一章 化物
現在のオトがどのような問題に直面しているのか。なぜ一〇三号室の前住人を殺めたと思われているのか。糸口を総が持っているだろうが彼はその話を避けている節がある。ララナの身を案じて止むを得ず一端を話したようなので、オトのことを教えてくれ、と、馬鹿正直に頼んでも無駄だろう。
……まずは、総さんの口を割るための情報が必要ですね。
ララナは行動的である。思い立ったが吉日、と、一〇一号室に住む緑茶荘の管理人日向像を訪ねた。気配を完璧に消すことができるほどオトは警戒心が強いひとなので耳も利くだろうとララナは推測。日向像を近場の喫茶店に招き、本題を伝えた。
「──。オト君の過去ですか」
何事も、過去が現在を形作る。ララナは特殊な出自ゆえに〈魂鼎〉という存在であるが、過去が現在を形作るという基本的な法則、いわゆる摂理から漏れない存在である。オトもそうだ。人間社会で暮らしている以上、必ず過去があり、痕跡が残る。痕跡は波紋となって本人も気づかないうちに周囲に影響を与えることがある。
「日向像さんは何かご存じのことはありませんか」
「そうですねぇ、あるにはあります。あの事件のことでしょう」
「事件……」
「忌まわしい事件でした。殊に、女性には」
女性であることを理由に総がララナを心配したことを想起させる発言であった。
「そのお話を掘り下げていただいてもよろしいですか」
「それを伝えるんもお仕事でしょうから構いませんよ」
日向像が緑茶で唇を湿して語り始めた。
「一年前当時、一〇三号室には橘家、夫婦と娘さんの家族三人が住んどりました。体の弱いお嬢さんとオト君はその数年前から交流があり、お付合いをしとりました」
「恋人ということですか」
「ご両親は認めとらないようでしたがお互いに好いとったでしょう。オト君はそのお嬢さん、漢字で書くところの鈴の音色、〈スズネ〉さんをよく訪ねとりました。スズネさんも体調の優れたときにはオト君を訪ねとりました。何かを作ることが二人の趣味だったようですね、スズネさんの愉しそうな声がよく聞こえたもんでした」
話の流れで、ララナは察する。
「事件は、鈴音さんの身に起こったのですね」
日向像がうなづいた。
瑠琉乃の事前報告に「周辺地域で犯罪が横行」とはあったが一〇三号室の事件は挙がっていない。「各種事件を調査、可能なら解決し、治安改善せよ」という業務内容と捉えたララナはオトの存在以前に事件に首を突っ込むつもりがあったが、オトが絡んでいる可能性があるとなればなお踏み込む必要性を感じた。
「一年前に話を戻しましょうかね」
日向像が両手を摩って語る。「ダゼダダには希しく雪の降った寒い日でした。わたしなどは久しく出しとらんかった魔導ストーブを押入れから引っ張り出して暖を取って過ごすような、凄まじい寒気が立ち込めた日でした。誰もが家に閉じ籠もるような日でしたから、オト君が出掛けていく扉の音が聞こえててっきりスズネさんを訪ねたものと思っとりました。その数時間後、オト君の叫び声……、いいえ、怒号のような、そんな声が聞こえました」
……怒号──。
「ただならんもんを感じてわたしは家を飛び出しました。すると、血塗れの両手を拭うこともせずにオト君が外へと、どこかへ向かっていきました。雪の積もっとる日でしたがね、まるでアスファルトの上を走るように軽快に、それでいて荒荒しく雪を舞い上げて、目振る間に駆けていきました。わたしの足ではオト君を追える気がしませんでしたので、オト君が出てきたまま開けっ放しの一〇三号室の扉に目を向けました。夕方、日が沈んどったこともあってかなり暗かったのを憶えとります。スズネさんのお宅の燈は点いとらんくて暗かった。わたしがスズネさんのお宅にお邪魔すると、既にスズネさんのご両親が帰宅なさっとりました。暗がりの室内、スズネさんのベッドの横で佇立するのみで言葉を発することもなく、石像のように動かず。ちらと面を窺えば、涙が溢れるばかりのご両親でした。その目差の先、ベッドの上には、着ていたであろう服を引き裂かれた……息絶えたスズネさんが横たわっとりました……」
乱暴された。その上──。
戦場においては、勝者の論理が敗者の尊厳を奪う。そのような蹂躙がしばしば起こる。被害者は女性に限ったことではなく、その多くが弱者や無抵抗な者である。ララナの指揮する軍においては禁じた行為だが、禁を破った者を「味方武力」として見逃すことがあった。戦時でもなければ排除することに吝かでなかったが、総力減衰への懸念や個人の武勲が不届者を過度に保護してしまっていた。
鈴音の事件は一年前。悪神討伐戦争の七年後で戦争と直接の関わりはないだろうが、弱者が被害に遭った点で戦時に通ずるものがある。
「オト様が、それを」
「スズネさんのご両親によれば、オト君がスズネさんに跨っとった、と。また、鈴音さんに止めを刺したとされる刃物をオト君が握っとって、スズネさんの胸に突き立てた状態でおったということでした」
「……限りなく黒に近いグレ、ですね。──」
オトは捕まっていない。つまるところ、オトを逮捕するだけの証拠が挙がらなかった。もしくは殺意があると認められなかった。犯行自体を目撃されたのではなく犯行直後と思われる姿を目撃されたという状況は、サスペンスや推理ドラマのワンカットによくある。
「──。広域警察もそのように観て捜査をしたようです。報道されたことを挙げれば、スズネさんのご遺体にはオト君の体液が、また、凶器となった片刃のナイフにはオト君の血液指紋が残っとったと。ただ同時に、オト君のものとは違う指紋と精液が三人分、ご遺体や室内に付着しとったとも発表されとりましたね。あ、オト君は実際には罪に問われず未成年でしたので名前は伏せられとりましたが、わたし達のような現場に居合わせた皆がオト君だと判るような発表のされ方でした」
「オト様が、指紋と精液の主三人を引き連れて鈴音さんを乱暴した。広域警察はそのように見立てたのでしょうが、実刑に至らなかった。障害となる何かの要素がございますね」
「発表によれば、オト君の行動がスズネさんを直接死に至らしめたのかが立証できんということでしたね。ナイフは胸を一突きにしとったとはいえ出血の量が少なく刺される前にスズネさんが息絶えとったという見解もあったようです。加えて、ほかの証拠物件が示す現場に居合わせた三名の犯人、これが未だに見つかっとりません」
「証拠があるのに犯人が煙のように消えてしまったということですか」
日向像が緑茶で喉を潤してうなづいた。
「オト君は刺したことを認めとったようですが、裁判ともなると疑わしきは罰せず。客観的に確実と見做すことのできる証拠が必要になりますからね。複数の目撃者や犯人全員の事情聴取でオト君の被疑事実を脇から固める必要があったんですよ」
「現実にはそれができなかったのですね」
「そうです。目撃者はスズネさんのご両親ですが、オト君がスズネさんを刺した瞬間を見たわけではなく、ほかの三人も見つからず終いでした」
……なるほど。総さんが疑う理由も納得がいきます。
怪しい人間がすぐ近くにいたら、誰でも警戒心を深めてその人間を犯人だと思い込む。被害者である鈴音やその両親への同情から犯人と思われる対象に憎悪が向かうことも想像に固い。思い込みは、現実や真実に優ることもある。その上で発せられたであろう両親の証言を真実と思い込むこともしかりである。
恩人として、愛するひととして、ララナはオトを捜してきた。彼を慕う気持に変りはないが、気持を切り離して状況を観察しなければならない。
……オト様は自白なさった。
状況証拠も相応にある。……脇が固められなかったために無罪放免になったものの容疑は限りなく濃いです。
日向像の話で過去が大まかに観えたようであった。鈴音が殺される前までオトの友人であった総は、より近くでオトと鈴音の関わりを観ていたことだろう。オトが罪に問われなかったことも含めて、総の知る何かが現在に繋がる重要事項となった可能性がある。
……総さんから話を聞いてみましょう。
次の行先を決めたララナに、日向像が尋ねる。
「ララナさんは、オト君は有罪だと思いますか」
「はい」
ララナは即答した。「伝え聞いた話だけでは不十分とは考えますが、ここまでの話を総合すると少なくともオト様には保護責任者遺棄致死の罪が該当すると思われます。最悪の場合は強姦教唆と殺人、死体損壊の罪です」
日向像の証言から確実に判明しているのは、オトと三人の男が橘家に入ったこと、三人の男が鈴音を強姦したこと、オトがナイフを握っていたことである。オトが鈴音を犯したとは警察組織も言及していないが──、オトが救急隊や警察組織を呼ばずに一〇三号室を立ち去ったことも確かである。三人の男を唆して鈴音を暴行した可能性もあれば、ナイフを突き立てた可能性も却下はできない。個人の抱える問題としては最悪の部類ではないか。
……私がこれを乗り越えなければ、現在は戦争でさらなる悲惨に見舞われてしまいます。
過去に現れた未来のオトは、他者を進んで害するような人格ではなかった。戦争に突き進んでいたララナを引き止めこそすれ、背中を押すことは一度もなかった。未来のオトと同じ人格を現代のオトが有するなら、ナイフを突き立てるどころか暴行教唆すらしなかった可能性が高い。だが、程近くに住む総に犯人と疑われている現実も無視はできない。友人であった総に疑われるという状況は非常に閉塞的だ。閉塞感は孤独を生む。孤独は視野狭窄を生み、道を踏み外す危険性と隣合せだ。飽くまで類推だがそんな状況にある現代オトとは未来のオトの人格が掛け離れているとララナは感ずる。未来のオトになるまでに、いったいどれだけの時間が必要になるか。少なくとも、現代のオトがひとりでに救われることは絶対にない。事件から一年経っても友人である総の疑いが消えていないのがいい証拠である。理由は定かでないが、オトは友人である総の疑いも消しきれていないのである。
現代のオトを救うことで、現在を正しく改変させなければならない。
「ララナさん、もう一つお尋ねしても」
と、日向像が微笑で。
ララナはカップを持ってうなづいた。
「なんでしょう」
「理由は存じ上げませんが、ララナさんはオト君を慕っている様子。──罪を問えますか」
「問います。問わねばなりません。それが、私に取っても、オト様に取っても、必要です」
「では、もう尋ねません。どうか、頑張ってください」
「はい」
昼食を済ませると言う日向像と別れ、ララナは一足先に緑茶荘に戻った。
一〇三号室。綺麗に掃除がされて、壁紙も貼り替えられたのだろう。死者の出た血みどろの現場だったとは判らない。ひとの視界や記憶から凄惨な現場が消えたとしても、オトの記憶には遺っているだろう。
……オト様は、本当は優しいお方です。
ララナに贖罪の機会を作るような人物だがそれは未来のオトであって現代のオトではない。同一人物だから考え方も同じはず、とは、こじつけもはなはだしいが、ひとには土台があってその土台がなければ経験が積み重なることがなく、経験がなければ思慮は起こり得ないとララナは考えている。ゆえに、思うのだ。果して恋人同然の相手を暴行させるだろうか。あまつさえ止めを刺すなど。
……真黒に近いグレでも、私はまだ黒だとは判断しておりません。
心象だけの脆弱な判断だ。ゆえに物事を正確に捉えているとはいえない。
状況証拠やオトの自白が全てではないともララナは考えた。事件のことを客観的に話してくれた日向像とオトへの疑惑を抱えている総とで事件に対する捉え方にかなりの差異があり心の持ちようも異なっていることが、ララナの思考を促している。その差異はどこから発生している。経験値が違うことで日向像と総のどちらにも見えていることと見えていないことがある可能性を否定できない。そうした差異の発生箇所が判れば、表に出てきていない真実が観えるのではないか。
……総さんから話を聞けば、さらに判ることがあるでしょう。
一〇三号室の元住人鈴音に黙祷を捧げたあと、ララナは外階段を上がり、総の住む二〇三号室を訪ねた。
現れた総が目を丸くしたのは数秒のこと。次には、
「早速来てくれるなんて嬉しいです。何かご用ですか」
と、嬉嬉とした。
再び喫茶店に行くのは店員に妙な気を遣わせそうなので、ララナはこう切り出す。
「急なのですが、今から町の案内をしていただけないかとお願いに参りました」
事前に地図で要所を把握していたが、歩きながらオトについて話そうと考えた次第である。
総が快諾して住宅街の東、商店街へ足を向けた。緑茶荘から数十メートル離れた歩道で、ララナはオトの話を口に出した。
「オト様は恋人同然の方を殺害した容疑を掛けられたそうですね」
「っ、それをどこで」
総が脚を止めて、「まさか、彼に会ったんですか!」
「はい。ですがあの方から拝聞したのではなく、独自に調べました」
「……もしかして、君は、彼と知合いだったんですか」
飽くまで現在のオトについてだが、
「いいえ」
と、ララナは答えた。
総が訝しむ。
「君は、なぜ彼のことを調べているんですか。警察でもないでしょう」
「私はあの方をお助けしたいと思っております」
「なぜ。福祉の人ってことはないですよね」
広い意味で捉えればボランティアは福祉かも知れないが、「ええ」と、ララナは答えた。
「じゃあ、知合いでもないのに」
と、いう総の疑問に、「ボランティア」ではないと考えているララナなりの答を提示することにした。ボランティアは篤志家である。が、オトに対する行動は仕事を除くと完全なる私情でしかなく、私情が何によって促されているかといえば、
「一目惚れです」
「えっ──!」
総が目を見開いて、咳払いした。「冗談を。今の彼に、君のような、聡明そうな女の子が惹かれる要素がどこに」
「私は一人の女です。恋に狂うこともございます」
悪神から多くの生命を守るために戦っていたララナは神神の住む〈神界〉で圧倒的な支持を得ていた。そんなララナに対立的な発言を繰り返す男性は、彼しかいなかった。いま思えばだが、八年前初めて逢ったときから、ララナはオトに心を奪われていた。振り返れば振り返るほど、未来のオトは当時のララナの戦争一直線の思考を正そうとしてくれていた。そんなオトを、ララナは、非常に、激烈に、鬱陶しく思っていたが──。
信じがたい。総がそんな眼を秘めて歩を進める。ララナは総の隣を歩く。
「狂うというのは比喩にしても、選りに選ってなぜ彼を……」
「なりませんか」
「いや、駄目とはいいませんが、お勧めはできません。彼は間違いなく犯罪者です」
総の口からオトの話が出た。問い質す潮時である。
「総さんは、オト様が鈴音さんを殺害する動機をご存じなのですね」
「……」
やはり話したくないことなのだろう。総がしばらく無言で歩いた。
「彼が、彼を知る人になんと呼ばれているか、ご存じですか」
と、質問には答えず質問で返した総に、ララナは丁寧に応ずる。
「いいえ、存じません。オト様は、どのように呼ばれているのですか」
「悪童、なんていうのは、可愛いものです。ぼくの知る限りで最悪なのは、〈化物〉」
ララナから一二英雄を救った未来のオトの実力は、人間の世界では到底受け入れられないレベルである。悪神総裁ジーンに苦戦を強いられていた一二英雄の一部は、その名を冠するまでは人間扱いされていなかった者もいる。評価は他者が決するものとは言え、成果がなければ無価値以下のように断ぜられてしまう者が確かに存在しているのである。オトも、そんな存在の一人。
「なぜそのような呼び名に」
「彼は片鱗を見せていた。周囲はそれを天才とか神童と表現していました」
「なるほど──、受け入れがたい行動に出た天才は人の皮を被った異質のものであるということですね」
総が遠い目で、
「君とはまるで旧知の仲のようになんでも話せてしまいます……。そう、彼は、ぼくを含めて周囲の誰からも異質にしか観えないんです」
それが普通の感覚だろう。その感覚を、ララナはある種、外側からずっと観てきた。
……私も、オト様と同じです。
ララナは生来魔法の才能に恵まれ、運動神経も極めて高かった。周囲の子やその親はララナを特別扱いする一方、畏怖していた。ゆえに、ララナは義妹にすら己の能力を隠し、非力を演じてよき姉であるよう努力した。友人相手にも非力を装った。何もできないふりをし続けた。料理や家事、女の子らしい部分だけを控えめに表に出して他者の共感を得て、取り入るように仲良くなった。そうしなければ恐れさせてしまう。
「一番恐かったのは、他者とあまりに違ってしまったオト様自身ではないでしょうか」
ララナは自身の経験から推察したが、
「そんなことないですよ」
と、総が一蹴した。「能力が高いなら他人と合わせることができたはず。少なくともぼくはそうしてきました。自分より何かに劣る相手にはできる限り歩調を合わせました。心遣いの問題でしょう。彼には、それがなかったんです」
「一度はオト様のご友人になられたのでは」
ララナは総を横目に捉えた。友人の全てを抱え込めだなんて咎めるつもりはないが、心から手を差し伸べてくれた友人を知っているララナは──、総の態度に一貫性を感じなかった。
所在なさげに総が目を逸らして、
「ぼくが、愚かだっただけのことです」
「どのような意味ですか」
「ぼくにできないことができた彼を無条件に信じ込んでいたということです。現在ぼくは魔法学園高等部首席ですが、かつて、学園に彼が通っていた頃は、彼が首席でした。初等部一学年から四学年まで、四年連続の学年首席です」
ララナも魔法学園に通っていたことがあるので理解できた。魔法学園であるから魔法関連の才能に優れる者が首席となるが、学力や社交性、日頃の挙動など評価の幅は広い。低い評価があってもなれないわけではないが、総じて高評価であれば首席に近づく。
……オト様も首席だったのですね。
ララナもそうだった。義妹とわざわざ別の魔法学園に通って成績を隠して飛級、プロフェッサに恵まれていくつか優れた論文を書き起こせたことが幸いして、最高学府頂等部を一〇歳にして首席で卒業した。
……オト様は時空間魔法すら容易く使いこなされますから、実力は私以上。
時空間魔法は現代魔法学において最も難度の高い術式の一つとされている。過去のオトは未来から訪れたのだから、未来から過去に渡るための〈時遡空間転移〉という時空間魔法を使える。また、消費する精神力が異なりこそするが「魔力を潜めること」も時空間魔法に匹敵する難度の魔法技術であるから、それができる実力を観ても現在のオトは八年前に現れた未来のオトと遜色ない実力であることが推察できる。また、時遡空間転移という魔法は惑星アースにおいて理論上可能だが体験者が存在していないため、未来のオトはそれを可能とした前人未到の術者と表することもできるだろう。魔法学園での勉強がオトには必要なかっただろうこと、飛級推薦されていたことも合わせて類推できる。飛級しない理由は基本的にない。学びの場が広がることもあれば、将来の選択肢が増えることもある。あえて飛級することのデメリットを挙げるなら、周囲の人間関係の激変である。同級生が年上ばかりになることはララナとしても体験したところであるが、プロフェッサに気に入られて級友の反発を招いたのは本当に大変だった。外見に対する中傷は日常茶飯事であったし、「子どもに何ができる」とか、「金の力だろう」とか、能力に関する疑義や根も葉もない裏口入学批判をどこにいてもぶつけられた。そこまで想像していたか定かではないが、関係の激変をオトが想像していたのなら飛級をしなかったのは友人との進級を望んでのことだろう、と、窺える。
ララナは少し気になる点がある。
「オト様は、初等部五学年から首席を退かれたのですか」
「それは……、あんなことがありましたし、さすがの彼も学園に来なくなったんですよ。いわゆる不登園です」
「不登園ですか。あんなこととは」
「……知らないんですね」
知っていて当然の出来事なのか。鈴音に纏わる一年前の事件とは別に、オトの過去には大事があったのか。
「話してもらえますか」
「……、魔法学園創立以来の大事件だったと思います」
商店街に差しかかる。華やかなショーウィンドウや賑やかな雰囲気にそぐわぬオトの重い過去が、総の口から語られる。
「八年前になりますね……、彼は突然、人が変わりました。穏やかな海が荒れるように、まるで天災に転じたように他人を平気で害するようになったんです」
「八年前──」
「最初は言葉だけでした。もとは他人の話をじっくり聞いてから受け答えしていた彼が、一概に捲し立てるような強い語調で他人を看破するようになりました。それが続くと、今度はもっと直接的に、物理的な害を……」
殴られたり蹴られたりした者がいたのか。未来のオトと比較すると、それはないように思うララナだが、過去に罪を犯した者が比類なき善行に身を窶していることもなくはない。
事情や経緯を伏せたいのか、総が言葉を濁した。
「当時まだ親しかったぼくは、そのよしみか、直接被害を受けませんでしたが、被害は学園の教師にも及んでました」
「被害の多くは児童ですか」
「全容は判りませんが、恐らくは。ただ、人数での判定であって、比率でいえば教師のほうが被害が多かったのではないかとぼくは考えてます」
「と、いうのは」
ララナの問に、眉間に皺を寄せた総が応えた。
「当時、魔法学園は彼をトップとして教師が支配していた。学園支配とぼくは呼んでます」
一クラスが学習不能に陥った状態を学級崩壊という言葉でよく耳にするだろう。一方、学園支配というのは造語だが、それは一クラスにとどまらない範囲を示すことや崩壊よりも悪性の強い形容にインパクトがあり、妙に耳に馴染む。
「物物しい表現ですね」
「事実、ですからね。本当に荒れてましたよ……。教師は皆、彼に頭が上がらず、そう、独裁者の恐怖政治のようでした。従わない者は皆、教師も児童もよくないことが起きて、いつしかいなくなりました。転任・転校・転職した者はまだいい。中には、行先も告げずに姿を消してしまった者、文字通りいなくなった者もいたようです」
いたよう。
支配というのは、ある者の意思で個人や団体が行動・思想などを制限されたり束縛されたりすることである。総の話はまだ「外形」と「結果」にしか触れておらず具体性に欠けている。よって、ここまでになかった具体的な内容からオトが何を目的に学園支配といわれる事件を起こしたか観えてくるだろう。
「どのような支配が行われたか、詳しく話してもらえますか」
「少し休んでいいですか」
と、総が話を逸らすように路地裏を示す。
話をするにも心の準備が必要なことはある。ララナは総の提案に応じて、寂れた路地裏の古い食事処に入った。中は小綺麗にされており、カウンタ席と座敷、一〇人で満席の狭い造りながらどこか落ちつく雰囲気である。靴を脱いで座敷に向かい合って座ると、総が焼肉定食を頼む。ララナがアイスココアを頼み、店主が調理に取りかかると、総が苦笑した。
「さっき少し食べたんですが朝ご飯を抜いてて小腹が……、付き合わせてすみません」
「(食べ盛りなのでしょう。)お昼ですので、お気になさらず」
総から話を切り出す。
「続きですが、地獄といえば、地獄でしたね」
「別の見方もできましたか」
「子どもの頃、いや、今もまだ親の脛を齧っている子どもではありますが、小さくて理解不能だったことも、今は少し理解できるんです」
「オト様の起こしたことは、子どものそれとは違った。そういうことですね」
「はい。……相手の欲求をそのまま叶えてしまったんですよ、彼は」
「欲求を叶える……」
欲求は生まれや育ち、そのときどきの気分によっても異なる。一つ一つ叶えるのは極めて大変な作業だろう。大きな成果を得るには、状況把握、人材や物資のコントロール、さまざまなことを能率よく迅速にこなす必要がある。
「オト様はどのように他者の欲求を調べたのでしょうか。一人ずつ訊いて回るのでは支配する上では遅いでしょう」
「簡単です。プリントを作って、みんなに配ったんです。設問は一つ。
〔あなたは何がほしいですか。〕」
「なるほど」
オトの立場においてその手段は最善だったことだろう。個個人の欲求を穏便に調べられ、警戒される危険性が少なく、それでいて効率的な手段だ。各種実態調査をプリントで行っているような学園側に立てば、普段触れている小道具ということもあって違和感を感じ取ることが難しい。プリントを受け取った側は正答を求められ採点までされるテストと異なり〔あなたは何がほしいですか。〕というアンケート的な問に気楽に答えてしまう。
「しかし、本音が書かれなかった可能性もございますね。人間には理性がございます。意識的にしろ無意識的にしろ度を越えた欲求を自制しております」
「無問題です。彼には、優れた魔法がある。それを使ったんです」
理性を失わせるような精神支配の魔法をプリントに施していたということか。精神支配などされようものなら、緊張感や理性の有無に関係なく、心の底に押しとどめているような欲求も解き放ってしまう。これを回避する方法としては、まず精神魔法に掛からないことが第一である。掛かったら最後、魔法が解けるまで精神支配状態。ララナの経験で近いものといえば、前世の魂に支配されていたときに近く、支配されてから支配を脱するまでの記憶がなかった。精神支配を主とする魔法もそういった性質を有している。
……そうだとすると──。
ララナには一つ大きな疑問が湧き上がっていたが、聞取りを優先する。
「ぼくも含め、理性を取っ払われたみんなが思い思いの欲求をプリントに、……書いてしまいました」
総はそれゆえに、オトを友人とは思えなくなったということだろうか。一年前の事件以前から、総はオトと距離を置いていた。自分の律している欲望を意に反して曝け出させられたのだから当然の心理である。
「被害に遭わなかった、と、総さんは言いましたね。プリントに書いたことが叶いませんでしたか」
「はい。幸か不幸か、いや、幸いなことですよね……」
欲望を叶えられた者の末路は先程総が触れた。
届いたアイスココアを一口飲んで、ララナは総を窺う。
「転校や転任をしなければならない、場合によっては失踪しなければならないほどに社会的制裁を受ける欲求を叶えられてしまった人がいたのですね」
「児童側で被害の中心だった高学年の児童ほど思春期が多く、それに基づく妄想のような欲求が叶えられた者が多数で、教育機関とは思えないことが白昼に起きてました」
焼肉定食が届いて、総が一枚の肉と白米を味わってから話を再開した。
「行ったことがないので憶測ですが、風俗店みたいでした。教師同士が性行為の見本になって欲求を叶えられた児童がそれを真似て行為に及ぶ……。そんな非日常が常態化して、いつしかみんながその生活に染まっていきました。欲求は底がないですから、叶った欲求の深みに嵌まった者が学園外でも欲求のままに振る舞うようになり、教師には逮捕者が、児童には補導される者が続出しました。自然、魔法学園に捜査のメスが入ったわけです」
悪神討伐戦争の最前線である神界を飛び回っていたララナは惑星アースの一地方ニュースを観ていなかった。恐らくは戦争に次ぐ大事として報道されていただろうが全く知らなかった。
「そうして、オト様は不登園になられたのですね」
「未成年、一〇歳の子どもでしたから、法で裁かれず、名前も公にされていません。だから彼は一七にもなって再び罪を犯してしまったのだとぼくは考えたんです」
裁かれなかったことで己の罪を理解することができないまま、今度は少年法での裁きを受ける年齢になってオトは罪を犯してしまった。総は、そのように推察したようだ。
一理あった。
未来のオトがしきりにララナの戦争思考を批判していたのは、他者が傷つく選択肢を選ばせないためだったのだろう。未来のオトがそのとき考えていたのは現代から八年前や一年前の行動で、自分が踏みとどまれなかった過去を重ねてララナを止めていたのでは。動機こそ異なるが、自身が裁かれなかったことをきっかけに再び罪を犯した悪神総裁ジーンと、オトは外面的に似た経緯を辿っている──。
総の見解ではオトが罪を犯すのは普通のことのようだが当のオトの気持は判明していない。罪を犯すことをなんとも思わなくなっているのか。それとも、ジーンのように裁かれたがっていたのか。あるいは、別の目的があったのか。
「鈴音さんを殺害することでオト様にメリットがございますか」
「メリット、ですか。……、どうでしょう」
総が箸で肉を摘まむ。「ただ、彼ならやりかねないとは思います。ぼくは、いや、ぼく達はそれだけの光景をこの眼で見てきたんですから……」
「……」
人生観をねじ曲げるような出来事が、魔法学園という一つの教育機関で起きていた。当事者はその出来事でもってオトを悪と断定したということだ。
……ですが、オト様が鈴音さんを殺害したという確証がまだございません。
状況は真黒だが動機が謎だ。罪深い過去が積み重なって犯罪者の道を直走っていた、と、いうことなら一点の曇りもなく解決したような気になるが、本当にそうか。ララナはどうしてもそうとは思いきれない。未来のオトの批判姿勢を知っているからだ。オトは、どこかを起点に更生するはずである。それがララナの働きかけによるものであれば、ある意味ではララナは嬉しいが、一方で、
──数多のひとを殺した平和か。それで未来永劫、心の平穏があればいいな。
そんな戦争批判を学園支配で学べなかったのか。鈴音を殺して学べなかったのか。現代のオトと未来のオトに、厚い隔たりを感ずる。あるいはその隔たりは最初からなく、周囲がそう思い込んでいるだけだとしたら、オトはとっくに更生していて、未来のオトと遜色ない人格を形成している可能性もある。それなら、学園支配が真実でも鈴音の事件は白である、と、ララナは好意的に憶測してしまう。思考の脱線だ。本筋に戻そう。
「愚問とは存じますが、総さんはオト様が鈴音さんを殺す動機をご存じですか」
「残念ながら……」
「そうですよね」
答に期待はしていなかった。と、いうのも、便宜上「学園支配」とはしておくが、総が表現したそれの内容は支配の様子を伝えていない。〈理性喪失の魔法〉での精神的干渉を「支配」と表現しているなら、それは魔法作用の拡大解釈である。なぜなら、その魔法は被術者の行動を術者が自由にコントロールするものではない。被術者たる総としては自身の欲求を曝けさせられてコントロールされた気にもなっただろうが、オトが支配者であるならわざわざ集めた他者の欲求を全て叶えてしかるべきである。そこまで観察できてようやく術者のコントロールを客観的に立証でき「支配」が適切な表現となる。要するに、オトは他者を支配できていない。または、オトは他者を支配する意図がなかった。そして、総の証言が確かなら学級崩壊が拡大した「学園崩壊」などとするのが正しい。総の証言は体験に素直でそれゆえに主観的で非常にアバウト。そんな総から有益な情報が挙がるとはララナも楽観視していない。それに、鈴音を殺害した動機が解っていたら、総はオトに強く自首を勧めることができた。実際はそれができず焼肉定食を食べながら過去を証言するのが精一杯。いろいろな意味で彼はまだ「少年」だ。
オトが鈴音を殺す動機が判らない今は、ララナの中ではまだオトはグレである。同じ状況なら広域警察もそう判断しただろう。
アイスココアを飲み干して、ララナは、
「最後に二つ、お尋ねしてもよろしいですか」
「はい」
「総さんは、鈴音さんのことをどこまでご存じですか」
「高等部進学に伴う一人暮しでぼくはあそこに引っ越したんですが、鈴音さんとはそこで初めて会いました。それで、彼と彼女が恋人同然であることも知って驚いた。と、そんな感じでした。それから特別に鈴音さんと接触することはありませんでしたから、それ以上のことは、すみません……」
「ではもう一つ。これはお願いですが、総さん以外にオト様の過去を知る方を教えていただけませんか」
「ぼくの友人であれば構いませんが、すみません、過去のことを話してもらえる保証はありません」
「その点は私が交渉致します。ご紹介をお願い致します」
「……はい」
頭を下げたララナに、携帯端末を取り出した総が情報提供候補者の名前と住所を伝えた。
ララナは自分の飲食代を置くと、総に感謝を伝えて食事処を出た。町の案内が建前であることを判っていたのだろう、総が引き止めることはなかった。
名前も住所も個人情報だ。総が友人のそれを教えてくれたのはオトの更生を願っているからではないだろうか。オトとの関係が良好ではないようなのに未だ二〇三号室にいることもその推察を促す材料。と、ララナは観つつ日が暮れるまでに各人を訪ねた。休日とあって皆ほぼ在宅していた。事件と直接関わりがなさそうなオトの昔話を聞けた一方で、事件については総が話したことの裏づけ程度にとどまって、オトが鈴音を殺害する動機や殺害の確証となる証言を得ることはできなかった。
……なかなか難しいですね。
緑茶荘の自室に戻ったララナは服を着替えて関係者の相関図を作った。オトの犯罪証拠を得るために広域警察でも行われたことであろうから新たなものは観えそうにないが。
……総さんを始めとする元友人は、オト様から直接の被害を受けておりませんでした。
それがオトの意図したものなのか、何かの規則性から漏れて友人の欲求が叶えられなかったからなのかはまだ不明である。が、プリントに欲求を書いたこと以外の直接の被害を受けなかったこと、それでもオトを敵視せざるを得なかったこと、また、今でもオトを非難する気持があること、これらは事実といえた。
相関図であるが、まず、オトと保育園時代から友人関係にあったのは五人。堤端総、田中淳、二室ヒイロ、結崎桜、坂木葵だ。結崎桜は田中淳に、坂木葵は二室ヒイロに恋愛感情を持っているそうだが、関係が現在も進展していないようである。次に、初等部三学年に進級したときから四学年まで、オトは井中太一、河岸可憐、山田リュートの三人とよく遊んでいた。井中太一と河岸可憐は現在も続く恋愛関係。山田リュートはオトと恋愛関係にあったそうだが、初等部四学年で学園支配が始まると関係が悪化、現在は会うこともないようだ。山田リュートはオトとの関係が悪化してからは田中淳と関係が深まり、現在は恋仲にある。それら元友人によれば、オトが関わった魔法学園の教員は養護教諭の天白位人と三、四学年のオトの学級担任和田光臣の二人で、元友人同様被害を受けなかった数少ない人物とのこと。
……仲のよかった皆さんが、オト様の行動によってバラバラに。
結果は目的と結びついている、と、暴論を展開するならメリットがあるようには思えないもののオトは仲間から外れることを目的に動いたという見方もできる。
……関係のある方ばかりが無事であったともいえますね。
被害を受けなかった教員がオトと関係のある教員であったことから、表現は間違っていないだろう。関わりがあったから無事に済まされたという前提が正しいかどうかはもっと調べなければ確信を得られないが、
……オト様は、関係のある方に被害を及ぼしたかったのではないでしょう。
と、推測することもできる。
……この相関図に足りないのは、鈴音さんの存在ですね。
鈴音に関しては明らかに情報不足だ。オトの元友人が鈴音を知らない様子だったので、同じ学園に通っていなかったと考えることもできるが、
……日向像さん曰く体が弱かったとのことですから、不登園や保健室登園だった可能性も。
総が鈴音について知っていたのは緑茶荘の住人としてだった。鈴音が他児童と関わりづらい環境にいたならオトの元友人が知らないのも無理はない。
……と、なると、鈴音さんについては日向像さんのほうが詳しいでしょう。
不登園の場合は、緑茶荘の管理人日向像との接触が多かっただろう。保健室登園だった場合は養護教諭の天白位人、並びに体調不良による早退が推測されるのでやはり日向像との接触の可能性が高い。
夜に訪ねるのは躊躇われたため翌日を待ち、ララナは日向像を再び訪ねた。オトに聞かれるのを避けるため、昨日も利用した喫茶店で話を聞いた。
「──。次はスズネさんについてですか」
「はい。オト様のご友人を訪ねて得られた過去の情報に、鈴音さんのことが全くございませんでした。鈴音さんが体の弱い方だったという日向像さんの話を思い出して不登園だったのではないか──、と、推察しました」
「お察しの通りです。スズネさんは不登園でした」
日向像が緑茶を飲んで言う。「スズネさんはですね、非常に大人しい子でしたからもともと学園の賑やかさには不慣れだったこともあったようです」
「体だけが原因ではなかったのですね」
ララナはチョコケーキを口に運んで、口を空にしてから話の続きをした。
「オト様と鈴音さんは緑茶荘で出あう以前に知り合われたのですか」
「ええ、そのように思います。オト君が引っ越してきたときには知合いだったようでしたから。恐らくは、学園で出逢っとったんでしょうね」
オトと鈴音は、緑茶荘で再会したということ。
「オト様はいつごろ緑茶荘にいらっしゃったのでしょう」
「そうですねぇ……。わたしの記憶が確かなら、オト君が一四の頃、ご両親が離婚されてお母さんについて家を出てきたようでしたね。スズネさんはオト君と同年で、初等部高学年頃から体調不良もあって完全に不登園でしたから、それ以前に出逢ったということでしょう」
オトが緑茶荘に引っ越してきてから鈴音が亡くなるまで三年ほどの時間がある。オトと鈴音はそれ以前から顔見知りで、時間を掛けて関係を築いていったのだろう。
それがなぜ、加害者と被害者という関係として捉えられるようになってしまったのか。恋人同士が拗れて、と、いうのはよく見かける筋書きだが、鈴音が輪姦されていたことを考えると込み入った事情がありそうなものである。
「鈴音さんについて、詳しく話してもらえますか」
と、ララナは切口を変えた。オトの問題を解決するにはオトのことを知る必要がある。そのためにはまず鈴音のことを知らなくてはならない。個人の名前も知らずに相見え殺し合う戦場ならいざ知らず住宅街の一アパートで起きた殺人事件だ。昨日の日向像の証言からも被害者である鈴音と容疑者とされるオトとのあいだに深い関係がなかったとは考えにくい。故人の証言は得ようがないのだから、オトと鈴音が接する様子を観ていた者の証言が大事だ。
日向像が緑茶のカップを両手で包んで、
「スズネさんもとい橘さんご一家は、スズネさんの療養や治療でお金が掛かるということで、家賃が安く病院も近い緑茶荘に長く住んどられました」
「長くというと」
「スズネさんが生まれて間もない頃からですね」
「体の弱さは生まれつきだったということでしょうか」
「ええ。不治の病だったそうで確かな治療法がなく、手探りで治療を続けとったようでした」
治癒魔法の確立もあって治らない病はなくなるといわれつつある現代だが、貧困・戦争・テロなどの環境下にあって医療の手から漏れる命がある。治療方法が見つかっていない病に冒されて命を落とす者も確実にいる。
「鈴音さんには、オト様以外に親しい方はいたのでしょうか」
「存じませんねぇ。ご近所付合い程度に上階のソウ君と話したりはしとったような気がしますが、スズネさんを頻繁に訪ねてくる人はオト君くらいのものでしたし、それも引っ越してきてからのことです。ひょっとすると、スズネさんはオト君以外に知人と呼べる人がおらなかったのかも知れません」
「……不憫ですね」
鈴音に取ってはオトは恋人か恋人同然であると同時に数少ない話し相手だったに違いない。知人が少なく独りの時間が多い人間を寂しい人生を送る人だとは一概に言えないが、顔の狭さが鈴音殺害の真相を隠している。と、ララナは感じた。
……鈴音さんの意図するところではまずないでしょうけれど。
もし鈴音の意図なら、ララナがこうして探りを入れたところでオトが鈴音を殺す動機は浮び上がらない。それが鈴音の願いであったのだろうから。
「調査を諦めますか」
と、日向像。
窓外の眩い日照が遠い目標を思わす。
「いいえ」
と、ララナは答えて、日向像を向く。「まだまだ切り上げるつもりはございません。日向像さんは私に話したくない何かがおありですか」
「強いて申し上げればわたしの後悔でしょうかね」
「どのような後悔でしょう」
「もし仮にオト君がスズネさんを殺したのだとしたら、管理人のわたしはオト君の切羽つまった何かに気づけんかった。何より、スズネさんの命の危機を察することができんかったのはわたしの不徳の致すところ。その後悔です」
仕事だからではない。日向像は、すぐ近くで若い命が絶たれたことが悔しかったのだろう。若い命が若い命を奪ってしまったかも知れないということも。
そんな心を打ち明けてくれた日向像が背中を押してくれていることを感じて、ララナは喫茶店をあとにした。
ときどき思う。戦時並びにその前に自分が葬った命が生きていたら、または自分達の軍が奪った命が生きていたら、と。若ければ若いほど長い時間と将来を失っている。老いていれば老いているほど貴重な知識や経験を失っている。どちらも大切なものでありながら、ララナ達は武力と捉えて摘み取っていた。
過去を振り返ることはいつでもできる。目の前の問題を解決していくことが、今のララナには必要だ。オトについて調べる上で、過去の彼を知る二人の教師に会わない手はない。が、本日は日曜日で天白位人と和田光臣が魔法学園にいるとは考えにくい。
……教諭陣に会うのは明日にして、今日はオト様と。
情報を得るにはそれが一番手っ取り早いというのもあるが、昨日一目観たときオトの顔色が優れないことにララナは気づいた。何が原因か要素が多すぎて判断のしようもないが、一治癒魔術師としても一ボランティアとしても不健康なひとを放っておくことはできなかった。昨日会いに行かなかったのは調査があったからというより不自然ゆえ。ララナの素性を知っている日向像は例外として、引っ越したその日に同じ隣人を二度も訪ねることはまずない。
自宅に戻ったララナはタマネギ・ホウレンソウ・ゴマの麻婆豆腐を作り蓋つきの器に入れてオトの家を訪ねた。呼鈴を押すと同時に、昨日はさほど気にしなかったものを確認する。雨除けの透明板の奥に差し込まれている、マジックインキで書かれた表札だ。
……苗字は竹神だったのですね。
ララナは初めて知った。八年前に出逢ったオトは「オトだ」としか名乗らなかった。竹神とは、離婚後オトの親権を持ったであろう母親の姓か。
玄関扉が開いてオトが顔を出す。昨日と同じ風貌がララナをときめかせる。
「隣のひとやったっけ」
「はい。朝から失礼致します」
もさっとしながらどこか芯がありそうな、未来のオトに通ずる外見的要素。恰好がいいだの悪いだのという主観的で抽象的な見方をララナは理解できないが、そのひとがどんな状態にあるか外見的要素から観察してはいる。オトはとかく不健康だ。伸びっ放しの頭髪や無精髭は他者からの認識を気にしていないというパーソナルな理由かも知れないのであえて突っ込まないが、片親家庭ゆえの懐事情か食事をまともに摂っていないような顔色の悪さには頓着せざるを得ない。碌に眠っていないのか、ララナを捉えながらどことなく焦点が合っていない半眼も追いつめられた被災者のようで放っておけない。肌や服が汚れている様子はないが目につく環境を挙げるなら扉の奥──ダイニングに繋がる動線──が反射光や間接光を得ず暗く、ダイニングや寝室のカーテンが恐らく閉まっている。要するに不健康。精神衛生状況がよくない。などと、観察しながらララナは器を差し出した。
「こちらをどうぞ」
「……麻婆豆腐か。なんだ、このギャルゲな展開は」
「ぎゃるげですか」
「なんでもない。それと、要らん」
ララナが両手で差し出した器をオトが指先で押し返す。聞き慣れない言葉にキョトンとしていたからでもなく、ララナは器を持ち直した。
──へぇ、お菓子を作るのか。どれ。……ふむ。へぇ、ほぉ、なかなかうまいな。
未来のオトがララナに肯定的だったのは、お菓子や料理を介したときくらいだった。
「俺は辛いもんは嫌いだ」
ララナはそれを知っている。ゆえに対策はバッチリである。
「唐辛子が限りなくゼロの甘口味噌がベースなのです。召し上がりませんか」
「惹かれないでもないがな、もらう理由がない。お返しを期待されても嫌やし、器を返却する手間があるからなおメンドーだ」
……面倒、ですか。
その主張を受けたララナは、面倒に感ぜられないよう応える。
「器は差し上げます。昼食用のおかずの余り物ですので遠慮なさらないでください」
「要らん」
と、さらに押し返すオト。「はっきり言わんくて悪かった。他人から物をもらうつもりはないんよ。只ほど恐いもんはないからな」
「見返りを求めておりません」
「ほんなら上のヤツにでもやれ。昨日仲良さげに話しとったやろ」
……お聞きでしたか。
「ああ、聞いとった」
……。
「悪いな。俺は思考を読める。心を読む、ともいうな」
「そうでしたか」
オトの魔法の実力を甘く観ていたわけではないがララナは失念していた。〈読心〉の魔法。心を読む魔法は警戒心の強い者なら必ずと言っていいほど習得したがる。学年首席の過去を持ち、魔法に精通しているオトが手を出していないはずはなく、隣に引っ越してきた人物をある種の警戒心でもって読心の魔法に掛けることなど当然ではないか。
とどのつまり、オトは、ララナの行動を完全に把握している。
「お前さん、いろいろ嗅ぎ回っとるようやけど、無駄な努力はよせ」
身を守る障壁があって他者に心を読まれたことが一度もなかったためララナは油断していたということもある。同じ魂を持つオトにはララナの障壁は無意味。物理的なタッチも魔法による干渉も可能なのである。
……オト様には隠し事ができないということですね。
「裏があるならとっと言え。回り諄いのはメンドーだ。害する気なら容赦はせん。そうでないなら黙って家に戻れ」
メンドーというのは彼の口癖か。また、姿形はほとんど変わらないが過去に出逢ったオトとは別人ではないかというほど厳しい口調であった。いや、口調のみを捉えればほとんど同じだがトーンがやや低く乾いており拒絶的ではある。
幸いにして罵詈雑言や厳しい言葉には免疫があるのでその程度で退くララナではない。行動が筒抜けならそれはそれで構わなかった。ララナはもともと、オトに対しては隠し事などせずに正面から向かっていきたかったのだ。それが間違いだとしても、失敗するかも知れなくても、初恋という感情が滾ってやまないのだからどうしようもない。
「申し訳ございません。勝手ながらオト様のことをオト様の元友人と称された方方や管理人の日向像さんに尋ねて回りました」
「きっちり白状する気概は認めるが、麻婆豆腐を引っ込めないのはどういう了見だ」
ララナは器をオトの指先に押し当て続けていた。
「受け取っていただきたいのです」
「毒物が混入されとるとは思わんし毒物が入っていようが俺には効かんが、要らん」
「なぜですか」
「理由はもう言ったやん。アホなん」
「只ほど恐いものはないのですよね。では、お金をいただきます」
「買わんわ。麻婆豆腐の気分じゃないし」
オトが器をぐっと押し返す。指先一本とは思えない力が伝わってきて、ララナはやや仰け反って堪える。
「では、慈善事業と捉えてくださりませんか。私はオト様に料理を提供したくてたまらないのです。従って召し上がっていただけるならなんでもよいのですよ」
「なんなんやその理由は。引越し二日目で押掛け女房然と変質した隣人なんて怪しすぎて不自然なんやけど」
「読心の魔法で心をお読みになられる方も十分不審ではございませんか。疚しいことがなければ堂堂となさってくださりませ」
「敬語が変やぞ」
「勢いが余りました」
「ふむ。疚しいことがあるから読心やっとるわけやないんやけど」
「独身ですか」
「漢字が違う。変な返しさせんな。……」
器を押すララナに、オトが唐突に述べる。
「お前さんの目的は解っとる。俺に何かしらの恩義があるんやな。それも現在の俺じゃない。未来の俺だ。それで何か。今の俺に恩を売って未来改変を成そうってか。大人しそうな顔をして大胆不敵もいいところだ」
心を読むというレベルではない。オトのそれは千里眼に近いのではないか。
「ご恩を返すのはいつの時代も私の立場です。それがいかに今現在のオト様から受けていないご恩だとしても、私はオト様にご恩返しせねばならないのです」
「経緯が破綻しとるな。で、恩返しがなんで麻婆豆腐」
「不健康な食生活をお送りなのではござりませんか」
「関係ないやろ」
「看過すれば私は保護責任放棄になってしまうのですよ」
「なんだそれは。……理由はそれだけか」
「それだけです」
「……」
「……」
麻婆豆腐を前後させながら一頻り言い合って沈黙すると、オトが手を下ろした。
「お受け取りくださりますか」
「もう一度いう」
オトが扉のノブに手を掛けて、「ほかのヤツにやれ。俺には不要だ」
パタンッ、カチッ。
扉が閉まって鍵まで掛けられてしまった。
「……。当然、ですよね……」
枯き木のように立ち尽くす。
全て筒抜けだったのだ。拒絶されるのは、普通のことではないか。嗅ぎ回られていい気分になるわけがない。ララナはオトと顔を合わせられたことや心を読まれていたことで冷静さを失って勝手にヒートアップしていたが、独り相撲だ。ただの押掛けであり、言葉通りに迷惑な存在でしかなかっただろう自分の実態を見据えると、凍え、まさに凍りつくようだった。
……でも──。
ララナは、器の蓋に落ちた雫をハンカチで拭って、不意の目許もついでに。
「また、伺いますね」
と、精一杯の笑顔を作って声を掛け、ララナは自宅に戻り、テーブルに器を置いた。誰かにあげろと言われたが、とてもあげられない。簡単な料理だとしてもオトに受け取ってほしい想いが込めてあるのだから。
……オト様の代替など、おりません。
聞こえているだろう心の声を、ララナは発した。
……私には、あなた様しか見えないのです。
殺人者かも知れない。それでもララナは、オトだけが救いだ。
──一章 終──