなかったっていうのか。
事件を起こしたとき、彼はもう人が変わってしまったから話を聞きはしない。と、誰もが思った。誰が一番最初に思ったかなど、誰にも判らない。が、皆の考えを誘導したのが誰であるかを、堤端総はしっかり記憶している。
──今の彼は信用できない。彼を告発するんだ!
初めに〈オト〉を敵視し学園から追い出そうとしたのはほかならぬ堤端総だった。それが元友人としての善意と決意であったなら恰好もついたが、堤端総は恐ろしかっただけなのだ。絶対に越えられない巨大な壁が敵に回ったと感じた瞬間、砂嵐に吞まれたような心持になった。
……ぼくの過ちだなんて、君はいうのか。
堤端総は沈黙の扉を殴りつけようとして、寸前、拳を止めて、下ろした。
……いや、ぼくの過ちだなんて、君の誘導に過ぎない。
本人の意志がなければ罪を重ねたりしない。学園を支配するなどという大それたことを考えつき実行に移したのもほかならぬ〈オト〉。罪は、〈オト〉にこそある。
……でも、どうすればいいんだ。
聖羅欄納は忠告を聞かずに竹神音と接触してしまっている。
「おや、ソウ君かね」
「あ、管理人さん」
家から出てきた日向像佳乃に、堤端総は目を向ける。「おはようございます」
「おはようございます。希しいですね、ソウ君がオト君の部屋を訪ねるだなんて」
「(聞かれてたのか。)ほとんど会話になりませんでしたけどね」
堤端総は扉を一瞥した。「やはり、彼はここに住まわせておくべきじゃありません」
「そうですか」
「そうですよ」
追い出さなくては、橘鈴音のような犠牲者を出しかねない。
日向像佳乃が穏やかな目差で一〇二号室を見つめる。
「オト君が引き籠もってもう一年ですね」
「……鈴音さんを殺して捕まらなかったとはいえ、広域警察のマークがなくなったわけじゃないでしょうから、鳴りを潜めてるだけです」
「ソウ君はオト君をよぉ観とるんですね」
「……警戒してるだけですよ」
「そうですか。お勉強頑張ってくださいね」
「あ、管理人さん、ちょっといいですか」
買物か、門の外へ向かう日向像佳乃を引き止めて、堤端総は尋ねる。「最近、テラノアの動きが活発化しているようですが、管理人さんはどう思いますか」
「ソウ君は難しいことを考えとるんですねぇ」
海を挟んで隣に位置する〈テラノア軍事国〉が、ここダゼダダ警備国家に対して威嚇するような姿勢で外交を続けていることは、報道番組でよく観られる。軍備拡張などがその主たる動きであったが、核兵器をちらつかせた動きがここ数箇月に伝えられていた。
「学園の教諭陣も警戒しているようですし、管理人さんも用心されているのかと思って」
「ええ、防災頭巾や緊急避難セットなどを用意しとります。でも核兵器などが落ちてこようもんなら人間に為す術はありません。そうならんよう、お国の偉い人達が話し合ってくれることを祈るのみです」
「いざってときはぼくが管理人さんをおぶって運びますから、遠慮なくいってくださいね」
「ふふふ、ソウ君、いい子ですねぇ。そのときはお願いします。買物に行ってきますね」
「お引き止めして申し訳ありません。気をつけて」
日向像佳乃を見送ると、堤端総は息をつく。
「……勉強、しなきゃな」
就学者の義務から逃れることが、堤端総にはできない。
──三章 終──