一八章 出逢った想い
貧民一揆の夜と似て異なり、けたたましく裂かれた袂。今度顔を合わせても、話を聞いてもらうことも容易くあるまい。
何が悪かったのか。
オトの心に踏み込むことを何度も躊躇ったことだろうか。土足で踏み込むことはよいこととはいえないが、遠慮ばかりして本音を言わず迎合するだけでは真に親しい仲ともいえない。思慮を尽くして退くところは退く、と、慎み深く接したとしても腫れ物にさわるような態度に受け取られていた可能性がある。ララナの理想論としては本音でぶつかり双方の悪いところを指摘しつつ改善を促し、互いを成長させられるような関係が最良である。果してララナはそう存っただろうか。ララナが両親の遺した本を手に取ることができたのは、オトが踏み込んだ言葉を掛けてくれたお蔭だった。ララナはオトの両親について、家族について、踏み込んだことを言えたか。今まで一度でも、家族について心からオトに進言したことはあったか。
ない。
……私は、先程、伺うべきだったでしょうか。
「家族に会わないか」と。
幸いにしてオトの家族は生きているのだ。ララナの両親と違って、対話することができる。その機会をなぜ示せなかったのか。
ララナとオトは似た者同士。力の性質に限ったことではない。きっと、オトは自分から踏み出すことができないでいる。家族としっかり対話する場を作るべきだと考えながらも、どんな言葉や感情を向けられるか恐くて、踏み出せない。背を向け、足を遠退け、逃げてしまう。
オトの言葉から察するとそういうことではないのか。不粋な話だが、じつの家族を失っているララナが先程のタイミングで促せばオトは断りにくかったはずだ。オトが期待していたのはまさにそれではないか。
……オト様は、私に背中を押してほしかった。
もういい。彼はそう言った。ララナが不粋と思わず、家族と会うよう心から促すことを期待していたのだろう。ララナは悟りが遅く、その期待に副えなかった。それどころか、彼の家族について知ろうともしていなかったのではないか。機会があれば。今は彼を注視しなければ。そうやって先送りにしてきたのではないか。
今ならばオトの背中を押す自信があったかも知れないが、求められたいがために嫌われたくなかった本性が邪魔をした──。
……斯様な私では、オト様の背中を押すだなんて、できなかったでしょう。
帰る場所をようやく知ることができた。新旧家族の愛を受け入れることができた。信ずることのできる過去が、ララナの心を確かに支えたのである。ただ、闇の中で独り死を望む彼を説き伏せることができるとは、未だ思えていない。
そんなララナの不安要素を度外視して、察しのいいオトが期待していた、と、いうならどうだろう。
……間違いを正さなくては。
考え直さなくてはならない。……私には、まだ不足している部分があるのですね。
両親の思いを知って地に足がついたようだった。だが、それだけでは駄目なのだ。
アデルやラセラユナに指摘されたことを思い出す。
……私に足りないものは、やはり、自信でしょうか。
自分の帰るべき場所は失われてしまった。じつの両親が自分を怨みながら死んだのかも知れない。ララナはずっとそのように思ってきた。
枷のような推測が全くの間違いだと解った今、後ろ盾を得た心地で自信に満ち溢れている。これ以上に自信のつけようがない。
……でも、きっと、私に足りないのは、自信です。
オトの背中を押すことができない。「オトの心に踏み込んでもいい立場には未だない」と思ってしまっているからである。それでもって、嫌われると、求めてもらえなくなると、思ってしまっているからである。
意識を変えるのは難しい。本性ならなおさらだ。事実としてオトに拒絶されてしまい、置き去りにされたまま座り込んでいる。本を抱き締め、夜天を見上げることしかできない。
……斯様な私に、何ができるのでしょうか。
お菓子や食事を作ることか。そうした商品と引換えに背中を押すことか。
……いいえ、左様なことでは……!
卑怯だ。
ララナはこう思う。打算抜きで背中を押せないのなら真に相手を想っていない、と。
……、──!
はたと気づき、ララナは左手で額を押さえた。
ようやく間違いの輪郭を捉えたのである。
「調査は、エクレアの代金……。ここに、特別な感情があるだなんて思ってしまうほうがどうかしていたのです……」
ララナは一人浮かれていた。
その間違いを正さなければならない。
否。
……関係作りから、正さなくてはならなかったのでは。
ララナはいつも、オトにお菓子や料理を渡して情報を得ていた。それが人生における常套手段だったから、当然のように常態化してしまって、安心を得てしまった。彼と会うことができる、話すことができる、と。オトの幸せを願いながら、じつのところ自分の欲求を最優先にしていたのかも知れなかった。
……それも、正すべきですね。
それができないなら、ララナはオトを身勝手だと嫌っただろう。
オトを嫌いにならなかった。自分こそが身勝手だと思った。嫌われる予定をオトが宣言した真意は、恐らく関係のリセット。言い換えれば「オトが嫌われる予定」ではなく「オトが今のララナを切り捨てる予定」だったのではないか。強いて言えばララナが変わるための最後のチャンスを与えたということだ。
オトの抱える苦しみが一筋縄ではいかないことはとっくに解っている。浮かれた気持では決して敵わない。恥も外聞もかなぐり捨てる覚悟で、それこそオトに嫌われてしまうことを視野に入れても、乾坤一擲の体当りを仕掛けなくてはならない。
……全てでぶつからなくては、決して、決して、オト様を幸せになどできません!
本性がそれを邪魔してしまうおそれはある。が、相反する気持や感情があって当然なのだということは、彼から教わったことだ。求められたい。助けたい。離れがたい。幸せになってほしい。
……どの気持も本心です。棄てずにぶつからなくては、意味がなくなってしまいます!
気持は固まった。
次は方針だ。すべきことは、なんだ。
……やはり、オト様のご家族に会わなくてはなりません。
勝手に家族に会って仲を取り持とうとすることはお節介だと厭われよう。が、オトの孤独を癒やせるのはきっと家族だとララナは実体験を経て思った。
それに、背中を押す自信が欠如してしまう理由として、オトの家族の気持を全く知らなかったことが大きいのである。彼の家族と会うことが必要だ。立ち止まってはいられない。
……時間が惜しいです。
本を抱き締め、ララナはテントへと走った。布団一式とテントを隣空間にしまうと、脇の瓦礫に置かれたものに目が行く。
……オト様が作ってくださったカップ。
本とともに、隣空間にそっとしまった。
弔いはまだすべきではない。全ての事が片づいて心が落ちついてからでなければ、死者に思いを傾けることはできない。
……お父様、お母様、皆さん、今しばらく、お待ちください──。
遺跡に向かってひとときの別れを手向けると、ララナは目的に邁進した。
〔──。
中肉小柄の中年男性は煙草を吸いながら言った。
「アレの話をさせないでくれ。オレはもう関わりたくないんだ。あんなヤツ、──」
ふくよかな中年女性は首許のタオルで汗を拭いながら言った。
「できるもんなら縁を切りたいんよ。あんな子、──」
忙しなく動き回る女性はララナを直視して言った。
「お互い自由やから関係ないんよ。でもいっそ、──」
ただオトの話を聞こうとしただけで、彼の家族はそのような第一声を放ったのである。
悪夢か。
これが現実か。
親とは、家族とは、比類なき慈愛ではないのか。
袂を分った家族が意図せずララナの次なる問掛けを制したのは、
──生まれてこなければよかったのに。
揺るがぬ負の感情。
ララナは地面が崩れていくような錯覚を催した。己の家族と明らかに異なる家族の存在が、己とオトの、似て非なる者同士の差異の原因であることを思い知らされたようで──。
──。〕
それ自体に意味があるのか、と、問われれば、ない。
小さな穴の空いた飾り玉が数多のバリエーションを彩る。鈴音が一年前に作っていたものの真似をして、オトはテグスに飾り玉を通す。
暗い部屋は、暗いままに。
飾り玉は光を捉えず返す光もなく闇に落ちていく。
それは闇の中で美しく輝いていた。光に替わる眩しさを鈴音が持っていた。
「希望なんか、疾うの昔になくなっとったのに──」
呟きに、
(いい加減、動いてくれぬか)
と、文句で反応する者が存った。オトの脳裏に響く不快な声は、記憶の砂漠を得たのと同じ一〇歳から始まった。
(これでもわたしは貴様を待ってやっているのだが)
(それは悪かったね。けど、俺は暇潰し程度にしか付き合ったらへんって言ったやろ)
アクセントの白い飾り玉を抓んでテグスに通す。声の主に対してオトは大きく反応することをやめている。
(貴様の暇潰しのためにわたしの自由が奪われるならばこちらにも少少考えがあるぞ)
高圧的に出る声の主を、オトは透かさずこう制する。
(約束を違えるとでも)
(……)
声の主はオトと交わした約束に縛られているため黙るほかなくなる。
(そう、大人しく黙っとけ。いずれ解放したるよ、確実に)
それが約束である。オトは、声の主をいつか解放することと引換えにその力を手にした。
声の主は、創造神アース。謂わば、オトは前世の意識を同居させている。体の主導権はオトにあり、思考も言動も基本的にはオトのそれ。だが、行動・思考・五感に至るまで創造神アースと共有しており、自分の体でありながらどこか他人の体のように思えている。
プライベートを常に覗き見されている状態にあって自由を感ずることなどあるはずもなく、感情を殺すことには慣れた。身が朽ちて創造神アースを解放するまでの辛抱であろうことも、辛抱したあとにはすぐ己の認識や自我が失われることも、何かを考えたり感じたりする必要がないことも、オトは悟っていた。それゆえ感情に意味を見出していなかった。
と言うのに、最近は苛苛して仕方がない。
それもじきに治まる。原因である彼女を置き去りにした。こっ酷く拒まれれば関わることを避けるのが人情である。仕事の付合いならまだしもオトと彼女の繋がりはないに等しい。
清清した。
と、いう感情もまた不要であろうが、胸中のわずかな清涼感は確か。これで彼女が、──。
生とは常に失うことを強要されるもの。だからこそ自らの手で失う実感を得て胸がすく思いであったのだろう。それも暗闇の中ではすぐに消え失せたが、些少の光も返すネックレスは失われた清涼感を具現したかのように指先を垂れていた。
……、……。
左手に鋏を持ち、右手人差指のネックレスに刃を向けた矢先、
ピンポーン……。
何日ぶりか。暗闇で日数など捉えない。
オトは──。
(──、オト様)
──苛苛した。
心の中でまで敬称をつけて敬うようにして会いにやってくる異性というものが存在すること自体の違和感はいまさら問わないが、オトはその存在に感情をいだかざるを得ず、そしてまた苛苛している。
まだ来るのか。
苛立ちは一種の怒りである。怒りは、ほんの数秒の我慢で消えていくことを幼い頃から知っている。
オトは、静かに玄関へと向かった。
北極圏の寒気帯が南下して常夏のダゼダダを覆う暖気とぶつかった月曜の昼下り。潰した綿飴のような雲が立ち込めて、少し前からしとしとと雨が降っていた。
ララナは自宅玄関先で瑠琉乃に電話を掛けた。用事はない。世間話がしたかった。
「──と、いうことがあって、今からゆっくりしようと思います」
「そうですか。……お姉様」
「なんでしょう」
「いつでもお待ちしてますから、また、ご連絡ください」
「……はい、必ず連絡します」
瑠琉乃が回線を切るのを待って、ララナは携帯端末をしまった。
……そうです。家族とは、こういうものであるはずだったのです。なのに──。
ララナは、一〇二号室に歩み立ち、玄関扉を見据える。
呼鈴を押して、
……参りました、オト様。
決意の呼掛けをした。
間もなく玄関を開けた半眼は、言わずもがな無表情である。
が、無感情ではない。感情がないなら、ララナの気持を悟ることができない。他者の心を悟るということは、他者の考えや思いを酌み取るということ。それができるということは他者への感情があるということである。
目の前の無表情を、ララナは見つめる。彼がそうなってしまわざるを得ない理由を、ララナなりに突きつめてここにやってきた。
「お久しぶりです」
「ん。仕事は済んだん」
「はい。火箸凌一さんの弾劾から逮捕、貧民一揆、二室さんや魅神漲さんによる熱源体阻止という建前、現警備府の打ち立てた貧民救済計画などなどによってこの短期間に治安が見る見る改善されているようですので、私の仕事は終りが見えて参りました」
「そ。俺が三月末に出てけば緑茶荘周辺の地域安全マップは赤にはならんやろうから、事実上仕事完了。お疲れさまでした」
普通の会話が成立した。そのことにひどく安堵した反面、仕事の関係でなければオトと繋がることができなかった自分をララナは呪いたくもなった。
後悔は先に立たない。オトが遠ざけようとしていることをララナは感じたが、ここで何を言われても前を視ることにしていた。それこそが、最後のチャンスを摑むために必要な自信であり、決意であった。
「仕事は確かに終りですが、引続きこちらに滞在する予定です」
その予定を伝えていなかったので不意打ちとなってオトの表情を変化させることができるのではないかと期待したが見込みが甘かった。オトの顔面は微動だにせず、言葉が刺刺しいままであった。
「取引する事象もこの国からはなくなった。お隣さんではあるがいまどきその程度の事実では関係のうちに入らん。報告が済んだんなら帰ってね」
「ご報告ならまだございます」
ララナは、オトが独り籠りきりになって世界から切り離されてしまうことが恐かった。そうさせないためにはまず、他者と繋がるのに大切な感情を発露してもらう必要があった。
感情は、怒りであろうと構わない。彼が元来激昂しやすい質であることは、父親を主とする男性全般への偏った見方や要望書配布に及んだ一要因としてあった不適格な教員への怒りで察するところであった。
彼の怒りを誘いそうな、不意打ちとなる情報をララナは複数持って来た。
「お父様を訪ねました」
「それは、俺のってことか」
「はい。勝手ながらオト様のことを一から教えていただこうと考えた次第です」
「あの家に行ったんやね」
「はい」
あの家とは、言葉真本家本邸の近くにある言葉真新家、オトの生家である。
「で、なんか教われたん。あれが俺のことを理解しとるとは正直思えんが」
「『理解しがたい化物だ』と伺いました」
実父が侮蔑の目差とともに放ったであろう言葉は、オトの心を容易く傷つけただろう。
「小さな頃からオト様は達観されたのでしょう。周囲の大人も神童というまでに、初めこそオト様の才能や成長に目を見張るものを感じていたとも、お父様から伺いました」
「そんなことは初等部でも聞けとったことやん。お前さんの耳にも慣れたもんだ」
「お父様はこうも話されました。『恐くなって捨てた』と」
それは不意打ちの一つであった。
「──なんてことしてくれた。オレらこの辺りの恥曝しじゃんけぇ」
父がテーブルを叩いて言った。その拳が、何度も、何度も、テーブルを叩いて、治まらぬ苛立ちが母に向かう。その手を払い除けたオトを、土壁に弾かれた父が睨みつけた。
「なんでお前なんか生まれてきたんや、──化物め、お前のせいでオレらの人生台無しや!」
畳を踏み鳴らして父が去る。見下ろすような視線が突き刺さって、オトは首を垂れた。
(我が子を見切る、か。人間如きが大層なことだ)
(ある種の権利やと思うがね。人間上りの化物崩れなんぞ飼うだけ損だ)
(首を垂れた理由を聞こう)
(安心したんよ)
(貴様のせいで我の計画は台無しだ。貴様など、死ねばいい)
(そうやな)
(──愉快だ)
オトの胸には響かない。
「聞くまでもないことやな。あれはそういう臆病者だ。俺が言えた立場でもないけど、親になるべきでない人間というものの代表例みたいなヤツだ」
オトの中で、父親の思考は想像に容易く会う必要もないほどに完結してしまっていた。
ララナは次の不意打ちを狙う。
「お母様も訪ねました」
「へえ、勝手が過ぎるね」
オトが首をわずか傾けた。「で、なんか聞けたん」
「『厄病神は消えてほしい』と」
「ふうん、予想の外を行かへんね」
「……」
良心を育てたであろう母親の非情な心を、音は既に察していたとでもいうのか。
……オト様──。
連日通って、彼の両親から引き出せた話に、いいことは一つもなかった。
「──あんた産んで、全部変わってまったんやね」
ある朝、母がカーテンを開けて言った。逆光を浴びた母の表情は捉えがたい。
「死んでまいぃ──」
……、……。
「──なんて言わへんよ、もう期待してへんもん。こっちのお金のことも気にしんくていい」
目が慣れて、逆光の中で微笑む母を捉えた。
「いろいろチャラにしたるで、もう関わらんといて。あたしにも、お姉ちゃんにも」
母はそうして出稼ぎに出た。
見送った玄関。オトは、壁に凭れて首を垂れた。
(ふっ。引き取った口でああ言うか。人間は矛盾しておるな)
(感情は表裏一体。感情の上に成り立つ関係もまた同じ。矛盾はないよ)
(首を垂れた理由を聞こう)
(安心したんよ)
(──愉快だ)
オトの心は、どこまでも凍りついてしまっている。
齢二三のララナは、オトの両親の言葉に激しい衝撃を受け、我が事のように憤慨した。子が頼れるのは親だけだというのに、その親が拒絶して、あまつさえ言葉の刃を子の胸に突き立てた。子が傷つき、感情を発さなくなってしまったのは、必然だ。
順を正せば、オトの優れたる才能に畏怖して父親が拒絶、離婚後の母親はオトの奇行や犯罪行為によって社会から白い目で見られて拒絶してしまった、と、いう流れであった。だが親であれば、子の成長を悦び、子が過てば更生を手助けするのが普通ではないか。そして温かい場所を用意していつでも帰ってこられるようにしているものではないか。
……お義父様とお義母様がそうだったように──。
両親が突き放していたとしても、兄弟がいるなら支えになることもある。オトの姉にもララナは接触した。現在は一人暮しで執筆活動に仕事にと忙しい様子だった。問題を抱えているオトとの接触を拒んでもいた。そのものずばり、抱えきれないからであった。
ララナの理想と現実は、オトの生活には一切ないのである。それで感情豊かに暮らしなさいと言われてもできるはずがない。感情があったとすれば、唇に傷を残す負の感情しかないのではないか。一部は自業自得であるとしても、殊、両親に対してはそうなっても仕方のない事情が酌み取れる。ララナは、オトのそんな生活を変え、幸せに導かなくてはならない。
そのために、まずはオトの怒りや不満を発せさせなくてはならなかった。それなのに、オトの表情は出逢ったときと何一つ変わらぬ無表情だった。
わざわざ怒りを買いそうなことをして、不本意ながら癪に障りそうなことを口にしてまで仕掛けた不意打ちが大失敗である。そのアプローチは安直ゆえの直球であった。ララナは隠し玉を迫られた。
レフュラル裏国遺跡に置き去りにされてちょうど二週間が経っていた。隠し玉を用意する時間は十分にあった。その隠し玉はララナからすればド直球で、隠し玉というよりは一番の特技なのであるが。
「──私なりに考えを深めてみたことがあるのです。お聞きいただけますか」
ララナが問うと、鎌のような返事がある。
「商品はあるん」
「……ございません」
「なら無理。俺に利益がない」
「やはり、ひととの関係を煩わしくお感じになりますか」
「ああ。不要やからな」
「ならばなぜ私に期待してくださったのですか」
以前も投げた問に、ララナは一つの答を持ってやってきた。
「期待というのは他者を信ずることです。他者を信ずるということは他者と関係を築くということです。主張の矛盾は明らか。オト様は、私との繋がりを持とうとお考えだったはずです」
間違いを正し、矛盾を正し、積極的かつ能動的に、偽りや飾りを捨てて前へ踏み出す。それがララナ本来の特技だ。
「……」
オトが瞼を閉じた瞬間に、ララナは畳みかけるように口を開く。
「学園支配──、酒気の魔法が施された要望書をきっかけとした事件。要望書配布の意図は、『独りになるため』であり、『周りに合わせることの難しさを理解させるため』であり、『ストレス発散のため』であり、『不適格者排除のため』であり、『ご自身の基準が何を拠り所にしているかを試験するため』であり、『善人の保護のため』であり、『皆と距離を置くため』でした。大半の目的の指向性から、オト様には善性があったと推察できます──」
怒りを、買ってみせる。
「──一方で、オト様の蒔いた種によって傷ついた児童と教員がたくさんいました。私が訪ねた教員が八年経った現在も疲労感を滲ませていた事件。児童がノーダメージで済むはずがございません。そのことをいかにお考えなのですか。『ストレス発散』が尾を引いていた可能性があったというのに、『善人の保護』が全く果たせていなかったというのに、何も感じませんでしたか」
表情を崩さない彼に詰問する。
「謝罪できないわけです。償えないわけです。人間は、それほど強い生き物ではないのです。引き籠もっているあなた様は、非常に人間らしいですよ」
「…………」
(──さあ、どうする)
(どうするも何も、ね)
酒気の魔法は発動してしまった。一部欲求が暴走し、止めようもない。精神を支配し直せば動きを止められるが、ひとの心を支配するのは──。
(なぜ躊躇う。あるいはなぜ──)
(真理、起きたことは変えられん)
(なぜ貴様は──)
(「それ」が、「俺」だからだ。罪は全て俺にある)
(──愉快だ)
彼の下唇が、わずか振れた。が、怒りを買ったかどうか。
判断がつかないなら、つくまで押す(!)
「善人の保護。それは人間が関係を築くために大切な精神だと私は考えております。その上でオト様のお考えを今一度お聞きしたいのです。本当に、全ての関係を棄てたいのですか。私に期待したことを関係を持つことではないと仰りますか。遺跡で私と横になった夜、抱き締めてくださったことや私の両親について知るに至った調査をすることで、私とのあいだに取引以外の関係が何も生じないと本気でお思いでしたか。私の一方的な感情が、執着が、芽生える可能性を予見されなかったと。オト様ともあろうお方が不注意ではござりませんか」
「煩い、騒ぐな、耳障りやげ……」
ララナの声は小雨に似てさほど大きくなかったが、オトは拒絶の三拍子だ。追求の数数が、大きく聞こえたという証である。
以前のララナなら透かさず謝ってしまった。覚悟を決めた二週間。嫌われることや拒絶されることに怯えてしまえば振出し以前に戻り、次がなくなってしまう。
ララナは謝らない。踏み出し、オトの感情を引っ張り出す。
「私は浮ついておりました。オト様とお話できて、調査のお伴ができて結果までついてきて、これ以上ないほどに幸せでした。その思いはこの二週間オト様と顔も合わせず声も交わさない時間をもって確かな実感となっております。私は、幸せです。その幸せを、オト様にも感じていただきたいのです」
家族はオトを拒絶し、とっくの昔にオトを棄てたがっていた。渋渋口を開いたのもララナにオトの今後を丸投げするためのようだった。オトが家族と和解することはまず無理だ。それが解ったからララナは訴える。
「過去になかった関わりによって、ひとによって、ひとは癒やされます。私がその実感を得ました。ほかでもないオト様との時間で、体感したのです」
「……何がいいたいん」
オトが溜息をついた。「俺は別に──」
「別になんですか」
ララナは遮るように言って、制した。
怪訝な顔をしたオトに、ララナは言葉を投げ続ける。
「オト様はその気がござらなかったのでしょうか。いいえ、左様なことは、決してございません。私は確かに感じました。オト様には他者を思いやる心が大いに残っています。悪の心だけでなく、善の心も増大しておられるのですよ。オト様はその事実から目を背けることでご自分の気持を欺き楽になっているだけです。楽になっているだけでは苦しみは去りません。苦しみは誰かと分ち合わなければ抱えきれないものなのですから。……、オト様なら左様なことは百も承知のはず。ですから、オト様は私にことあるごとに情報をくださったのではないですか。商品やお菓子や料理、代金と称する情報や談話の機会、関係を取引的に扱うことで私をごまかし──」
「勝手な思い込みをべらべらと」
今度はオトがララナの言葉を遮った。「尤もらしく話したが全部推測やん。それこそ言うまでもないやろうけど、俺はお前さんのお菓子や料理がなくても生きられる、また逆に死ねる。関係を築くための接触なら取引なんて形に頼らずもう少しうまい言訳を考えるよ。全ては死ぬまでの暇潰しやから文字通りテキトーな理由で事を運んだだけやよ。間違った深読みすんな、ど阿呆が」
言葉の端端に棘があって、ララナは俯いた。
……──。
オトと対するとポーカーフェイスが崩れやすい。俯いたうちに緩んだ表情を引き締めて、顔を上げるやララナは口を開いた。
「ではついでなのでお聞きください。私はオト様を諦めるつもりはございません」
「ついでって。なんやのそれ」
「いいえ、ついででもなく本題なのですがいつ遮られるか内心びくびくしながら切り出しておりますので、途切れ途切れにでも気持をお伝えする泥塗れの決意を示した次第です」
「泥塗れね……」
額に左手を当てて、上を見やるオト。「泥を浴びてやる義理はないな」
「でしたらお部屋にお戻りください」
「……」
「問題ございませんよ。どうぞ。……」
「……。お前なぁ、言っとることとやっとることが真逆やろ」
オトが閉めようとする玄関扉を妨げるように玄関に顔を突っ込んでいるララナである。
「いいえ、どうぞ、お戻りになるなら一思いに扉をお閉めください。私の全耐障壁はオト様とオト様の触れている物体には通用致しません。お閉めになった拍子に私の顔は潰れて恐らく死んでしまいますから、一生お会いすることもございません。オト様の願いは叶いましょう、それが本心にござれば」
「なら所望通りにしたるよ──」
一瞬の間もなくオトが扉を閉めた(!)
゛ッ!
側頭部に扉が当たって表現不能の轟音がララナの耳を衝いた。扉の嵌まる金属部に反対側の側頭部が弾かれたあとも容赦なく扉が閉まった。
゛ッッーー!
物凄い衝撃音は敏感すぎる聴覚のせいか。もしか頭が潰れてしまったのか。
目の前が暗くなる。
気を失いそうなのか。それか、本当に死ぬのか。急激に眠くなった。
覚悟を決めていたはずなのに、いざとなったら、また、恐い。
……嫌われたことはいうまでもないのです。
もう求めてはもらえなくなる。しかしそれでも、彼が独りを脱却する一歩を刻めるなら悦んで自分の命を差し出す。ひとを殺めた罪を咎めさせること。二分した世間の評価を殺人犯に対するものに一括し、彼が償う機会を与える。そんな考えだった。が、閉じた考えだ。うまくいくのか判らず、恐い。
それとは真逆のことも、また恐い。
……独りにしては──。
離れがたい。助けたい。一緒にいたい。幸せになってほしい。その道標を自分が立てたい。そんな道が全くなかったわけではないはずだから、恐い。が、止まる気配のない扉に押し潰されてきっとこの世からその意志は追い出されるのだ。
現実から逃れるかの如く閉じた瞼と裏腹に、意識を引き留め、鼓舞した。
……なんのための覚悟ですか!
引き下がれるものか。二分した世間の評価など気にしなくてもいい。どちらもオトを外側から観たものでしかない。それでもあえて取るべきだとしたら、ポジティブなものがいいに決まっている。少なくとも、ララナの背中を押した彼はそれを求めている。善人の保護に躊躇うことなく踏み出せる場を求めている。
……死んで、なるものですか……!
死ぬ覚悟ではなく、諦めない覚悟で、踏み出したのだ。
ララナは、遠退く意識を、必死にオトの存在へと向けた。
……オト様と、──。
──、──、生きたかった……。
ダンッ!
物音とともに急浮上する意識。瞼を開けば視線が低くなっており、ララナはオトの膝辺りを見つめる恰好だった。
「なんで……」
尻餅をついた自分を知るより先に、ララナは頭上のオトに目を向けた。押し開いた扉を爪先で固定したオトが天井を見上げるようにして、
「碌な覚悟もなかった癖に、なんで逃げんの……」
表情を窺い知ることはできない。「転移でもなんでも瞬時に逃げれるやろ」
「オトさ、ま……」
両側頭部が痛む。扉の角と金属部に当たったのだから当り前だが、痛みを感ずるということは、生きているということの顕れ。オトが嘘をついたことの顕れ。
「俺が噓をつかんわけやないって知っとるやろうに」
オトがそんなふうに切り出して、力なく呟いた。「騙され拒まれまくって、まだ来るわけ。その意図はなんなん。意志の底に何があるん」
「罪深い私には身に余るほどの、充分なる幸せをオト様からいただきました。ですから、オト様の手に掛かるのであれば、受け入れます」
「別に、殺したいわけやないもん──」
頭がずきずきと痛んでも、ララナはオトの言葉を聞き漏らしたりしなかった。
「お前が望むなら吝かじゃないけどね、お前のそれは完全に虚勢やよ」
「はい……、……、虚勢です……」
オトが本気でそうしないことを見越したための虚勢である。ララナはオトを信じて、あえて嘘を言って彼をその行動に導いた。
オトは意図して善人を傷つけない。ララナ自身は自分を善人とは思わないがオトはそうとは捉えていないようだったから、そのオトの言葉をも信じて、体当りを仕掛けた。
玄関扉を利用したこの手段を実行したのは、前に二度挟まれている。一番確実に、オトの本心を見分け、かつ、オトに本心を自白させることができると踏んだ。よくよく考えればほかの手段を練ることがいくらでもできたが、ララナはこうして挟まれたかった。間接的でもオトに触れてもらえるこの手段を、選びたかった。万一殺されたとしても、それなら受け入れられる気がした。
「ったく、一目瞭然の罠に掛かったわ、馬鹿馬鹿しい」
細く長い溜息をついたオトが、ララナを見下ろす。
と、オトの体から膨大な魔力が溢れ、世界が一変した。
突然宇宙に投げ出されたような浮遊感。風景も比喩のようでいて実際に〈星の海〉である。オトから発せられた膨大な魔力がこれを形成したことを察しながら、ララナは彼の瞳に釘づけになっていた。彼の瞳に、これまでにないものが宿っていたのである。
……ああ、私は、この瞳に出逢うために──。
ララナは悟った。これが本当のオトの瞳だと。深い褐色の慈悲を宿した半眼はわずかでも開けば他者の心を癒やし、魅了する。同時に、オトの主観としてはたぶん、いや、確実に、相手に慈悲を与えてしまう。
オトの両手がそっと触れるや治癒魔法が生じて、ララナは両側頭部の痛みが引いた。
「なんで大事にせんの。お前は、そんなに傷ついて、何がしたいん」
「っゎたふ、ふぇっ……」
早く応えたかったが、オトの優しい瞳と声音に圧倒されて熱が零れ落ちて、思うように声が出なかった。
「苛苛する……。昔の自分、観とるみたいで、ほんま、苛苛する……」
星の海を漂うララナを、オトが風のように抱き竦める。首筋にうづまった彼を、ララナはひしひしと感じた。
……とても熱い息と。
雨の如く静か。降り注ぐ灼熱が、本当の彼の想い。
深呼吸して落ちついてから、ララナは促した。
「苛苛。それがなんなのか、どうか吐き出してください」
閉じ込めていては、押し潰される。
呼吸が時を刻んだ。
静かに吐露されたのは、学園支配での罪。
「謝りきれるわけ、ないやん。神童ってなんやの。天才ってなんやの……、俺だって、……なんでもかんでも完璧になんてできんよ。できんことだって頑張ってできるようになっただけやよ……。要望書の配布でいろんなことが次次起きて、取返しがつかんくなってまったんやから、誰かに怨みつらみが分散するくらいなら、原因の俺が『化物』として一手に怨まれるほうがよっぽど償いになる。そう考えて状況に甘んじたのに……、俺は、どうしようもなく軟弱で、もう、きつくて……、疲れ果てて……、ずっと、──」
投げつけられたら苦しすぎてたまらない、と、ララナ自身が思っていた言葉。怒りを買うためのその言葉は、彼に突き刺さりすぎていた。
「──ずっと、助けて、ほしかった……」
今度は、彼の言葉がララナに突き刺さった。
ずっと。
ララナが同じ魂を持っていることをオトは最初から察していた。ならば、ずっと、とは。
「期待していてくださったのですね。出逢ったあのときから……。生まれも育ちも違う私が、ご自分に似ているとお思いになったがゆえに」
「妙な気ぃ回してまった。深く関わることで不利益を被らせるの判っとるからどうにかしようと思ったけど、お前、自分の不利益に関することだけ馬鹿みたいに鈍感やから……」
だから、刺刺しい言葉を投げ続けていた。だから、取引に応ずる形しか執れなかった。オトはララナの利益を最大限尊重して身を引こうとしていた。鈴音殺害や不良殺害などの罪をオトが曝け出したのは、危険な目に遭う蓋然性を示してララナが自ら遠ざかるのを待っていた。レフュラル裏国遺跡では本当に嫌われる決意で拒絶した。
本当はオトも孤独に押し潰されそうだったから、「求められれば誰でもよかった」と、言葉を残して去っていった。ララナに向けた言葉は自身に向けた言葉でもあったのだ。けれども本音を押し殺した拒絶は彼を追いつめた。ララナの胸に悲しく伸しかかった拒絶は、オトの胸に撥ね返っていた。
オトから離れない。拒絶に押し潰されもしない。ララナはそう決めて、行動で示した。が、言葉でも示したい。
「私は、決して離れませんよ、絶対に押し潰されもしません、何があっても!」
「俺のせいで傷つくかも知れんよ」
「構いません」
「最悪、鈴音みたいになるかも知れへんやん」
「私は、病弱でも男性に無抵抗でもございません」
「いつか、俺に殺されるかもよ」
「私が本気で望めばの話ではございませんか。鈴音さんがそうだったように」
「……だから、苛苛する」
オトの腕が少しきつくなった。この締めつけが、本音を示している。息苦しさとともに悦びが強まった。
そうして相手の気持が判った上で言うのは卑怯と承知で、ララナは本音を告げる。
「オト様、過去に出逢った未来のあなた様のことを私は好いておりました。今は、今のオト様が好きです。理由は、正味な話よく解りません。オト様が痛痛しすぎて庇護欲を掻き立てられますが恋愛感情ではございませんね。それ以外だと、オト様の気持を感じたのだろうとしか。私は読心を使っておりません。オト様から伝心の魔法で伝えていただいたわけでもなかったあの日──、現代で出逢ったあの瞬間から、私はオト様を好きになっていたのですね」
「こんな、馬鹿な俺を好きに」
「何度も考えてみたのですよ、オト様から離れた自分や、オト様がいない日常を。オト様がいない、無感情な日日に戻ることは、想像してみても想像できなかったのです。オト様に関わってから、自分では止まれないほど、理性が利かないほど、オト様と過ごすことばかりを考えて、自分の幸せばかりを考えて、オト様の幸せを二の次にして……、」
告白と併行した懺悔であった。「ですが、それが、私です。オト様と愛を育む資格がないのかも知れません。でも……私は引き下がりたくないのです」
反証的な理由では自分に不誠実だろう。オトに対しても気持の押しつけでしかなく不誠実だろう。それでも、だ。
「オト様だから、いいのです!」
オトを幸せにできないとしても、ララナはオトと一緒に存りたいと強く願ってしまった。
「ん」
オトが神妙な面持でうなづいた。「今のお前なら、いいよ。俺は別に、俺が幸せになりたいわけじゃないもん。俺の傍におっても不幸じゃないって言ってくれるなら、それがいい」
そんなことはララナに取っては当り前のことだった。でも、取返しのつかない過ちでみんなを裏切り、みんなから拒まれたオトがララナの言葉を信ずるには心の準備が必要だった。振り返れば振り返るほど、好意的であり続ける存在が不自然で不気味だ。
一方で、そんな不気味な存在だから苦しみの奥底を探り当てて助けてくれる、と、オトは期待していたのだ。
「申し訳ございません。気持を伝える勇気を持てないばかりに、踏み込む勇気が持てなかったばかりに、お待たせしてしまいました」
なんの掛値もなく、下心もなく、真正直な心を伝えられたからこそ、彼の胸を射た。
「いいよ、もう」
以前なら拒絶的に聞こえた言葉も、イントネーションが違うだけで耳がくすぐったい。
「もっと、自分を大事にして。そうしたら、俺は文句いわへんから」
「オト様……」
オトがそうしているように、ララナも彼の首筋に顔を寄せて、熱を零した。
「オト様、私に合わせようと、また、我慢しようと、なさらないでくださいね。何があろうと私はオト様をお助け致しますから、信じて、想いをぶつけてください」
それが、ララナの幸せである。それが、共に存るということである。
「ん……。そうさせてもらうね」
わずか離れた顔に浮かんだのは笑みとはいかない微苦笑。感情を押し殺して生きてきた彼の精一杯の甘えを感じて、ララナはまた心を射抜かれた。
「オト様、お慕い申し上げます──。私と、もっと関係を深めてくださりませんか」
「……我慢せんのやね」
「びぅ、平等ということでは、なりませんか」
「ううん、いいよ。お前は、もうちょっと自分の幸せに貪欲になったほうがいい。いつも他人のことばっか考えとるやろ」
「結果論ではないでしょうか。私は自分のことばかり考えております」
「それでもね、自分の心身に直接利のあることも求めたほうがいいよ。お前はそれくらいがちょうどいい」
オトがララナの側頭部を撫でる。「さっきはごめんね、思ったより激しく当たってまった」
欲求を全て受け入れてくれそうな、ふんわりとした声音と仕草。ララナはそんな彼に、やはりすっきりと伝えることができない。
「では、……その、取引を、よろしいですか」
「お得意のごまかしやな」
「オト様こそ──、いいえ、はい、その、はい」
と、わけの解らないうなづきを繰り返して、ララナはオトの手を握った。
「しばらく、こ、こうしていてもよろしいですか」
「いいよ、しばらくね。──話したいこともある」
オトの表情が曇った。
深刻な悩みを語ろうとしている。そう悟ったララナは溶けそうなほど緩んだ顔を一旦引き締めた。
「この空間のことでしょうか」
「……当たらずといえども遠からず」
この空間を形成したオトの魔力が途方もない密度であることを、ララナは肌で感じている。
「柔らかな、それでいて押し潰されそうな圧迫感のある魔力が満ちております。惑星、恒星、一つの銀河、いいえ、それでも収まりません。あるいは見たまま、一つの宇宙に匹敵するような魔力量です。斯様な魔力がオト様の中に眠っていたのですね」
たった一人であの熱源体を止めてみせたこともこの魔力量なら合点がいく。
「この空間は、俺の唯一の逃げ場なんよ」
「逃げ場、ですか。追ってきているのは、広域警察や警備府などではございませんよね。彼らから逃れるなら別惑星に空間転移してしまえば済む話です」
法的にいかがなものか、と、いう議論をせず物理的に逃げることを考えた場合の話だ。オトにはそれをするだけの力があるので手段の例として挙げた。
「そ。別惑星では意味がない。この空間は、俺の中に同居しとる創造神アースの意識を強制的に切り離せるんよ」
「創造神アースの意識が──!」
オトの抱えていた問題が一本の線で繋がったように、ララナは感じた。期待の対象であったララナに素直に接することはおろか多くの他者に刺刺しく接していたのは、生い立ちのみならずそれも大きな原因として横たわっていたのだと。先程堂堂と話したララナの推測も修正する必要があるが、今はオトの話に集中する。
「この空間の外では、創造神アースの意識があるのですね」
「アイツも眠っとるときがあるけどね、俺が起きとるときは概ね起きとるし、ほとんどの意識や感覚を共有しとると言える。この空間では意識を切り離せるから気を緩められる。意図的に意識を閉じ込めることもできるが、あんまりやるとあとで煩いでな」
「オト様がいつも表情を変えられなかったのは、感情を殺していたからですよね。それは、創造神アースが同居していたがためにそうせざるを得なかった、と、いうことですか」
「まあ、うん。もともと無表情やったから慣れれば表向きは取り繕えるけどね、俺に必死になるヤツが現れると内心はそうもいかんくて」
と、オトが苦笑した。
……私は、知らず知らずオト様を苦しめて──。
「追い立てんな。お前のせいやないし」
「しかし……」
「ん、解るよ、気にし出したら止まらへんから。整理がつくまで悩ませるが、すまん、謝ることしかできへん……」
それこそオトが謝ることではない。
「創造神アースが覚醒したのは、もしや、八年前ですか。記憶の砂漠を得たのと同時では」
「ご明察。やから、記憶の砂漠は創造神アースの記憶と考えられる」
「この世を創った創造神アースであれば、あらゆるひとや物の記憶に、創造のプロセスを経てリンクしているのでしょう。さらに恐らく創造神ゆえに創造の力で産み落とした存在に繋がる者の記憶も全て有することができた」
「それ以外に、記憶の砂漠を得た合理的な理由が思いつかん」
「私もその見方が正しいと考えます」
「問題はここからだ。封じ込めることはできるが、アイツの意識は俺の中で復活しとる」
尋常ならざる問題だ。ひとはそれぞれに一つの意識を持っている。他者の意識に基づく言動の影響を受けたとしてもゆっくり取り除いたり馴染ませたりして自己の意識と思考回路を正常に保とうとする。それがアイデンティティを守りひとを自律させる。数多の記憶を持つオトにしても同じだ。異なる意識が一つの体に存在していては思考や行動の起点・経過・結果が相容れず、アイデンティティを歪ませてしまい、個を保つことが困難になる。
「復活とは、メイ君のお父様としてではなく、創造神アース自身の記憶が蘇っているということですね」
「ん」
「誅棺から出たあとだというのに、浄化されないほど、捨て去れないほど、創造神アースの悪意は根深いのでしょうか」
「まあ、そうやね」
オトの反応がやや薄かった。
「オト様は、創造神アースの悪意をさほど気にしていらっしゃらない」
「いや、その意向を悪として扱っていいかが、賛否両論あると思うんよ。害を受けた者が多いことを考えると、止めるか妨げるか、するほかないかもね」
被害者が出るのに悪ではない意向とは、いささか矛盾しているようであるが。
「創造神アースの意向とは、いったいどのようなものなのか、伺ってもよろしいですか」
「ん」
快諾したオトがさりげなくララナを膝に載せて、後ろからふわっと抱く。当然のように手を握ってもくれるのでララナはどきどきしてしまったが、真剣そのものの顔を仰ぐと緩んだ頰を再び引き締めた。
「創造神アースはこの世界であらゆる種を争わせるつもりなんよ」
「凶悪というほかないように感じますが、凶悪と表せられない大きな要素がございますか」
「動機は、世界をより高次元に導いて安定させることだ」
「高次元とは」
「優れた精神性を有する種の創出と、適した世界の構築だ。古代に遡れば人型種に限らん。恐竜などの古代生物がその最たる例やろう。巨大隕石衝突の冬によって大型生物は予期せぬ大打撃を受けたが、捕食問題と消費カロリゆえか小動物や小型哺乳類などが生存競争において思わぬ活躍を見せた。退化のように小型化して種を繫いだものも存在する。そう、環境も含めあらゆる争いの中で成長してゆくのが生命という考え方だ。ここ惑星アースで種は、特に戦争の中で技術的な高次元へと踏み出していった」
戦争で生まれた多くの技術はポテンシャルが高く、戦争以外に用いられると生活を豊かにした。ララナの持っている携帯端末とそこからアクセスできるインターネットシステムはまさしく戦争時の通信設備から生活に転用されたものの代表格である。ほかにも、塹壕で使用されていたことからその名を冠したトレンチコート、ロケットやGPS、テレビゲームなどももとを辿れば軍事技術の転用品である。命の危機に曝される戦争を経て、人間が限界を超えた能力を引き出してさまざまな物作りを成功させたのは間違いなかった。
「豊かな日常は豊かな精神と新たな力を生むための苗床となる。短絡的だが、そのための戦争という意味では創造神アースの意向は正しかったといえる」
「結果論ですね」
「まあね。成果主義みたいで嫌やけど事実は事実やよ」
過去が綿綿と連なって現在がある。戦争がなかった場合の現在がどうなっていたかなど知りようもないが、戦争を経た場合と全く同じディテールを有することだけはない。技術革新や生活水準の底上げと同時に取返しのつかない傷を遺すのが戦争だからだ。傷は、時を経ても消えない鈍痛を生み、生の実感と感情のやり場を奪う堪えがたいものになっていく。だからこそ、新たな傷や痛みを生むまいと争いを避ける動きもより強く生まれた。あらゆる過去から醸成された精神性を受け継いで、新たな技術を正しい力へと換えて、ひとは後世に命を繋いでいく。そういったひとや世界の動きを予測していたであろう創造神アースの最終目標は、なんだ。
「意向の終着点はどこなのでしょう」
「現存の全種族・全次元を、創造神に並ぶような優れた能力・精神性を有する種と世界に挿げ替えることだ」
破滅的、いや、現存の世界に取っては破滅そのもの。
「今ある種は、世界は、失われてしまうということですか!……、申し訳ございません、声を張ってしまいました」
「もとからさほど大きくないし、今のは許容範囲やよ」
創造神アースと意識を共有していないためか、オトの雰囲気が穏やかであった。
「驚くのも無理はない。世界の全てが大掛りなセットみたいやし、俺達もその一部として生まれる可能性があった。大仰な魂を持って生まれんかったらの話だが」
と、言ったオトの思いを、ララナは酌んだ。
「創造神アースの意向を変えられるのは、私達ということですね」
オトがうなづき、
「いや、しかし、俺達だけでも足らん。創造神アースの魂を継いでしまったがために俺達がアイツの意識に体を乗っ取られでもしたら一巻の終り、この世界の終焉が確定する。ならばどうするか、と、いうのが、俺独りでは考えようもなかった。無駄やから、考えもせんかった」
「オト様がしきりに死を望まれたのも──」
「そう」
と、簡単にうなづいてしまう。それが、オト。本当の苦しみは誰にも言わずに独りで抱え込んでしまう。
叔父の早期糾弾、善人の保護など、オトには成し遂げられなかった数多の未練が確実にあった。その魂は誅棺に流れて閉じ込められる。そうして創造神アースの意識を誅棺に運び、誰にも知られることなく封ずる。抱えた絶望も決して無関係ではないが、それこそが彼の求めた死の意味なのである。オトには反射発動型の魔法がある。死後世界である誅棺に創造神アースを封ずる反射発動型封印魔法を施しているに違いない。
「オト様と私は、やはりよく似ていますね」
「それでいいやろ」
「はい、それがよいのです」
「断定したな」
「大事なことです」
オトの心は、他者を本気で慈しむことのできる善性によって行動を決している。信ぜられないことなど何もない。
……傍らで、私と来たら──。
「羅欄」
と、オトが真の名前で呼ぶので、ララナはどきんとした。
「はい、なんでしょうか」
と、平静を装って答えたララナを、オトがきゅっと抱き締める。
「今、『私はオト様と違って自分のことばかり考えております』なんて考えたやろ」
「……心を読まれてしまうのでは隠しようが──」
「読んでないよ」
「え……」
「結構前から読まんくても解ったよ。羅欄の気持は昔の俺に近いし」
いつから、とは、訊けぬまま、ララナはオトの甘い声を聞く。
「例えば断水したとき少しでも水にありつけたらありがたく感ずるやん。それと同じで、羅欄は自分の欲求充足に敏感すぎるんよ。実際はその数百倍他人の役に立っとるのに」
「そうでしょうか……」
「昔、俺も知恵や魔法で周りの人間を助け回ったことがあったが、その行為そのものが自分のなんらかの欲求を満たしとった。いま思えばそれは利他の精神性に近いが、俺の場合も羅欄の場合も第一に優先すべき家族との意志疎通とかを犠牲にしとったんよ。けど、他者の役に立っとるから行動を止めにくかった。噂が広がれば助けを求める声が自然と集まった」
オトが神童と呼ばれた由縁。一方で悪童に堕ちた際に化物扱いされる非一般性として認知されてしまった人助けのために揮った圧倒的な能力。ララナもひとと異なる能力を有していたからオトの言葉を受け入れることができた。高い能力を鼻に掛けていたのではなく、ララナはその力で救えるモノを全て救おうとした。やろうと思えばそれができてしまったから、力の自制をしなかった。
「自制をしなければ全てを救える。事実全てを救ってきた。だからこそ、一二英雄を意図せず追いつめるような事態を羅欄は回避したいんやろ」
「はい」
過去における未来改変は、そのためのものである。「私は仲間を守りきることができず、却って追いつめることになってしまいました。オト様が助けに入ってくださらなければ、自惚れから仲間を死に至らしめるという大罪を犯していたのです」
「ん」
オトの熱い体に、ララナは思いを預けた。
「どうか、……仲間をお助けください。私を止められるのはオト様だけなのです」
間髪を容れず、
「ああ、任された」
体温そのままに、力強い応答であった。「俺にやれることをね」
「心から、感謝を申し上げます」
「お礼は無事に終わってからにして」
オトが話を戻す。「羅欄が一人では暴走を抑え込めんのと同じで、俺達だけでは創造神アースの意向を止められん。やから、早い話、仲間集めが必要だ」
悪神討伐戦争が善神と悪神を創った創造神アースの意図する争いであったのなら、地続きの話と言ってもいいだろう。
「力を集結し、対抗勢力の数と質を高めるのですね」
「予め言うなら、一二英雄ではいかん」
「なぜですか。追いつめてなんですが彼らには相応の力があり何より信頼に値します。それにきっと私達に協力してくれます」
暴走が治まったあとのララナに、一二英雄はそれまでと同じように手を差し伸べた。自責の念に苛まれていたララナは彼らの手を素直に取ることができなかった。
「私としては、彼らの手を取りたいのですが……」
「羅欄の眼を疑うわけじゃないしその意志は酌みたいんやけどね、信頼と信用は違う。手を取らん理由はちゃんとある。事を構える者は、創造神アースの認識においてか弱い存在である必要があるんよ」
「か弱いとは、具体的にどのような。例えば種族でしょうか」
「そうやね、種族が最も判りやすい。一二英雄は優れた血が多すぎて意表を衝けん。一長命は創造神アースの人間転生時の息子であり創造神アースが創った神アルの転生体やから論外。そのほかも概ねそんなやん」
オトが記憶の砂漠で把握している。「羅欄の義妹達も、あいや、下の子は普通の人間やったな」
「はい。戦闘能力の低さは召喚魔法と魔力で補っております。名前は、」
「聖瑠琉乃。知っとるよ。羅欄に余計な足枷をつけた張本人」
「……私は、チャンスだと捉えました」
「足枷やよ」
ララナが仕事を通じてオトに接近できるようお膳立てしたこと。「あれさえなければ最初から素直に顔を挟まれたやろう」
「そ、それはその、一番最初に思いついた手段ということでそれに限ったわけでは」
「同じですー。最初に考えついたことをやってまう馬鹿まじめさならもっと早くここにあなたを連れてきた」
口をへの字にはしていないが、オトが怒っているようである。「ともあれ、協力を頼むとしたら瑠琉乃くらいやな。創造神アースが最も侮っとるのが人間やから逸材といってもいい」
……なんだか──。
オトが少し体重を掛けて問いかける。
「焼餅か」
「いいえ。オト様が褒めることは非常に希しいので、姉として誇らしいのです」
「そう。ならいいけど」
オトが話を続ける。「そうやな、ほかに逸材と呼べるような存在を俺は今のところ把握しとらんが、種族でざっくりと示すなら、妖精や人魚、天使、悪魔、能力的には竜もほしいところだがそこはまあいいか、戦闘に使えば確実に警戒されるし」
「妖精・人魚・天使・悪魔、あわよくば竜ですね」
「心当りでもあるん」
「残念ながら」
「そっか。まあ、焦ることはないよ。創造神アースの意向に副った計画は億年単位の長期やから、時間はまだまだ──」
言い終わる前に、ララナに覆い被さるようにオトが伸しかかる。
「オト様っ……」
「っん、──すまん、ちょっとくらっとした」
言うやララナを膝から降ろしてオトが立ち上がった。「この空間を構築するにも負担があるからね、ちょっと張りきって広げすぎたかも」
「長居も大変そうですね。申し訳ございません、私が安穏としたばかりに」
ララナも立ち上がり、ふわふわと落ちつかない足場でなんとかお辞儀した。「お体に差支えがあるのですね」
「少しね。今すぐどうこうなるわけじゃないから安心して。やっとこさ目的を共有できる相手が見つかったことやし、下手に死ぬわけにはいかんもん」
「オト様……」
オトがようやく、死から生に、過去から現在・未来に、目を。ララナはじわぁっと──。
「ほんーま、お前は涙脆いな」
「以前は我慢できたのですが今は駄目です、欲求に満ちているせいでしょうか」
「欲求、」
ララナの頰をするりと撫でるオト。「例えばなんですか。あなたがしてほしいことがあるなら仰ってよいのですよ」
「オト様、突然の標準語ですね」
ララナが問うと、意地の悪い微笑を浮かべてオトが続行する。
「普段は女性に言い寄ることもないので国言葉で構わないだろうと考えているのです。と、妙に冷静なドSを装ってみたがどうかね」
「どえすかどうかはよく解りませんが、オト様は普段通りがよいですね」
「羅欄がそういうなら──」
オトが改めてララナの頰に両手を添えて、「応答を聞くまでもなく俺もそんな気分なんやけど、合意を得ようと思う。ほしいん」
体もふわりと浮かぶ空間。同じ目線で問いかけられたララナは、羞恥することがあっても断る理由は一切なかった。
「わ、たくしで、よろしければ……」
「自信を持ちなさい。あなた、あいや、羅欄を、俺が選んだんやから──」
「──、オト様。はいっ」
「いい顔。その調子で、素直でおってね」
「はい──」
苦渋に堪え、罪に喘ぎ、孤独に傷ついた唇に、ララナは、心から愛慕を示す。ララナに取っては、八年も前から望んでいたことだった。
──過去における未来改変の副産物ともいえるだろうか。ララナはオトと結ばれるこの日をずっと夢に見ていた。それは、現代のオトに非情なことで、現代の彼と向き合う上では絶対に棄てなくてはならない夢だった。
だがそれは現代、ララナの新たな夢となった。罪や悪心に苦しみ悩み、独りを望み、死を目指した彼を助けるためには必ずその夢を叶えなければならなかったのである。全てを懸けるとは、そういうこと。ララナは、強くそう思ったのである。
過去に未来のオトと出逢わなくても、そんな夢を思い描いただろうか。
仮定には結論を求められない。ララナは現代のオトに関わるにつれて過去に出逢った未来の彼を忘れていった。まるで別人かのように思えて、ララナは現代のオトとこうなることを夢見ていった。今のオトが過去に現れる未来の彼にならなかったとしても、ララナにはもうどうでもいいことなのである。今のオトを選んだ。それが偽りない事実だ。
オトの熱い指先が背中を撫でると、力が抜ける。
「アイツにそんな表情見せたくないから、ちょっとここにとどまろっと」
星の海が見る見る狭まり、数えきれないほどの星の光が不可思議にも消えることなく直径五メートル程度の空間となった。一気に収縮した空間に窮屈さを覚えることはなかったが、オトと二人きりであることをララナは実感した。
鼓動も聞こえる彼がすべらかに五感を刺激する。吐息が交わると体が隅隅まで浮遊する。全てを預け、彼と重なるにつれて想いが溢れ、恍惚に時を忘れ、凍りついた体に熱が迸った。彼から想いが等しく返ってくる。想いが繋がって巡っていく。火傷するようなひととき、冷たい体を彼の熱に溺れさせて──。
──一八章 終──