終章 あたたかい懐が、
焼滅するような熱を背負いながら生きる知恵と忍耐を育み、国土の四%に人口一億超が暮らす常夏の国、ダゼダダ警備国家──。
長い長い抱擁。滴る雫のようにオトが伝える。
「じつの両親と妹一人の、四人の和から羅欄納は始まった。育ての両親、新たな妹や兄、一二人の仲間、手放さないメリアの魂や天帝神ユアラナス、そんで俺と音羅を加えたら二五人の和だ。一億超のダゼダダ人も、そうした細かな和が数百万と寄り集まってできとる。俺の狭い交友関係やこの十数平方メートルの狭い家からは、一億超という命もそれが住む二〇〇万平方キロメートルの土地も想像できんほどだ」
狭い一〇二号室の、さらに狭い玄関。オトがララナを放して、言った。
「ちょうど八年前の今頃、羅欄納は償いの旅に出た。俺を抱き寄せ、この世に繫ぎ止めなければ、人命も土地も動植物も、死に絶えていた。そのこと、憶えといて」
そんなふうに言ってオトがララナを送り出した。
終末の咆哮の熱源体を食い止めたときのことを言ったのだろう。数や年齢、あるいは生産性や善悪で照らしても、命の重さを比べることはできない。命はただただ途方もなく重く、見つめた命の数が多ければ多いほど天秤は重くなるばかりだ。悪神討伐戦争に纏わる争いで多くの命を守れなかった、奪った、償いでは決して打ち消せない罪過。他方、彼が言うように確かに守られた生命と大地。心に伸しかかっていた重い物が少しだけ軽くなったのは、天秤に掛かった命の重さが変わったのではなく、彼が天秤を支えてくれたからだと、ララナは感じた。
もっと話したい。抱き締め合いたい。そうも言ってはいられない。なごり惜しくも。
合鍵をくれたオトと別れて一〇三号室に戻ったララナは、ぐっすりの音羅を抱き寄せて眠った。音羅をここに戻したのはほかならぬオト。事前に星の海へ音羅を誘って伝えたのは作戦ではなく、「家族の和を作る儀式をしたらゆっくり寝よう」と、いうもの。ララナ達が死後世界へ転移した後、一〇二号室ではオトの仕掛けた魔法が発動、オトの分身が音羅を連れて一〇三号室に向かい、死後世界でオトがララナに話した過去話を聞かせて音羅を寝かしつけた。音羅が眠ったのを確認した分身は一〇二号室に取って返して一〇二号室と一〇三号室を対魔法障壁で囲み、その中に閉じ込められた自然魔力と自身を形作る魔力を炎属性に属性転換して、オトの肉体に火を放って消えた。間もなくオトとララナがそこに戻って先の出来事と相成った。幼い音羅に夜更かしさせられず、なおかつ二人きりで話す機会がもっとほしかったというのが音羅をさっさと部屋に帰した最たる理由。ララナと立てた計画の最中にそれを実行に移したのは創造神アースを欺く意図もあれば少しでも早く音羅と話す時間を取りたかったという望みもあった。生に向かう積極的な行動。ララナに不満が湧くはずもなかった。
来たるオトの魂器過負荷症については解決しておらず、未来改変の主についても特定に至っていないのが現状であるが、一つ一つが難題だ。オトが言うように全てが一挙で片づくことなどない。オトが自由に動くためには創造神アースとの意識共有を絶つ必要があった。魂器過負荷症対策や未来改変の主の特定はそのあと、オトが言うには四日後以降になる。
それまでオトは独りでいるとのこと。意識共有を絶つことに加えて、創造神アースが予期せぬ妨害を講じないように細心の注意を払うそう。詰めを誤らないようオトを部屋に残してララナはここに戻った次第であった。
携帯端末のカレンダが年末を示している。四日後は一月二日。それまでオトとは会えない。ダゼダダの年末年始は家族や親戚と過ごすのが一般的であるようだが、これからそうしていくためにララナは今年の機会を見送った。
(来年はきっと、一緒に過ごしましょう)
ララナの心の声を、オトは拾った。
「ああ、そうしたいな──」
(ではない。貴様、我を侮っておろう)
創造神アースの脅しも聞き慣れたものである。
(意識共有のことか)
(うむ。貴様の全てを知っている。ただで済むと思うのか)
(傲慢やな)
(自然体だ。我の傲慢とは何を指してか申してみよ、傾聴してやろう)
尊大な態度の創造神アースに、オトは遠慮なく言うことにした。
(意識共有しとっても、お前さんが感じとることなんて俺が知覚・認識したことでしかない。客観性を持たん狭窄的認知がお前さんに取ってどんだけの価値があるやら。それでもって全てを知り置いたなんていうなら自意識過剰もいいところ)
(我の言葉に偽りはなかろうが)
(〈ひと〉ってのが〈ひと〉だけで成り立っとるような物言いは事実誤認といっとるんよ)
(何がいいたい)
(もう解っとるはずやぞ)
(……)
(傲慢やよ。嫌というほどの自覚を、撥ね返ってくる追体験を、鏡写しの全てを知っとる者に対して初体験だなんていうつもりかね)
沈黙の創造神、
ぽつりと述べた。
(──また独りになるのだな)
(お前さんが弱音とは)
意識共有は残りわずかの辛抱ということになったが、八年間を振り返ったオトは愉しませてもらった感もあった。
(正直者が馬鹿を見る世の中は嫌やね)
(貴様ではないがな、孤独は擂鉢のようなものだな)
語りを聞く分にはいい暇潰しになる。
(らしくもなく生活感のある喩えやな)
(時を経れば時を経るほどに、身動きをするほどに、擂り潰される。擂鉢に相違なかろう。貴様の魂となって一八年、我はそのうちの八年を貴様がそうしてきたことを感じてきた。ゆえに思う。貴様と意識共有していなければ……貴様の妻の、我に対する恐れを受けることも、あの冷たきぬくもりを知ることも、子を寝かしつける安らぎを得ることも、これほど……独りを恐れることも、なかったのだろうか)
(どうやろうな)
創造神アースを監視するために独りになる、と、ララナに告げた。しかし、オトは創造神アースを悪者に仕立てたいのではなかった。
(お前さんはどの道、同じ思いをしたよ。誅棺にとどまった二五年前、いや、それ以前に)
創造神アースが誅棺に流れたのは、生前に深い未練があったからである。
(我には判らぬ。半身を失えど誅棺を抜けた時点で魂の未練は失われているはずだ)
(摂理と感情は別物だ。これは、よく当たる俺の推測として聞いてよ)
(なんだ)
(お前さんもようやく親になった)
(……)
人間として生活した期間に創造神アースは人間の女性に子を一人産ませた。それが一二英雄が一人一長命であることは創造神アースも覚えていることだが実感を伴っていない。輪廻転生の弊害といえばそうであるが、メリアのように転生しても自我が強く残ったままの魂も存在する。
(創造神アース。お前さんも、家族がほしかったんよ)
(我にその実感はない)
(記憶があっても実感が湧かんのはよく解る)
記憶の砂漠は、オトに膨大な記憶と知識と技術を与えたが、そのどれもが実感を伴わない。主体でありながら客体、主観でありながら他人事なのである。あるいは、オトが人生に冷めた眼を持っていない純粋な生を歩んでいた頃ならば主体を主体のままに、主観を主観のままに受け取ることができ、実感も伴ったのかも知れない。だがしかし、オトはアースとは違う。己の人生を決して忘れない──。
……アース。いずれお前さんも思い出せ。大切な家族のことを。
(意識共有を断絶せんとする貴様が言うか)
(へぇ、俺を家族と思ってくれとったんや。意外や意外)
ちゃかしてやったオトに、創造神アースが神妙な声で告げる。
(我にもいたのか、得難き存在が……。……思い、出せるのだろうか)
オトはまじめに対した。
(変わらんとの思い込みが一番恐いのかも知れん)
(我は誰より変えることを考えていたはずだったのだがな)
(斯くいう俺も変わることはないと漠然と思っとったよ。お前さんとの意識共有にしたって、半ば諦めで受け入れとったしな。動いたら変わった。俺自身が暗転したり好転したりしたように、ひとも、世界も、動けば確実に変化する)
(我は貴様の中から動けぬ)
(何、思考を巡らせる時間はたっぷりある。早けりゃ数年後に俺が死ぬかも知れん)
(その前に意識の闇に苛まれるのだがな)
(こっちからはアクセスできるように細工する予定だ。ちょっとは安心やろ)
(そんなことが可能と。貴様は、……愉快だな。我が世界の脅威と知ってなお拘うと申すか)
オトと創造神アースは、互いに、そんな関係になりたくてなったわけではない。
(気儘に創った世界を俯瞰して己の目的のために利用した報い、と、思えばむしろ経験になってお得やないかね。動物みたいに観察される気持を充分理解できるやろ)
(それを我に理解させるためだけに──)
(俺は俺のために俺のしたいようにやる)
(貴様らしいな)
微笑の創造神アースに、オトも微笑で応える。
(擂鉢に突っ込んだ食材がおいしく擂り潰されるまで見守ったるかな)
(丁重なら報いも甘んずるとしよう。貴様は我をなんだと思う)
(無難にゴマ辺りかな、欠かせん風味って感じが。まあ、品質はお前さん次第だ)
(まこと……愉快な存在よ)
(褒め言葉と取ろう。歓談さておきアース)
オトはカーテンを開ける。焼けつくように眩しい居待月が懸かっていた。
「いずれ帰したるよ、お前さんのおるべき場所に」
(よい月だ──、ゆっくり観させてもらおう)
「ああ。しばし瞼を開けといたるよ」
凶悪。彼をそう表現することがオトにはできない。だから慈悲を掛けるということでもないが哀れに思う気持は少なからずあった。同情は易く協調は難いがわずかばかりの哀れを情けに変えてやってもよいのではないか。希望の寝息を壁の向こうに捉えて、オトは月を眺める。
(一つ指摘だがな)
創造神アースが意趣返しとばかりに。(貴様も大概であろう。あの娘──、我の魂に引き摺られている)
前世に深い関わりのある魂は、似たような関係を求めて引き合うことがある。──ひとは自分が可愛い。生存本能や防衛機制ともいえようその意識は、ひとが子を遺し、未来を繋ぐために消えることのないものだ。創造神アースはその意識の集合として最たるものである。その創造神アースの魂を半分ずつ持って産まれたオトとララナは、相手を好こうとか相手とともに存ろうとか、自分でも思わぬうちに意識が偏ってしまうことが起こり得る。
(太陽と月。空と大地。光と闇。正と邪。貴様はどう思う。引き摺られし意識はその意識の真に求むるものを選択するか。その引き摺られし意識に乗ることを、貴様がよしとするか)
(貴様がね。わざわざ訊くな)
オトと創造神アースのあいだではとっくに結論が出ていた話だ。
(そうであったな。貴様も、あの娘も、いささかズレている)
ずれているのはどちらか。
何度拒絶してもララナはオトから離れなかった。それが魂の性質なしに起こり得たか、と、問うてもその想定自体が存在しないので答も存在しない。オトも最初こそ彼女の好意が魂由来のものか見定めようとしたが最初からそれにも答など存在しなかった。たとえもとは同じ魂だったとしても、今は「二人」だ。ひとは独りでは二人になれないというひどく単純な法則がある。ララナが不自然なほどにオトへ好意を寄せてしまうのが仮に創造神アースの言うように魂の性質によるものだとしてもそれがずれていることだとはオトは考えていない。魂は幾度となく世界を巡り、何かしらの経験を経てその時空を生きている。神神のあいだで絶対不可侵とさえいわれた創造神アースの魂でも同じこと。ララナは〈聖羅欄納〉としての経験を積み、オトは〈竹神音〉としての経験を積み、〈創造神アース〉とは異なる存在になった。ならばなんの不自然もなくオトとララナは別人格で、宿命の関係でありつつ立派に新たな関係である。
(貴様も、あの娘を欲している)
と、いう、創造神アースの指摘が否定しようもない現実である。(最初から求むればよいものを回り道したものだ。あの娘なら貴様の死の指向性も最初から受け止めきったであろうに)
上下左右、進捗と深度、絡み合った関係、そういった中で紡がれた言葉が言葉の意味のままに放たれているとは限らない。
(出逢った傍から「自分は死にたがっている」と言われたら、俺なら噓と捉える)
(あの娘もそうだと)
(いいや。けど、ラセラユナじゃないが、段階は必要やったんよ)
(根が前世にあったとしても、種蒔きもなく芽が生えては気味が悪い)
(その通り──)
ララナが過去を振り返ったとき、自身の想いの起点に疑念が湧いてしまっては、未来永劫、疑念が消えず関係は冷えていく一方になる。そうなると、魂の性質によって「ともに存ろう」とする意識に固執しかねない。起源と経過の釣り合わない関係は腐っていく。そんな関係をオトは求めていない。
現実はそこに一つ問題があった。「ララナがオトから離れなかったことが魂の性質なしに起こり得たか」という設問に答は存在せず、ララナの好意は「取留めのない一目惚れが原因である」としか言えないのが〈本当〉であるはずだった。が、ララナは過去に〈未来のオト〉と接触して「好意を寄せた」と認識していた。他方、ララナが好意を寄せるきっかけたる出来事の中にいた未来のオトが、オトの認識している自分とは掛け離れていた。つまるところ、オトは未来のオトが自分とは思えなかったので、「未来のオトと現在の竹神音は別人である」とララナに認識させなければならず、その上で「取留めのない一目惚れが現在の竹神音への好意のきっかけ」と認識させなければならなかったのである。そこには当然「魂由来の好意だけでは決してない」と言える経過の積み重ねが必要だった。
ララナの認識を変えるため「現在の竹神音と関係を築かせること」をオトは重視した。そこで創造神アースが言うような最初から受け入れたり「死にたがっている」と告げたりする選択肢はなかった。ララナとの関係を築く上で必要だったのは、彼女が心から欲していた「日常」だった。オトに対して盲信的なララナだが人間関係がときに厳しい現実との遭遇であることを知らない幼子でもない。そこで、好意を寄せる相手からの拒絶がいい刺激になると考えてオトは接したのである。
そこには無論、受け入れられるだけの関係に信頼はないというオト自身の考えも織り込んでいた。オトと肉親の関係に照らせば崩れ去った理想論でもあるが自分を拒絶した肉親をオトはある種まだ信頼している。憎まれ、怨まれ、嫌われても、いいと思っている。それだけのことを仕出かしてしまったのだから許さざるを得ないという消極的な思考ではなく、どんな形であれ自分に心を向けてくれる肉親が孤独なオトには貴重な存在で、その存在が愛おしく、そんな存在から向けられる感情を素直に受け入れたいと思うのである。また、拒絶されたオト自身も憎悪だけが生まれたのではない──。ララナ、そして、音羅との関係も、そういった複雑なものにしていきたいとオトは考えている。
(──。と、改めて長長と話したが、……これは話したっけ)
(うむ、なんだ)
(ひとには母性が必要だ。子どもには母親が必要だ)
(初めて耳にした。そんなことをいつ考えておったのか、……天邪鬼よな)
(逆に、俺みたいな父親は不要やろう)
(耳が痛い、我とて同じ身だ。おーや、なんと、我と貴様は同じ属性だったのかっ)
(わざとらしっ)
(っふははははは!)
一笑して神妙。(──すまぬ、笑うことでもないな。揃いも揃って、情けなきことよ)
(構わん。上から目線で物をいう、どうしようもない馬鹿な男と、曰く『貴様も大概』。それが、俺達なんよ)
事実だから笑われたって仕方がない。オトも自分を笑ってやりたいくらいだ。
ぐだぐだと考えても、オトの気持は最初から決まっていた。
尻餅をついていた彼女に、目を奪われた。
途方もない年月を経て巡り合ったかのような一言には言い尽くせない感情の奔流をその目に宿した彼女を、オトは──。
今後、ドアに顔を突っ込まれても敵わない。オトにはララナが必要だ。今に至っては音羅にもララナが必要だ。オトは何年生きられるか判らないがそれは変わらない。
創造神アースと思わぬ長話となって朝を迎えると、ポストに小さな音を感じた。確認すると手紙が入っていた。宛先も差出人も記されていないが、
〔本家においで。〕
と、いう内容で理解した。
(招きのようだな)
(やね)
オトは、外出した。
五大旧家より遥か昔からダゼダダ警備国家を陰で支えてきた八百万神社と総本山八百万神宮の本尊を祀る家系〈大神〉。八百万神宮と八百万神社、そして大神家に直接の関わりを持つ者はダゼダダ警備国家の人口の約三%に上る。この三%は、非常に大きな意味を持っている。八百万神社は最も人口の多い中央県に多数建立されているが、人がほとんど寄りつかない砂漠県や外周県にも建立されており、魔物からひとびとを救う治安維持組織の側面を持っているのである。警備国家を謳うダゼダダの公的な治安維持組織は広域警察であるがこれに所属する警察官が人口の〇・三%に及ばないことからも、八百万神社関係者の治安維持への貢献度が判然としている。三大国戦争、また、悪神討伐戦争における混乱の中、三大国の中で最も被害が少なく復興が早かったのは大神家が陣頭指揮を執って八百万神社関係者が各所で働いた。
八百万神社の関係者がまこと神のように敬う家系が六つある。大神家が頂点であることは言うまでもなく、残り五つの家系はその大神家を支え、また、ダゼダダ警備国家をまさしく陰から支えている。その活躍を自ら語ることはなく、誰に語らせることもなく、ただただひっそりと、国のため、国民のため、働いている。大神家を除く五家は本来の五大旧家で、三大国戦争のさなか現五大旧家に看板を譲った形である。情報化社会を突き進む現代でもその存在や歴史が周知されることはないだろう──、とは、余談である。
ダゼダダ大陸外周県北東部。熱視線に涸れた崖は潮風が吹いて、塩害か、草木も見当たらない。そこに、旧五大旧家の一つ〈竹神家〉が司る八百万神社、オトの母の実家がある。
創造神アースとの意識共有を絶つ傍ら、オトはそこを訪れた。手紙で呼ばれたからということもあるが、この先のことを考えると竹神家の本家当主に伝えたいこともあった。
神社には必ず鳥居がある。この鳥居の前で一揖という会釈をしてから進む。古びた階段も参道の一部。神の通り道である中央を空けて左を歩く。本来であれば精進潔斎──身を清め行いを慎むこと──や、海や川などの自然水で全身の穢れを祓って参拝するが現代は手水舎で簡略化できる。右手の柄杓で掬った手水で左手を清め、柄杓を左手に持ち替えて右手も清める。柄杓を右手に持ち替え、左掌に手水を溜めてこれを口に含み音を立てずに口をゆすいだら、左手で口許を隠して静かに吐き捨てる。先の要領で左手をもう一度清めたら、柄杓の椀を上にして手水で柄を洗い流す。柄杓をもとの場所にそっと戻して一礼したら、参道を行く。
標縄などの正月を迎える各種準備を終えている神社。誰もいない寂れた社務所を横目に、オトは拝殿へ向かう。名ばかりと言っては失礼だが利益を重視していないので全体的に見窄らしくも感ぜられた。祀る本尊に応じて社の色を変える八百万神社でも希しくここは黒を基調としているが、ところどころ剝げて板目が曝されている。
拝殿では一揖して、投げることなくお賽銭を入れて、鈴を鳴らす。鈴は、その音によって場を清める意味もあれば、参拝を神に知らせる意味もある。流れとしては、一揖、お賽銭、鈴、二礼、二拍手、一礼、一揖である。礼は背中を丸めず腰を九〇度に曲げる。拍手は肘を伸ばし、両手を合わせてから右手をやや下げ、掌の凹凸を合わせるようにして打ち、再び両手を合わせて祈りを込めて下ろす。
数多ある所作。オトは最初に覚えた所作で参拝した。面倒くさがりゆえの無精髭のオトに礼儀などあったものではないが顔を上げたところで、
「美しい所作でございました」
と、声が掛かった。「竹神音様ですね」
視界には入っていた。
「当主の使いの方ですか」
(貴様が丁寧語だとッ)
(静かにせぇよアホ神)
(アホとなっ)
(騙されて闇に閉ざされるんやからね)
(おのれぇ)
創造神アースが茶茶を入れた間に使いがうなづき脇へ案内、拝殿を回り込んで奥へ。
(む。正式参拝ではないのだな)
(社務所に人がおらん時点で察しろということやろう。この巫女もとい使いも本家の人間じゃない。役回りから察するに府本衛の末席やろう)
(檀家総代の分家だったか。たかが祭り上げられた神に対する儀式といえども人間風情が不遜の限りだ)
(本当は俺なんて呼びたくもなかったやろうからね)
(その心やいかに)
(すぐに判る)
使いの背の奥に瑞垣を望んで歩くと本殿はすぐであった。観る者が観れば聖なる魔力に満ちた聖域であることが判る。
(本殿から魔力が放たれている。いずこかへ運ばれ、一種の魔法を成しているようだ)
(遮陽という、ダゼダダとは切っても切れんもんやよ)
太陽光線を和らげている魔法である。赤道直下にありながら米が育つのも、ダゼダダの国民が幅広い着こなしを愉しめるのも、そも、生活できるのも、遮陽があってこそだ。八百万神社でも数少ない八百万神宮の分社では遮陽を発動させるための儀式が行われている。その一箇所がここであり、ここで儀式を行っている者こそ竹神家の現当主である。
(我の知らぬ魔法か。いつからそんなものがあった)
(お前さんが死ぬ前にあったよ)
(ううむ、興味深いな)
(視野の狭さの哀れ)
(いつぞやのが返ってきおった。ほんに怨み深いヤツよな)
(冗談やけど)
創造神アースとのやり取りは漫才になりつつある。(知らんのも仕方ないんやない、この世界は穴だらけやよ。幼い精神で勝手気儘に創った世界なんやから)
(ふむ。我が幼いか)
(不完全とは証明した。世界に目を向ければままあることやけど近親相姦なんて最たるもんやろ。それに、閉鎖的関係を望むエゴイズムとしてしか存在せん、時代が趨向する多様性とは逆行する風習でもって魂器拡張するしかないなんて視野狭窄を娘にまで植えつけて、畜生にも劣り見下げ果てるばかりだ)
オトは、そのことについては本当に腸が煮えくり返っている。
(ううむ、すまぬ、非人道的であればあるほど難しかろうと考えてのことであったが……、あえて弁明するのであれば、不埒の一線を踏み越え得たのであろう、人間という悪辣は)
思わず謝った創造神アースが咳払いするように改まって言う。(認めよう。また、我が言明しよう。完全なる存在は存在し得ない)
(そりゃそうやろ)
創造神アースが完全なる存在ならわざわざ自分以外の存在を創ったりしない。一人で全てを成せると考えて、ある種の孤高で世界を完結させただろう。
オトは一喝して、もう気を治めた。
(まずはあやふやでもいい。「こんなことがある」と興味を持ち、いつかの発展に役立てることが大切やな)
(うむ。上昇志向というものだな。完全なる我には不要だが)
(まだ言うし。素直になりたまえよ)
(ううむ、貴様相手はやりにくい)
(前向きに考えれば。俺は不得手やけど)
(よし、背を押してやろう)
(必要とあらばよろしく)
オトは、使いの掌に応じて会釈、本殿に踏み出した。
黒一色の本殿の中で、煌煌と揺れる小さな燈を背に少女が正座していた。外見を指して異形などと呼ぶつもりがオトにはないが、黒・黄金・白銀・緑・青・水・褐色を斑にした眼と髪を持つその少女は化物と称せられそうな風貌ではある。
(あの者、人間にしてはなかなかの魔力を感ずる。貴様の知合いか)
(縁戚やな)
彼女こそ竹神家当主竹神良。オトと同じ一八歳だが、魔力に下支えされた顔立ちは幼くさえある。
「ようこそ、音。近う寄れ」
竹神良の声に、オトは半眼で応じた。
「呼ばれて来てみれば、竹神の本家当主だけじゃないとは」
竹神良の左手に一人、右手に三人、計四人の人間が正座。いずれも外見は若いが。
(此奴ら年齢がずれておるな)
(ほとんどおばあちゃんやからね、たぶん)
オトも見たのは初めてだが、髪や眼の色から潜在属性を割り出せば魔法学的知見と人物に関する知識との擦り合せで何者か割り出すことができる。
竹神良は飛ばして、向かって左から順に地神家当主地神続、葛神家当主葛神久、空神家当主空神消惑、桜神家当主桜神甚だ。オトの記憶では地神続と空神消惑のみ五〇歳以下、ほかの二人は八〇歳オーバである。
(詐欺だな)
(若年趣味のお前さんに合わせるなら同感やね)
(若さを求むるは人間の性であって我の趣味とは異なる)
(その性はお前さんが与えた寿命によるところも大きいんやろうけどね)
世代がある程度判明しているので年齢をあえて訊くまでもない。オトは自分を招いた竹神良に目を向ける。
「どういう状況か教えてくれる」
(丁寧語はやめるのか)
(理由を述べる必要があるん)
(いや、ない)
意識共有をまだ絶っていないのだから説明不要だ。
竹神良が立ち上がることなく、穏やかに手招き。
「早う。近う寄れ」
「俺一人のためにこんな大御所を集めて、圧力かける気満満やな」
負の類で魔力を奪うだなんて強行手段は執るまいが、危険なにおいがしないでもない。遮陽のための強い魔力が本殿から上空に放たれているが、それとは別に強い魔力を感ずる。
オトはあえて本殿に足を踏み入れ、それを踏んだ。五人の影に潜んだ魔法陣。名門当主五人が施した封印魔法であったが、
「我が躍進に妨げなど無意味!」
オト──、ではなく、創造神アースが魔法陣を踏みつけて封印魔法を打ち破り、派手に両手を広げてみせた。
「……何奴」
地神続が膝を立てて警戒した。
(もう引っ込め)
(早くないか)
(遅いくらいよ)
意識共有しているのだから手を講ずれば体の主導権を貸すくらいはできる。闇に閉ざされる創造神アースの気持を酌んで時折気晴しをさせてやろうとオトは提案していた。創造神アースが断るはずもなかったが、
(やりすぎよ、アホ神。俺らしく振る舞わんか)
(演ずるのでは気晴しにならぬだろう。観たところ、神霊を封印できる反射発動型合体封印、いわゆる三連鎖術式の一種で内側から破るは骨が折れそうだったが、封印されてもよかったのか)
(それは嫌やね)
(感謝するがいい)
「(礼ほどのもんじゃないがお疲れさん。)失敬した」
オトは各家当主に会釈した。
「〈五星刻封印〉を踏んだだけで消す……。竹神音、やはり底知れないな」
とは、空神消惑が言った。「我らはそなたの力を試したに過ぎない。非礼は詫びるが、事情を察してくれないだろうか」
本殿に座る五人を見た瞬間からオトは察していた。
「敵性分子の対抗に手を貸せ、か。嫌なこった。俺は好き勝手にいきたいんよ」
葛神久がけんまくで応ずる。
「力を持つ者が勝手な振舞いは許されません。貴殿はまだ暴れたりませんか。今度はあの熱源体に向けた槍をダゼダダに落とすとでも言いますか!」
「音はそんなことはせぬわ、愚か者」
と、竹神良が庇う姿勢だが火に油だ。
「化物同士庇い立てしたいのでしょうが黙ってください、竹神良」
「余はそんなつもりは──」
「まあ落ちつきなさい」
桜神甚が手を叩く。場が静まると、その目がオトを射る。
「そちならこの国のありよう、未来のありようが判るのだろう。貧民に手を差し伸べたこと、警備府や言葉真当主の暴走を止めたこと、テラノアの破壊兵器に対抗したこと、ほかならぬ、おおみわ様のお言葉を拝してわらわ達は存じておる」
ここにはいない八百万神宮のトップ大神家当主大神凰慈の指示があってこの場が設けられている。
「凰慈さんはなんて言っとったん。あの子が力づくで俺を従わせろなんて指示を出したとは考えられんが」
「おおみわ様に向かい不遜だ、たけみおと。若くとも大地が如きおおみわ様に砂粒であるそちが執るべき態度ではない」
「立場だの家格だので態度を変えるような連中は息苦しいから願い下げやよ」
(貴様の嫌いな手合か)
そう。
オトは、主に桜神甚に目をやる。
「俺を従わせたことをお前さんが鼻高高に語るような未来は受け入れがたい」
「手前どもは滅私奉公の身。そのようなことは決してしないとお約束しよう」
と、地神続が正座し、頭を下げた。「それでも力添えしていただけないだろうか」
「嫌やね」
オトは、怨み深い。ここへ来たのは、母竹神銓音が言葉真家に輿入れした理由について竹神良に話したいことがあったからだが、竹神良の応答を聞きたかったのではない。
「誰かね、言葉真家に嫁がせたのは」
「『……』」
「俺が生まれたのはそのせい。どこぞの誰かにブーメランが刺さっとるわけだ」
「『……』」
オトも、阿呆の一人であるから偉そうには言わない。
「もったいぶって悪い。暗黙の了解で家格に差があるんやから、甚さん、お前さんやよね」
「わらわは進言したに過ぎない」
「精一杯に謙譲語を使っとるが、口許が笑っとるぞ」
桜神甚が扇子で口許を隠した。
「噓は慣れても自分の身を下げることには慣れとらんようやな。だからというわけでもないが俺はお前さんには協力せん」
扇子や着物、簪に印籠。贅を尽くした身形の桜神甚。
ゴゴゴゴッ!
オトの脚に巻きつくようにして木が生えて、後ろ手に拘束した。口許を隠して行った桜神甚の詠唱魔法だ。オトは聞こえていたので唐突とも思わなかったが。
(ちゃちな真似をするものだ)
「ふふふふ、いかがだろうか、たけみおと。わらわの魔法はそちには読めまい」
「読む必要もないからね」
「強がりを申さずともよい」
桜神甚の木は、オトの体力を奪い取っていくので放置するのは危険である。
「かつみひさし、そちが鉄槌を下しなさい」
「っ、甚、大神様からそんな指示は──」
「わらわの言の葉を解せないか」
躊躇った葛神久に桜神甚が述べる。「この者と魔物、どちらも同じ化物。魔物を狩りこれを狩れないとはどういう理屈か。おおみわ様もお望みであろう、安寧のための行いを」
「いや、しかしですね……」
「やりなさい」
桜神甚の言葉は、この場では絶対。
葛神久が、オトに向かう。
「望まぬ血を浴びるん。半ば望んで浴びた血すら沁みるっていうのに」
「黙りなさい。某は、国の安寧のためなら、なんでもするんです。望む望まぬなど、取るに足らない些細な私意でしかないんです」
「そう。じゃあ、どうぞ」
オトは抵抗しない。体を締め上げるようにして木が絡みついて心臓は無防備だ。木も木で、オトの体力を奪い続けている。
「俺は別に構わんよ。大事なもんはもう手に入っとる」
「大事なもの」
桜神甚がくすくすと笑う。「異国の少女と化物の子のことだろう。『得体の知れない化物一家はダゼダダに不要』。そう、おおみわ様に進言致そう」
「甚、それはいくらなんでも──」
「小娘は黙っていなさい」
気圧された竹神良を歯牙にも掛けず桜神甚が拍手。「かつみひさし、さあ」
「……」
葛神久が両手に魔力を込め、オトに向ける。「どうか、安らかに──!」
オトは瞼を閉じた。
化物崩れがどこまで行っても受け入れられないと知るも一興。反面──。
「やめんか!」
「うぐっ!」
葛神久が竹神良に突き飛ばされて床を転がった。それを見ることもなく、竹神良が木を破砕してオトを解放し、桜神甚に毅然と向かう。
「斯様なやり方は大神様のご意向に反しよう。余らは、音を諦めるべきなのだ」
「一ダゼダダ国民である化物をいかように使おうとわらわ達の自由だというに」
「力ある者が一個人の自由を奪っていいはずがあるか」
「たけみいみじ。その化物はもはや国防の切札にさえなる兵器だ。その見解においてはおおみわ様も、さしもの国国も、同意であろう」
桜神甚が扇子の陰で詠唱する。「〔わらわの糧となり朽ち果てよ──〕」
合わせて、オトも口遊む。
「〔汝の意は亡き日のふるさと──〕」
同時、
「『集束』」
魔力が集束、桜神甚の木がオトの足下に生えるや内側から弾けて拘束するには至らない。
「……化物めが」
柳眉を逆立て、あるいは畏怖した桜神甚。
──反面、こうして流れ行く者を観るも一興である。
オトは、化物だの兵器だのと喩えられることにいまさら目くじらを立てない。
「若さを信じてみてくれんね、甚さん」
「何を申すか、化物め。そちのような者に誰が信を成すか」
「誤認するな。俺とは言っとらんよ」
この場の最年少である竹神良、次に若い地神続を掌で示して、オトは厳として述べた。
「幼い頃の決意を崩さずおったんやろう。そうでなければその風体はあり得ん。さらば、現代の若木がいかなものか、若き日の己と照らすがいい」
一堂の当主、息を吞む。
桜神甚が扇子を閉じ、帯に挿した。
「……、……去るがよい、化物。そちに頼ろうこと既になし」
オトは一同に会釈し、踵を返した。
拝殿脇を抜け参道に差しかかった辺りで創造神アースが声を発した。
(よいのか。我の気晴しくらいにはなろうものだぞ)
(くだらんことに魔法を使うなら封印に掛かったほうがマシやね)
(貴様らしい選択だ。我も貴様の提案ならば愉しめよう)
創造神アースとも、八百万神社とも、手を取り合うわけではない。が、互いが互いに取って邪魔でなければそれでいい。オトは、そう考えている。
潮風の香る一〇〇〇段を下る中、オトは訊く。
(意外やったな。お前さんが封印魔法を消すだけにとどめるなんて。てっきり一人二人吹っ飛ばすかと思った)
(どうせ貴様が止める。悪意満面と思いきや善良とは。貴様の裏表の激しさをアデルに仕込んでやりたいほどだ)
(手を貸してやる者こそが賢明かつ善良やろう。俺は俺がいいと思うことしかやりたくない独善的な傍若無人だ)
(我の後継者として相応しくはある)
(引退を決意したん。無駄に縋りつく阿呆は老害にしかならん。お前さんは殊勝なことやね)
(我にも響いたのだ)
創造神アースが言った。(我は、家族を欲している。若さを信ずることも必要だ。とな)
(偉いですね、撫でてあげましょうか)
(童子相手のようなことを猫撫で声でいうでない。我は貴様の父親も同然だ)
(化物崩れの父親は創造神か。道理やな)
(我は飽くまで気高き創造神だがな)
(高慢だこと)
親子は言いすぎだが軽口を叩くくらいには親しくなった。(創造神アース。後悔はないか)
(貴様に生まれたが運の尽き。気高く慈悲深き我が名はアース。この星の如くいかような現実も受け入れよう。と、いうのは冗談だが、貴様との生に限れば愉快でしかない)
創造神アースが笑う。(貴様は、我が罪を被り己がものとして成長した)
(被ったんじゃなく間違いなく俺の罪なんよ)
ララナにも伝えていないこと。学園支配のきっかけとなった要望書配布。原文作成はオトの手によるが、要望書配布時、オトは創造神アースに体を乗っ取られて手出しができなかった。記憶の砂漠を得たことによって混濁したアイデンティティ。押し寄せる知識と経験が己を己として認識することを困難にし、心に大いなる隙が生じていた。その間に体を乗っ取った創造神アースは、オトが踏みきりきれずにいた要望書への魔法の仕込みと要望書配布を実行したのである。
(要望書作成だけでは俺は俺が善たり得たことに確信を得んかった。魔法を仕込み配布を経てそれを知ることができた。前にもいったが背中を押したのはお前さんでも罪は全て俺にある)
(ふむ、やはり貴様は愉快。と)
階段の半ば、スーツの似合う女性が佇んでいた。(誰か)
(総のお母さん、堤端公代さんね)
オトは脚を止めず、「斯様な荒漠の地までお見えになって何かご用ですか」
「あなたが一人になるのを待っていた」
堤端公代が一言。「感謝しているわ。用はそれだけ。さようなら、竹神音さん」
「ごきげんよう」
堤端公代が空間転移の帯状光に包まれて消えた。
(なんのことだ)
(総の犯罪のことやよ)
(息子が罪を負ったことに感謝するとは。貴様の両親といい、今のといい、つくづく歪んでいるものだな、人間は)
(彼女も要らんもんを間引いたんやろうね)
(……なんのことだ)
(疑問を素直に口にするのは大切やね。けど、解らんならそれはお前さんの視野がまだ狭いんよ。いろいろ振り返ってみぃ)
(──、ほう、なるほど。貴様の目は複眼の如く。敬仰しよう)
堤端産業の人間に魔物召喚をさせたことから堤端公代が総の罪を看過したのは明白だった。なぜそんなことをしたかといえば、本来向かうべき道、魅神早苗との将来から総が目を逸らし続けていたからであった。堤端公代の感謝は、総が本来の道に向き直ることができた、と、いう報告である。
(ひとまず、人間同士の争いは一段落やな)
(含みのある言い方だな)
(人間の世界もいろいろあるからね。まあ、それはまた後日にしよう)
(うむ、よかろう)
創造神アースが高らかに、(行こうぞ。この世のゆく末をわたしに見せてくれ)
(丸くなったもんやね)
階段を下りきって、オトは荒涼たる大地を踏み締めた。
世の脅威たる創造神アース。そんな彼の後継者であるならオトは引き受けないが、彼が争い事から手を引くなら化物崩れたる身を有効活用できて幸いだ。
昼過ぎ、家に戻るとララナからの差入れが玄関に置かれていた。
(砕けた物体に萎びた青菜、白い山に赤黒い塊)
(麻婆豆腐、ホウレンソウのバターソテ、おにぎり、それから、かりんとう饅頭ね)
(何やら不一致の差入れだな)
(俺の好物やからな)
(不一致といえば、あの娘、貴様のことを全て理解しているとはいいがたいな)
(駄目なん)
(いいや)
創造神アースも理解していることだ。完璧な者などいない。なら、理解だって不完全になって当り前。無理解によって擦れ違い、ときには物別れに終わる関係もある。オトとララナに当て嵌めると、細い糸が切れるか否かという状態で繋がっている程度の危うい関係進度であるのかも知れない。が、どんな関係も細い糸から始まる。少しずつ理解の繊維を絡めて、切れないように想い合うことで、撚糸のようにしていくのである。
オトは差入れを冷蔵庫に入れて、寝室に籠もった。
(食べぬのか)
(糸を絡めるために、一人で味わわせてよ)
(我も味わいたいものだった、赤黒い饅頭)
(かりんとう饅頭、ね。いずれな)
(よかろう。待っているぞ、……オトよ)
(ああ)
オトは、静かにうなづいた。
激動の師走を駆け抜けたダゼダダ警備国家は、元日、震撼した。
〔──繰り返します。テラノア軍事国が核弾道ミサイル発射を予告した模様です。詳しい内容はVTRが纏まり次第お届けしたいと思います〕
どの国が狙いとは言わないものの大国狙いであるなら確率は二分の一、過去の因縁が強いダゼダダは優先順位が高いことが予想された。
初詣の帰り。商店街の一角にある家電量販店のテレビでそんな不穏な空気を感ずることになるとは、ララナは思いもしなかった。
「戦争になっちゃうのかな」
音羅が手を握ってきたので、ララナは優しく握り返した。
「音羅ちゃんのことは私が守りますから、怯えないでくださいね」
「ママ……、うんっ、頼もしいや」
幼さに不相応な膨大な知識や記憶があって核の恐ろしさを理解できてしまう音羅が、ララナは少し不憫に思えた。
……ミサイルなら空間転移で宇宙に移せば人的被害を避けられます。
宇宙を底無しのトイレのように扱うのは間違いであろうが、害を被らないよう対策を考えておく必要がある。終末の咆哮のような大規模な魔法的現象に比べれば、小規模魔法や物体を空間転移させるのは難しくない。ただし不意を衝かれてはならないので警戒心を保つことが重要である。
ララナは音羅の手を引いて、緑茶荘への道を進んで話を変えた。
「せっかくの振袖ですからオト様にご覧いただきたいですね」
「まだ会いに行っちゃダメなんだよね」
「はい。明日の午前一時を回った頃には丸四日が過ぎますが、真夜中に押しかけるのはマナー違反ですので、明日の昼、お弁当を持って参りましょう」
「お弁当っ、いいね。あたし、何か手伝うよ」
「では、明日は早起きしてくださいね」
「う、だ、だ大丈夫、ハヤオキする」
「ええ、頑張ってください」
生後すぐはそうでもなかったが、ここ数日観察して音羅は寝起きが悪いと判った。仮眠から起こす程度なら難はないが、朝起こそうとすると確実に二度寝してしまう。俗に蔓延している「あと五分」である。
そんなところも可愛く思えてしまうのだから親心は自分でも律しがたいものだと実感したララナである。貯金を際限なく使って音羅のほしいものを買い与えたくなったり、一緒に遊ぶため、または一緒に愉しむための代金に充てようと思ったりしてしまう。踏みとどまる理性が働くのは、お金を使わなくても愉しむ方法がいくらでもある。加えて、ララナは教育費用をしっかり考えている。
町ゆく少年少女を見かけて、ララナは音羅に訊く。
「学園に通うつもりはございますか」
「行かなくていいと思うよ」
と、音羅が迷わず。「学園で学ぶことってたぶん全部知っているし」
「学園は魔法を教わるだけではございません。文字や数字を習ったり、運動をしたり、絵を描いたり、料理を作ったり、さまざまなことができます」
「パパとママと一緒にやったほうが愉しいと思うな〜」
「そう言ってくれるのは嬉しいですが、友達を作ることは家ではできません」
「ママが持っている携帯端末があれば共通の趣味を持つ仲間ができるよ」
「……」
記憶の弊害だ。
並木道を行く。夏の如き日差が相俟って裾を煽る風が心地よい。
「友達とは、顔を見て言葉を交わし、ときにはぶつかり合って、必要なことも必要でないことも共有していける存在だと思います。携帯端末でやりとりをしているのでは、飽くまで主観の世界。自分に悦んで、自分に酔って、自分に怒って、自分に哀れむ、自己完結の世界です。他者の意見を観る機会が増えることもございますが、それを受け取る自分の心次第ではどのようにでも捉えられるのが端末の世界です。それよりも私は、まず現実の世界で、五感を使って他者と触れ合うことを覚えてほしいと考えております」
「……そっか、なるほど。じゃあ、あたしも学園に行ったほうがいいのかな」
と、音羅が空を仰いで。「パパみたいにみんなに嫌われちゃうこともあれば、ママみたいにみんなに好かれることもある。どっちも混ぜ混ぜになるのが普通なのかな」
「みんなにどう思われるかより、まず、相手を理解することから始めるとよいですよ。自分を知ってもらうためには、相手を知ることも大切です」
「う〜ん、難しそうだね〜」
「体感できれば、魔法を使うより基本的なことですよ」
「そうかな。魔法は簡単だけどなぁ」
指先で火の粉を出してみせる音羅である。ここ数日の訓練で加減ができるようになったが。
「乾燥時期に火遊びは感心致しません。そして無駄遣いはなりません」
「う、パパみたいなことを」
「オト様が仰れないことを代弁しております」
「ママ、パパにもなれちゃいそうだね」
「一時のことです。明日には──」
オトと共に家族三人で暮らせる。ララナがオトの代りをするのはそれまで。
「そういえばママは振袖じゃないんだね。どうして普段着なの」
「三箇日のお祝い、初詣という行事がレフュラルにはなく馴染がないのです。それに、振袖は未婚者の礼装。既婚者同然の私が着るのは間違っております」
「振袖ってそういうものなんだ。馴染がない割にお参りの所作なんかはすごくしっかりしていた気がするんだけれど、どこで勉強したの」
「レフュラルでは儀礼的な所作も処世術の一つですから覚えていないと損失が多いのですよ」
「ふぅん。改めて思ったんだけど、あたしはママの記憶はあまり受け継いでいないのかも。判んないことだらけだよ」
ララナが皆に好かれていた、と、いう部分的でしかない記憶からも継承度が判った。
「それでよいのです。継承した記憶については薄れていくことを望みます」
「あたしがあたしであるために、みたいな感じかな」
「ええ、そのような言葉がダゼダダの名曲にもございますね。音羅ちゃんが音羅ちゃんの体験によって自分の生き方を見つけるのが一番。そこに私やオト様の記憶が必要とは思いません」
「なんだか寂しいね」
自覚・無自覚を問わず生まれながらに持っていたものを手放すことがある。勿論、手放さなくてもいいものもあるだろうが。
「それが成長というものでしょう。音羅ちゃんはいつか親離れしなくてはなりません」
その第一歩が、普通であれば公園デビュや保育園・幼稚園に通うこと。音羅は身体的に随分成長したのでさすがにそれらは無理。外見はどう見ても少年期、初等部高学年で通りそうだ。問題は、零歳の音羅を受け入れてくれる学園があるか。
音羅もその点は気になったようで、
「あたしって学園に入れてもらえるのかな。零歳であたしみたいな大きな子はいないよね」
「特殊な生まれの子に関しては審査次第で許可されることも多いですよ」
惑星アースでは、人工的に生まれて成長が促進されたような人間が外見年齢を問わず学舎に通い始めたという実例がある。
惑星アース外となると事情が異なる。神神は個体差が激しいので、学舎では年齢ではなく個個人の成長に合わせて学年を振り分ける制度があり、外見年齢は加味されない。天使の暮らす天界となると学力よりは戦闘に関する能力が優先され、戦略・剣術・魔法などなどの能力の高いところをとことん伸ばす教育が施され、学年の概念がなく、文字の読み書き学習は家庭で行うことがほとんどである。
「音羅ちゃんは神界の学園のほうが馴染みやすいかも知れませんね」
「成長が早かったこと以外は普通の人間なんだけどなぁ」
「そうですね。ただ、ときに種族によって協調や対立を生むことは事実ですので、知っておいたほうがよいでしょう。音羅ちゃんは創造神と魂鼎の子で、括りがはっきりしません」
「言われてみればそうだね。強いていえば化神と人間のダブルかな。ママの両親が化神で、パパの両親が人間だから」
種族というのが血筋を重んずる概念であることから、音羅の種族を考える上で魂鼎や創造神という魂由来の力を示す概念は排除して考えるべきだろう。ララナ側の両親が化神であるという捉え方も神の転生体すなわち魂由来のものである。純粋に血筋を観ようとするとレフュラル裏国の人種は人間だったのだろうか。そうであればララナも人間に分けていい。一方オトは純粋な人間の両親を持っているので創造神アースの魂を継いでいることを除けば純粋な人間と言うことができる。
「オト様は純粋な人間の血筋ですから、音羅ちゃんの半分は人間の血を汲んでいることが判りますね」
「ママはどうかな」
「レフュラル裏国が惑星アースという人間世界の国であったことを踏まえて考えると私も人間の血筋でしょう」
「じゃああたしも人間だね。成長が早すぎて同じようには扱ってもらえないんだろうけど」
ララナが危惧するのはそこである。ララナやオトがいかに音羅を大切にしたとしても、子ども同士で気を遣うことはほとんどない。音羅の特異性を不気味に思う普通の子どもが多数派となり、アイデンティティを否定するようなことも起こり得る。人間であるのに人間として扱ってもらえない──。両親にまで人間扱いされなかったオトのように音羅が扱われることを、音羅はもとよりララナは堪えられるか。幸いにして音羅にはララナやオトという逃げ場があるが、逃げ場に甘え続けることは現実的でない。生きていれば他者と触れないことはなく、衝突することだってあるのだから。
ララナの心配を余所に音羅が言うのは、
「ま、なんとかなるよ。相手を理解することから始めればいいんだよね」
「……」
「あれ、何か間違っていたかな」
「いいえ」
心配が過ぎた。ララナは音羅の幼さと同時に強さも見た気がした。「そうですね、音羅ちゃんは誰かをいきなり否定しないようにしてください。その上で相手を理解することを始めてください。その先で道が拓けます」
「うん、解った!」
よい返事だ。
心配することは親の務めだろう。が、信ずることも、親の務めだろう。
……信頼されれば、子は、きっと誰かを信頼できるはずです。
音羅はどこの学園に通ってもやっていける。そう信ずることがララナの務めである。
そうしてララナがふと思うのは、
……オト様は、どうなのでしょう。
両親の信頼を得られなくなってしまった彼は、他者を信頼することができるのだろうか。
……愚問です。
ララナは考え直した。……私達が信頼すればよいではございませんか。
たとえ両親が見捨てても、新たな家族となったララナ達が信頼すれば、オトは変わっていける。ララナと出逢って生へと目を向けてくれたように、少しずつ、着実に変化していく。ララナはそう信ずる。それが家族の力だと、ララナは信ずる。
並木道を抜けて緑茶荘近辺の通りに入る。と、農道を眺めていた音羅が声を漏らした。
「あ。あそこのひと、前にパパを訪ねて来た人じゃないかな」
ララナはいったん脚を止めて、音羅の見る人物に目を向けた。緑茶荘を背にして農道を歩いていく男性、いや、少年。
「相末さんです」
「そう、そう、相末さん。防衛機構の相談かな」
「何かお返しなさったかが気になりますね」
年末年始はほとんどの学園が休校で親類縁者と過ごすことが多い期間だ。相末学は連絡しなかったオトを咎めず熱心に勧誘しているということだろう。言葉真防衛機構開発所が所長を失ってあまつさえその所長がテラノア軍事国に渡ってしまった現在、テラノア軍事国の声明を受けたダゼダダ警備国家が頼れるのは相末防衛機構開発所。ゆえに相末学は躍起になっているとも考えられる。過日の様子では協力を再度断られたのは間違いないが、もし防衛機構について助言を受けたのなら相末学としては収穫があっただろう。
ララナと音羅はその日、オトが相末学と何を話したかを想像して、また、ララナはテラノアの攻撃を警戒して過ごした。
翌日。
早起きできなかった音羅に振袖を着せて、ララナはララナで余所行きを着ると、先日の別れ際に渡されていた合鍵を使って一〇二号室を訪ねた。カーテンの閉まった部屋は静まり返っており、ダイニングと寝室を襖が隔てている。
「パパ、寝ているのかも」
音羅の耳打ちにうなづいたララナは、ダイニングで待つべきところ、襖の前で膝をついた。
「静かに覗いてみましょう。(オト様、失礼致します)」
両手を添えて隙間程度に襖を開けた。
……オト様……。
盛り上がった掛布団を、足許のほうから覗いた。そこで、彼が、息をしている。同じ空気で繋がって、同じ時空を生きている。ララナは、胸がじわっと熱くなって、体が軽くなったような気がした。
「どうしよう」
「ダイニングでお待ち致しましょう」
「ママ、なんだか興奮しているね」
「興奮まではしておりません」
「えへへ、やっとパパと会えるものね」
「興奮まではしておりませんよ」
「大丈夫、大丈夫、変だなんて思っていないよ」
「その言い方はひどく変に思っている感が致します」
ララナは襖をそっと閉じると、遮光カーテンを開けた。ダゼダダの眩い太陽は瞬く間に部屋を明るくした。
音羅をテーブルの北席につかせた。南の席はオトの席。残りの席は西にあるが、オトにお尻を向ける恰好になるので椅子を東に移し、ララナはその席についた。
「毎日そわそわしていたから興奮もするよね」
「落ちついていたつもりでした」
「ママってポーカーフェイスだけど、パパのことになると判りやすいよ」
「自覚がございません」
「パパもたぶん判っているよ。でも少し心配」
「何がですか」
「ママの浮気だよ」
「あり得ません」
「浮気だよ。『あのひと恰好いいな』とか『結構好きかも』程度でもだよ」
「ええ。惚気でしょうか」
「惚気だね」
「まだ何も述べておりません」
「雰囲気がしたもの」
「自分では解らないものですね……」
秘めた野望に全てを懸けたひと。理想を貫き誰にも光を届けた優しいひと。烈火の如く敵を斬り伏せた強気なひと。強かに根を張り視野を広げたひと。幼馴染にもさまざまいて、旅の中でほかにもたくさんのひとと出会ったが、友人や仲間としての好感を持つにとどまり、将来をともにしたいとは考えたひとは一人もいなかった。だから、ララナは断言できる。
「オト様ほど私を感情豊かにしてくださった方を私は存じません。自覚なく感情を顕にしているということは、私もオト様に変えていただいたということでしょう」
「ママも何か問題を抱えていたんだね」
「問題を抱えていないひとなどほとんどいないでしょう」
帰る場所も定まらないままひたすら旅を繰り返した。ララナは根無し草だった。どこで感情を顕にすべきか。演技の中でそれらしく発散した。当然それは嘘であった。真実を伴うがゆえに質の悪い嘘であった。いつからか本当に笑うことがなくなった。泣くことも、怒ることも、悲しむこともなくなった。端から観れば、つまらなそうな顔だった。
それがオトと出逢ってがらりと変わった。
「私は、オト様になら騙されても笑える自信ができました」
「えぇ〜。それはちょっと行きすぎだよ」
「っふふ。勿論、最後はということですよ。そのときそのときは驚いたり苦しかったり泣いたりするのだと思います。でも、それも私には新鮮です」
少なくとも、オトや音羅に嘘をつく必要はない。感情を殺して接する必要もない。それほど自然なことはない、と、ララナは音羅と話していて常常思う。
「ママ、幸せなんだね」
一言には言えない。ただただ確かに、即座に、うなづくことができた。
目を丸くした音羅が袖を弄りながら、
「あ、そうだ、逆はどう」
「逆とは、なんのことですか」
「ほら、ママも知っているとは思うけど、パパって『恋多き』だよ。浮気じゃなくて本気で女のひとにいっぱい手をつけちゃうかも」
「それは想定しておりませんでした。ふむ──」
ララナは考え込もうとしたが、存外早く答が出た。
……少なくともお二人との交際を経て今のオト様がいらっしゃる。
彼の愛はきっとどちらにも等しく注がれていた。今それを感じているララナはよく解る。疎遠となった山田リュートも、亡くなった橘鈴音も、そのとき、きっと幸せを感じていた、と。これからその幸せを感ずるひとが多くなることに、ララナは躊躇いがない。
「オト様が必要とお考えになった方でしたら、私に同意致します」
「えぇ、都合よすぎだよ。それにあたしの立場がいろいろ複雑になっちゃいそう」
「何も複雑にはなりません。音羅ちゃんは私とオト様の子。それだけですよ」
「そっか、ならいいけど。って、よくもないけれど。……むぅ、パパ、遅いね」
と、指先をいじいじしながら音羅が言った。
……音羅ちゃんは音羅ちゃんで判りやすいですね。
オトと話したくて仕方ないのだろう。
「もう一回覗きに行こうよ」
「なりません。意識共有が絶たれてようやく安心して眠ることができたのでしょう。ゆっくりお休みいただきましょう」
「……うん、そうだけど、」
オトの苦しみは記憶からも推することができたのだろうが音羅には音羅の事情がある。「早く振袖姿を見てもらいたいなぁ」と、唇を尖らせて拗ねている。そんな顔も可愛いからララナはつい頭を撫でてしまった。
「きっと褒めてくださいますよ。それまでの辛抱です」
「うん……」
「っふふ」
「も〜、あたしは真剣なのになぁ、ママったら余裕だね」
「待つのも愉しみだと今は思えるのです」
それが余裕の証だといわれればそうなのだろう。ララナは音羅の待ち遠しさも感じながら、それを愉しめる。
……斯様な日が来るとは、思いもしませんでした。
──お姉様、どうかされましたか。
──お姉ちゃん、なんか考え事でもしてるの。
ララナは呼ばれて微笑む。
──新しいお菓子のレシピを考えていたのです。
姉という立場を失わないように、お菓子を作っていた。次は何を作ればいい。何を作ったら悦ばれる。何を作ったらここにいていい。
ここにいることが許されるのは姉であるから。その立場を失えばたちまち他人になってしまう。そんな恐怖を、幼いララナは持っていた。
じつの両親は祖国と同じように亡くなってしまったと聞かされて、帰る場所がない、と、突きつけられたようで、閉塞感を憶えた。育ての両親が残酷さでもって真実を伝えたわけがないが、幼いララナの足許には確実に孤独が這い寄った。この世界に自分は独り。永遠にそこから抜け出すことはできない。
そう思い込んでいたから、恐怖も孤独も胸に潜めて、答が出ない思考を堂堂巡りさせた。未来を見つめることも碌にせず、その場その場の打開策を見つけては障壁をぶち破ることのみを考えた。
麗璃琉と瑠琉乃の姉であるために、ひいては家族であるために、自分のできることをしていかなければならない。その前に立ち塞がるものには容赦しない。凶悪な魔物であろうと、因縁の悪魔であろうと、脅威の悪神であろうと、邪魔立てするなら徹底的にねじ伏せてみせる。戦火に身を焦がしても姉として立ち続けてみせる。真に求めるものがそこにないとしても立ち続け、家族を支えてみせる。頑なな意志でもって実妹を犠牲にしてしまった──。
そんな自分に、音羅という子を、一人の女性としての悦びを、真に求めたものをも、彼は与えてくれた。ララナは、そう思う。
余韻に浸るのもいいが、待時間を有効に使わなくては。
一番に目に入ったのは、いつぞや話題に挙がった本棚である。それはオトと鈴音の交流の欠片であろう。整列した辞書のほかに、ノートが何冊も並んでいる。ララナは何気なく背表紙を眺めて、少し古びているような気がしたからか、一冊に目が留まった。暗がりだった頃は背表紙に書かれた文字がタイトルであることも判然としなかった。
『分たれた理想』
読みは「わかたれたリソウ」でいいだろう。自身をリトマス試験紙に掛けたオトをモデルにして書いたのではないか、と、直感でしかなかったがララナは思った。オトの内面を探るために最初に踏み込むべき場所がそこにあったのかも知れない。内容は読んでみなければ判らないがオトが書いたなら──、じっと視ているとつい手に取ってしまいそうだ。オトをもっと知りたいという欲求をすぐ傍のゴミ箱に向ける。先日は相末学の連絡先を丸めて棄てていたが、燃えるゴミの収集日である一昨日にゴミを出したか今は空だ。あのとき、連絡先は満杯のゴミに弾かれるようにして床に転がった。一〇三号室にも時折広告が投函されているがこのゴミ箱が満杯になるほどの量ではなく、外出をめったにしない様子のオトであるから買物によって持ち込まれるゴミも少ないだろう。それらが何週間分か纏めて入っていた可能性があるが。ララナは席を立った。
「あれ、ママ、何かやるの」
「郵便受けを見ます」
と、答えてララナは玄関へ。配達時間が過ぎているポストに、大量の郵便物が届いていた。取り出すと、広告とともに、宛名だけ書かれた封書が山程。論文盗用騒動のあとララナも同じような体験がある。封書の中身を魔力分析すると刃物が入り込んでいる。また、インキと推測される魔力の位置をなぞると呪詛の言葉が読み取れた。
〔一生呪う──〕
〔殺す──〕
〔この国から出て行け──〕
〔────────────────
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───────死ね───────
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────────────────〕
……──。
いずれも紙面を埋め尽くしている。どれも手書きだが、筆跡鑑定することが困難な字形で、個体魔力が残留しておらず指紋も録れない。差出人の名前がないので魔力環境照合も半ば不可能か。手が込んでいる。オトは恐らくこういった封書を何度も受け取っているが相手側の怨みを受け入れているからあえて口にすることもない。ゴミ屋敷まっしぐらなので棄てるほかないが、償う気がなくともオトは怨嗟を重く受け止めているだろう。こういったところからも、もっと早く切り込むことができたかも知れない。郵便物はオトへの届け物であるからテーブルに置いておくが棄ててしまいたかった。
ほかに目を向ける。オトはテレビを観るが、節電のため各種家電のプラグが外されている。カレンダが見当たらないのは他者との時間が必要ではなかった。カーテンがいつも閉まっていたのは闇に沈んだ立場を吞み込むため。観葉植物の類はなく殺風景な屋内は灰色の影が埋め、生活感がないとさえいえる。この世への未練をなくそうとしているようだ、と、一目で気づいてもおかしくないほどのヒントが散らばっていたのに、ララナは全て見落としていた。
……私は、本当にオト様のことしか観ていなかったのですね。
オトの言動はなかなか理解できるものではなかったからそれはそれで大切なことだ。とは、今だから言える結果論。生きていることが奇跡に等しいと思えることもまた結果論でしかないか。奇跡を引き寄せるにも、ヒントという光を集めたほうがきっと確実だった。
ララナはキッチンへ向かう。と、音羅が席を立ってついてきた。
「何か作るの」
「はい。朝ご飯の支度を致します」
「服汚れちゃわない。余所行きなんでしょう」
「構いませんよ。余所行きといっても家族と会うための心意気だったのですから」
「ふぅん、よく解んないや」
「いずれ解ることもございます」
レフュラル裏国遺跡の調査に出掛けたときと同じような緊張と期待、それに加えて今はもっといろいろな気持を纏っている。好きなひとが現れたときに音羅も知る気持に違いない。
四日間、会わない替りに玄関に差入れを置いていたララナである。冷蔵庫に何もなくてもオトが飢えないようにと思ってのことだったが、冷蔵庫を開けてララナは目を見張った。
……差入れが、全部残っております。
以前あげた四合の生米も。
ほかには、何も入っていない冷蔵庫。
……、……。
「冷蔵庫は開けっ放しにしたらダメってママが言っていたのにどう──」
音羅が咎めつつララナの横につき、ぎょっとした。「ママ、泣いて……。どうしたの」
「少し、思うところがございまして」
ララナは目許を拭って冷蔵庫の扉を閉めた。「これからは、ずっとオト様のお伴をしたいと思っただけです」
「……それで、冷蔵庫を開けっ放しに」
「差入れが全部残っているのです」
「え。パパ、食べてなかったってこと」
「はい。魔力還元体質ですから召し上らなくてもお体は平気だと思いますが……」
オトが差入れを食べなかった理由は、食べなくてもいいから、などということではない。創造神アースとの意識共有を絶つため油断しないよう、ララナ達との関係に甘えないようにしたからだろう。
そんな気も察せず、ララナは差入れを続けていた。
……私は、また、オト様を苦しめてしまったのかも知れません。
ただ、苦しめただけならオトは差入れを棄てていただろう。食べずに取っておいたのは、あとで食べるつもりだったから。
……オト様も、愉しみにしてくださった。
思いが同じだということが、同じ時空を生きていることに増して、嬉しい。
何もなくては何も作れない。オトが起きたら冷蔵庫のものを温めることにして、ララナは音羅を連れてダイニングに戻る。
と、窓際にオトが佇んでいた。朝日を浴びて、影も差さず、清清しげに目を細めている。
……ああ……同じ空気で繋がった同じ時空にいることも、大変に嬉しいです。
体の内側で何かがずっと騒ぎ続けて、ララナは脚が動かない。
「パパっ!」
一番に飛びついた音羅を抱き留めて、オトが苦笑した。
「最初はお前かい」
「えぇっ、何か不満げやげっ!」
「当り前やん。空気読め」
「あたし、まだ零歳だし甘え盛りだもの」
「『だもの』なんていう零歳に甘えられてもね」
そう言いながらも音羅の頭を愛おしげに撫でて、
時が止まったかのような一呼吸、ふわりと抱き締めた。
それから、オトがララナに半眼を向ける。
「待っとったよ。それに、待たせたね」
「……」
「どうしたん」
「……あ、えっと」
やはり脚が動かない。心は彼に向かっていくのに、体が動かない。
「感動しすぎやな。でも、……」
音羅を抱いたまま歩み寄り、オトが左腕でララナをそっと寄せ、「ありがとね」
その一言で、全てが報われたような気がした。
その一言で、全てを乗り越えられる気がした。
彼の言葉が嬉しくないわけがなかった。
失敗してしまうと判っていても、性懲りもなく舞い上がった。
居場所になってくれた。
一緒にいてくれた。
生きてくれた。
「私こそ、──」
太陽のぬくもりを両腕いっぱいに感じて、言葉が零れた。
過去が間違いでもいい。未来にならなくてもいい。彼と娘が生きていれば、全てが叶う。
──「破綻の日常」 終──




