二〇章 炎の申し子
音羅と契らなければオトは死ぬ──。
音羅の言うことがどういうことか、ララナは判らなかった。オトは何か理解したのか、
「すまんが、音羅を連れて退室してくれるか」
と、何も悟らせない無表情で促した。
ララナは音羅の手を取り、
「オト様はお疲れのようですから、休ませてあげましょうね」
「ん〜、そうなの」
音羅が首を傾げてオトを窺う。
もとから溜息の多いオトだが、椅子にどっかり座ってさりげなく溜息をついた。
「さっきは元気って言ったけど、今日は俺としては動いたほうやからな。ちょっと疲れた」
オトの記憶を継いでいるから通じたのだろう。音羅がうなづいた。
「解った!パパ、ゆっくり休んで元気になってねっ」
「ああ、またあとでな」
と、オトが力なさげに手を振る。顔は変化がないが、本当に疲れて見えるので彼の演技力は本物である。──死の宣告を受けて本当に疲れたのかも知れないが。
……オト様、後程お話を致しましょう。
(ああ)
オトの伝心を受けると、ララナは音羅とともに一〇二号室を出て、一〇三号室前へ。
「鈴音の家だね」
と、音羅が言うので、ララナはどきりとした。
「本当に記憶を受け継いでいるのですね」
「え、なんか変かな」
生まれたときから持っているものを特殊なものとは思わない。自分が他者と違うことで苦しむことがあるとララナは知っている。ひとと異なる点を自覚していないことで被る不幸が増えることも、知っている。
「変というよりは、普通ではないのです」
ララナは音羅の頰を撫でて。「親本人の記憶を持って生まれることは、普通ではあり得ないことですから、そのことはきちんと憶えておいてください」
「うん、解った!」
あまりに無邪気な承知である。本当に解ったかどうかは今後の言動で判断するとしよう。
ララナは玄関扉に鍵を挿してふと気になったことを、音羅に尋ねる。
「音羅ちゃん、私の記憶をどの程度受け継いでいるか判りますか」
オトの前で思わぬことをあれこれ口走られると羞恥心に悶えることになりそうなので、音羅が持つ記憶を把握して口止めできることはしておこう、と、ララナは考えた。
部屋に上がるまで、「う〜ん、う〜ん」と考え込んでいた音羅は、テーブルセットに着席して出された緑茶を一口飲んでから、
「あれ、どうだろう、判んない」
と、首を捻った。「ママの記憶って、パパのこととか」
「そうですね。ございますか」
「うーん、ない、っていうと変かな。パパの目線のはあるよ。パパが自分を責めていることとかママをどう思っているかとか、ママがどう思って行動しているか読んでいることとか」
「それはそれでとても興味がございますが……。私自身の主観がなさそうですね」
「主観って、ママの目線ってことだよね」
「はい」
「セックスの記憶はあるよ!」
「ふぇっ!」
二度目ながら聞き慣れない単語に驚くが、継承された記憶についても驚かざるを得ない。
「とっても嬉しい、嬉しい!って、ママは悦んでいたよね」
「そそりぇそれはそうなのですが音羅ちゃん、オト様には伝えてはなりませんよ」
「なんで。いいことだから伝えたほうがいいんじゃないかな」
馬鹿まじめな顔で言う。「パパ、とってもネガティブだから素直に伝えたらきっと悦ぶよ」
「(それはそうなのですが。)正直に申します。私が恥ずかしいのでやめてください」
「あ、そういうことか。うん、解った!」
と、羞恥心などなさそうな音羅がうなづいた。理解してくれたならよいのだが、ララナは気が気でなくなってきた。
……音羅ちゃん、私の恥ずかしい記憶だけを継承しているのではないでしょうか。
そんなふうに思えて不安にもなる。ララナやオトの記憶があっても、記憶に基づいて細やかな思慮を配れないことが音羅の内面の稚さを示している。記憶はあっても経験までは得られていないということだろう。
音羅が湯吞を両手で包んで、
「ふふっ、あったかぁい……」
と、微笑む。
ララナは思わず見蕩れた。寝顔は寝顔で可愛かったが、安らいだ笑顔もやはり可愛い。お腹が大きくなったり胎教のための音楽を聴かせたり激烈な痛みを感じながら出産したりといった母親が経験するようなことを一切せず母親になったララナだが、音羅を見るとなぜだか庇護欲を掻き立てられて、愛でたくなってしまう。記憶の継承のせいで突拍子のないことを口走る幼い音羅を守ってあげなくてはならないと感ずる。どうやら、はやばやと親馬鹿になったようだ。
「音羅ちゃん。お茶、おいしいですか」
「うん、苦くていいね」
味覚は大人か(!)
ララナは自分用に作っておいたお菓子を冷蔵庫から取ってきて、音羅に出した。
「お茶請けです。食べてください」
「ありがとう、ママ」
花のかんばせでクッキを口に運んだ音羅だが、「むぐっ、硬いクッキだ……」と、あからさまに苦い顔をした。
「おや、苦手ですか」
「あ、ううん、……おいしい。あれ、なんでだろう」
と、音羅が突然考え込む。「なんか一瞬、苦手に感じたんだけどなぁ」
「(──もしかすると、)オト様が苦手だからでしょうか」
「あ、そうかも!パパ、昔、総からもらった軽いクッキを気に入ったんだよ」
「オト様が総さんからクッキを」
初耳である。ララナではないが、オトが話したくなくて伏せていた可能性がある。
……私が言い出したことですが、考えを改めなくてはなりませんね。
ララナは音羅の注意を促すことにした。
「音羅ちゃん。音羅ちゃんの持つオト様や私の記憶は、たとえ私やオト様相手であっても勝手に話してはなりません」
「え、どうして」
手を止めて尋ねる音羅。その心が、他者を思いやることのできる善性を育んでくれることを祈りながら、ララナは応える。
「私の記憶、オト様の記憶、それは私やオト様が一瞬、一瞬、本気でほかのひとや自分と向き合ってきた記憶なのです。それは本人の気持によってほかのひとに伝えるべきで、家族であっても勝手に言いふらしていいことではないのです。判りますか」
「う〜ん、よく判んない……」
「そうですね。では、音羅ちゃんの立場に置き換えて考えてみましょう。音羅ちゃんは、隠しておきたいことはございますか」
「隠しておきたいこと」
生まれて半日未満の音羅であるが。「あたし、ママに負けたくないかな!あ、言っちゃったけど……、隠しておきたかったかも」
「私に負けたくない、ですか。それはどのような意味でしょう」
「う〜ん、だから言いたくないんだよ……。でも、そうだなぁ」
オトの記憶を継承している音羅であるから、妙に頭が回るところもある。「パパのことも話しちゃったし、そこだけ話しちゃおっかな」
ギブアンドテイク、または事後補填といったところ。
「あたし、パパのこと助けてあげたいんだ。ママもパパのこと助けたい、って、いっぱい思っているんだよね。って、それも言っちゃったら駄目なのかな……」
「ほかのひとがいるときはいけませんが、二人きりなら私のことはよしとしましょう」
「うん、解った」
「よい返事です。話を戻しますが、私もオト様をお助けしたいと思っております」
「うん。パパの記憶なのかな、そのことは知っているよ。ママ、パパのこと、本気で想っているって判ったよ」
「それが音羅ちゃんにも伝わっていることを嬉しく思います。音羅ちゃんは、オト様をどのように助けたいですか。先程話していた『死んでしまう』ということと関係していますか」
「うん。そのことばかりはね、ママにはどうにもできないんだよ」
お役御免のような言葉。だが、ララナは冷静に音羅の言葉を嚙み締める。
……オト様の記憶や知識に基づいた裏づけがあるのでしょう。
音羅の言葉を子の戯言と片づけるのは難しい。オトの推測が的中してきたのは記憶の砂漠によるところも大きい。オトの想定を超えた記憶継承の一部に記憶の砂漠が含まれていないとは断言できず、もしその一部でも継承しているのだとしたら音羅の言葉にも相応の信憑性があると考えてしかるべきである。
ただし、オトを死なせないための手段と性交渉がどう結びつくのか判らない。よって、ララナは音羅の考えを手放しに肯定しない。
「音羅ちゃん。例えば先程私に話したくないと言ったこと、私に負けたくないという気持を、どんどん聞き出そうとされて嫌ではありませんでしたか」
「う〜ん、もう話しちゃったしなぁ、特には」
相手が母親であるララナだから意に介さなくても平気になったのではないだろうか。それは嫌だと感じた経緯を忘れただけの、結果論だ。起こりやすい出来事に対して、その結果論で対処できるものだろうか。
「では、打ち明けたことを音羅ちゃんの知らないところで誰かが言いふらしていたらどう思いますか」
「嫌だっ」
「そうでしょう。私が言いたいこと、もう解りますね」
「あ……。うん、解った」
と、音羅がうなづいた。「知らないひとにまで知られたくないことが伝わったら嫌だし、パパのこともママのことも、あたしのことじゃないから勝手に話しちゃ駄目なんだ」
「よくできました。そう、勝手に話してはならないのです。音羅ちゃんのその記憶は本来音羅ちゃんのものではなく、勝手に扱ってはならないものです。気をつけてくださいね」
「うん、解った、頑張って気をつける!」
素直な子である。「頑張って」をつけたのは、それを難しいと感じたからだろう。が、自覚して気をつければ学習を積み重ねられる。立ち塞がった問題を乗り越える前向きな学習がそれを乗り越えるための支えになる。
ララナは音羅の頭に手を伸ばし、頑張りを認めるように優しく撫でる。
「オト様はひどい仰りようでしたが、音羅ちゃんは賢いです。このまましっかり学んでいってください」
「うん、勉強苦手かもだけど、いっぱい勉強する。ありがとう、ママ」
「どう致しまして」
記憶継承によってどう転ぶか不安が付き纏うが、音羅が着実に成長していることをララナは実感した。
……そも、音羅ちゃんは自分で学んでもいるでしょう。
「パパ・ママ」という言葉を、ララナは当然知っている。オトも知っているだろう。が、ララナもオトも両親をそのようには呼ばない。つまり、音羅は継承した記憶に頼らずララナ達を「パパ・ママ」と呼ぶことを選んだ。それは音羅が自ずと何かを学んでいる証であり、音羅の価値観が育っている証でもある。学ぶことが苦手と感じているようだが、苦手と感じていても全く学べていないわけではない。これからもきちんと学習していくだろう。
お菓子を取る手が止まらない音羅に、ララナは尋ねる。
「私達をパパ・ママと呼ぶことにしたのはなぜでしょう。判りますか」
「う〜ん、……。そうだなぁ」
物を食べているときに口を開かないのはマナー。音羅は、オトやララナ同様にそれができており話し始めると手が止まる。
「特に理由はないんだけど、強いていうなら、ママがママって感じがするからかな。パパはどっちかというと『お父さん』って感じがするけど、生まれた瞬間にママが見えたから、ママ中心に考えたのかも」
拙い思考を素直に伝える音羅をまた撫でてあげたくなるが、撫でてばかりいるのは変なのでララナは我慢する。
「生まれたとき、瞼を閉じていたようですが、私のことが見えていたのですか」
「うん。あ、でもパパの記憶が混じっているのかな……」
話していいか迷っているのだろう。詰まり詰まりで話す。「ママが驚いている顔とかね、悦ぶ姿とかがね、いろいろ重なっているの」
「なるほど。オト様の記憶とやや混同しているのかも知れませんね。音羅ちゃんは光に包まれて生まれましたから、視覚明瞭とはいいがたかったでしょう」
濃い闇の中も強い光の中も、視覚のほとんどが機能しないという点でさして違いはない。生まれた瞬間の視覚情報は、音羅本人のものではないということだ。
「さておき、オト様のことをお父さんと呼んでも支障ないと思いますよ」
と、ララナは提案する。
音羅が首を横に振って、断る。
「今のままがいいかな。呼んだら慣れてきちゃったし、パパも混乱しちゃうかも知れないし」
「(もうオト様のことを考えて……優しい子です。)では、そうしましょう」
自主性の尊重は自信に繋がり、自信はここぞというとき支えになるので、大切にすべきだ。
「ママ、お菓子なくなっちゃった」
「あら」
小鉢とは言え、お茶請けとして何日か持つ程度にあったはず。
「今のお菓子、ママが作ったんだよね」
「はい。おいしかったですか」
「うんっ、次次食べられちゃう」
「そうですか。(さすがに小さいうちからお菓子ばかり食べさせてはならない気が……。)お腹が空いていますか」
「うん!」
お腹がいっぱいになる量を食べたはずの音羅が大きな瞳をきらきらと。
……大丈夫なのでしょうか、オト様。
尋ねるつもりで壁の向こうのオトを呼んでみると伝心があった。
(お菓子をやるくらいならご飯を頼む)
(左様に)
ララナは席を立った。
「音羅ちゃん、お手伝いできますか」
「お手伝いっ!哺乳瓶を温めるの」
なぜ哺乳瓶なのだ。
「下の子が生まれたらお願いするかも知れません。今回は朝ご飯を作りましょう」
音羅が生まれてまだ数時間。カーテンを開けると残雪が朝日に眩い。粉雪はどこへともなく去ったようで、窓の結露と残雪を除けば炎熱に向かういつものダゼダダであった。
音羅も席を立ち、
「朝ご飯作るっ。何をすればいいの」
「そうですね──」
包丁を持たせるのは早いだろうか。体だけはララナより大きくなってしまった音羅だが、物を扱う技術まで成長しているかはまだ判らない。もし持たせるなら、軽いセラミック素材の包丁がいいだろうか。金属の包丁より軽いため、大きな魚や硬い野菜を切るには不向きで却って危ないか。
「──マ。ママってば」
「ふぁっ」
「ふぁっ、じゃないよ〜。呼んでいるのに気づかないなんて耳が遠くなっちゃったの」
「いいえ。少し考え事をしていたのですよ」
腕に絡みついて窺っている音羅の頰を触れて、ララナは微笑む。
「心配させてしまいましたね。ごめんなさい」
「うん、平気ならいいんだ」
音羅がにこっと。「で、何をすればいいのかな」
「そうですね、まずは、……、そう、手を洗いましょう」
「うんっ」
キッチンの流し。ララナは手洗いの見本を見せて、音羅の手洗いを見守った。妹に手洗いを教えるのは時間が掛かったが、音羅はすんなり覚えたので物覚えがよいと言えるだろう。
新しく出したタオルで手を拭くと、寝室のタンスからエプロンを取り出す。
「音羅ちゃんが大きくなってくれて幸いでした。サイズがぴったりです」
「それってママのエプロン。たぁっくさんあるんだね」
「おや、それは記憶しておりませんでしたか」
「う〜ん、知らなかったと思う。それってまずいのかな」
「いいえ、それでよいのです。先程も教えた通り、記憶の継承は普通はあり得ないことですから」
「そっか。じゃあ、気にしなくてもいいかな」
「はい」
記憶の継承は一部に限られている。どこが継承されていてどこが抜け落ちているのか本人に教えてもらわないとララナ達は認識しようもないが、音羅が気に病むことは何もない。
「ママ、エプロンをどうしてこんなにたくさん持っているの。増えすぎたエコバックみたいに無駄になっちゃうんじゃないかな」
エプロンの使い道を知らない音羅に合うエプロンを着せつつララナは答える。
「復興ボランティアで子どもと一緒に料理を作ることが多かったので、予備にたくさん用意したのですよ。私一人で使い回してもおりますが多くは貸し出しておりました」
「復興ボランティアっていうと三大国戦争の」
三大国戦争の終結は二九五九年。復興時期にララナは生まれてもいない。継承した記憶がとんでもない時代錯誤を生じそうなので、ララナは音羅にしっかり教えることにする。
「私が言ったのは八年前の悪神討伐戦争で被害を受けたひとびとの復興です。と、いっても、一ボランティアとして参加しただけですので、主催ではないのですが」
「ふうん。ボランティアって料理を作ることなの」
「振る舞うところまで私の役割でした。現場にはほかにもさまざまな役割がございます。物資の手配・運搬・補給・配布、避難場所の確保・維持、壊れた家屋の被害状況確認・撮影、ゴミの撤去、埋もれた資産や遺留品の発見・保管・引渡しなどなどです。遭難者の捜索、家屋の危険度判定、仮設住宅の設置、罹災もとい被害証明書の発行、ご遺体の身許確認や搬送、ご遺族との照会などもございますがそちらは専門の方が担当していましたね」
「なんだか大変そうだね」
「ええ。……多くの命が失われました。瓦礫の撤去中や遭難者の捜索中などの二次被害も多かったです。故郷を追われた難民の方方は流れついた土地の住人と揉めるケースが多発し、難民の受入れ容認から拒否に転じた土地や、さらには難民迫害にまで至る土地もぽつりぽつりと出て、難民由来のテロや難民由来と見せかけた便乗テロが散発、一時期は殺伐としておりました。なので、皆さんが疲れきってしまうのを防ぐために、私は料理を振る舞うことを中心に活動致しました。食べることは生きることです。ちょっとした料理で生きる勇気や活力が湧き出してくることも、──」
「……、ママ、どうしたの、急に黙り込んで」
両膝をついて音羅のエプロンの腰紐を結んだララナは、その場で手を止めていた。
「私は鈍感なのだとつくづく思ったのですよ」
「どういうこと」
「いいえ、これは私の胸にとどめておきます」
「う〜ん、そっか、じゃあ、訊かないでおくね」
「配慮できるようになってきましたね」
「ママの子だもの」
「同時に、オト様の子ですからね」
微笑み合って、キッチンに向かい、ララナは音羅に料理を教えた。今回は観て学ばせることにして、包丁を持たせなかった。
できあがったフレンチトーストとココアを食した音羅のにこやかな笑顔に、ララナはまた見蕩れていた。
──ララナは、思った。現代でオトと出逢って間もなく取引をしてでもお菓子や料理を食べてもらったのは、オトがずっと死を考えていることをどこかで感じていたから、だなんて、自分を美化したいだけかも知れない。あのときは思わぬオトとの出逢いで有頂天になり、接触や話し合いの場を得られて悦んでいた。オトの死の意志に気づいていなくても結果オーライとなった今であるが、もっと早く気づけていたならオトが苦しむ時間を少しは短くできただろう。そう考えると、ララナは己の鈍感さを悔いたくなり、呪いたくもなった。
「ママ。ママは食べないの」
音羅が物ほしそうな目でララナのフレンチトーストを狙っている(?)
「音羅ちゃん、もしかして、まだお腹が空いていますか」
「うんっ」
「どうしましょう……」
ララナは食べなくても平気な体なので横取りされることを懸念しているのではない。離乳食を飛び越えてお菓子を食べられた音羅がこれまた小児らしからぬ食欲を見せていることに戸惑ったのである。
……少しおかしいですね。
フレンチトーストには厚切りトーストを使用した。二枚も食べれば満足するのが普通だが音羅は三枚目を渇望している。
ララナは自分のフレンチトーストを一枚分皿に載せているがこれを与えてよいものか。
悩んでいたララナに、オトの伝心が届く。
(音羅の体を調べて。魔力還元体質なのかも知れん)
(私達と同じ体質ですか)
それなら音羅の食欲に納得がいく。魔力還元体質は排泄の必要がなく、食べたものが次から次へと魔力に還元されて満腹感を得にくい。
(魔力還元体質なら、生まれた直後の低魔力個体に食べさせすぎるのは危険だ。早めに対処してくれ)
(畏まりました)
低魔力個体というと無機質な感がするが、要は、幼い音羅は自身の魔力をあまり持っていないということである。そんな音羅が、食物摂取によって大量の魔力を取り込んだ場合、自己の魔力を司っている魂に負荷が掛かって命が危険だ。創造神アースの魂を核にしているからと言って安心していては取返しがつかないことになるかも知れないので、ララナはオトの指示に同意した。
「音羅ちゃん、食べる前に少し体を診てもよろしいですか」
「うんっ。平気だけど、なんか気になるの」
「音羅ちゃんの健康のためです。時間は掛かりませんので、じっとしてくださいね」
「うんっ」
「よい返事です」
ララナは席を立ち、座った音羅の横についた。中腰になって音羅の下腹部に左手を当てると、わずかな魔力を流し込んで体の構造を把握した。
……排泄器官が末端で閉じていますね。
魔力還元体質が遺伝性かは判然としていないが、ララナとオトが両親であるから可能性は高かっただろうか。魔力還元体質と断定するにはもう一つ調べなくてはならない。
ララナは次に音羅の胸に手を移して、食べた物が胃でどうなったかを魔力反応で探る。
「ふふぁっははっ、なんかこちょばぁいっ」
「あぁ、じっとしてください」
「えへへ、ごめんなさい。ちょっとふわふわして変になっちゃう」
……敏感さは私譲りなのでしょうか。こ、困ります。
生身の音羅は日常生活に支障を来しそうなので、その体質を継いでほしくなかった。ララナは音羅の肌を刺激しないように調べを続けた。
……食物、と、申しますか、トーストが跡形もございませんね。
パン類の消化には二、三時間掛かるので、跡形もなくなっているのは魔力還元されたからに違いない。排泄器官が閉じていることも踏まえ音羅が魔力還元体質だと判断できた。
音羅から手を離して席に戻ると、ララナはまじめに話す。
「私の分を食べて構いませんが、その前に大事なお話がございます。聞けますね」
「うんっ」
フレンチトーストほしさであっても素直な返事は美点である。
「音羅ちゃんには特殊な点があることが判明しました」
「魔力還元体質のこと」
「知っているなら話が早いです。音羅ちゃんは個体魔力が十分に育っておりません。その状態で自然魔力に相当する食物を摂取し、大量に魔力を取り込むことは体に害となります。最悪の場合は命を落とすこともございますので、食欲が湧いても自制してください」
「うん、でも、お腹めたんこ減っているんだよ」
「めたんこ……」
「すごくとか、たくさんとかって意味だよ」
……なるほど。ダゼダダの方言でしょうか。
オトと関わるまでララナはダゼダダの方言に触れる機会が少なかった。それを知ってか知らずかオトが使わない言葉を音羅は使ってしまうようである。
「で、どうしよう……」
首を傾げるは子のみならず。
食欲というのはときに中毒的に発動するものである。糖質依存症のきらいがあるララナやオトと同じで偏食の原因にもなるだろう。音羅はその状態が特殊であることを早くも理解して戸惑っている。このままでは苦しむのは音羅。指導するのは親であるララナの務めである。
「お腹が空いたら何か別のことをして愉しみましょう。食べてばかりでは体がなまりますし、なまると動けなくなって、精神的にも追いつめられてしまいます」
「精神的にも」
「ええ。閉めきった部屋のように心が塞いで暗い気持になってしまうのです。そのように苦しいときは、愉しいと感じることをして紛らわせましょう。食欲に迫られたときも同じです」
「そうなんだ。うん、解った、やってみる」
と、立ち上がるや、音羅が両手いっぱいに魔力を集め始めた。
……待ってください、これは──。
「発散、発散〜!」
と、言いつつ、魔力を練り上げて音羅が放ったのは、目が眩むほどの真赤な炎(!)
零歳児のものとは思えぬ大魔法に圧倒されるより先にララナは鎮静の魔法を部屋に張り巡らせ、炎の侵蝕を抑え込んだ。しかし鎮静の魔法すら押し退けるような炎の強圧。鎮静の魔法が間に合わなかった家具一式は一瞬にして灰燼に帰してしまった。
それでも炎を放ち続ける音羅に飛びかかるようにして、ララナは破壊的な魔法を制した。普通の人間ならば一瞬で消し炭になってしまうような強力な炎は、過ぎ去った戦場をララナに想起させるほど危険であった。
「音羅ちゃん、これはなりません!」
「えっ!」
心底意外そうな顔の音羅。ララナの目線にいざなわれて惨状に気づいたようだった。
「あ、あたしのフレンチトーストが……!」
「そちらですか。いいえ──、それでも問題ございません」
音羅の裾に燻る火種を手で払って、ララナは毅然と叱る。
「音羅ちゃんに自覚はないと思いますが、音羅ちゃんの魔法は誰かの大切なものを奪い取ってしまうほど強力です。それがフレンチトーストならば作り直すことができます。仮にひとの命であったなら、どうなるか判りますか」
ララナの態度に気圧されて、音羅がきょろきょろと目を泳がせた。
「わ、判らないよ。パパやママなら生き返らせられるんだよね」
「私を視てください」
ララナは音羅の両の頰を挟んで目を向けさせた。「私達の力は、自分勝手に揮ってはならないものです。それがひとびとの恐怖を煽ったり、暗い気持にさせてしまうことがあるから、傷つけて立ち直れなくさせてしまうことがあるからです。たとえ修復が可能でも、生き返らせることが可能でも、まず、相手を傷つけたり苦しませたり悲しませたりすることを、進んでやってはならないのです。そのことを、しっかり憶えてください」
「っ……」
じわっ。涙を浮かべて、音羅がうなづいた。「あたしの、フレンチトーストぉ……」
そんなふうに呟きながら、音羅が大事なことを一つ学んでくれたことを、ララナは察した。
……今は、その理解でよいのです。
きっかけがフレンチトーストであったとしても、より大きなものを失ってから理解するよりずっといい。
……あなたが、大切なものを奪い取る立場にならぬように──。
泣き噦る音羅をそっと抱擁して震える体を感ずると、ララナもほろりと。
音羅が落ちつくと、ララナは音羅と一緒に灰の掃除をした。長年使っていた布団一式も漏れなく灰となってしまったが、それを知った音羅がまた泣き出しそうなほど己の行為を悔やんでくれたことで布団一式がよい役目を担った、と、ララナは捉えた。勿論、音羅がしてしまったこと、ララナがいなかったら起きたであろう惨事を、よく言い聞かせ、理解させた。
万一が起こり得た状況は、管理人である日向像にも報告すべきだろう。ララナは音羅を連れ立って、日向像に事の次第を話した。音羅がオトとララナの子であることもすんなり受け入れてしまうおおらかな日向像は、音羅がララナに充分叱られたことを察して責め立てたりしなかった。その優しさが音羅を再び後悔の涙にいざなった。
ほとんどの物がなくなってしまった一〇三号室に戻ると、音羅が開口一番感想を発した。
「魔法は愉しいけど危ないんだね!」
ララナの叱りと日向像の容赦が、その事実を音羅にしっかりと学ばせたようだ。
「パパの記憶かな。魔法は愉しいだけなんだと思っていたんだ、あたし……」
魔法の無駄遣いを嫌うオトは、その愉しさをたくさん知っているということ。
「音羅ちゃんには魔法の才能があるようですから、オト様の記憶に感化されやすかったのでしょう。学んで正していけばよいのですから、」
ララナは音羅の両肩をぽんとはたいて顔を上げさせた。「はい、これで自分を責めるのは終りです。いいですね」
「ママ……、うんっ、解った!」
元気な返事がまた聞けて、ララナは胸を撫で下ろす。危険なことをしたと理解しても、悔いるばかりでは経験を活かすことができない。音羅が経験を活かすために踏み出そうとしていることを感じて、ララナは安心した。
「では、出直しましょう」
「出直すって、どういうこと」
「気分転換です。音羅ちゃんの服を買いに参りましょう」
「服」
「音羅ちゃんの服が少し焦げてしまいましたからね」
「あ……。そういえばタンスも──」
音羅のワンピースは裾の一部が焦げ、タンスは全焼してしまった。タンスの中身で唯一焼け落ちなかったのは、オトがララナにプレゼントしたボレロのみ。オトの魔法で作られた服は魔法耐性が異常なほど高いようだ。
「ごめんね、ママ。エプロンも、服も、全部焼いちゃって……」
「ほつれなどを取り繕って八年以上着回していたものがほとんどで、買い換えてもよいものでした。音羅ちゃんの服選びのついでに新調致しましょう」
「ママ……、怒ってないの」
「むやみに魔法を放ったことは怒っておりますよ。でも、音羅ちゃんが学んでいることが嬉しいのです。服の一着や一〇〇着、どうということはございません。何より、音羅ちゃんが無事でしたからそれ以上は望みません」
「ママ──、ありがとう。えへへ、なんか暑いねっ。ママの体、ひんやりして気持いい……」
音羅がぽふっと抱きついてきてくれて、ララナは冷たい体がぬくまるよう。その温かさは彼と似て手放しがたく、ずっと包んでいたくなった。くっついていては歩けないし、体温が下がりすぎて音羅が体調不良になってしまうかも知れないので、しばらくして放した。
「さあ、参りましょう」
「うんっ」
緑茶荘を出て商店街のブティックを訪ねるとトレンドの服が華美に飾られていた。麗璃琉なら真先に流行モノを手に取るところだろうが、ララナは着やすく脱ぎやすいものを重視。こだわりがないらしい音羅にワンピースを買ったララナは試着させた服で帰ることにした。音羅用の服と焼失した衣類の代替を買い込んだララナは両手に紙袋を三つずつ提げて帰路を歩く。
空の中程に太陽が懸かり、昼食を求めるひとびとで商店街は活気づいている。ひとの流れに逆らうように歩く中、音羅が口を開く。
「ねえ、ママ。呼捨てってやっぱり駄目かな」
「おや、何か気になりましたか」
「うん。ブティックの店員があたしのことをお嬢さんって呼んでいたでしょう。知らない人だからそう呼んでいるんだと思うけど、ママはパパのことを様づけしていたりするし、あたし、鈴音や総のこと、呼捨てにしていいのかちょっと迷っちゃって」
「なるほど」
他者の不快感や怒りを感ぜられるようになったからだろう。オトの記憶に感化されて鈴音や総を呼捨てにした音羅は、自分がそうすべき立場にないと感じたらしい。
「音羅ちゃんが変だと感じたのなら正しましょう。あえて言えば、敬うべき相手や年長者、初対面の相手などには敬称を添えるべきですね。中でも『さん』が最も広く対応できます」
「そうなんだ……。じゃあ、さんづけにしてみるね、ママさん」
「ふぇ……」
いきなりの妙な言回しにララナは苦笑してしまった。ママを「お母さん」と訳すなら敬称が重複しているというのもあるが、親子ではないように聞こえてしまうのが問題である。こんがらがってしまうとゆけないので、ララナは易しい言葉で音羅に催促する。
「ママさんは、他人行儀な気が致します。私のことはこれまで通りに呼んでください」
「そっか、じゃあママはママで。パパも同じかな」
「ええ、パパのままでよいですよ」
「じゃあ、鈴音とか総のこと、あたし会ったことない、と、思うんだけど、なんて呼ぼう」
亡くなった鈴音はもとより総とも今後会う可能性は低いと考えられるが、ララナはきちんと教えておく。
「音羅ちゃんが知合いということではございませんから、さんづけがよいでしょう」
「うん、うん、解った。初めて会う人なんかにもさんづけでいいんだっけ」
「はい。(普通ならば──、)親しくなって、相手が許してくれたなら呼捨てでもよいかも知れませんね」
「そうなんだ、解ったよ」
手を挙げて元気に返事をする音羅。
……私はできないことです。
ララナは出自のことがあって他者と距離を置く癖がついてしまっている。また、育ちの影響で敬うべき対象に敬称が欠かせない。呼捨てにするということがそもそも苦手になってしまったようで、娘の音羅にも思わず「ちゃん」をつけてしまったのだから、ララナはこの癖を治せる気がしなかった。だから、相手と腹を割って話せる親しみやすい子に育つように、早いうちから音羅を教育したいとララナは考えた。
商店街を抜け、緑茶荘に向かう並木道を歩く。と、一陣の風が吹いた。
「わぁ、生温い風だぁ」
苦笑する音羅の額に汗。商店街で買ったスポーツドリンクがもう空になっている。ララナは紙袋を左手に持ち、右腰ポケットからハンカチを取って音羅の汗をぽふぽふと拭ってやる。
「帰ったらシャワを浴びてください。汗をかいたままですと風邪を引いてしまいます」
「じゃあ、タオルとかも要るね。買わなくてよかったの」
「タオルや布団は隣空間にストックがございますからね」
「そうなんだ。さぶすくえあ、って、なんだっけ」
「この世界のどこにでもある異空間です。一定の魔力を用いればアクセスすることができ、このように──」
ララナは、真円の口を開けた隣空間に左手を挿し入れ、紙袋を収めて抜く。それに合わせて隣空間は真円の口をふっと閉じて消えた。
「──物を収めておくことができます」
「わぁ、すごいっ!便利だね」
「ええ。ところが、隣空間の仕組を解明・説明できたひとはいない。つまり、謎の空間なのです。あ、そうです、そちらのゴミ箱ですが──」
ララナは自動販売機に立ち寄り、脇のゴミ箱を指した。すると、音羅が気づいた。
「この穴、さっきの空間みたい。奥が見えないね」
「隣空間に繋がっているのですよ」
「そうなの」
ダゼダダに住んで初めてララナも知ったことだ。レフュラルでは普及していない魔法で、各種ゴミ収集場を隣空間と繋げて、そこから焼却・再利用・輸出などをしている各施設にゴミを直接送り出すことができる。ゴミ運搬費用や人件費を抑えることのできる便利な魔法だが、空間転移にも似た物体輸送の魔法であるから、空間転移運輸事業で儲けている聖産業や神業産業の要望でレフュラル政府は取り入れなかったようである。ダゼダダではこうして町中の小さなゴミ箱にまで普及しており、ゴミの分別が非常に効率よく行われている。その魔法はダゼダダ全域に展開する八百万神社の総本山八百万神宮が占有している。何千億も発生する魔法使用料が八百万神宮に転がり込んでいるらしいことは、なんだか生生しいので音羅には伝えないが。
ぽっかりと空いたゴミ箱の穴にペットボトルを入れると、するっと消えた。
「ふにょぉ〜っ、消えた!すごいっ!」
「面白いですよね。私もこのような隣空間の使い方があることを最近知りました」
隣空間は謎の空間だ。中に入れた物を入れた本人が取り出すことは簡単に行われているが、不特定多数に空間を提供して、なおかつ、集められたゴミを特定の場所に送り出すことを、ララナはやれると知らなかったし、考えたこともなかった。そんな便利な魔法を考え出した八百万神宮の人物は相当な術者に違いないとララナは思ったりしたものだ。
未知に触れた音羅とともにララナは歩き出す。
「隣空間やあの魔法も不思議ですが、携帯端末やラジオなどの電波が行き交う時代です。目に見えない身近な謎の空間が、隣空間のほかにもあるかも知れませんね」
「へぇ〜、世界は謎だらけなんだねっ」
「はい。ひとはまだ見ぬ・知らぬことを求めて生きていくものですからいつかは明かされることもあるでしょう。が、命は有限です。後世のひとびとに託して亡くなっていくことのほうが多いのだと私は思います」
「ふうん……。でも、パパやママだけは死んでほしくない!」
音羅がララナの腕にぎゅっと抱きついて言う。「ずっと一緒、ずっと元気が一番だよね」
「──そうですね」
ララナは一度死んだ身なので人間的な死生観では蘇りや不死者である。オトが死生観にこだわらず創造神アースの創造の力を借用し転生後に前世の記憶を継承したなら完全な不死ともいえる。なので、音羅の「一番」は叶え得る。けれども、人生は何が起こるか判らない。ララナが両親を失ったように、オトが最愛の鈴音を殺害したように、突如として大切なひとと離れ離れになることがある。
「音羅ちゃん。もし私やオト様がいなくなったら、どうしますか」
「え……」
気の早い質問だった。だが、ララナはどうしても音羅に理解してほしかった。
「恐らく、悲しむことでしょう。つらくて、苦しくて、立ち上がることができないかも知れません」
「考えたくもないよ、そんなこと……」
と、音羅が真顔で。ララナの腕に絡みついた腕に力が籠もっている。
離れたくない。
子心は親心にも通ずる。違うのは、親は子の成長を信じている。
「いつかは音羅ちゃんも私達のように、子を持ち育てていくことでしょう。そのときは、私の腕を離し、子に腕を取ってもらえるような逞しさを得ていることを、私は願います」
「ママ……」
きっと、言葉の意味は理解できているだろう。
が、「解った」とは、言わず、うなづきもせず、音羅が俯いて、黙り込んだ。体は大きくなったが零歳児。まだまだ甘えたい盛りである。ただ同時に、学びの時期。オトの言葉を借りるなら、記憶にもないような幼い頃の体験が個人の主観や思考を大きく左右する。音羅に取って今が、主観や思考を形作る体験の時期なのではないかとララナは観ている。
……いつかは言葉の芯を理解できるでしょう。あなたは賢い子です。
信じて学びの機会を作る。……私も、お父様やお母様のように、子を想いたいのですから。
いっとき悲しい思いをさせるとしても、きっと音羅のためになると考えて学ばせる。いつ別れることになっても後悔が残らないように子を信ずる。それが、ララナの教育方針である。
緑茶荘前の通りを行くと、ララナの聡い耳がとある声を捉えた。
「──しか思いつかなくて、訪ねました」
「ふうん。視野狭窄。相当切羽つまっとるんやろうな」
音羅がララナを見て、
「パパと誰かが話しているね」
「そのようです」
音羅も聴覚がなかなか鋭いようであった。門柱から一〇二号室前を窺うと、オトが玄関扉を開けて男性と話している。ララナに立ち聞きするつもりはなかったが、横を通って一〇三号室に入るのは躊躇われる真剣な雰囲気であった。
「どうか、協力してもらえませんか」
と、男性が頭を下げている。
「俺はプロフェッショナルじゃないんやけどな……」
「けれど、みんなを想っていることをぼくは知っています。あなたはずっと憧れです。噂にはいろいろ聞いていますが、気にしません」
「と、いわれてもな」
「……駄目でしょうか」
何度も頭を下げている男性が、オトに対して何かを要請しているのは間違いない。悪い噂の絶えないオトに頭を下げてまで要請することとはいったいなんだろうか。
オトの態度が、普段より柔らかいのも気になるところである。
「……。俺はやらんよ、柄じゃないし」
「……、きっと、みんな、誤解しているんです。あなたが本意で行ったなんて信じられません」
八年前の学園支配のことか、それとも一年前の鈴音殺害のことか。男性はオトの過去を知っているようである。
……私が会っていない人物で、左様に深い仲の方がいらっしゃるとは。
調べていない相手は、多数存在したという名も摑めぬ児童。古傷にもなっていない傷を抉ることはないと考えて教員側への聞取りも途中でやめて接触を控えたため、調査不足は当然の結果であるが。
「お前さんこそ、俺を好意的に見すぎやないかな。俺はお前さんにも害を与えたはずやけど」
「それが本意なら、ぼくもショックではあります……。でも、それでも、ぼくにはあなたしか頼れるひとがいないんです」
「……、ふむ。そこまで言うなら少し考える」
と、オトが折れたようだったから、ララナは思わず音羅と目を合わせた。
「今日のところはもう戻れ。午後の授業に間に合わんかったら単位とかヤバいんやないの」
「そんなことより、あなたのことや国防のほうが大事ですから」
……国防ですか。
「いいから帰れ。あとで連絡する。電話番号を置いてけばいいやろ」
「っはい、ありがとうございます!」
「請けるとは言っとらん」
「でも、ありがとうございます、言葉真さん」
オトを旧姓で呼ぶということは、初等部時代の知合いだろう。男性が魔法学園の手帳に電話番号を書き、切り取った頁をオトに渡した。
音羅がララナに耳打ちする。
「なんとなくだけど、ママに似ているね、あの人」
「そうですね──」
ララナから見てもあの男性は少し似ている気がした。オトがいつもより棘を抑えて接しているようなのはそのせいなのだろうか。そして、シンパシだろうか、ララナは不思議と、男性の背を見つめてしまった。
「ご連絡お待ちしています。必ず、あなたへの誤解を解いてみせます」
「早く戻れ」
「……、はい。失礼します」
最後にまた頭を下げて、男性が緑茶荘をあとにする。男性が門柱を抜けるのを見計らって、ララナと音羅はいま来たかのように歩いていった。オトがララナ達に当然気づいており、合流するのを待っていた。
「ったく、立ち聞きとはいい度胸しとるな」
「タイミングが悪かったのです」
「出てゆきにくい雰囲気だったものねっ」
と、音羅がフォロを入れた。
「離れて待っとくとか話に割り込むとか選択肢はあったやろ……」
オトが溜息のあと、「まあ、いい。来い」と、自宅へ入っていく。ララナと音羅は彼に続いて部屋に入り、ダイニングのテーブルセットへ。オトが窓際の席に、音羅がダイニング入口寄の席に、ララナは二人を右左に見る席に座った。
「不躾で申し訳ございません。先程の男性はどちらさまですか」
「初等部の同窓、相末学君だ」
「相末というと五大旧家でありダゼダダ系の防衛機構開発所の一つですね。国防が云云と聞こえましたが、もしや」
「父親の勤める防衛機構開発所に知恵を貸してくれといわれた」
電話番号を記したメモをオトが丸めてゴミ箱に放り投げた。
カサッ。
乾いた音を立てて床に零れ落ちたメモを、オトが立ち上がってゴミ箱に入れ、席に戻った。
「音羅、ゴミはちゃんとゴミ箱の近くに行って入れるんやぞ」
「投げたら入らなかったものね」
「そういうことだ」
学習すべき点は別にあるのではないか。
「……よろしいのですか」
「俺は電話を持ってないし、」
「近くに公衆電話がございます」
「メンドーだ」
棄てられた連絡先。
「私の携帯端末をお使いください」
「連絡するというのは噓だ。どうせ請けん話やし」
「パパのことすごく心配しているみたいだったよ。請けてあげるべきじゃないかな」
音羅の言葉はララナの思うところと程近い。
「私も協力してあげるのがよいと存じます。彼はオト様への誤解を解こうと考えているとのこと。口先ではないような気が致します。どこか信用に欠ける部分がございましたか。言葉真国夫さんのように、裏で不正を働いている企業であるとか」
「……、俺が知る限り相末防衛機構開発所は至ってクリーンやし、相末君自体も信用に足る」
疑り深いオトにそう言わしめる相末学と相末防衛機構開発所。一聞すると協力しない理由はないようだが、
「パパ、自分のことで迷惑掛けたくないんじゃないの」
と、音羅が鋭く尋ねた。
オトが頰杖をついた。
「部屋の中で炎魔法を発しただけはあるな」
「う……。でも、そう、思ったから……」
音羅が萎縮している。
ララナは音羅の意見を後押しする。
「オト様。音羅ちゃんはしっかり反省しています。オト様はいかがですか。今こそ、反省を示すときではございませんか」
「してもおらん反省は示せんよ」
オトはそういうひとである。少なくとも星の海の外では。
オトはオトなりに反省している。そうでなければ引き籠もったりしない。
「本日は火曜日、相末さんは学園を抜けてまで来てくれました。それには相応の決意があったと考えます」
「あえてこの時間を選んで来ることで決意を見せたとも考えられる。まあ、相末君は単純やからそんなことを考えてやるタイプじゃないが」
「だったら手伝ってあげればいいのに」
と、音羅が果敢に意見したが、オトが聞き入れる気配は全くない。
「嫌だね。なんで俺が」
「パパが頼りにされているんだよ。ほかのひとじゃないんだよ。だからだよ」
「頼りにする相手を間違った相末君が悪い。音羅」
表情を一片も変えず、オトが説き伏せる。「俺達はただの人間じゃない。人間の中では特異あるいは異常と捉えられることすらある人種だ。そんな俺達がむやみにただの純血の人間に関わることは控えるべきだ」
「ただの、純血の人間……」
「そうだ。相末君を始めとする多くの純血の人間は、なんの特別な力も持たん非力な存在だ。ゆえに強者や特異な性質の者の力を頼りにするきらいがある。だがその考えが間違いだったと判るや掌を返したように責任を押しつけ、排斥しようとする。解るか」
「……よく、解んない」
音羅には難しい話だろうか。
ララナは知っている。
「確かに、そういった側面は人間に付き物です。人は異分子を嫌います。集団に属さない、与しない、また融け込まない者やそぐわない者を不穏分子として扱うことが多多ございます。人は危険を避けようとするものですから仕方のないことといえるでしょう」
「そんな……。でも、あの人、相末さんはそんな人じゃないよね。パパのことを頼りにして来てくれるくらいなんだ、『そのほか大勢じゃない』ってことだよね」
「初等部四学年の事件以降、会ってなかったことは音羅も判っとると思うんやけどね」
「……あ、うん、判っていた、よ」
音羅が小さくうなづいた。オトの記憶を継いでいる音羅だが、相末学の姿を見ても誰だか判らなかった。オトが相末学と長く会っていなかったことを示している。
「パパ、あたしがどのくらい記憶を持っているか判るの」
「ある程度は。生まれてからしばらくと、初等部での事件後から一年前買物に出るまで、一年飛んで羅欄納とあったあとから音羅が生まれるまでをぽつぽつってとこやろう」
「ややこしくて聞き漏らしているかもだけど、たぶんそんな感じだと思う」
と、音羅がうなづいたので、ララナはぎくりとした。
……音羅ちゃんは、オト様の鈴音さん殺害を知らないのですか。
(そういうことだ。魔法でお前さんに見せた様子も知らんやろうよ。知っとるなら俺を恐れるとか責めるとかするはずだが、音羅にそんな様子はない。むやみに口にせんといて)
(ショックが大きいですからね)
(折を見て俺から話そう)
オトが見せた鈴音殺害時の様子を、体感も込みでララナは思い出していた。音羅が持たなかったのは幸いな記憶だろう。
「閑話休題。相末君は俺に八年ぶりに突然会いに来たわけだ。これまで何回も会いに来たのなら少しは評価するが、たかが一度の来訪でその意志を評価することはできんな。何度来ても請けるつもりはないけどね」
「……関わっちゃ駄目だから」
「直接の記憶はなくても俺が事件を起こしたことを知り、以降七年間の記憶がわずかでもあるなら理解できるはずだ」
「……、うん……」
苦しみをさらに深めた鈴音殺害の件がなくても、オトが自身の非一般性や悪の心、善性や役目に苦しんだことは充分に理解できる。仮に理解はできなくても、一般的他者との関係に父親が七年ものあいだ苦しんだことは判ったはずである。それをもって、他者との関わり合いを控える気持を音羅なら理解することができただろう。
現に音羅が次に口を開くことはなく、ララナは一旦、音羅を一〇三号室に戻すことにした。
音羅を独りにしておくことは躊躇われる。寸時二人きりとなると、ララナはオトに尋ねる。
「音羅ちゃんがいっていたこと、オト様が亡くなられてしまうという言葉の意味を、オト様はお解りになりましたか」
ララナは引っかかっていた。生まれてから眠り続けていた音羅が目覚めて間もなく発した死の宣告と回避手段が。あれは、持っていた知識の応用ではない。あのときの音羅にそこまでの知恵はなかった。知恵があったなら、魔法が危険を招くことも当然理解し、部屋での魔法使用をしないはずだからである。ならばなぜ死の宣告ができた。
「オト様、また、死に目を向けていらっしゃりませんよね」
ララナは、その心配をした。
が、
「それはないよ」
と、オトが明言し、音羅の言葉の意味を説く。「音羅がいうのは『人間的不治の病』のことだ。鈴音も罹っとったどうしようもないもんやし、俺もいずれ罹ると危惧はしとったんよ。音羅を作るための魔法を仕込んだとき、命を作ることを考えながら、自分の死期を考えとった。その記憶を継いだがために音羅は俺に死の宣告ができた。それが論理的解釈だ」
死期を考えてしまっていたのは──。
オトが外を示した。
「音羅のことは任せる。死の宣告について詳しく聞きたければ音羅から直接聞くといい」
「……、はい」
人間的不治の病。人間的とは、人間の持ち得る技術や価値観においては不治の病ということか。しかもオトは「いずれ罹る」と言った。今は病状が表出していないということだろう。予測がつくのに、治すことはできない。魔法医療の発達した現代でそんな病があり得るのだろうか。オトと音羅の示す死の影を、知識を総動員して探りつつ、ララナは外に出た。
オトに死が迫っている。
幼い音羅が父親の死期を察してどんな思いでいるか。ララナは自宅に急いで戻った。先に帰した音羅に鍵を渡していたので、ララナは合鍵で入室した。
早朝の雪などなかったかのように、灼熱の太陽光線が降り注ぐ昼下り。
「音羅ちゃん……」
先に戻ったはずの音羅はおらず、一〇三号室はひっそりと虚ろ。ララナの背を、容赦のない酷熱が煽るようだった。
──二〇章 終──




