一七章 切望
テントは、風音の巡る星夜。
「オト様、テントでお休みになりませんか」
ララナは外に顔を出し、オトを誘った。品を作ったり嬌声を発したりという知恵が働かなかったが、飽くまで自然に、子が親に乞うように、とは意識しないでもなかった。女として抑えられない感情を秘めていた。壁や幕を隔てて近い空間にいるだけでも緊張していた。同じ空間へ招いたのだからなんの感情もいだいていないだなんて言えるわけがない。
それを読み取ったか否か、
「寝心地はよさそうやね」
と、オトがララナの誘いに応じた。
布団は一式しかない。
オトが横になったあと、ララナは布団に潜り込んだ。真ん中にいてくれればよかったが、居候の気分か、オトの体は敷布団の端っこ。掛布団からも出てしまいそうな彼を温める名目で背中に密着したい。敷布団の中央を譲るという言訳を見つけて不言実行。ララナはオトの背中に背中を向けて縮こまるようにして横になった。布団の真ん中には譲り合った空間が横たわり、身動ぎで空気が騒いで緊張が伝わるかのようだった。
「布団小さいね」
「申し訳ございません。旅を始めた小さな頃から使っているものです」
「通りで」
背中に接した空気が囁く。
かと思うと、ララナの背中に熱が寄り添った。
……お、オト様の──。
勇気を振り絞って瞼を開けると、ララナは大きな左腕に抱かれていた。
「期待しとったやろうに、いざとなったら臆病なんやな」
見透かされている。
いつでもそうだった。ララナはオトに心を読まれてしまう。魔法でも推察でも、だ。
「すごい汗やな。緊張しとるん」
「勿論です。斯様なことは生まれて初めてなのですから……」
二三年の人生で男性はオトだけ。全耐障壁に守られて、自身の魔力を添加できない物体以外にはさわれない。誰かと触れ合おうとしても障壁が阻んで実感を伴わない。それ以前に、男性と触れ合うことがなかった。
オトの手が、ネグリジェ越しにお腹を撫でると、ふるっと体が震えた。
「まだなんもしてないけど」
「〜〜っ……」
耳許の声に緊張が高まり、汗が流れる。ネグリジェはどんどん湿って、全耐障壁に同居したオトの指先をすっかり伝えてくる。
「気が早いぞ」
詰られることも今は心地よい刺激になってしまう。息が乱れて、心臓が高鳴るのを抑えられない。感情が溢れ出して、肌をなおさら敏くする。
それだというのに、ララナは──。
「こんな簡単に体を許すのか。駄目やな、お前さん」
「簡単ではございませんっ。それに、そろそろ、名前で呼んでくださりませんか」
──彼を求めてしまう。
「生意気」
「ふぁ……!」
オトの指先が臍を撫でると、変な声が出て羞恥心からまた汗が滲む。顔が熱い。熱くて、息が詰まる。
「しようのない奴め。本当に年上か」
「私には、こういった経験が不足しております」
「否めんな。男経験なんて聞くまでもない。全耐障壁以前の問題かもな」
オトがララナの左手を握る。
じっとりと汗の滲んだ手を、ララナは少しも動かせない。
「お前さんのことやから、概ね真正直に物を言っとったやろうから、それを嫌う相手か、反対に異常に崇拝する相手の二種類に分かれたやろう。そうなると好意とか敵意とかじゃなくて、信仰や嫌忌だ。そんな連中にお前さんが靡くとも思えん。お高くとまっとったってわけじゃなくても自然と仰がれて、それこそ高嶺の花やなんやに扱われれば距離ができる。お前さんはお前さんで、一種孤独ではあったんやろう」
「……。比較するものでもないのかも知れませんが、私の孤独など、及びません」
オトの苦しみを察すれば察するほどに、ララナは自分の人生のなんたる矮小さかと愕然とする。過去に出逢った未来のオトからも、現在で出逢ったオトからも、何一つ苦しみを感ぜられず、考えも及ばなかった。オトのポーカーフェイスはララナのそれと似て次元の異なるもの。過去や経験を彼自身から語ってもらえなかったらどこまで理解できたか、今でもララナは自信がない。
「比較することはない」
オトが腕を回してララナを敷布団の中央に抱き寄せた。
「触れるだけでも、苦しみは和らぐ。何もしんくても、考えんくても、存在するだけで癒やしになる。そういうことも、あるんやない」
「オト様……」
オトの体が密着している。息遣いや匂いや鼓動すらも感ぜられる距離に彼がいる。亢進する神経と裏腹に、清らの森を歩むかのように心穏やかになった。
……私も、オト様に、癒やされております。
舌が縺れて言葉にできそうにないので、心で言葉を紡いで、ララナはオトの腕に両手を添えた。
眠らなくても平気な体が、幾久しく眠気に襲われて、まどろむ。
──泣いてくれてありがとね。
夢か現か。彼の言葉が聞こえた気がした。
目を覚ますと早早にララナはどきりとした。目の前にオトの鎖骨があった。知らぬ間にオトの体に乗っかるように眠っていた。
……あ、あ、あ……あわわ、わ、わ!
亢進は発汗を促す。ララナは可及的速やかかつ慎重にオトの体から降りて、布団の外に転がり出た。
……わら、わたくひはいったい何をひているのでしゅかっ!
過呼吸寸前で目が回りそうである。
落ちたストラップを肩に掛け直し、捲れ上がった裾を正して──。
「っ!」
慌てて髪を梳く。
……こここ、この髪を見られてはお終いです!
ひどい寝癖、だけではない。ララナの髪は天然でキツめのウェーブが掛かっている。魔法を掛けつつ櫛で梳いておかなければ結い上げるのも一苦労の厄介な髪なのである。そんな髪がコンプレックスであることを、彼には知られなくなかった。が、
「正直、ね」
背後からオトの声が聞こえてララナは跳び上がりそうになった。ネグリジェである。普段のように重ね穿きしていないので跳び上がるのは怺えたが、汗は止めようがない。
櫛を持ったまま、ぎゅぐぐぐっ、と、振り向いたララナは、横になったオトと目が合った。
ララナは両手で髪を押さえるが、無駄に太くて量の多い髪は収まるはずもない。
自然、ララナは緊張で息が止まった。それを悟ったか、オトが軽い声を発する。
「隠せんもんを隠そうとすんにぇえ」
「……ですが、」
ララナは固く瞼を閉じて、俯いた。「この髪を笑われたことがございました。とても……、とても悲しかったのです」
「ん」
オトがうなづいた気配。
直後、両手に、大きな手がそっと重なった。ララナは弾かれたように瞼を開いて、正面に座ったオトの目差を受けた。ララナの目線に合わせて腰を曲げたオトが真顔で。
「お前さんの髪、俺は好きやよ」
「……」
オトの言葉は、どうしてかララナの心を一瞬にして解きほぐす。
「オト様……」
「それで充分なんやろ」
「はい」
オトが好きなら、それでいい。本当にそう思えてしまう。だから、ララナはほっとして、両手を下ろした。
「俺も天パやし、少しは気持が解るよ。笑いたいヤツには笑わせとけばいい」
オトがララナの髪を撫でる。「もっふもふ。硬くないし、触り心地いいけどね」
「悦んでいただけて嬉しいです」
「しかしまあ毎日魔法で梳くのは大変やったろ。俺のも似たようなもんやからよく解る」
オトはほぼいつもの髪型。寝癖が撥ね回っている。
「魔法を使っても五分は掛かります。妹の寝癖なら一分も掛かりません」
「そりゃ不憫やな」
「はい、左様に感じております」
「素直でよろしい。俺は好きやけど、気になるっていうなら、はい」
オトの掌でほわりと白い光が膨れて、掌サイズの和装少女が現れる。耳の先が少し尖った少女は身の丈ほどの櫛を器用に支えながらオトに一礼した。
「正しき髪結、正しき業、あなたの結師、惹かれてただいま!」
顔を上げた少女がやや顔を引いて驚いた。「あなたが呼ぶなんて希しいわねぇ、何年ぶりかしら」
「久しぶりに頼みたくてね」
「へぇ。見ないうちにボサボサだものねぇ」
「まあ、そうなんやけど、俺じゃなくて、」
オトが少女をララナのほうへ向けて、「この子の髪、なんとかして」
「へぇ、こりゃまたべっぴんなボサボサ」
びっくりした様子の少女にララナはお辞儀した。
「初めまして、聖羅欄納と申します」
「初めまして、こちらはしがない髪結よ。結師と呼んで」
ララナは結師に会釈し、オトを見る。
「この方は精霊ですか。何か、違う気が致します」
「レフュラル表大国の国王が使う〈魔法生物〉みたいなもんやよ」
「なるほど」
レフュラル表大国には魔法で動く生物が存在する。その技術は王城警備のための極秘事項として一般には伝わっていないが、自律的に活動できることは知られている。この少女も、魔法的な力で動く生物ということだ。
「魔法生物って、ざっくりねぇ、スライムでもあるまいに」
「スライムは魔物やけどね」
「むう、まあ、どうでもいいけどねぇ」
結師が目を輝かせて櫛を撓らせている。「でっ、やっちゃっていいの。久しぶりにすっごい髪に出逢えてうずうずしてるんだけどぉ」
……すっごい髪。
自分の髪はやはり変りモノなのか、と、ララナは苦笑して、「梳いてくれるのですか」
「そうよぉ」
鼻息をふんふん鳴らす結師。「ねぇ、ねぇ、もういいの、やっちゃうわよぉ、そおれっ!」
テントにぶつかるか否かというほど結師が跳び上がった。
「あの、オト様、私に魔法は──」
「問題ない。動かずじっとしときぃ」
オトの指示が届くや結師の櫛がララナの髪に振り下ろされた。すると、するんっと髪が梳かれて一線上に整った。
……髪の生え際から一度で!
胸もときめく高速の髪梳き。オトの掌を借りて跳び回り、髪を梳いた結師がでんっと構えたのは一〇秒後のこと。ララナの髪は自分でやるよりも圧倒的に早く、綺麗に梳かれていた。
「ふふ〜ん、こんなもんよぉ」
「お、驚きました……」
手で撫でてみれば、触り心地で解る。生まれながらの直毛だったのかと思うほどに毛流れが整っている。
「魔法も使っていないのに、斯様に速く髪が梳けるだなんて」
「わたしの魔法は何より優れた技術なのよ」
くるくると回ってふざけたような振舞いだが、結師の髪梳きの技術が魔法でないことはララナの全耐障壁が証明している。
「これにて正しき結師の正しき御業──」
「美化せんとさっさと帰れ」
「ふぉっ、つれなぁい」
背中を押す指先にしがみついて結師がむくれた。「また呼んで。……寂しかったのよ、あなたの髪を弄れないの」
「ん、また機会があれば、ね。ってことで、さっさと帰れ」
「もぉ、つれなぁい。そうだわ、あなたの髪を梳かせてくれてもいいのよっ!」
と、ララナに跳びつこうとした結師の腰をオトが抓んだ。
「言える立場じゃないが節操のないヤツやね」
「髪が好きなのぉ。じゃ、またね、愉しみにしてるわ──」
「ああ」
ほわりと膨れた光が消えたとき結師はオトの手から消えていた。
「不思議なひとでした。私の髪を好きなのでしょうか。それとも、梳くのが好きなのでしょうか」
「どちらもやよ。結師というだけあって結うのもうまい」
いつその技術を観たか。問う前にオトが話を継ぐ。「全耐障壁がなければ魔力効果で長時間のヘアメイクキープもできるプロやよ」
「魔法は大抵都合よくいきませんね」
「お前さんには特にやけど、それが現代の魔法だ。何もかも都合のいい魔法なんてのはお伽話の中だけ」
「結師さんの技術は、いっそお伽話の魔法ということですね」
主に魔法学の成績が認められて首席となったララナとしては、魔法でもないのに魔法めいた技術に興味が湧いた。
「可能なら私自身で実践してみたいところです」
「あのテンションに毎度付き合わされないかんし、伝授してもらったほうがいいかもな」
疲れた様子のオトが自分の髪を手櫛で軽く梳いて立ち上がる。「さて、俺は水でも汲んでこよ。戻ってくるまでに支度しときぃ」
「はい」
テントを出ていこうとしたオトが、「そう、そう」と、一度テントに顔を戻して、
「可愛いやん、寝間着」
一言残して去っていった。
不意打ちだ。
……寝間着ですよ、寝間着。
そう。言葉はしっかり解さなければならない。服が褒められただけでララナが褒められたのではない、と、解釈して、ララナは熱くなる頰を落ちつけた。それでもオトが感性の一致を示してくれたことにララナは感動したのだった。同じワンピースでも寝間着と外着では生地質やデザインが異なるのは論ずるまでもないことなのだが、寝間着を褒められただけにララナは寝間着に似た外着を用意しようかと思わないでもなかった。オトのように魔法で服を作ることができないのでここは諦めて持参したワンピースを着て、すっかり気に入ったオト製ボレロを羽織り、いつもより結い上げやすい髪を感じて、テントを出た。
ララナが持ってきた食品は昨晩のお弁当で底をついた。朝食のためこの場で何かを調達したかったが辺りを見回しても草木は根づいておらず、食料になりそうな木の実ひとつない。
ララナがそうこうするうち、オトが木製カップに水を注いで戻った。
「朝ご飯はこれでいいか」
「食べなくても平気な体ですからね」
と、ララナは言って、ふと気づいた。「オト様も魔力還元体質なのですよね。なぜオト様は健康不良なのでしょう」
ララナ達の健康維持に必要なのは魔力。そして、呼吸で大気から十分に魔力を取り込めるので、食べなくてもいい体なのである。また、積極的に呼吸したり食事したりすれば、魔力や身体能力の強化が可能だ。魔力還元体質の者は生きている限り健康不良に陥ることがないともいえるだろう。ララナが差入れをするようになってから少し顔色がよくなったことを考えると、オトの言葉と体調に小さな矛盾を感ずる。
木製カップをララナに手渡してオトが言うのは、
「病は気から。体調不良ってのは精神的なもんでも起きるってことやよ。それに言ったやん。存在するだけで癒やしになる。合理的説明がそれくらいしか浮かばん」
「な、なるほど、それはつまり私の存在が──」
「皆まで言うな」
オトが蒸留水を飲み干して歩いていく。「今日でラストやし、さっさと行くぞ」
「はい」
急かしてもらえてララナは少し安心した。自分で口にしておいて、オトに聞かれるのが恥ずかしくて仕方がなかった。
「今日は北部ですね」
「じつは本丸やよな」
「重要な調査対象がございますか」
「憶測、いや、勘に近いか。ほら、社会の授業で三大国の地理をちょろっと勉強するやん」
ララナはうなづく。ちょろっとでもないが、学習方針とその進度は就学した国によるところも大きい。レフュラル表大国の魔法学園に通っていたララナは主にレフュラル表大国のことを学び、ダゼダダ警備国家について習ったことは多くない。
オトが社会の地理的分野に限ったのは初等部しか通っていなかったからだろうが、魔法や歴史の授業でも三大国について学ぶことくらいは知っているだろう。
「地理に注目すべき点がござりましたか」
「昔、木下城を観に行った頃、俺や総なんかはレフュラルやテラノアの城なんかについてもよく観察したもんだ。勿論実物じゃなく写真やデータから想像で観察したわけやけど。国内における位置や高さを観ると、レフュラルもテラノアも国の北寄に城が位置しとる。ダゼダダは王政やないから替りに警備府や広域警察本部署を観察したが、これも砂漠に囲まれた中央県に限ればまあぎりぎり北寄なわけね」
「偶然の一致か、城や城に相当する政治の中枢が、栄えた国では土地の北寄に建っているということですね。レフュラル裏国もそうであったなら、まだ探索していない北部にこそ調査対象が眠っている可能性が高いと……」
ララナがレフュラル裏国王家の一員であるとするオトの憶測が正しく、北部に王家の住んでいた建物の残骸があるなら、そこにはララナに関係する何かがあるかも知れない。ララナが以前訪ねた際、北部にも目立った建物の跡はなかったが。
「オト様、ありがとうございます」
「いや、礼をいうのは少し違うと思うよ。興味本位やから」
「っふふ、そうですか」
「ああ、そうだ」
ここの出身であることは忘れてしまいたいほどの事実だったのだが、オトに興味をいだいてもらえたと思ったら呪った運命さえ打ち消されたようにララナは感じた。
……ひとときでも幸せに過ごしてくださるなら、こちらに生を受けたことを感謝できます。
オトの背中を、ララナはまっすぐ見つめる。その大きさと、その近さを、これまでより一層強く感ずる。
「朝っぱらから話すことでもないんやけど」
と、オトが調査に関連した重大な疑問を口にする。「屋根・壁・生活雑貨の類だけでなく、この遺跡にはあってしかるべきものが欠けとるな」
「遺体、もとい、遺骨ですね」
「なんか知っとるか」
「……発見したものは、埋葬致しました」
八年前、初めて訪れたときである。荒らされないようレフュラル裏国の地中深くに空間転移で埋めたので、正確な埋葬位置を知らなければララナでも手の出しようがない。
「問題のない答で助かった。人骨を博物館なんかに売り捌く手合の仕業なんやないかって最初は疑った」
「遺骨が後世の学びに必要になることもございますものね。魔法大国の民の遺骨となればなおさらでしょう」
レフュラル表大国を筆頭に魔法に優れた国は、定型文を読み上げて魔力を集束することで安定性の高い魔法を成す〈魔力集束式詠唱魔法〉という術式を普及させている。だが、術式はほかにもさまざまあった。その中でも模様や陣を描くことで魔法を行使するものには、体はもとより骨に刻むことで永続的な魔法効果を得るものがある。
「──。遺骨にそういった類の魔法の痕跡はあったん」
「いいえ。私が埋葬するより前に持ち去られてしまった可能性はゼロではございません。それ以外で遺跡から遺骨などを運び出したと考えられる正規発掘隊は隣国レフュラル表大国所属ですが、博物館など収蔵施設の秘蔵品を含めて遺骨はなかったと記憶しております」
「表に出とれば大きなニュースになっとるやろうから遺骨が表立って世間の目に触れたことはなさそうやね。盗掘をやるような連中は即物的思考やろうから長い目で見て文化的価値のある骨なんかより金品重視。それらが発見できんくなった、または、発見できんって噂は裏の情報網ですぐに広まったやろうから盗掘の横行も一時で治まったってところか」
歴史を紐解く手掛りがなくてはレフュラル裏国の実態はますます謎だ。
「魔法を極めれば人の道を外れるともいいます」
「骨に法陣を刻むのと似たようなもんやよな。現代の詠唱魔法は謂わば人類の規制で、都合よくいかん魔法が多い。本来の魔法は、生命の延長、蘇生、はたまた若返りや人体改造に至るまで、極めれば不可能がない。不可能がないと判れば追究して底知れぬ力を欲することが心理としてあり得る」
外道術者といわれる有魔力個体や一部魔法研究者などがその手合だ。
「レフュラル裏国のひとびとに左様な気配はございません。私達を一致団結して助けたという仮定を前提に話を進めますと、ますます人間らしい。人の道を外れていたとは考えにくく、それは同時に魔法大国という呼称と矛盾しています」
「大国というには遺跡の規模が小さいし、魔法を極めた国でもなかった。ってことなのかも知れんな」
レフュラル裏国が魔法大国であるという定説は、言葉通り世界的な常識といえる。既に亡いとは言っても二四年前には確実に存在し、閉鎖的でも出入りした人間がいなかったわけではなく、だからこそ魔法大国と称えることができた。ただ、写真や絵など当時の様子を確かめるものがないので、呼称を決定的に裏づけることもできない。
オトの推測はこうである。
個人と個人が携帯端末で情報を送受信できる現代と組織同士ですら固定電話でのやり取り程度しかできなかった二四年前では情報通信環境が違う。そういった意味でもレフュラル裏国の内情は謎のベールに包まれていたという前提の推測だが、魔法が不慣れか使えないような人間が少し凝った魔法を見て驚くようなものでかつてレフュラル裏国を魔法大国と称した者も魔法に疎い人間であった可能性が大いにある。また、結師のような不思議な技術を観て魔法と勘違いした可能性もある。噂には尾鰭がつく。
「──。一個人の誇張表現に尾鰭がついて『魔法大国』になったなら、たださえ謎のベールに包まれとったレフュラル裏国にひとびとの妄想が膨らむ。それを正すだけの情報が出回ってないから実態に辿りつけへん」
「魔法のようで魔法ではない、結師さんが持っているような特殊な技術が出回っていた可能性はないのでしょうか」
「あれはダゼダダ特有やから考えにくい」
「ダゼダダ特有」
「八百万神社を中心とした数多の神神・精霊への信仰心を示すこと、また、それらの神神や精霊に認められることで、結師のような特殊な存在を授かることができる」
魔法生物のようなものというのは、そういうことであった。レフュラル裏国に信仰が根づいていたなら結師のような存在や技術が発生した可能性もあるが、神社の類や信仰儀礼の痕跡も見つかっていないのが現状である。
「結師のような物理的な技術は半永久的な命を持つ存在だからこそ培えるもので、ヒトの到達できる境地にはない。推測の纏めだが、つまり、レフュラル裏国の技術水準は物理的なものも魔法的なものも突出して高かったわけじゃない」
「魔法面のご高察には矛盾を感ずることも事実ですね」
「ああ、お前さんと妹を一致団結して守ったっていう推測が真相なら、レフュラル裏国が魔法に傾倒した国であった可能性は極めて高い」
魔力還元体質の二人を生かすため、と、いう理由が狂信的と表現できれば非人間的でもあるが、狂信による一致団結の末に全滅したなら怨念が全く生まれないということは考えにくい。一致団結は狂信ではなく善意であったと結論できる。全力で挑んだ団体競技の大会で惜敗しても、涙と感動を共有して苦しむことはなく、相手チームを怨んだりしないのと似たようものだろう。結果を問わず、全力を尽くしたことに人は後悔しない。そこでチームとしての目標を達成していたのならなおのことだ。
「『一致団結して守る』でも動機づけに読み違えがあるのでしょうか。私や妹はじつは人為的に作られた魔力還元体質であって、それがレフュラル裏国の大規模プロジェクトであったがために総力を挙げて守った。と、いう推察なら、亡くなったひとびとが悪霊とならない可能性もあり、理屈が通ります」
「可能性はあるな。魔力還元体質を人為的に作り出せたっていうなら、それこそ一種の魔法の極みであり人の道を逸れた追究力の証。魔法大国という呼称もうなづける」
オトの口振りは一聞するとララナの推測を全面的に支持しているようだが、
「オト様は、ご自分の推測が正しいとお考えですか」
「ああ」
ララナの推測が間違っているともオトは考えているようである。
「人体実験を無数繰り返さねば魔力還元体質の製造には至れん。発見された民衆の骨が一部であったとしても、魔法の痕跡が残っとらんのは不自然だ」
そう断言できたのは、魔力還元体質の原理を知っているからだろう。
「矛盾が消えませんね」
「もしかすると、矛盾も矛盾じゃないのかも」
「どのような意味ですか」
「続きは調べてからにしよう。北部に入った」
話しているあいだも歩いていたララナとオト。中央広場を抜けて北部に入っていた。
建物の跡を観て回り、気になったところは瓦礫をどけて何かの痕跡がないかを探り──、あっという間に日が暮れ始めた。調査と言いながらレフュラル裏国の実態を摑めるような物件は何も見つからなかった。以前遺骨を埋葬して回ったララナは新発見がないことも想像していたが、オトを独りにする時間を避けられ、興味と意欲で歩んでもらえたことを有意義に感じた。しかも、その意欲の起点となっているのが自分の生まれ故郷で、さらにはその地を一緒に探索できて、ララナはこれ以上ないほどに幸せだったのである。
遺跡はあと七時間で今日を終える。一面が夕闇に覆われて、まこと、ひとときであったかのような幸せの時間に、ララナは焦りを感じ始めていた。
調査は、外出は、終わる。
終わったらどうなる。代金という名目の外出。これは、お菓子を代償にしてまた得られるものなのだろうか。
ララナとしては代金などではなかった。いつもオトにもらってばかりで、与えているなどという考えはなかった。商品と代金という一種の取引は完全な名目で、ララナの欲求を満たすための隠れ蓑。いや、隠れ蓑にすらなっておらず、照れ隠しであり、天邪鬼な要請であり、言訳であった。
……私は、これで、本当によいのでしょうか。
瓦礫をどかして、その下の土の湿り気を観察する。闇に潜んだ湿り気は遺構の影に覆われて観察することが難しくなってきた。こうしたタイミングで昨日のオトはテントに戻ろうと言ったが、今日は違う。
「──そろそろ帰るか」
それが緑茶荘に帰るという意味であることを疑う余地はない。
焦燥は、言葉を促した。
「あ、あのっ!」
「どうした、大きい声出して。近いし聞こえるって」
もとの場所に瓦礫をそっと戻したオトが、掌の砂を払って言った。「ああ、テントか。片づけてなかったな」
「っ。はい、そうですぃたからね」
「ん、なんか言葉おかしくなかったか」
「少し嚙んでしまいました……」
生殺しのような時間延長であった。
一泊二日の予定はダゼダダ時間でのこと。約七時間の時差があるレフュラル裏国遺跡において、今このときがタイムリミットだったのだ。
ララナは幸せに浸りすぎて、時間感覚を鈍していた。貴重に味わうべきはずの時間を、一瞬にしてしまった。
「とりあえず遠回りで戻るか。回りきれてないし、観るくらいならいいやろ」
「はい……」
通ったことのない道を選んでテント方面へ向かう。
人間的歩行。ゆったりとした、生殺し。
ララナは遺跡ではなく、オトの背中を見つめて歩いた。
オトもまた、前だけを見ている。調査中はたびたび交わっていた目線がタイムリミットを迎えた瞬間から擦れ違うことすらない。それが繋がりの浅さを示すようで、魅力不足を、いや、努力不足というべきだろうか、ララナはそれを痛感した。オトに全てを悟られているということに胡座を掻いて、自身の口と行動で気持を伝えきっていない。昨晩は大胆なほど積極的になったつもりでいたがそれも一時的なもの。彼からすれば「一人の女の欲求解消に手を貸してやった」という程度で特別な感情など微塵もなかったと考えられなくもない。
……私が幸せだからといって、オト様が幸せとは限りませんのに。
そんなことにも気づかないほど、ララナは自分の幸福感に酔ってしまっていた。
本当は自分の出自のことなど考えていなかったかのように、ララナはオトに対する感情ばかりになってしまう。
……オト様──。
テントに戻って片づけを済ませ、弔いが済んだら、外出は終わってしまう。
ララナは次の商品を考えなくてはならない。代金と称した言葉や時間をもらうために。
だがしかし、進展を生むのか。
昨晩、寝間着姿を見せ、触れられたことのない体を懸命に添わせていたというのに、ララナは女として扱われたか。ララナはオトに抱き締められていた。ララナはオトの体に乗っかっているところで目が覚めた。──ただそれだけだった。
ララナは子のようにオトを追いかけている。オトはララナを幼児のように扱っている。そんな関係がどれほどの時間を経て男女の仲に発展する。気が遠くなるほど長い時間が掛かるのではないか。それこそ、不躾なほど積極的にアプローチせねば、今のまま、子のまま、背中を見つめるばかりで終わってしまうのではないか。
甘美な時間を与えてくれる不変の関係は魅惑的だ。
けれども、それが望みではない。
……テントに、戻ったら、いけません。
ララナは脚を止めた。
きっと気づいているオトだが、ララナを振り向きもせず遠退いていく。
ララナとしては、脚を止めるだけでも勇気を振り絞った。オトならその意味に気づいてくれる。そう判っているから、それで十分だと、どこかで甘えていた。
……それではまだ、不足しているのですよね。
積極的でない。……私は、これほど臆病だったでしょうか。
とりわけオトに、いっそオトのみに、と、表していいほどララナは臆病である。
なぜ臆病になってしまうのか。
全耐障壁が通用しないからか。それはあるだろう。
心を見透かされているからか。それもあるだろう。
好いているからか。言うまでもない。
ただ、それら以外にも胸に引っかかっている何かがある。言葉にはできないそれを、ララナは言葉にしなくてはならないのかも知れない。少なくとも、遠退く背中を見つめているララナでは、絶対に彼の心に留まることはないのである。
オトが角を曲がる。垣間見えた半眼は、前しか見ていない。闇しか見えないと言った彼が見つめるその先には、やはり闇しかないかのように──。
……オト様!
口は開かなかったが、足がひとりでに動いてオトの背中を追った。
と、そのときであった。
時空が歪むような魔力の流れが起きた。
……これは、負の感触です!
ララナの左手方向だ。草木が根づかない要因と考えられた負の作用が、すぐそこ、一〇〇メートルも離れていない場所から感ぜられた。
曲り角を歩いていったオトが踵を返してララナのいる通りに戻った。
「……」
「……、オト様」
「話はあと。急いで魔力流動の先へ」
言うやオトが跳躍して目的地へ。ララナは空間転移をしようと思ったがそれをやめ、オトのように跳び上がろうとするがそれもやめ、狭い通りを走って魔力流動を追った。魔力を感ずる者には、魔力流動は肌で受けた風のように自然に感ぜられるものである。風下へ向かうことは容易いが時を刻むほどに魔力流動が弱まった。人間に喩えるなら細い息をしているかのような微弱さで、いつ消えてもおかしくないほど儚げであった。負の作用というものは他を害するがゆえに肌を切りつけるような凶悪な雰囲気を帯びているのが普通であるが、なぜか、この魔力流動には優しさすら覚える。
……なぜ、斯様な負が遺跡に。
以前ララナが来たときにはなかった。定期的に発動させている者がいて、以前は遭遇しなかっただけか。それにしても魔力流動の雰囲気には違和感しかない。
……なぜでしょう、この感じは──。
ララナは、視界が歪んで走っていられず、壁に手をついて立ち止まった。全耐障壁が隔てていて魔力流動を直接肌で感ずることができないのに、ララナは、この魔力流動を肌が知っている気がした。
目から零れる視界の歪み。悲しみか悦びか、はたまた疑念か。
いずれも、正しくはなかった──。
目許を拭って歩き出し、壁伝いに辿りついたオトの背中に、ララナは声を掛けた。
「魔力流動の行先は、そちらですね」
「ああ」
なんの変哲もない石の床に見えるが、オトが指を差し入れて分厚い床をぐっと持ち上げるとその下には夕闇より濃い闇の口が開いていた。
「洞窟……、いいえ、防空壕の類でしょうか。強い魔力を感じます」
「これで魔力の漏出を抑えとったんやね」
床をひっくり返すと、裏面に描かれた〈印〉が淡く明滅していた。法陣魔法に用いられ魔力で描かれるのが印で、床の裏面に描かれているものは一角が長い四芒星形とそれを囲む円で構成されている。これを、〈一方制御印〉という。
「魔力流動を一方向に整える印ですね。地上から吸い上げた魔力を地下から漏れないようにしていたのでしょう」
「そうらしいな。魔法大国、その真髄がこの先にあるのか否か、しましくも調査延長やな」
まだ、一緒にいられる。また、一緒に何かができる。
「どうしたん、目、丸くして」
「……。いいえ、なんでもございません」
ララナは臆病にもそう答えてしまった。
石の床をさらに三枚取り除いたオトが奥を示す。
「さ、行け」
「私が先でよろしいのですか」
これまではオトが先頭であったから、ララナは少し躊躇ったが、
「俺の勘だが、危険はないよ」
と、いう言葉に促される。「それに、俺が先に入るとお前さんを見上げる恰好になる。下りるのだけでもお前さんが先で」
「はい。ご前を失礼致します」
階段があるふうでもない。暗がりの底がどれほど深いかも判らないので警戒は要る。ララナは一旦は穴の縁に座って、踵で壁を確かめるようにしてから、ざざっと滑り下りた。
……思ったより短かったですね。
長さは七、八メートルといったところ。カーブを描いた穴を振り返っても入口を望めないが魔法で小さな光の球を発生させれば視覚は利いた。穴は雨露に削られて偶然できたもののようで着地点はぬかるんでいた。狭い空間。前を向くと罅割れた壁が見えた。触れるように押して壁を崩すと奥に進む。すると、入口の石床裏面と同じ印が施された天井がララナの頭すれすれにあり、人一人が歩くのがやっとの狭い通路が仄暗く続いていた。負の作用で吸い寄せられた魔力が充満した空間は、奥行と幅が「結構広い」と大まかながら認識できた。魔力を吸い上げている負は奥の一点で発生しているようだが、妙なことに術者と思われる者の気配を感ぜられない。創造神アースの魂を継いでいるララナやオトならともかく、普通の術者が魔力反応を消した状態で魔法的作用を生ぜさせているとは考えにくいので、なんらかの理由で負の作用が勝手に発動していると考えるのが妥当。継続型の魔法または魔導機構か。魔法を設置した術者や魔導機構の管理者が不在なら解除することは容易いだろう。狭所での戦闘や遺構損失など、深刻な事態は避けられそうで一安心である。
少し引き返したララナは穴の方に顔を向け、呼びかける。
「足下がぬかるんでおりますが、問題はないようです。こちらへお越しくださりますか」
「ん」
するっと降りてきたオトを再び先頭にして地下空間を行く。地上の石畳にも使われていた石材で覆われていくつもの部屋を小路で繋いだ空間は、天井で明滅する印の明るさがあるため暗さに慣れれば肉眼でしっかり捉えることができた。いくつもある扉に鍵が掛かっていることを確認してオトが向かうのは魔力流動の先、ララナも捉えている負の作用の発生地点である。
「なかなか広いな」
洞窟のように声が反響する。ララナは緊張しながらも、オトの声にぞくぞくとした。触れられてもいないのに、触れられたような気持になってしまう過敏な肌が怨めしい。
「部屋を確認できんのは惜しいな。地上と違って破壊を免れとる印象やしなんかあるかも知れんのに」
「もしも私の生家でしたら、その証拠も……」
「ん。力づくで破壊して損失したら目も当てられんから、鍵が見つかったらでいいんやないかね。しっかし、一方制御印を葺いたこの造りは不審やな」
屈んで進むオトが首を捻るようにして天井を観る。「この空間に魔力を集めておくためのものと考えれば一応納得はできるけど、防空壕と捉えるなら外側からの攻撃魔法に脆くなりかねんから目的に合っとらん。わざわざ構造的に脆くした地下に負の源を置いた意味が、目立たんこと以外にあるかどうか」
「仕掛けた理由が気になりますね」
「滅亡前か後か、と、いう点もな」
「そうですね……」
オトの疑問はララナの疑問でもある。レフュラル裏国滅亡前に設置されたものだとしたら、ララナとゆかりのある人物が仕掛けた可能性もある。滅亡との因果関係もあるかも知れない。
オトの脚が止まり、ララナも止まる。
「ついたな。あれだ」
「……」
ララナは息を吞む。
負の源が数メートル先の床に無造作に落ちていた。それは、本。やや黒ずんだ黄褐色の光を纏って仄暗さに淡い変化を点している。精霊結晶を用いる魔導機構ではない。従って、負魔法と呼ぶのが正しかろう。それより、
……なんでしょう。胸が、締めつけられるような、この感触は。
本を視たララナは、肌が震える感がして、足が前へ進まない。
オトが本に歩み寄る。
「術者がおらんことは判っとったが、はて、どうするか。この余光は木属性と時属性が混じってこんな色になっとるようやが……」
本を手に取ることはせず、オトがララナを振り向いた。「お前さん、さっきから変やな」
「はい、……私、この魔力を知っている気が致します」
魔力集束に用いられたであろう個体魔力、すなわち術者の魔力が感覚を刺激しているよう。
オトが片膝をついて屈み、本を見下ろす。
「負魔法の効力は、俺を含めて動物には作用せず、植物にしか作用してない。具体的には、植物の持つ木属性魔力を治癒魔法に転じて本の中で発動しとる」
「そのようですね。何者かが魔法を用いて本の中に空間を作り、そこへ異空間転移をして、負魔法によって集めた魔力で傷の治療をしているということでしょうか。そうなると、悪魔襲来から間もなく発動したと想像できますか……」
「一方制御印を仕掛けとる意味が解らん。いざというときの防衛・反撃用に魔力を集めとった可能性ならあると思ったが、それを生き延びるために使ったとなると不整合。もとより空間転移する余裕があるなら別の場所に逃げ込みそうなもんで、集めた魔力をそのまま使ったほうが治療が捗るし速やかに反撃もできる」
ここは地上からの攻撃に比較的弱い。生き埋めになる危険性を見通せないわけがなく、逃げ込んだ、と、いう考え方は無理があった。
「全耐障壁があるんやし、お前さんが本を開いてみ」
「そうですね……」
大石を運んだのと同じで障壁越しでも物体に力を加えられる。例えば爆弾の解体を失敗しても全耐障壁に守られてララナは安全だ。
本を開けば、全てが判明することだろう。負魔法が仕掛けられた意図や治癒魔法の意味、魔力の流れを御する印が地下に蓋をするように仕込まれた意味まで、全てが。
……でも、──。
ララナは足が進まない。
無音の地下空間。
凍りついたように場が停滞し、鼓動が騒がしい。
「──恐いんやろ」
「っ」
「解るよ。お前さんがどんなに心の沈黙を保とうが、俺には解る」
「……」
ララナは心を読まれないよう何も考えず佇むことに必死になっていた。そうしていなければ過去との邂逅によって崩れ落ちる自分がいるかも知れなかった。
「恐いです……。その本を開けば、もしか私を怨んでいる方の怨念が飛び出すやも。そのような過去があるなら一致団結のひとびとはじつは私の存在を疎ましく思っていたということ。治癒魔法は怨念を遺すための維持効果、負魔法は謂わば維持費用なのです。斯様な場所に怨念を遺したのは私以外に発見されることを避けるため。また、閉鎖的な場所で怨念を直視せざるを得なくするため……。その怨念が恐いのです。ですから、私は、逃げようとしている、その一方では、目を背けてはならないと思って退くことも……。……卑怯ですね」
「……、そう」
肯定か否定か、うなづいたオト。
「現段階では、襲撃してきた悪魔への怨念かも判らんし、襲撃を堪え抜けんかった自身らへの怨念かも判らん。お前さんの思考は卑怯といえば卑怯かも知れんが、それは飽くまでお前さんの閉じた思考で生まれた感情であって、現実の情報を拾いきった上での実態に対する感情としては不適当かも判らん。自分を卑怯やと思うなら言行を正して、前をまっすぐ見据えて現実から目を背けんようにすればいい」
横目でオトが言った。「それはつまり、お前さんが俺にやったことと同じやぞ。何度拒まれようが、何度も、何度も、会いに来たやんか」
「オト様……、……」
オトと会うたびに感じた刺刺しさや少しずつ縮まっていったと感ずる距離。その経験は誇っていいものだとオトに認められたようで、ララナは進まぬ足に勇気をもらった。
向き合うべき過去がここにある。そんなことは、とうの昔レフュラル裏国の出身だと知った子時代に解っていた。解って、いた。
「私は、間違いを正したいです」
「なら」
「はい。……」
一歩下がったオトに代わって、ララナは本に歩み寄った。
本が放っていた光が弱弱しくなっている。
……この魔法は、きっと、私の親しいひとのものです。
父母か祖父母かはたまた親戚か、ララナは負魔法を仕掛けたひとと確実に接触したことがある。だからこそ負魔法が起こす魔力流動を感じ取ったとき心がざわめいた。ざわめきが何を意味しているのかも本を開けば判ることをララナは直感していた。
両膝をついて、正座して、本に向かい合い、深呼吸の後、
「……。開きます」
手を伸ばした。
ハードカバーを開くと負魔法がひとりでに無力化、余光がなくなった。まるで、役目を終えたかのように。
怨念が飛び出すことなんてなかった。怯えることなど、なかった。
……負魔法に、敵意はなかったのですね。
印の淡い燈の下、ララナは本の中身を確認する。分厚いのに、開けたのは最初の一頁だけで綴られた文字は多くなかった。しかしながら、ララナは満足であった。全てを受け入れるにも充分であった。
〔──〕
……この言葉は、お父様方のものです!
正座していなければ膝から崩れていた。本を床に置いて、両手をついて、両親の字が濡れないよう腕で頁を庇うが、二〇年余の感情が止め処ない。
印が仄めく幾許か。
口を開かず壁に凭れていたオトが尋ねた。
「調査の締めに教えて」
「はい。今、ご覧に入れます」
「……」
ハンカチで眼許を拭ったララナは、本を持ってオトのもとへ。書かれた言葉を黙読したオトが、小さくうなづいた。
「お前さんはどう思う」
「負魔法は、文字を、正確には紙の保護を目的としたものです。頁の大半がくっついて離れないのは、木属性の治癒魔法によって朽ちないようにしていたために紙に使用された木の繊維が生長して結びついてしまったのです」
「開ける頁にはプラスチックの下敷でも挟まれとったか」
「いいえ、簡単な対物理障壁です。生長した繊維が結びつかないようにしていたのです」
「理屈は解った。けどね、俺が聞きたいのはその先」
オトが改めて、指差して訊く。「この文面を読んでどう思ったか、教えてくれへん」
「申し訳ございません。そちらでしたか」
「……」
「オト様、いかがなさりましたか」
「……、いや、なんでもなくもないけどあとでいいや。それより教えて」
「はい」
ララナは本を閉じて、オトの要望に応える。「私は、ずっと思っていたのです。『居場所はどこにあるのだろう』と」
「ふむ」
「以前オト様が仰った通り、私は恵まれております。一国のひとびとに守られ、育ての両親に恵まれ、兄や妹、師匠や仲間に恵まれて、思い做すことができればいつでも帰る場所を得ることができたのだと思います」
「そうやな」
「私にはできなかったのです。今の今まで、じつの両親がどんな思いでいたのか知らなかったからです……。私が生き延びたことが両親の思いであることを信じながらもどこかで疑い続けていたのです。滅亡、命を落としてまで私を助けたことを後悔しなかったのだろうかと……、疑っていたのです」
「簡単には判らんよね、じつの親の気持でもさ」
「はい……。でも、負魔法に頼ってまで私に遺してくれたお父様とお母様の気持に触れて、」
ララナは本を抱き締めた。「私には帰る場所が確かにあったのだと、解りました」
「滅亡したとはいえ、ここはお前さんの故郷やからな。それに、この地下空間はお前さん家の一部やったんやろう」
「はい、恐らく」
「けどまあ、これからは今の聖の家に帰ればいいやろ。幸いか奇遇か──、二〇年以上名乗った苗字だ、それほど抵抗はないやろ」
「はい」
振仮名が打たれた両親の文面。ララナは自身が何者であるかを改めて知ることができた。
〔羅欄 黎水
帰る場所を失わせてしまう罪を
どうか許してほしい
願わくば、
お前達が幸せであらんことを
父 聖堆紗有
母 聖祖絹〕
人柄を示すような優しい言葉と文字が視覚を通じて体の内側に入り、心に融け込んだよう。そうしてじつの両親の心を知った今、義父母の想いもより深く知ることができたようだった。
「私の本当の名前をお義父様方はご存じだったのでしょう。その上で、私の帰る場所を新たに作ろうとしてくれたのですね……」
与えられた愛情とそれに応えようとする感謝の思いが、育ての親を本当の親と認めさせた。
「よかったな、羅欄納」
「はい……。っ──」
「帰ろう」
オトが地下空間を遡る。「調査は終りだ」
初めて名前を呼ばれた心地に支配されたララナはなかなか脚が動かなかったが、オトの背中を追う。
「結局、レフュラル裏国に関する情報を多くは得られませんでしたね」
地下空間にあったのはこの本だけ。探索範囲を広げれば別の何かが見つかることもあるかも知れないが目の届く範囲では目新しい痕跡や物品がない。
「オト様に取りて収穫はござりませんでしょうか」
「いや、さっきの文面で判ったことはある。帰る場所を『失わせてしまう』という表現はお前さんらの帰る場所を守れんかったって意味と同時に、レフュラル裏国を守る立場にあった者がその責任から述べたとも推測できる。ならば、祖絹・堆紗有はレフュラル裏国で上流の存在または防衛の任に就いていたといえる。彼らがある種、諦めでもってその本に手記を遺したのはお前さんらが生き延びることを確信したがためやろうし、事実としてお前さんは生き延びてここにおる。魔法大国でありつつ、この国は常軌を逸した気狂いどもの巣窟ということはなく、じつに人間らしい感情のもとに営まれとったと読み取ることができた。閉鎖的なこの国の実態に少し近づくことができたんやから収穫やろ」
「一方制御印が施された地下を構築するのは時間が掛かりますが、まさか、ジーンさんと因縁があり滅亡を予期していたということなのでしょうか」
「いや、この地下については単純に魔力貯蔵の意味合があったんやないかな。部屋は大量にあるっぽいのに開かん扉の先では恐らく魔力結晶が生成されとるからやろう」
「扉が開かないのは通路側より濃密にした魔力を流出させないためなのでしょうか」
「記憶の砂漠によればジーンとの因縁なんてなかったと思うが、それを抜きにしても王族ならこういう地下空間を作る意義がある」
「末裔の保護と、国の再建ですね……」
魔力貯蔵庫となっているこの地下空間は国の危機に備えたものと考えられる。国全体が深刻なダメージを受けていない段階なら反撃の魔法を講ずる拠点となり、深刻なダメージを受けたあとなら復興のための足掛りにできる。緊急避難場所とした場合に木属性魔力は治療に、時属性魔力は離脱のための空間転移に用いることができ、ララナと黎水がそうされたように国外脱出による末裔の保護もできる。
「しかし、国民が事実上一人となると、さすがに国としての復興は不可能やな。国の在り方に共感したもんなら国民として迎え入れることもできると思うが、レフュラル裏国で周知されとるのは鎖国。そこに根差そうと考える礎が見えんのではひとが集まらん」
「一から国を作ろうとは私も考えておりません」
滅亡した鎖国の地に同情こそ集まれども、定住意欲と真逆のものを刺激するも同然だ。
調査・探索は、結果としてララナの過去を知ることに大きな成果を得たものの、レフュラル裏国という国家の謎についてはより深まったといえるだろう。それでも、この調査結果はいつかどこかで何か・誰かの役に立つかも知れない。
「このことを、発表なさりませんか」
「察しとるやろうけど、お前さんの育ての両親はじつの両親と面識がある」
名前がその証明である。「裏国の実態を明かしとらんのは、思い出に潜めて暴き立てたくないからなんやないかね」
鈴音の死の真相を公にオトが語らないように。
それを暴こうとはララナも思わないが、長年知りたかったことを共有した彼との時間を引き延ばす口実がほしくなっている。浅はかで自分勝手と解っているのに、離れがたい気持が湧き上がってくる。
「せめて、両親の聞取りをなさりませんか」
「家庭事情にずかずか入る気はないね。やるならお前さんがやればいい。育ての両親の話を聞かずに話を進めるとしても、本はお前さんのやし、ど素人の俺がしたこの程度の推測なら誰もが可能。ほかの視点を交えることで新たな解釈が次次生まれるやろう」
自分が表に出ることはない。オトはそう言ったのだ。
ララナはうなづこうとして、首を横に振り直す。もしも彼の視野が途轍もなく狭く推測が的外れだったとしても、両親が遺した本をともに目にしその内容を知って名前を呼んでくれた彼だから、一緒にいたい。
「レフュラル表大国に正式に調査報告書を提出致しましょう。そうすればオト様も──」
「断る」
静かながらに岩のような意志があった。
立ち止まることなく歩くオト。行先はいつしか新しい道を選んでおり、しばらくすると上に伸びた階段に行きついた。階段を上がり、印の描かれた天井を押し上げると、そこは夜空に覆われた遺跡北部の一角であった。
「ちゃんとした出入口があってよかったわ。ここから正規発掘隊を入れればもっといろいろなことが判るかも」
止まらぬオトがテントの方角とは真逆の北へと。
「オト様、どちらに」
「帰るんよ。テントはもとから隣空間に入れとったんやからしまうのも苦労はないやろう」
「弔いはいかがなさりますか」
「それはお前さんだけでやるべきと考えを改めたよ」
「……、お待ちください」
離れがたかった。背中を追うことしかできないが、ララナは離れないように歩いた。
「調査は終りって言わんかったっけ」
「仰りました。しかし、調査というものは記録をして、当該情報を扱う機関に報告するまでをいうのではないでしょうか。私達はまだそれらの作業を終えておりません」
「メンドーだ。お前さんに任せて俺は帰る」
久しぶりの口癖に、ララナはどきりとした。調査報告書を作成することが悪に傾く行為であるということなのだ。オトの名が取り沙汰されることで、オトを嫌う者は負の感情を募らせるだろう。そうと判っていて名を残すことが、オトは、嫌なのだ。
だが今日、それでもララナは退けなかった。
……私には、帰る場所がございます。オト様には、ござりますか。
独りきりの部屋。それがオトの帰るべき場所なのか。
独りで存ることを彼は望んでいる。そんな望みを否定して何度も拒絶されてきたララナだがここで退いたら取返しがつかない気がした。
止まらぬ彼を、ララナは斜め後ろから窺う。
「オト様も帰る場所が必要なのではござりませんか。全てが意図的でないとしてもオト様は私に帰る場所があることを伝えたくて、こちらへ出掛けようと仰ったのでしょう」
「特別の意図はないよ。行先はラセラユナの提案やから」
「そうだったのですか。だとしても──」
ラセラユナが過去に導いた。そのことに驚いたララナだが、レフュラル裏国遺跡に訪れてからオトが見せた表情や発した言葉の全てがラセラユナの意志ということは絶対にない。
親の気持が判らないということにオトは同感を示した。ララナの親の気持を知ることで、自分の両親の気持を少しでも知ろうとしていたのではないだろうか。そうしてどこかに自分のいるべき場所を見出したかった。関係を煩わしいと言い、独り闇の中で死にたいと言った彼もララナと同じで、表面を取り繕いながら誰にも心を閉ざして苦しんでいるのではないか。
……誰かの愛に苦しみ、誰かの愛を求めているのではござりませんか!
居場所とはすなわち、己を認めてくれる愛のある場所なのだから──。
オトの脚は止まらない。
「これでも駄目か」
「なんのことでしょうか」
「一つ、教えたるよ」
オトが示すは。
「お前さんは求められれば誰でもよかった」
なぜララナの話に掏り替えたのか、とは、訊けない。図星を衝かれたような心地がした。これまで必死にオトに接してきながら、「じつは誰でもよかったのではないか」と、ララナは自身に疑念が湧いてしまった。両親のおもいを知ったからこそ、これまで自分を突き動かしてきた本性ともいうべき感情を、ただただひとに求められたいがために生きていたことを、まざまざと見定めさせられたようだった。愛が無償であるべきなら、幸せも無償であるべきある。ひとに求められたい、と、いう我欲はすなわち、自分と一緒にいてもらう、と、いう対価を求めたものでしかない。自分を見て食べてくれるひとにお菓子を作ってきたララナは、その例に漏れない。無償の愛や無償の幸せは、ララナに存在しない──。
「お前さんも知っとるやろうけど、斯くいう俺が子の頃そうやった。一〇歳の頃、脱却し、自由にした」
学園支配、そのきっかけとなる要望書配布にそんな側面もあったのか。他者に求められるためだけに動いていた本性を自覚して、嫌悪して、みんなと距離を置くことでなお自分の本性を熟知して、だから、独りになったと。
「これでも、まだ駄目か」
「え……」
「もういい。メンドーだ」
「っ──」
オトの言葉から感情の一切が消えていた。
「所詮、他人は他人やったわ。魂が同じだろうが年上だろうが悟りの遅い奴には俺のいいたいことは判らんやろう。再三いったが、メンドーだ、もういいよ」
オトの掌が眼前にぱっと翳された。ララナが立ち止まった一瞬でオトの姿は闇に融けて消えていた。
「…………、私は、(何かを、──)」
ショックで脚から力が抜けて、ララナは座り込んだ。
……間違えたのですね。決定的な何かを。
過去の出来事に対する調査などを通して言葉を尽くし、この遺跡調査を通して知った事実や推測を踏まえてさらに彼に踏み込んだ。そんな実感はあったがそのどこかで何かを間違えた。目の前に翳された手に、消えた姿に、その感覚を落とされた気がした。
光と影。本性と無償。対照的性質・感情──。
凍て星の寂寞。ララナは本を抱き締めて、己の行動を振り返った。
──一七章 終──