二二章 神を欺く瞳
夜も明るい廊下。休日の朝も、振り返った記憶の中には眩しすぎるほどの明るさ。夏に向かっていることを顕すような暑い日でも、豪邸の中に発汗を促すような熱はなかった。訪れた両親の部屋、招いた両親と向かい合って座ったララナは、発汗を促す真実を聞いた。
「──。本当の親はレフュラル裏国のひとでね、君をぼく達に託して亡くなったんだ。──」
自分は見ず知らずの場所で生まれて目の前にいる「両親」に届けられただけでなく、起源というべき「じつの両親」は母国どころかこの世にもおらず会うことが叶わない。
生まれて数年。いったい何を考えていたのだろう。「両親」は自分の起源ではない。育ってきた約数年間の記憶は別の誰かから始まっていて、積み重ねてきた記憶や経験は「両親」が与えてくれたもの。記憶の培植という意味では勿論ない。けれど、同じようなことだろう。彼らがいなければ自分はここにはいないはず。そんなこと、思いもしなかった。
……私は、いったい、どこの、誰なのですか──。
亡きレフュラル裏国。そこで生まれたララナを誰も見ていない。そこに自分の起源を求めようにも確証がないということだ。〈聖羅欄納〉という名前も自称に等しく偽名に程近い。そんな名前に、意味は。価値は。
「羅欄納……」
「やっぱり、少し早かったかしらね……」
そんな「両親」の言葉にララナは微笑み返した。
「大丈夫です。私、姉として頑張ります」
他人の自分を育ててくれた「両親」はもとより、小さな妹に悲しい顔を見せられない。彼らの行為に報いるために、ララナは笑顔でいることにした。
(わたしは独り)
脳裏に、そんな声が響いた。ララナは、自分の声だと思った。
……私は、独り。この世に、独り──。
(そう、独り。独りは、寂しい──)
両親に会釈。部屋をあとにして、ララナは自然と玄関へ向かい、外に出て、広い庭を彷徨って、彷徨って、彷徨った。花花を指先で触れて、香りを嗅いで、感触を確かめた。温かい日なのに花は冷たい。日差は強いのに、肌寒い。弾かれたように花から手を離し、芝生の香りを彷徨う。
(寂しい。寂しい──)
……私は、姉です。姉です。姉なのです──。しっかりしなくては。
固めた拳をほどくような微風とともに、囁くような声が敏感な耳に届く。
「……終わるわけには──」
どんなことをしても生きる。そんな声だった。ララナはその声の主を庭園の陰に見つけた。目つきの鋭い黒衣の女性だった。傷つき今にも倒れそうな女性が、ララナに気づくやレイピアを突きつけていた。
それが、ラセラユナとの出逢いだった。
ララナに続いて名乗ったラセラユナが、どうしようもなく戸惑っていたララナの心境に気づき、誘った。
「わたしの全てをお前に預ける。その代り、わたしの力になれ」
自分を求めてくれるひとが一人増えたことに、ララナはひどく安心した。ラセラユナは肉親でもなければ今の今まで知人ですらなかったが、それゆえに、そんな関係でも求められることがあることにひどく安心した。
両親から聞いたこと、それを聞いて感じたことをララナはラセラユナに話した。娘として、姉として求められたとして、それに応えられなかったらどうなるか。そんな恐怖感もあれば、そもそも自分がどこの誰かという疑問も強くあった。そんなララナに、ラセラユナは武術や魔法を教えてくれたのだった。確かな力は自信に繋がる、と。自信があればどこへでも踏み出していける、と。ララナは、自信がほしかった。両親が誇れる娘で存れるように、妹が誇れる姉で存れるように、どこへでも突き進んでいける自信が。
初等部進学後、飛級して六学年生となったララナに、一つの試練が訪れた。
「お前、なんだよその髪、──気持悪ぃ!」
登園初日のことだった。血筋によって肌・髪・虹彩の色が変わることはよくあること。同じように、生まれ持った魔力の属性によって眼・髪の色が鮮やかに染まり得ることも知られていることだった。
虹彩こそ雅な京紫のララナだが、髪は金・銀・白・黒をも含む多色で、美化すれば虹色だった。世に存在するという二〇の属性魔力、全てを宿していたからだった。一学年生に「綺麗」や「不思議」とされた髪色は、六学年生の目には「不気味」に映ったのである。知識があるがゆえに、その稀有さや、ララナの内包する力を漠然と感じ取って恐怖した部分もあってのことだった。その日、帰ってすぐに、ララナは自分の髪をずたずたに切って、泣いた。ただ、泣いた。蛇口を全開にしてバスタブで水音を喚かせて。
朝、洗面台の前に立つと、鏡に映った髪が真白になっていることに気づいた。まるで感情が抜け落ちたかのように、真白になっていて、ララナは少しだけ無理なく笑うことができた。
「これで、皆さんを不快にしなくて済みます」
「お前は、それで笑えるのだな」
壁に寄りかかっていたラセラユナが呆れたような目差だったが、ララナは気にしなかった。期待に応えられないなら、不快な思いをさせるなら、いっそ、消えてしまったほうがいい。そんなふうに思っていた。ただ、心の底から消えたいだなんて思っていないから、消えなくて済むということに安心して、笑うことができた。
家族は白い髪を突然のイメージチェンジと捉えて驚いた。そんな反応をしてくれる家族がじつはとても稀有だということを、ララナは学んだ。彼らがいなければもっと早くに自分を完全否定していただろう、と。
六学年生での生活は、髪色が統一されたことで期せずして穏やかに過ぎていった。ララナとしてはどこか納得できなかったが、外見の標準化は同窓生の心に波風を立てぬために必要だった。
初等部で友人となった一部同窓生とともに中等部に進学し、飛級するまでは穏やかな生活が続いた。飛級後、三学年生になってすぐ、ララナは再び試練を迎えることとなった。
「女子として終わってるわね、あなた」
「天才だからってそんな見窄らしい髪でうろちょろしないでくれないか」
「学園の品格に傷がついたらみんなが迷惑なんだけど、責任を取れるのかい」
生まれながらの癖っ毛は女子生徒の嘲笑の的になるとともに、美意識の高い上流階級出身の生徒全般から敵意の的だった。
家に戻ったララナはもう泣きはしなかった。が、碌に使わないドレッサの前で項垂れた。癖っ毛がそんなに悪いのか。生まれながらのものを、なぜ否定する。髪色だってそうだった。
「めっずらしいー、お姉ちゃんがダウナじゃーん!」
きゃははと笑いながら部屋に入ってきた妹麗璃琉がララナの背中をばんばん叩いた。そのときにはアデルの障壁があって痛くも痒くもなかったが衝撃を感じないでもなかった。
「じつは、この髪を笑われてしまいました」
と、ララナが話すと、──教師には叱られているが──制服ですらお洒落にアレンジしている麗璃琉が嘲るように笑った。
「成績だけじゃなく外見も性格も三流、ダサくてモサくて落ち零れな女子だって、やっと気づけたのよね。いい薬じゃない、よかったわね。ってか登園前よりヒドくなってない、ウッザ」
ゆえあって麗璃琉は以前からララナを嘲っていたのでその点はいまさらである。が、櫛を引っ摑んだ彼女がララナの髪を梳き始め、
「あたし達の髪を梳いたりはするくせに自分のことはこのありさま。ちゃんとしてよね」
と、結い上げてくれたのである。「──はい、これでいいんじゃない。お姉ちゃんもツインテのほうが可愛いわよ」
癖っ毛を活かしたツインテールは、麗璃琉とお揃いのようでいて少し位置が高め。前髪の流し方は麗璃琉と逆だ。
「同じ髪型ってのも嫌だけど目障りだからレベル合わせてよね」
櫛をばんっと置いて去っていく麗璃琉が、ララナは恰好よく見えた。まるで職人芸だ、と。
翌朝になると、麗璃琉が手配したメイドに制服のアレンジをされてララナは登園した。生徒の見る目が一気に変わって、平穏無事を獲得した。ここでも、なんとか生きていける。そんな自信を獲得することもできた。麗璃琉がいなければこうはいかなかった。
さらに進学・飛級した先、高等部三学年になったララナは越えられない試練を体感することとなった。魔力還元体質として生まれて、三歳にして空間転移をマスタしていた魔法的天才児で、さらには神であるラセラユナから直直に指導を受けて武術も魔法もこなしたララナは、その才能を恐れられ、完全に孤立していた。そんな中、
「わたしが論文見てあげるから一緒に書こう」
と、一人の女子生徒がララナに理解を示し、事あるごとに励ましてくれたのだが──、創作魔法の論文発表会で、その女子生徒がララナの論文を盗んだ。発表順があとだったララナは、逆に、論文盗用を皆に咎められ、孤立は致命的に深まった。
論文発表会のあと、ララナは彼女に尋ねた。
「なぜ、盗用したのですか」
「何いってるんですか。盗用したのはあなたじゃないですか」
「その弁解が通ると思いますか」
「ここは世界最高峰の名門。場違いだって学べたんじゃないですか」
「だからこそ盗用など許されないのではありませんか」
「この学園に正攻法で来れちゃったんですね、あなたは」
「何がいいたいのですか」
「綺麗事並べ立てるひとって鬱陶しいんですよ」
怨みの眼。「自分は憎まれもせず怨まれもしないと本気で思ってるならおめでたいですね」
「左様なことは思っておりません」
これまで何度も嫌忌の眼を向けられてきたララナである。「あなたは私をいつから怨んでいたというのですか。なぜ、言わないのですか」
「逆にあなたはわたしに言うんですか。怨んでいたら言うんですか。言わないでしょう」
「話になりません。感情の理由を述べてください」
「──あなたの論文を読ませてもらったからですよ」
声を掛けられて間もない頃。「天才って本当にいるんだなぁ、って、感じました、認める、あなたは天才です。だからこそ、あなたは怨まれますよ」
どこへ行っても、それは同じということか。初等部のときから感じていたことなのでララナはいまさらという気がしないでもなかったが、彼女が悪びれもせず放った言葉に打ちのめされることになった。
「自分が正しいって疑わない眼ですね。自分は間違ったことをしてない。後ろ指を指されるようなことをしてない。だから正しいって疑わない。事実誤認の、暴力的な恐い眼です。それが狂信ってものですよ。その眼で、いったいどこへ向かってるんですか」
「それは……」
「ほら、あなただって応えようとしない。『感情の理由を述べてください』ですっけ。あなたの行動は天才らしく発想が突飛だから理由なんかないんですよね、まるで目的達成のために動く機械みたい。冷たいですよ、あなた」
彼女の表現はあながち間違いでもなかった。ララナは頂等部卒業を急いでいた。実力と自信を身につけて、ラセラユナに認めてもらい、その先で──。目的達成のために動く機械。少なくとも今は、そうではない、とは、言えなかった。
「そんな冷血だから頭が回らなかったんじゃないですか、この世界にしがみつこうとする気持が足りないんじゃないですか。だからさっき思いつかなかったんですよ」
「……なんのことですか」
「待時間に新しい論文を書けばよかったんです。あなたならそれができました」
「……なるほど」
「納得ですよね、それじゃあ、……ごきげんよう」
ララナは彼女の背中を見送った。この世界にすがりつく気持が足りないとの彼女の指摘は、間違いではない。これまでの経験上、全員と心から理解し合うことは不可能で、髪色や服装を取り繕ってもララナに対して反発する者、ときには怨む者も、いた──。先へ進むために程良く諦めることも必要だ。ここで諦めなければならないものが同窓生との調和や理解であった。だから決定的に深まった孤立を改善しようとも考えていなかった。止めは、待時間に論文を書けばよかった、と、いう彼女の言葉。あれは正論だった。新たな論文を書き上げることで才覚を見せつけ、論文盗用の真相を訴えれば説得力が出た。困惑したララナは何もできなかった。彼女の体面を信じきっていたから状況を吞み込めず、自分の番まで立ち尽くしていた。他人が決して綺麗事だけでは動かないことを知りながら彼女のそんな側面を疑わなかったのも越度といえなくはなかった。
盗んだ論文が評価された彼女は進学が決まったようだった。事後、ララナは彼女と会うことがなかった。頂等部に進学すると、彼女は、新たな魔法を開発することも、論文を発表することもできず、最高学府の競争から脱落した。一方でララナは、彼女とのこともあって孤立感から抜け出さないまま、密かに論文をプロフェッサに寄付して裏口的に学園首席の座を獲得、飛級の上で卒業した。
卒業を急いだのは、早く自信を得たかった。
(どうしてそんなに頑張るの。わたしは独り。ずっと独りなのに──)
頑張ったのは、孤立感から抜け出したいという気持もあった。時折響く蠱惑的かつ狂気的な声に、ララナは堪えた。
(私は、独りではございません。あなたには、負けません)
(……)
テストや論文発表会における評価や称賛の声、卒業証書の獲得は自信に繋がったが、どこか空虚なまま、ララナはラセラユナと肩を並べて神界の土を踏んだ。そこは、阿鼻叫喚の戦場であった。悪神の猛攻に押され、今にも侵略されそうな小さな町を見下ろしていた。平和だった頃は一家を支えた多くの大黒柱が武器を取っている。このような戦力に乏しい町は一〇分もあれば制圧される。
「この争いが、いずれ惑星アースにも及ぶ」
ラセラユナが闇の魔法弾を無数に作り出すと攻め入る悪神を多方向から正確に討つ。「頭か心臓を狙え。それが無理なら手脚を捥ぎ、次の一手に繋げろ」
「はい──」
侵略を食い止めるには圧倒的武力を示し、敵性分子に対して「その武力が無意味」と示す。この場にいない悪神への牽制としてもこの場の悪神を殺すことに意味を持たせる。その論理を活かす戦場としていささか小規模であるのは、ラセラユナの配慮だ。どんな形であれ殺しが初めてのララナがそれをできるかどうかは確実でなく、何事も小さなことから踏み出すべきである。ララナは不思議なことに、眼下で発生している戦闘を前に小さな争いと感じ、驚くこともなければ足が竦むこともなかった。自分でも不思議だった。北レフュラル大陸での魔物を相手にした戦闘訓練や海上で行っていたラセラユナとの修業のほうがよほど激しかったと感ずるほどだった。
「ララナ。お前は手前を行け。わたしは奥を行く」
「はい」
ララナの返事を受けると高台から跳躍して町の外縁部へ降り立つとともに押し潰した大地を振動させて注目を集めるラセラユナ。多くの武力がラセラユナを警戒、そちらへ向かう。そうして背中ががら空きになった悪神の一人を、ララナは魔法弾で狙い撃った。一瞬だ。頭が吹き飛んで倒れ込んだ悪神から目を外し、
……気づかれていないようですね。
冷静に状況を観察する。味方の死亡と同義の転倒音を戦場の騒音が掻き消し、悪神の耳には届いていない。ラセラユナの猛攻にこそ気づいても、ララナの攻撃に気づいている者はいなかった。ララナは続けざまに魔法弾を作り、高台から動かずさながらスナイパの如く一発必中で悪神の頭を次次吹き飛ばして無力化した。狙いは最も後ろに位置する者だ。そうすれば前行く者の足音に紛らわせて転倒音を隠すことができた。仮に気づいても、戦場から六キロ離れた高台にいるララナに瞬時に気づける者は皆無で、攻撃に気づいても戸惑いのうちにその頭が吹き飛んでいる。そうして一〇個小隊ほどを制圧されてようやくララナに気づいた悪神側の指揮官がいた。町の外縁部から高台に向けて悪神軍が進んでくる。が、そのときには陽動をかねたラセラユナの挟撃にほとんどの武力が失われ、悪神側に勝機がない。追討ちを掛ける。
……これでお終いです。
接触したモノを融かし、魔力に還元して奪い取る光の魔法〈融断光〉を用いて向かってくる悪神を残らず融解して制圧、ラセラユナを迎えた。
「よくやった。遠慮・情け・容赦、全て不要だ。それらは味方の命を奪い取ると心得ろ」
「──はい」
ララナとラセラユナの挟撃によって速やかに悪神を町から排除できたが町の被害がゼロとはいかなかった。最も速く、効率よく制圧する手段。それを考えながら、ララナはラセラユナの言葉に応じたのだった。平穏と対極の世界。侵略者たる悪神は平穏を乱す異分子だ。遠慮・情け・容赦、そんなものは必要がない。そもそも情もなく罪のないひとびとを殺して回る者に生きる価値があるか。ひとをひととも思わぬ者どもに、生きる価値があるか。
ない。
次なる戦場で、ララナは悪神を見れば躊躇いなく融断光を用いた。町中では守るべき民や町まで傷つけかねないと考えて控えていたが、神界において決して魔力が強いといえないララナは魔力の強化もかねて融断光による魔力の奪取を行い、比肩するもののない武力となることを目指した。
「──よくやった。次へ行くぞ」
戦闘終りのラセラユナの言葉が嬉しかった。武力たる自分の成長を認められている。その実感と自信を得て、ララナは融断光を始めとする魔法の精度を戦場で磨き、味方たる善神側を守り、悪神側には全滅を齎した。
聖家に戻ると、
「お姉ちゃん、また髪乱して」
と、文句を言いながら髪を梳いてくれる麗璃琉と話すのが嬉しかった。
「お姉様、この刺繍、どうやってやったらいいですか」
と、勉強熱心な瑠琉乃に針仕事を教えられるのも嬉しかった。
そうした聖家でのやり取りが短くなって戦場での時間が長くなっていったが、ララナは気にしなかった。
戦場に戻れば、悪神に融断光を浴びせてその命を奪い、
「──よくやった。次だ。ついてこい」
ラセラユナの背中を追って走れることが嬉しく──。
救われたひとびとの感謝の声と手振りを背中に感じて走るのも嬉しく──。
「お姉ちゃん──」
「お姉様──」
聖家で妹の声を聞けることも嬉しく──。
戦場に戻れば躊躇しない。情けを掛けない。容赦しない。
幾度となく繰り返された戦場と日常の往復。
とある戦場。どこまでも逃げる悪神の一人を、大地を迫り上がらせた袋小路に追いつめた。
「や、やめてくれ──!」
助けを乞う悪神の、さもしい目。「助けてくれ!」
「そういって助けを求めたひとびとをあなたは殺しました。報いです」
「戦争だ!こっちだってお前ら善神に何千と。守るためには殺すしか──」
「守るために無抵抗な民まで殺すのですか。素晴らしい論理ですね。愚かな自己肯定ですよ」
「ま、待ってくれ、オレは──!」
語りながら、逃げようと、生き延びようと、する。それが悪神。
「平和と戦争は対義ではないのです」
「な、なんの話だ……!」
「戦場は、対話の場ではないということです」
その両脚を融断光で捥ぎ取り、間もなく胸と頭も貫き融かした。
ララナの魔力は奪い取った悪神の生命に比例して増強され、もはやラセラユナですら及ばぬ域だった。そうして「比肩するものなき武力」になる前には、ララナはラセラユナの選ぶ戦場が牽制のための戦場でないことを気づいていていた。悪神の生存を許さない完全制圧。決して優位勢力とはいえないララナ達善神勢が悪神の勢力を削るための戦略であり、そこには味方である善神勢の保護と悪神殲滅による絶対的勝利が必要だった。それに気づいていたから、ララナは死亡した悪神に言葉を投げる。
「最初から、あなた方に勝ち目などないのです」
守るために、勝つために、躊躇わない、情けを掛けない、容赦しない。そのために磨き上げた魔力が誰に劣ることもない。
「勝てるがゆえに戦争したいと。それを正義と信じ込めるとは、恐れ入った、素晴らしいな」
「オトさん。またあなたですか……」
何度も現れては批判的なことを述べる無精髭だった。
「その論理が正しいと本気で思うん。自分が絶対的に正しいといえるん」
「絶対善など存在しません」
「その程度の認識はあるのか。感心した」
どこの勢力に与するか判らない、得体の知れない相手だったが、いつか論文を盗んだ同窓生と同じような論調に、ララナは背を向けた。
「戦場に不要ですがあえて言います。悪神の命乞いなど聞く必要がございません、と」
「そうかい」
火薬のにおう風。瓦礫の欠片のように姿を消した無精髭を追うこともない。
(独りは孤独。孤独は──)
「──よくやった。行くぞ」
「はい」
駆けつけたラセラユナとともに、行く。……私は、孤独ではございません。
(……)
争いに痩せた大地を駆ける。駆ける。駆ける。これはまだ前哨戦に過ぎない。戦争というにも小さな争いだ。そんなものに迷いを持っていたら、巻き起ころうとしている大戦争で命を落としかねない。
家に戻れば非力な姉を演じて笑い、戦場に戻れば多くの悪神を殺した。
平穏と戦場の、繰返し。繰返し。繰返し。
(結局、独り。わたしは、独り。委ねなさい。己の狂気に、身を委ねなさい──)
心が凍りかけていた──。
「数多のひとを殺した平和か。それで未来永劫、心の平穏があればいいな」
上から目線の無精髭の言葉に、揺れることもない。
「私達の行動は善神を救い、惑星アースのひとびとをも救っているのです。心の平穏が保たれています。間違いがどこにあるのですか」
「そうかい。それはよかったな」
砂のように消え失せる無精髭。
(結局、あなたは独りなの)
……なんの問題がございますか。
守るべきモノを守り、斃すべきモノを斃している。問題はない。ないはずだ。
心が凍っていた──。
そんなある日、ララナは惑星アースのある島に降り立った。悪神に対抗する戦力と成り得る強大な力を持った一長命達を誘導し、成長を手助けするためだったが、その島で、思わぬ出逢いがあった。小さな少女。歳は、ララナと同じか、あるいはもっと下のようにも思えた。個体魔力の酷似から自分と深い関わりのある子であるとララナは察知した。親戚の線はあり得た。滅びたレフュラル裏国で親戚がいたかは知りようもなく、個体魔力の近似性は麗璃琉と瑠琉乃のあいだのそれに等しく、麗璃琉・瑠琉乃と自分のあいだにはなかったもの。すなわち、小さな少女は、ララナの「じつの姉妹」という線が濃厚だった。
少女は花売りだった。目が合うと、時が止まったかのように固まった。
少女が自分と同じ感覚を得たことを、ララナは察した。
「お姉さん──」
「……私は、聖羅欄納と申します。あなたの名前は、なんですか」
「──レイス。お姉さん──!」
売り物の花を投げ出しそうな勢いで抱きついてきた少女をララナはそっと抱き竦めた。生き別れの姉妹がいることなど想像もしなかった。涙が零れて止まらなくなっていた。黎水と出逢えただけで、血みどろの争いが意味あるものと改めて実感できた。戦い続けていたから、ここは守られた。黎水が生き延びることができた。そう、思うことができた。
愚かな自己肯定だった──。
一長命達の船出の日、黎水が倒れた。黎水をこれまで育ててきた村長が話したのは、黎水の体が弱く時折倒れていたということだった。魔力還元体質ゆえであろう顔色こそ悪くなかった黎水だが、健康体ではなく、そのときには手遅れだった。
細い息が、少しずつ、少しずつ、止まっていった。捉えられないほどの細かい息が続いて、──小舟も揺らさぬ凪のように、静かに、黎水は息を引き取った。
黎水の体に触れると、浮上しかけていた魂を感じた。
(お姉さん──、わたしを連れてって。お兄さん達を、見守りたいの)
上陸した一長命達と仲良くなっていた花売りの少女の願いだった。
(私も、レイスちゃんを連れていきたいと思っておりました)
(よかった……。じゃあ、一緒に行こう)
肉体は滅びゆく。
魂はともに存る。
悲しくない。寂しくない。
そうして──、ララナは仲間とともにジーンと対峙し、血溜りを前にした。戦場ではあまりにありふれた光景。一二人の血も数多の死と等しく感情を揺さぶることがなかった。
「所詮は寄せ集め、容易いものだ。……お前にはわたしの攻撃が通ぜぬと観たが果して独りで何をなす」
予測していた。ゆえになんの戸惑いもない。黎水とも打合せしていた。ゆえに躊躇いもない。
黎水の声がした。
(お姉さん、わたしを使って)
「(解っています。)私は、独りではございません」
「此奴らは最早治癒魔法でも助からぬ。増援が存在したか」
「彼らと私だけです」
「お前一人で十二分だろう。欠片も残すつもりはなかったが後の祭だな」
「なんの話ですか」
「レフュラル裏国の末裔、お前の存在はイレギュラにほかならぬ」
故郷を滅亡に追いやった者の口から経緯を語ってもらう考えがララナにはあった。戦争終結後を予定したそれを、前倒しにした。
「やはりあなたの指示でしたか。理由はなんです」
「知っているだろう。戦場は対話の場ではない」
「いかにも」
理由がどうであれ、ないものはない。取り戻せないものには縋ることもできない。争いを終わらせる。それがここで果たすべき目的だ。
ララナは体内に宿る黎水の魂を密かに破壊し、その効力でもって仲間を蘇生、ラセラユナの攻撃を皮切りに、仲間が次次ジーンに仕掛けていった。
ジーンが倒れ伏したのを認め、各自が武器を治めていくと、ララナは黎水の最後の声を拾った。
(お姉さん、お願いを聞いてくれてありがとう。これで、お別れだね)
(はい。さようなら、レイスちゃん)
(──。いつか、お姉さんが、救われる日が来るといいね)
(……──え)
ぱっと消えた黎水の声、そして、気配。
その瞬間、ララナの胸に、無感情だった全ての時間が押し寄せた。数年間。何をしてきた。何千万、何億、あるいは何十億の民を救い、悪神総裁ジーンをようやく斃した。これで数多のひとが救われ、惑星アースの非力なひとびとも救われた。
数年間で、何人殺した。
何十、何百、何千、何万、何億──。敵味方を問わず、記憶にない。
(これが、あなたの真実。あなたは殺戮者)
黎水とは異なる声が、ララナの脳裏に響いていた。ララナは両手に魔力を込め──、
(わたしはあなた。あなたの絶望は、わたしのもの。──)
そこからの記憶がブツッとなくなった。
目が覚めたとき、全てが終わっていた。
ジーンとの戦いで荒れ果てた土地が、跡形もない。
「これを、私が──」
時遡空間投影によって再現すればそれは明らかだった。メリアの魂に体を乗っ取られたララナは仲間に魔法弾を向けた。これをラセラユナが防ぐと、一長命が皆を守ろうと前に出るが、ララナがさらに放った城ほどもある大剣が地面に突き刺さるや星に亀裂が走り、空に向かう凄まじい強圧が発生、弾け飛んだ大地の破片に仲間が打ち上げられた。次次に弾け飛ぶ大地の破片に跳び移ってララナの抑え込みに向かうも、大地の崩壊はとどまるところを知らず、ララナとの距離は離れる一方であった。そんなとき、ララナの前に突然現れたのは無精髭であった。
……「それで本当にいいのか」。
無精髭がそう話しかけたことを口の動きで読み取った。無精髭が何度も接近するがその都度ララナの魔法弾に吹き飛ばされた。諦めずに大地の破片を跳び移る無精髭に攻撃の意志は全くなかった。──ララナが攻撃の手を緩めた一瞬の隙を衝いて無精髭がララナを抱き竦め、メリアの魂が眠りについたか、宙に寝かせた。
時遡空間投影を終えた真暗な宇宙空間。隣に無精髭がいることにララナは気づいていた。無精髭ことオトと話し、救いを求める言葉を聞き、願いを得た。いつしか見失った願いを取り戻した。本当はもっと早くに気づかなければならなかった大切なものに、気づいた。何回も接触してきたメリアの狂気に最後の最後で吞まれて失ったものは、悪神総裁が統べた星。誰かに取っての大切な命。誰かに取っての大切な場所。星の数ほどのそれを、
……私は、奪ってしまったのですね──。
(あなたは、わたし。わたしは、あなた。あなたの孤独をわたしは知っている)
メリアの言葉は、真実だ。(委ねなさい。わたしは──)
真実だが、
(──あなたではございません)
二度と吞まれない。失ってからでは遅い。吞まれたら失わせ・失ってしまう。オトに救われて仲間は無事だった。けれども、一歩間違えば仲間をもその手で殺めていた。恐怖を、両手を固めて実感した。
躊躇っても、迷っても、ときに戸惑い、ときに逃げても、失われていくものに手を伸ばすことをやめたくない。零れ落ちていく大切なものに手を伸ばしたい。何度でも、何度でも──。
消せない過去が今を支えている。
転移先の座標を伝えたオトが小さな星の海を消して膝をついた。平気な顔をしていたが、段取り説明のために星の海を維持して相当な労力を費やしたことは明白だった。それでも深夜の作戦決行に備えてすぐ音羅に会って段取りを伝えた。
ララナは星の海に消えた人物を観たことがなかったが、その光景は神隠しのよう。忽然と姿を消して数分後、同じ場所にオトと音羅が現れた。そこにずっといたのに姿が見えなかったかのようだった。
零時に備えるためオトを一人にして休ませ、ララナと音羅は一〇三号室で待機することにした。
ララナは落ちつかなかった。表面上は平静を装って夜食を作っていた。暮れ泥む窓の外に同じかあるいはそれ以上に時の流れを遅遅と感ずる。つまらないとか、窮屈とか、苦しいとか、やりたくないとか、来ないでほしいとか、マイナスの思考が席巻しているのでもないのにこんな体感を覚えるのは希しいといえば希しい。ララナとしては待ち遠しいのである。早く零時になってほしい。豆腐の水抜きが終わったのに、野菜が煮えたのに、餡ができたのに、夜食の時間はまだ来ない。
「餡掛け豆腐だね!」
とは、豆腐にコーンスターチをまぶした音羅が言った。
「はい、そうです。甘酸っぱい餡を掛けますが、音羅ちゃんは大丈夫ですか」
「大丈夫だと思う。昔パパもよく食べていたみたいだし。って、あたしの趣味とは関係ないかな」
「味覚が似通うことはあると思いますよ」
お菓子が好きなところは間違いなく自分達に似たとララナは思う。
「パパは苦いのや酸っぱいのが苦手だし、辛いのは大嫌いのはず。あたしもそうなのかな」
「追い追い試してみるとよいですよ。オト様の記憶に引き摺られて自分の好みを曲げることが好ましいとは思いません」
オトの味覚や趣味に合わせすぎると偏食家になってしまいそうだ。
盛りつけた餡掛け豆腐は窓の外に似た色だ。
「ママ、ゆっくり待とうよ」
と、音羅がくっついた。「時間が長いってことは、パパがそれだけ回復できるってことだから、きっとうまくいくよ」
非常に前向きな考え方だ。
「そうですね。私達もゆっくり休んで備えなければ」
「そう言いながら、早く食べちゃいたいけど」
音羅が初めての餡掛け豆腐に熱視線を送っている。素手で食べてしまいそうなので、ララナは皿をテーブルに運んで、音羅を席につかせた。
「『いただきます』」
挨拶が重なった。ララナが驚いたのは示し合わせてもいないのに挨拶が重なったことであるが、音羅がすんなり持った箸を上手に扱ったこともだ。綺麗に切り取った豆腐を挟んで口に運ぶ所作まで淀みがなかった。時間の経過に伴って継承記憶が音羅の経験にまで反映されていることをララナは確認したのである。
……確かに、これなら肉体保存も適切に行えるでしょう。
高難度といわれる魔法は複数の魔法技術や術式を用いていることがほとんどで、肉体保存もそのうちの一つ。であるから、音羅にできるのかどうか不安があったのは確か。もし失敗すればオトは肉体を失って死んでしまい、音羅はオトを死に至らしめてしまったトラウマを抱えて生きていくことになってしまう。それはとても不幸なことだ。
「う〜〜〜んっ、ママ〜、カリカリのほわほわのトロトロの甘酸っぱさがおいしいよっ!」
「っふふ、(全部表現してくれましたね、)味わい豊かなようでよかったです」
「記憶にあるのと少し食感が違う気がするのはなんでだろう」
「主に豆腐に纏わせたものの違いでしょう。ダゼダダの家庭でよく使う片栗粉は餡をより吸い上げて口当りが柔らかいのです。対してレフュラルでよく使われるコーンスターチは崩れ防止に強くカリカリに仕上がりますが、時間が経って水分を吸うと粉っぽい印象になりますね」
「同じ料理なのに素材が違ったりするんだね」
「ええ。国ごとに食材や調味料もさまざまで、同じき見える料理でも全く異なる食感や風味が愉しめますよ」
「へぇっ、ダゼダダ風も食べてみたいなぁ」
「では今度そちらを作ってみましょう。さ、よく嚙んで味わってください」
「うんっ」
音羅の笑顔は微笑ましく、空色に染まってなお眩しい。
……音羅ちゃんに愉しい日日を送ってもらうためにも、まずは、新たな魂の確保です。
時間はたっぷりある。段取りのお浚いをしておこう。まずララナはオトの教えてくれた輪廻転生機関で新しい魂を確保しオトの家に帰還する。次に、音羅がオトに対して肉体保存魔法を発動すると同時に、オトの魔法でオト、ララナは霊体ごと魂を抜き取って死後世界誅棺へ空間転移する。ララナの持つ新しい魂をオトに馴染ませ人格や記憶を保存しつつオトが反射発動型封印魔法をセット、新しい魂との入れ替えで霊体の外に出る創造神アースの魂の封印を見届ける。この時点でオトは魔法力を失っていることが想定されるため、万一にも創造神アースの魂が解放さないようオトの封印魔法に重ねてララナが封印魔法を複数施す。死後世界からオトの家に帰還したらいよいよ〈入魂〉、保存中のオトの肉体に魂と霊体を収める。最後に、音羅の肉体保存魔法を解除してオトの肉体に生体活動があることを確認。以上で作戦が完了する。
あとは、細かな注意事項だ。魂は霊体や肉体の成長をゼロから支えているのが普通だが、今回は成長した状態の霊体や肉体を突如支えることになるので、新たな魂が予期せず潰れるか霊体や肉体が機能不全を来してしまうおそれがある。それら異常を回避するため魂と霊体・肉体の連結をゆっくり行う必要があり、そのためには霊体や肉体に魂をしっかり馴染ませておくことが必要だ。連結を急ぐと、手を動かそうとすると脚を動かすことになったり、話したいことが話せなくなったりしてしまい、極端な話、生命維持活動に支障を来して死亡する。オトの言葉を借りるなら「生命は数多の奇跡のもとに生まれている」ということである。オトの延命をするなら急ぐのは本末転倒なのだ。無論、魂を馴染ませておくのは人格と記憶の保存のためにも必要で、それをしなければ創造神アースを封印できてもオトが絶命してしまうので意味がなくなる。
夜食を済ませた頃ようやく夜の帳が下り、ララナはカーテンを閉めて部屋の燈を点けた。食器を片づけると、「体がベトベトするかも」と、言う音羅に歯磨きをさせて、ララナは一緒にお風呂に入ることにした。
昼に汗をかいてからいろいろあってシャワを浴びる時間を取れなかったので音羅の不快感は相当なものだっただろう。ララナは泡立てたボディソープを使って音羅の体を手で満遍なく洗ってあげる。スポンジを使わないのは、手のほうが肌を傷つけないからである。
「おや、音羅ちゃん、もうこそばゆくないのですね」
「えへへ、こちょばくないよ。えらいでしょう」
「(偉いとは少し異なりますが、)ええ、すごいですね」
見えないところで成長しているよう。昼に観られた敏感さはどうやら一時的なものだった。 ララナは急いで湯船にお湯を溜めながら、シャワで音羅を洗い上げる。と、彼女が着膨れしていたことに気づいた。お腹周りが少しほっそりして、しっかりとくびれができている。
「ママ、どうしたの。あたしのお腹が気になるの」
「気になる、と、申しますか、思った以上に成長しているのですね。ワンピース一枚ですから変化はないように感じておりました」
「そうだね、あたしもびっくり。背なんてこ〜んに小さかったのにな」
どんぐりを拾うような手振りでオーバに表現する音羅。「パパみたいに、ママにおんぶしてもらいたかったりしたんだけどなぁ。と、」
「オト様に無断で記憶を語っては、」
「ダメ、なんだよね。ごめんなさい」
「話は戻りますが、おんぶしましょうか」
「恰好悪いよ。胸はアレだけど身長はあたしのほうが大きいもの」
「ふむ」
ララナは音羅の言葉を聞いて少し思うところがあった。「私ももっと抱っこしたりおんぶしたりしたかったですからね」
ことさら誹られた頭髪以外に生きる上で外見を重視してはいないが、音羅が気にしているのであればたまには意識してみるのもいいとララナは考えた。
「私がもう少し大きければ恰好がつきますか」
「うん、でも──、あ」
オトの知識を拾ったのだろう、音羅が目を見張る。ララナはうなづいた。
「ええ。やろうと思えばできますよ。私はメリアさんの魂を持つ化神、つまり神に連なる者ですから」
神とゆかりのある生命体は肉体の形や大きさそのものを変化させることができる。時間が経つと霊体に依存したもとの姿に戻るが、爪の長さや髪質などを変化させることも可能である。
湯船にお湯が溜まったところでララナは肉体を変化させ、音羅より一回り身長を高くした。
「わぁ……、ママ、魔法少女みたい!」
「魔法少女。それはなんですか」
「なんだろう。うんとね、簡単にいうと別人みたいってことだよっ!」
「なるほど、そういうことですか」
成長してやっと「少女」と表現されたのは少し残念な気分だが。
「手脚が一層すらっとしたし、大人っ、大人だよっ!おっぱいぽよぽよ〜っ!」
「あわっ、暴れないでください」
ぽふっと胸に顔をうづめる音羅をそのまま抱っこして、ララナは湯船に入った。不思議なことに音羅が触ってもララナの敏感肌は反応しないようで、音羅が身動ぎしても平気であった。
「肉体を凍結していなければこうなっていたであろうという姿に変えてみましたが、気に入ってくれましたか」
「うんっ!もとのママも好きだけど、今のママもめたんこいい!」
「っふふ、それは、それは、めたんこよかったです」
音羅を背中から抱いてゆっくり湯船に浸かると、ララナは名状し難い安息感を得た。
「ん〜〜、こうしていると安心するよね……」
「ええ、とても……」
安らぎすぎてまどろみそうになる。
湯を揺らめかせて、音羅がララナと向かい合い、脚を回すようにして抱きつく。
「なんかね、変な感じがする……」
「どのようにですか」
「昔もこんなふうにしていた気がする。ママの大きな胸に顔をうづめて、全身の力を抜いてのんびりして……。きっと、小さいときのパパの記憶とごっちゃになっているんだけれど」
「そうですね。でも、それは音羅ちゃんが体験するはずだったことかも知れません」
小さな体で親の背中や胸に縋ったり眠ったりすることがほとんどなかった音羅。もっとそういった経験をしてほしかったとララナは思う。と、いうのも、じつの両親とのそんな記憶がララナにはない。害されることがないように早く成長してほしかったことも本音であるから、身勝手な気持か。
「音羅ちゃんはきっと誰より成長が早くて、魔法も上手で、これからいろいろな経験を積んでいくと思うのですが、今は私達にたくさん甘えてください。その経験は温かい想いとなって、たくさんのひとに伝い繋がるものです」
「伝い、繋がるもの」
「そうです。誰もがそんな思い出を持っているわけではございません。人生模様は星のように無数です。たくさんのひとに支えてもらい幸せに過ごしてきたひとも、独りきりで死に物狂いで不幸に抗ってきたひとも、この世界に住んでいます。ただ、誰もが同じく、帰るべき場所を求めているのだと私は思っております。それが心の落ちつく大切な場所となって自分を支えてくれるからです。そうして誰かの大切な場所が次の世代に受け継がれていけば誰もがつらい出来事を乗り越えていける……。音羅ちゃんに取っての私やオト様のように、いつか音羅ちゃんもそんなひとに、そんな場所になれるように、私は祈っております」
「……うん、…………」
温かくなって眠くなったのだろう。音羅が寝息を立て始めた。
……今は、ゆっくりおやすみなさい。
五時間後には大仕事が待っている。
……と、そういえば。
魂が同じであるからララナの障壁を纏った音羅が温まれていない。体が冷えて眠くなってしまったのだ。音羅をそっと引き離し、しばらくお湯に浸からせてから起こさないように静かに湯を上がった。風邪を引かないよう水気をしっかり拭った音羅に服を着せたララナは、替えの布団で一緒に横になった。
ララナがこうして一緒の布団に横になったのはオトと妹。じつの両親とこうした記憶はないので、当り前のようなそんな記憶を音羅には刻んであげたかった。
「ずっと憶えていてくださいね──」
囁くように背中を抱き寄せて眠りについた。
月夜である。
あれから時計はいったい何秒を刻んだか。無慈悲に、冷徹に、時間を費やしたか。
(最近よく「現在」が飛ぶ。貴様、何か企んでいるであろう)
(暇潰しだ)
オトは、創造神アースの問掛けに問掛けで応ずる。(そんなに心配ならお前さんなりに警戒すればいい。俺はそれを咎めん)
(ふむ。警戒しよう。貴様の妻となったらしい娘といい、生まれた娘といい、並外れた人外であることは間違いないがゆえ我も本気にならざるを得まい)
(創造の力が惜しくなったか)
(現段階貴様が我を害するが確定的でないがために我は監視の目を持つにとどまる。知っておろうが、貴様の感ずる全てを我は知覚する。いわずもがな危機あらば貴様に預けた力を奪還する。いかに)
(勝手にしろ。だが奪還という言葉は奪われたものに対して使う。お前さんは創造神の器じゃないな)
(奪われたも同然の力ゆえにあえて奪還と表現したまでのことよ。細かき眼は貴様の美徳ゆえ責めはせぬが、まあ、よそう)
(そうしてくれ。騒がしいからな)
自分以外に誰かがいたことはほとんどない一〇二号室。オトは、ここを自分の家とは思っていない。
仮暮しは、もうすぐ終わる。
黙って座っていたオトは、時を経て、創造神アースの意識が途切れたことを察した。それは八年間の経験とオトの警戒心が為す察しである。魔力を持つ者は魔力を体内に潜めて気配を殺せるがそれでもそこに存るという事実を消すことはできない。また、無魔力の人間が精一杯に気配を殺してもそこに存るという事実を消せない。ゆえに気配は確実に存り、感ずることができる。創造神アースは意識体であるため実際に息をしているのではないが理屈は同じだ。そこに存るということは生体活動が生じている。意識や神経の伝播、それが創造神アースの気配ということだ。創造神アースの意識が途切れたとはつまるところ、創造神アースがオトとの意識共有を絶ち、何も伝播しないということ。早い話が死んでいるように感ずるのである。
その間に部屋にいくつかの魔法を施して、オトはララナの部屋に向かった。鍵は夕方にララナからもらっていた。籍も入れていない男を信頼して鍵を渡してしまうのは不注意だが、そんなララナをオトは信用する。当然のことだが玄関扉は鍵で難なく開いた。開かなければララナを手放そうとは思っただろう。
小綺麗にした玄関。音羅の分まで靴が揃えられている。ゴミ一つない動線。静かな屋内。眠りについた周辺住民も多い。鳴らずの足音は外を吹く風音になお消える。
(なんだ、夜這いか)
と、創造神アースの意識が唐突に割り込んだ。
(煩い、急に入ってくるな)
(いや何、監視だ)
(時と場合を選べ)
オトは割と本気で注意したが、創造神アースにも言い分はある。
(意識を共有していなければ何を見聞きしているかも判らぬのに自ずから不粋を働くか。ゆえにわたしに非はない)
(口達者やな)
(事実を述べたまでだ)
(それもそうだ。勝手にしろ)
オトは目的は当然ながら夜這いではない。(面白いことは何もないと思うがな)
(何も、か。よかろう。監視開始だ)
創造神アースのその言葉を合図とするように、オトは寝室へと向かった。
瞼を開けると、遮光カーテンの隙間から月が洩れていた。
……何時でしょう。
「あと三〇分はある」
「オト様……」
「そのままでいいぞ」
いつかのように掛布団が動いてララナの背中に熱が重なった。
「しばらくこうしとろう」
「川の字ですね」
「形だけは『川』っぽいが『彡』のほうが近いな」
ララナの胸に顔をうづめた音羅が敷布団の外に元気よく足をはみ出している。
「『川』は無理ですね」
「ってことで、お前さんにひっつくことにする」
「はい。……」
娘の寝息。彼の鼓動。二人のぬくもりに包まれる。
「私、今、とても幸せです……」
「そ」
と、首筋に顔をうづめたオトが言うので、ララナはくすぐったくなった。が、数秒後、
「待て。創造神アースに俺達は完全に見張られとる」
……、……。
否応なくララナは緊張した。零時決行の作戦を見抜かれてしまったのかと思うか否か、ララナは何も考えないようにした。オトがララナの心を読んでいた場合、創造神アースもそれを察してしまう。それは、作戦を気取られ、妨害される危険と直結する。
「そう固くなるな」
「いいえ、しかし──」
「全部、俺のいう通りにしろ。然すれば全て問題ない」
「……」
声に出して返事をしてよいのか判断できず、ララナは小さくうなづくにとどめた。
幸せな心地が一転して、緊張の糸を張りつめた生き地獄を、数分。
オトが布団を出た。
「じゃ、あとで」
「──」
ララナは起き上がることもできず、音羅を抱き締めて小振りにうなづいた。
オトが去り、玄関扉の閉まる音がして、ララナは緊張の糸を緩めた。
大怪我寸前の妹を助けたとき以来か、それか、大暴れの精霊に妹がむちゃな突撃を掛けたとき以来か、緊迫の汗をかいたのは、久しぶりだ。まるで、人質を取られているようだった。
作戦を感づかれなかっただろうか。ララナはそれが心配だった。オトが布団に入ってから監視されていると告げるまでに、ララナはその幸福感を守るために、と、作戦の流れを復習してしまっていた。オトに制されなければ延延復習していただろう。
……もし気取られていたら、私は……。
後悔してもしきれない。
オトが「あとで」と集合を示したからには大丈夫なのだろうが創造神アースがオトに気づいていないふりをしていたらどうだ。作戦がいつ失敗してもおかしくはない。
妨害があった場合、どんな手を使ってでも打ち破らなければならない。
……この作戦だけは、絶対に失敗したくございません──。っ。
タイマをセットした携帯端末が二三時五五分を知らせる。調理中などによく聞いている電子音なのに、びくりとしてしまった。
が、そのくらいの警戒心がなければ。終末の咆哮や再生の暁へ至る前哨戦、創造神アースの創造物・輪廻転生機関──、足を掬われかねない場所にこれから侵入することになる。心を引き締めた。
……行かなくては。
泣いても笑っても、もうじき全てが決する。
ララナは音羅を軽く揺すった。
「んぅぅ〜、ママぁ。なぁに〜」
「時間です。オト様の部屋へ参りますよ」
「〜〜〜、んぅ、あ」
ぱちっと瞼を開けて音羅が飛び起きた。「そうだった、作戦だよね、早く行かなきゃ!」
「そ、そうですね」
音羅の心の声が、それ以前に張りのある元気な声が、創造神アースに筒抜けになっていたりしないだろうか。
……いまさらですが、とても不安になって参りました……。
ララナまで作戦について考えてしまうと情報をもっと曝す危険性があるので、ララナは音羅に、「夜間は静かにするよう」と、躾らしく指摘して口止め、一〇二号室に急いだ。
呼鈴を押す時間ではない。一〇二号室前にやってきたララナは、ドアノブをそっと回した。鍵が開いている。音羅を後ろに連れて入室した。
「お邪魔致します」
「パパ、ただいま〜」
音羅にしてみれば家が二つあるような気分。ララナを追い抜いて走っていった。
カーテンの閉まった暗がりのダイニング。いつもの席にオトが座っており、隣に音羅が佇んでいた。
「参りました」
「ああ。話すことは特にない。やろう」
と、オトが席を立って言った。
それが合図であることをララナは察した。段取り通りに南を向いてララナは即座に空間転移した。転移先は──。
……っ。
空間転移後は気温・気圧・魔力環境の変化で酔いのような状態に陥ることがある。環境の異なる惑星アースと各神界へ、幼い頃から空間転移を繰り返して一度もそんな状態に陥ったことのなかったララナが、今、少し酔った。
……頭が、くらくらと。
それが環境の違いによるものか、と、訊かれれば「そう」だ。物理的な環境変化からは全耐障壁が守っているのだから、目に映った光景に対する拒否反応だ。
暗がりのダイニングから、見たことのない、この世のものとは思えない景色。ララナの眼前には、現在進行形で斑を描く壁と床、天井がある。紫・黄・赤・緑・青・橙・白・黒、見つめていると平衡感覚が失われそうになる。一目では壁・床・天井があることすら気づかないほど目まぐるしく変化する景色は錯乱状態に陥ったかのようで。ララナは一旦瞼を閉じて平静を取り戻そうと試みるも、場が許さなかった。
〔iiiii iiiii fbmb gh lhgstb fbmb gh lhgstb iiiii iiiii ──〕
肌がぞわっとした──。女性の声か、意味不明な言語のようなものが大音量で空間を響き渡ると斑がさらに激しく流れて警報らしき耳障りな音も連続した。太股に両手を当て、斑を見据える。慌てず、冷静に。これくらいの事態は想定していた。
……セキュリティですね。
ここには、ララナしかいない。……切り抜けなくては。
振り返ると大きな空間が広がっていた。そこには、斑に紛れた真球が列を成して無数に漂っている。その真球は魔力を感じないがララナの眼には確かに見える。ゆえに解る。直径一〇センチメートルに満たないこの真球こそ、
……真新しい魂です!
魂の、とてもゆっくりな列全体の動き。それが、前のほうから急速となり、やがて全ての魂が目にも留まらぬ速さで流れ始めた。
〔fbmb gh lhgstb fbmb gh lhgstb ──〕
〔dtblrnn lxrh dtblrnn lxrh ──〕
相変らず何かの言語が流れ、警報音が続いている。ララナは背後の壁に魔法刃で傷をつけて脱出箇所の目印にしようとしたが、魔法が使えない。
……自然魔力が集ま、いいえ、ございません。
魂が汚染されないよう自然魔力が全くない空間、それがここ輪廻転生機関。いつものように自然魔力を集める技術では魔法を使うことができない。
……私の持つ個体魔力で全てをこなさなくてはならないということです。
オトには及ばないものの、ララナの持つ個体魔力は多い。原理が解れば、魔法を使うことができる。
個体魔力を集束して魔法刃を形作り、背後の壁を改めて狙う。すると、
ズギャァァァッ!
と、音を立てて床から天井まで一気に断裂した。
……この空間では、個体魔力の作用が大きくなるのでしょうか。
手加減したつもりが見上げるほどの大きな目印になってしまった。ただ、そんな目印の奥には空間がなく、壁が地続きとなっている。分厚い一枚の壁が外まで続いている可能性がある。
……脱出時は手加減する必要がなさそうです。
空間転移で脱出できれば壁を突貫する必要はないが、オトが脱出経路を示したことを考慮すると、脱出完了まで警戒心を手放せない。
それより今は、逃げるように消えていく魂を見据える。壁に目印をつけたあいだに、十数メートル四方の空間を埋め尽くしていた魂が半分以上なくなった。
その一つ一つが現世で誰かの新たな魂となる。その一つ一つが新たな命となる。一つ奪えば命が一つ生まれなくなったりするのだろうか。未来が一つ閉ざされたり──。
……何を考えているのですか!
ここまで来て躊躇うなど。オトの性格からして善たる者を害することはない。現世に不足している分を補うのに十分な魂が蓄えられていると考えたからこそここに目をつけた。それに、ララナが訪れるまで魂の流れは緩やかで、ほとんど動いていなかった。ここにある魂は飽くまで「補填用」で、最優先で主たる魂として生まれ落ちるわけではないのだ。
次次消えていく魂を前に迷うことはない。ララナは狙いを定めて左手を向け、
……来てください。
一つの魂を引き寄せる。が、……っ、なんですか、この引力……。
一点に吸い寄せられて消えていく魂。その一点には壁があり、壁全体に張りついた斑の流れが集まっている。ララナの左手は魂の吸引を維持しているが一向に吸い寄せられない。それどころか魂がじりじりと離れていき、逃げられてしまうのは時間の問題。
……なるほど、斑の流れ一つ一つが分力で、一点に強い合力を生んでいますか。
一人で綱を引くのと一〇〇人で綱を引くのとでは後者が優位とは誰の目にも明らかである。魂を引き寄せている壁の原理に推測がついたので手の打ちようはある。先程壁に目印をつけたとき、斑の動きが寸時遮断されたのをララナは見逃してないなかった。斑が、一点集中の吸引力を支えているなら、
……壁全体の斑の流れを遮断できればこちらが優位になります。
手加減しない。右手の五本指から光線を放って魂の列には当たらないように壁だけをノコギリ状に撃った。その瞬間から斑の分力が少しずつ断続的に失われ、左手に魂が近づいてきた。絶え間なく斑の流れを遮断して、毎秒数ミリメートル程度しか吸い寄せられない魂をついに左手に収めて体内に吸収できたとき、
〔〔〔〔〔iiiii iiiii iiiii iiiii──〕〕〕〕〕
同音の音声が無数響き渡り、耳を劈く。さらに、斑の流れが目に染みるほど激しくなって魂の列は壁の一点に消えた。──魂鼎であるララナには、魂に刻まれたものを読み取る能力がある。吸収できた魂は誰かの意識・記憶を有していないことが確認できた。
……一つ確保できたのですから、ほかのことに目を向けている暇はございません。
個体魔力を使用した空間転移を試みたがいつものように転移できなかった。
……セキュリティが作動し、転移妨害が生じているのでしょう。
魂を奪われないように、また、輪廻転生機関に対するあらゆる危機的状況を危惧して創造神アースが対策を立てていたとすれば、空間転移妨害は当然の対策。ララナは背面の壁を振り返り、斑の錯覚で見失いそうな目印の傷跡を捉え、攻撃を仕掛ける。それが生物であれば跡形も残らない。それほどに鍛え上げた破壊のための魔法〈融断光〉だ。
パーーーーッ!
遮る物を喰らい尽くすように、眩い光が容赦なく壁を融かす。食事で摂り込んだ食物を魔力に還元する魔力還元体質に似たようなもので、触れた物を魔力に還元する魔法である。真新しい魂や空間同様に壁から魔力を感じないが、何かの魔力に還元されているようで融断光とは別の黒っぽい余光が弾けている。融断光は本来、還元魔力をララナが吸収するためのものだが、魂器過負荷症の件がある。それにララナは現状十二分の個体魔力量があるので還元魔力は魔法を維持するために使った。オトが言ったような形ではないが魔力のリサイクルだ。図らずも融断光と相性のいい魔力のようで威力を高められた。
……思ったより壁が厚いです。
融断光を盾に壁の中を走ること数分。振り向くと、貫いたばかりの壁の断面に斑が這いずってきている。
……嫌な予感がします。
斑の流れは、魂が吸い込まれた一点に集まっていたが、今は壁の断面全体をララナの進行方向に向かって流れている。無数の手のように、はたまた無数の縄のように、斑の流れはララナを追っている。それがなんなのかを解するヒントは、ここを「建物」と表現することをオトが躊躇っていたことにあるのではないか。要するに輪廻転生機関は生命のそれと近い有機的な維持機能を有しており、斑の流れはその一部。人間に喩えるなら、体内に入り込んだウイルスを退治する役割も斑が担っていると考えられる。斑を含めた輪廻転生機関全体としては、魂の製造・管理から侵入者の対処まで担っていると観て損はない。
魂を引き寄せていた斑の合力、感じないのに確かに存在する魔力やセキュリティ。これらはララナの持つ魂鼎の力をも有した創造神アースが生前に仕掛けたものであるのだから、全耐障壁が貫通される危険性がある。
……追いつかれたら引き戻されます。最悪は、魂ごと処分でしょう。
危機的状況に陥るといやに頭が冴えるもの。……加速しなくては。
なんとしてもオトに新しい魂を届ける。
その一心で、ララナは融断光に働きかける。
……二段再集束──。
壁を融かしていく融断光を尚一層強力にして放ち、壁の融解速度を飛躍的に高める。さらに、爪先に反発性の高い障壁魔法を施して一歩の移動距離と移動速度を何十倍にも高めた。
すると、すぐだった。
力づくで作った出口、輪廻転生機関と呼ばれる斑模様の集合体からララナは飛び出した。振り返って観てみれば輪廻転生機関は真黒な空間に融け込んでおり見ることができない。あたかもそこには何もないかのようだが間違いない、警報音や意味不明な言語が遠くで響いており、飛び出した場所から一瞬間斑模様が飛び出し、引っ込んで消えていった。
……、……脱出、成功ですね……。
輪廻転生機関から一転してここは足のつく場所がなく、宇宙のように無重力の空間。隣空間をも内包するらしい謎多き空間。よく手を入れている隣空間となんとなく似ている感がある、一見しても広大な空間だ。隣空間に収めた木製カップや両親の本が見つかるはずもない。
……このようなときでもなければゆっくり調査したいものですが。
安全が担保されていないので長居は無用。移動した場所の空間座標は魂に刻まれるので機会があればまた来ればいいことだ。
ここに残した魔力がほかの魂を汚染するようなことがあってはならないので壁を分解したものは取り除いて融断光を魔力還元して吸収。ララナは改めて空間転移を試みた。
座標調整に精細を欠いたか。すとんっと床に尻餅をついて、ララナは黒いズボンを眼前にした。
「はぁ……はぁ……はぁ……、ここは──」
「戻ったな」
黒いズボンを上に辿ると、オトの顔。そうして、ララナは人心地ついた。思わず魂の確保を口走りそうになるが、まだ作戦途中であることを忘れてはいない。
オトが音羅を一瞥して、
「さて、羅欄納も戻ったことやし、手でも繫ごうかね」
「えへへ、改めて言われるとなんか照れるね」
と、音羅が言いつつオトとララナの手を握る。音羅の肉体保存魔法をオトが享受するためのものだろう。
音羅に手を引かれるようにして立ち上がったララナは、オトとも手を繋いだ。
ララナが考える間もない。オトと手を繋いだ直後に、ララナは死後世界誅棺に渡っていた。ララナが転移魔法を発動したのではなく、今回はオトが転移を成した。それも、より高度な、肉体から霊体と魂を抜き取って行うもの。感心する間も惜しい。音羅の肉体保存魔法は長続きしない見込みなので、先を急ぐ。
死後世界誅棺は一見、輪廻転生機関から脱出したあとの真黒な景色に似ていたが、ここには明確な足場がある。光の粒が集まったような道は薄氷を履むような恐ろしさがあるが、霊体であれば突き破って落ちるようなことはない、とは、予めオトから聞いていたのでララナは慌てずに済んだ。足下から光の粒が散ると、航跡のような尾が広がって美しい。目を引かれて気を緩ませないように注意した。
霊体も、肉体と同じ姿をしている。原理を辿れば、肉体が霊体の形に近づいていくことがほとんどである。前を行くオトは天然パーマと無精髭の黒づくめであるし、ついていくララナも本来の多色の癖っ毛にワンピースである。本当なら裸で歩いていたであろう場所で服を着ているのはオトの配慮であろう。
……少し胸許が苦しい気が。それに、少し目線も高いような──。
あるいは、死亡し肉体凍結していなければ成長していたであろう姿に、先んじて霊体のみが育っているのだろうか。
……そうだとして、どうでもよいことです。
子を産むリスクを心配される矮躯が現実だ。ないものを求めるのは理想や夢だけでいい。どんな姿でも、それをオトが求めてくれたのならララナは幸福だ。
先を進んでいくオトにララナは黙ってついていく。作戦の最終段階だ。創造神アースの魂と新しい魂を入れ替え、抜け出た創造神アースの魂を封印する。段取り通り、ララナは事を進める。オトがさりげなく後ろに出している右手にララナは左手を翳して、輪廻転生機関で確保した真新しい魂を表出させてオトの霊体に馴染ませていく。
「歩くだけってのも暇やし、ちょっと昔話でもするか」
「昔話ですか」
余計なことを考えないための時間稼ぎだろう。魂を馴染ませつつ、ララナは話に集中する。
「まだ俺が家と呼べる場所に住んどったある日のこと。本家に呼ばれた俺はマナーもなく走り回ってお祖母さんにひどく叱られた。それはもう物凄かった。幼い俺にはもはや意味が解らんほどの剣幕で、おまけに頰を引っ叩かれたもんだから泣くほかない。引っ叩かれた意味がよぉ解らんかったが今は少し思うね、おいたをしたらば叱ることは必要やって。それから一〇年も経たんうちにお祖母さんは病死した。生前最後にお祖母さんと会ったときはどこの誰かってくらいに痩せ細って別人のように穏やかやったことを憶えとる。なんというか、こう、自分はどうなってもいいから遺される者を幸せにしてほしい、その願いそのものって感じかな。後悔が何一つないやろうとはいわんが、利他の精神を貫徹する人種の最期は心が澄み渡って俺には思いもつかんくらい満ち足りとるんやろうな。少なくともお祖母さんの死に際にはそんな感がした。涙に沈む最期を最大限美化したいだけかも知れんが」
「オト様はお祖母様っ子だったのですね」
「自覚はなかったが隠れてそうやったのかもな、今もこうやって憶えとるわけやし。お祖母さんの精神性には惹かれるものがあった。国防を担うようなひとで部下も多かったからカリスマ性があって知性も高かった。誰かを犠牲にしようなんて考えん、誰かを意図して傷つけようともせん、誰かをほんに信頼し、誰かを切に大事とし、だからこそ本気で叱りつけることができる──。俺を引っ叩いたことで周りと一悶着あったみたいやけど、お祖母さんはそんなことを微塵も感ぜさせずにそれ以降も俺と接しとったしな。そういう意味で、俺は違った」
魂が馴染んで入れ替え準備が整ったとララナが観るや、オトが魂を摑んで振り返った。
「すまんな、羅欄納。作戦失敗だ──」
「っ!」
空間転移か、オトの姿が消えた。
気を緩めていたわけではないがララナは一瞬呆気に取られた。予期せぬ事態が起きた(?)創造神アースに気取られていたのか。
魂の入れ替えはララナにしかできない。魂が霊体に馴染んで手に取った直後にオトは創造神アースの介入を察知したのかも知れない。ゆえに新たな魂ごと姿を消してしまった。
創造神アースが作戦を気取ったなら、「解放する」との約束を破った報復としてオトの肉体の破壊を狙うだろう。オトは肉体の損失を防ぐため緑茶荘に戻ったと考えられる。また、音羅の身を案じて──。
考え至ったララナはただちに空間転移した。行先は緑茶荘一〇二号室・オトの家のダイニングであった。が、そこに、信ぜられない光景があった。
……オト様の、肉体が……!
爪先から膝までが焼け崩れ、今も燃えている。
創造神アースの仕業か。
だと言うのに、消火することもなく、それをじっと見下ろす霊体のオトがいる。
……これは、いったい、どういう状況なのですか──。
ララナは息を止めて考え込んでいたが、想像が及ぶはずもない。こんな状況は全くの想定外だった。
皹が入るようなびきびきという奇音を立てて焼け崩れていくオトの体を見つめる。止めようにも止められる雰囲気ではない。手にした魂を掲げてオトが何かをしようとしているのだ。作戦失敗時の秘した策を講じようとしているのなら妨げることで状況が悪化する。けれども、ララナは嫌な汗が止まらない。
「オト様、これは……、これは、どのような状況なのですか」
躊躇いながらも、訊くしかなかった。
「ま、黙って見ときゃあ」
オトが手にした魂に自身の魔力を込める。すると、魂がパンッ!と弾けて輝く粒子が部屋を満たした。
時を同じくしてオトが爪先から個体魔力を送って燃焼を加速、足蹴にした肉体を灰燼に帰した。
……そんな、これでは──!
オトは肉体を失って死んでしまう。いや、もう、──。
……オト様……。
震えた拳が、ぎゅっと固まって、止まるような息に反して涙が零れ落ちた。
「そんな……オトさま……!」
砕けそうなほど膝を擦り合わせて、折れそうなほど太股を押さえてみても、零れるものが治らない。何もかもに手の打ちようがなくなって体が縮こまる。零れ落ちたものの重さに堪えかねて、首が上がらない。
……なぜ、斯様なことに──。
肉体を焼いたのは本当にオトか。まさかとは思うが、創造神アースに体を乗っ取られているのでは。混乱して床に崩れていたララナは、ようやく、狂気の宿る瞳と向き合った。
「これでいい。騙して悪かったな。最初から俺はこうするつもりやったんよ。創造神アースはこれで解放される。俺も死ぬことができる。あとのことなんざ知ったこっちゃない」
「さ、左様な……、」
創造神アースではないと。本当の本当に、オトなのか。「左様なこと──」
両手をついたララナは、添い寝したときのオトの言葉を思い出していた。
──全部、俺のいう通りにしろ。然すれば全て問題ない。
本当にそうなのか。
……、……っ──。
違う。
断じて違う。
──俺はこの空間以外では以前のように何事にも感情を殺して対応する。
……考えなくては──。
感情が止まらなくても瞼をぎゅっと閉じて、下唇を嚙んで、これより重い痛みを知りたくはないだろう、と、頭に鞭を打った。
……おかしいことが、ございます。
ララナはこの状況に、彼の行動以外の点で、二つの違和感を覚えている。音羅がいないことと、弾けた魂の粒子が部屋に漂っていることである。
おかしい。
まず、音羅がいないのはなぜだ。オトの肉体保存のためにここにいなければならないはずの音羅の姿がないのは、彼の言う騙しの一端を担っており、オトの肉体保存をする必要がないか焼却することを知っていたからか。または、創造神アースに害される危険性を察知したオトが霊体でここに戻った直後に、どこかへ避難させたのか。それか、考えたくないが既に創造神アースに排除されてしまったのか。
……音羅ちゃんの魔力は──、ございますね。
ララナの家。音羅は布団を敷いた位置に横たわっている。魔力があるということは間違いなく生きている。最悪の事態はなかったようでララナは安心し、わずかだが、本当に冷静になれた。それはそうと、魔力探知が一〇二号室と一〇三号室以外に広げられないことに気づいた。いつ発生したのか、二室を対魔法障壁が覆い、外部への魔力探知が阻まれている。
音羅に関してはまずそこまでにして、魂の粒子について考える。自然魔力に満ちている惑星アース内で魂が汚染されずに粒子のまま漂っているのは、異常。霊体を纏っているなら魂は汚染されないが──。ふと、ララナは感じ取った。輪廻転生機関と同じだ。障壁で閉ざされた二室からなぜか自然魔力が完全に消えている。
……なるほど。ですから、オト様は先程からご自分の魔力を使っていらっしゃった。
自然魔力がないなら魂が汚染されることはない。
そんな空間になっているのは、一〇二号室と一〇三号室を対魔法障壁で隔絶して自然魔力を排除したからだろう。それをやったのは音羅ではないか、と、いう直感がララナは働いた。音羅でなければオトがやったのだろうが、どちらにしても、それはララナの与り知らないところで行われたことであり、魂の粒子が漂っている状況の理解を深められない。
……何か、あるはずです、手懸りが。私にしか解らない何かが。
手の甲に付着した魂の粒子を感じて、ララナはどきりとした。それにはオトの気配があったのである。
順応した者の人格や記憶が魂には刻み込まれる。オトの気配は、すなわち、魂の粒子に刻まれたオト本人の記憶。
……──。
魂の粒子を介してララナは状況を把握し、今しなければならないことを理解した。それを、創造神アースに気取られないように無心でやらなくてはならない。何も考えずに目的達成のための行動を執るなど普通ならできないことである。しかも行動の結末すら判らない。成功するか判らない。望む結末に導かれるか、全く判らない。
それをやらねばならない理由がある。
──羅欄納の望むままにやって──。
オトが密かに渡したバトンを握り、次に回さなくてはならない。
生きるために。
生かすために。
守るために。
ララナは、両手を床についたまま行動を開始した。
魂の粒子一つ一つに、意識することなく力を集中し、一つも無駄にすることなく一斉に砕いた。すると、部屋全体が眩く輝き、魂が今度こそ壊れた。オトが砕いた魂は完全に壊れておらず、ララナが効率よく破壊できる状態に仕上がっていたというのが正しい。その魂を破壊し尽くしたララナは魂鼎として一つの魔法を発動した。オトに新たな肉体を与えるための魔法を。
要領は八年前の蘇生と同じだった。一つ違うのは、蘇生させるべき相手に馴染んだ魂を破壊して発動した蘇生魔法であるということ。魂一つ一つに生前の個性があるため、ララナが魂鼎として放つ魔法は破壊した魂によって性質が変わる。八年前破壊した実妹黎水の魂には他者を想う強い気持が宿っていたが、ララナと一緒にいたいという気持も大きかった。その想いこそが一二英雄を復活させた。一方で、死に行く黎水はララナの肉体に死を与えてしまい、同時に、ララナの死を望んでいなかったため不完全な生を与えもしたのである。
今、オトに馴染んだ魂を破壊したことによって放った魔法は、オトの思いに性質を変化させている。蘇生魔法でも、八年前とは似て非なるものだ。なぜならオトが思っていたことは。
「──」
破壊された魂が余光を治めると、オトが肉体を得て佇んでいた。その瞳は、星の海での彼と相違なく、慈悲に満ちていた。
「ふぅ……〜、成功だ。ひとまず、これでいい」
安堵しきった表情。ララナはオトの内なる変化を認めた。オトが狙ったのは、創造神アースとの意識共有を絶つこと。それが完遂されて、オトは素の自分でララナに手を伸ばしていた。
「お疲れさん。いろいろ騙してごめん」
死後世界から今まで、振り返れば数分の異常事態であったが、何時間も経たかのような、はたまた一瞬間だったかのような矛盾の時間。結果、オトが無事であることがララナには何より嬉しかった。立ち上がるや悦びのあまりオトに跳びつきそうになったが、自身が霊体のままでおり、肉体がまだ横たわっていることを思い出して、いそいそと肉体に飛び込んだ。
ララナの肉体は問題なく動く。その確認をし終えたララナがオトに跳びつく前に、オトがララナを後ろから抱き締めたのだった。
「よく考えて、動いてくれたね」
「魂の入れ替えはできませんでしたね。いいえ、オト様には最初からその計画がござらなかったのでしょう」
「やから、『騙してごめん』」
事前に伝えられた作戦は創造神アースを騙すために立てられたものだった。それを可能のように語ったオトだが、じつのところ実現不可能の策であったがために創造神アースは介入する必要を感ぜず監視にとどまった。それはオトの術中であった。オトは創造神アースに気取られることを前提に、意識共有を絶つために行動し、ララナの機転に賭けた。ヒントは、創造神アースの解放を連想させる肉体焼却。あれこそが、創造神アースへの王手であった。解放される。そんな現実を前に、創造神アースは油断しきって魂の粒子のことなど眼中になかった。一縷の希望として魂の入れ替えを目指し動いていたララナが、魂の破壊と肉体焼却を前に首を垂れて絶望したのをあえて見せて、逆転の策を打てるはずがないと高を括らせもしただろう。オトはそこまで読みきって、魂の粒子に刻まれた記憶を読み取れるララナの機転に賭けていたのである。
「羅欄納が気づいてくれるか、ちょっと心配やったけど……」
「申し訳ございません。私は、いつも自分のことで精一杯で、オト様の真意に気づくのに時間が掛かってしまいます」
「それでいい。騙されながらも信じてくれる、そんな羅欄納やから俺は賭けることを選んだ。俺には運がないが、お前さんの運が優れば──、この通り、勝てたよ。お蔭で創造神アースとの意識共有を絶つことができる」
オトの秘した作戦の狙いを、ララナは推測した。
「壊れる前の魂に細工を施すことで破壊した際の効果に変化を及ぼし、新たな肉体と魂との連結を弱めた、と、いうところでしょうか」
「魂の粒子に刻んだ通りだが、触れたのがほんの一粒では伝わった策は断片的やったかな」
「お見通しのことかとは存じますが、不完全な力で申し訳ございません」
「魂の性質によるもんやから仕方ない。さて、意識共有の大きな支えになっとるのが、羅欄納も言った連結だ。魂の連結作用は摂理。魂鼎の力でもないと一時も弱められん。『一時』のあいだに魂から関与してくる創造神アースの意識を阻む魔法効果を魂器外殻に施す。創造神アースの意識がまだ介在しとる状態やから監視は続いとるけど、連結が弱まっとるあいだに魔法で追込みを掛ければ意識共有を絶って監視されんようにできる。所要時間は四日ってところか」
まだ「うまくいけば」という段階。ララナには心配事がある。
「完全に連結を断ち切るまでに創造神アースの妨害はないのでしょうか」
「ないね。俺がいずれ死ぬことに変りはないし、俺はアイツとの約束を破っとらん。それなら俺から創造の力を返却させられんからアイツには何もできん」
創造神アースが妨害に踏みきるか否か、その思考も読みきっての策とは。
……恐れ入りました。
もう一つ心配事がある。「……魂器過負荷症の対策が後回しになってしまいました」
「形ばかりの成果は暴力に等しい。全てが思い通りなんてことはあったらいかんのやよ。俺達はそんな創造の力に頼っとるわけじゃないし、地に足をつけて着実に目的をこなさんと、何もできんくなるのが落ちだ。やから、今はただ、こうして確かめればいい──」
オトの腕が少し強く締めつける。
ララナはその痛みを、オトの安堵と捉えた。ララナがずっと独りでメリアの狂気と向き合ってきたように、オトも独りで創造神アースの監視と戦ってきた。
独りであることの寂しさをララナはよく知っている。痛いほどに抱き締める気持も、よく解る。なんの気兼ねもないひとときの安息。思いをともにして、彼の抱擁を受け入れた。
……──このぬくもりを感じていたいのです。
──二二章 終──




