一六章 慈悲の眼
真夜中。遺跡西部を巡るも闇に妨げられて目新しいものを見つけることができず、ララナとオトは出発地点のテントに戻ってきた。
「いまさらやけど、テント、遺跡の中に設営せんくていいん」
と、オトが尋ねた。聖なる魔力に守られた野営専用区画にテントを建てるのが一般的。それがない場所や町の外では、壁で区切られた場所や高所で野営すると魔物の五感に捉えられにくい。ララナがテントを建てたのは遺跡南部の入口付近でも魔物が通り道にしそうな位置だ。
それには、ララナなりの理由がある。
「魔物が現れたら討伐致します。魔物は多くの人人に取って脅威ですから」
「誰も住んどらんこの大陸については放置してもさほど影響がなさそうなもんやけど」
ここは南レフュラル大陸。レフュラル表大国がある北レフュラル大陸と隣り合っているが、海が隔てている。
「有翼型や四足型、海水に耐性のある植物型の魔物などなどは海を渡ります。レフュラル表大国において最も魔物が活発な南部に増援部隊を与えるようなものです」
「さすがは元軍師、一理ある。お前さんとしては増援を一体でも減らしたいわけやね」
「はい。緊張で眠ることも……」
とは、あとづけに見せかけた真意である。
「一緒に寝るわけでもないのに」
「幕を隔ててお傍にいらっしゃります」
「俺はそんなに賑やかか。緑茶荘もキッチン含めて壁二枚隔てとるだけやん」
「ですから……」
ララナは充分緊張していた。
「触感が敏いとは思ったけど、もう過敏やな」
「気になってしまうものはどうしようもございません。気持の問題です」
「ふうん、そんなに俺にほの字なん。こんな出来損ないのどこがいいんやら」
「……」
察しているだろうに。ララナは、オトの半眼から目を逸らした。
「ま、それはさておき感心せんな」
オトが反論する。「魔物だからと殺すことには俺は賛成できん」
「なぜでしょう」
「考えぬ者に未来はない」
「セラちゃんにもよくそのように教わりました」
「ひとは疑問をいだき、答を求めて踏み出してゆく。意欲が湧き上がるきっかけは疑問が生まれたから。疑問がなければ答を求めることはなかったからだ、と、いえばわかりやすいな。その点で、お前さんが俺の考えに疑問を持ったことも同じやな」
オトの解らない部分が尽きない。だからララナは知りたい。知って、幸せになってもらえるようにしたいのである。
「以前申し上げた通りです。オト様を解するのに余念がございません」
「では、話を戻そう。そも、皆が魔物を殺すことに抵抗がないのはなぜか。と、考えたことはないか」
「いいえ」
「天才なんやから問題は大好きやろ、さあ考えて。魔物が害を為すからか」
「……、そうではないでしょうか」
「それがひとの出した答を支える理由やな。さらに考えてみよう。なぜ魔物が害を為す」
「理由はないのでは」
それが世界の共通認識である。さらに、「多くの魔物に高度な知性はありません」と、いう一般的な見方もある。
「問を変えよう」
星空学級のムード。ララナは学園生活を思い出して教諭オトの授業を受ける。
「魔物が生きるためそうせざるを得ないとしたら。ヒトが生を繫ぐため、食う・寝る・産むということをしていくように、魔物が生を繫ぐための一プロセスが害を為すことだとしたら」
「人間が野菜や動物を育ててそれぞれを食べているように、ですか」
「そう、育てながらも殺して食うように、魔物が人間を食うのだとしたら」
「あ……」
「それ自体に罪はないといえる。宗教上の戒律はあったと思うが、人間のその行為を咎める世界的な法律はない」
「なるほど……」
要するに、魔物は生命維持のため人間を食う必要があって、魔物の世界ではそれを規制していないということ。
「問題は人間側やな。『言葉が通じない個体にどう対処してよいか判らないがゆえに殺す者がいたこと』。また同時に、そういった者の安易な考え方が、現在の大衆に根深く浸透してまったこと」
異形の危険分子が幾度となく襲いかかってくる。そんな理解しがたい現実に解りやすい対処法があった。ひとは、それに飛びついてしまった。問題・対策の簡素化は周知徹底に容易く、一方では、事細かな現実の捉え違いを招いて複雑な物事への熟考や理解を棄てさせてしまう。
「迅速に行動したことで時代を切り拓けることがあるのは否定せんけど、さて、深く考えんままでいいもんか」
「人間も黙って食べられるわけにはいきません。道徳的・倫理的に人間を養殖させるわけにもいきません。現状は魔物を退治するほかないのではございませんか。オト様は、魔物と共存できるとお考えですか」
「個体によるやろうな。同じような種族や同じような形のヤツが多い、個体数が多い、思考力を持たず知性もない、人間を襲う巨大なウイルスみたいなもの、ゆえに恐ろしい物体。って、いうのが魔物に対する一般的見解やろう。なら、そうでない魔物とは話が通ずると思わんか」
「左様な個体が存在すれば可能ですが」
「その可能性はないってのも一般の見解やろうな。魔物はやっぱりウイルス扱いだ。無限増殖して人間を脅かすっていうレッテルを貼ってもおるやろう。人間一人と魔物一体を同列に扱うヤツを見たことがない」
「ではオト様は、魔物一体に対してどのような見解をお持ちですか」
「一つの命。俺達と、と、いうとそれもまた語弊があるかも知れんが、少なくとも一般的にいわれる生命というものの概念に漏れんと俺は思うよ」
ゆえに、
「むやみに摘み取ってはならないと」
「言うまでもなく多くの魔物が人間を襲った罪を抱えとるのが実状だ。そういう魔物なら仕返しとばかりに追い返したり討伐対象とするのも理解できる。〈殺害逮捕〉、この世界の人間の法には殺人者を殺害して逮捕してもいいって規定があるしな。ただ、中には別の同型魔物と混同されて、あるいは『魔物』と一括りにされて、罪もないのに殺されとる個体もおるやろうとは考えるよ」
ラセラユナが魔物退治の仕事をしてはどうかと話を振ったときオトは別の理由をつけて断っていた。本当は魔物にも一つの命があると考えていたから殺せない。先程述べたように罪があるかも判断できず、結果、悪かどうか判断できないがゆえに殺せないとも。
「恐らく、考え出すと切りがないことです。オト様の仰ることは非一般的でありつつ道徳的に正論を極めておられます。ですが、魔物に何かを奪われた人人に取って不合理とも存じます」
「しかりやな。絶対の善悪はないから妥当な状況で収まっとる。それが、魔物は討伐すべき、と、いう一般論。多くの魔物にそれを咎める知性がないこともその論を後押しする要素やな」
虐げられることを認識していない相手が自分と同じ人型であるなら、人は魔物に自己を投影して討伐を躊躇っただろう。魔物は多くが鳥獣や異形。感覚や認識を投影する必要もなければ対等に扱う必要もないと人は考え、魔物に人間的道徳観を当て嵌めて人間的死生観でもって討伐を躊躇うことはないのである。
人間の長い歴史の中で共生関係にある動物に対してさえ、同じことがいえる。かわいそうと言いながらその命を奪い、食うことがざらにある。戒律などで制限しなければ、死ぬまでに動物性の成分を一切口にしない人間はほぼいないだろう。動物は殺されたいはずもないがそれを訴える術が「逃げる」という手段しかなく、その手段を容易に奪われる環境下に置かれているのだから抵抗の余地もない。それに対して肉食を好む人間が罪に思うことはなく、罪に思うことがあっても「命をありがたくいただく」などの理屈をつけて次次と殺していく。魔物も、同じようなことをしているに過ぎない。
オトが瓦礫に背中を預けて座った。
「──。お前さんがそれでいいと思うなら止めんよ。卵、乳、牛肉、鳥出汁、と、俺だって動物性成分を摂っとらんわけじゃない。魔物を殺しても人間の法ではお前さんに罪はないし、俺も罪とまではいわん」
「引っかかる仰り方です」
「そう思うのは、自分の行動に疑問が生じた証やろ。最後にはやりたいようにやればいいよ。それがひとやからね」
オトの言葉が、ララナには冷たく重い。「ひと」というのも軽んじがたい。
……位置を変えたほうがよいかも知れません。
魔物の通り道になりそうな場所にわざわざテントを設営する必要は、ない。そんな位置に建てたのは、誰かを守るという大義名分を盾にした無差別的殺意でしかないではないか。オトの理屈が正しいなら、食欲を刺激して隙だらけにした魔物を騙し討ちにするのである。「お腹を空かせてやってきた妹にご飯をあげない」とは随分ずれた喩えだが、相手の顰蹙を買いそうな行動という意味では同じであろう。
……喧嘩を売りたいわけではございませんからね。
「手伝おうか」
「いいえ、私が──」
「魔法を無駄遣いする気やろ」
「無駄ではございません」
「手と脚を動かせば済むことを空間転移でやろうとしとる癖に」
まだ考えていなかったことをオトに先読みされていた。
ララナはオトの意向に副って魔法を使わず、ペグからロープを外していく。オトも手伝う。
「設営しとるときには気づいとったんやけど、蓄光ペグ。粋なもん使っとるね」
「闇夜でも建てたテントを見つけやすいという利点がございます」
「魔物を誘き寄せる効果もなくはないな」
「邪推です」
「判っとるよ。お前さんにそこまでの敵意はない。街灯がない遺跡でテントを見失わんように選んだんやろ」
「ご高察でしたら邪推なさらぬが吉です」
「拗ねるな。言ったやろ、俺が愉しむために来たって。発言に気を遣うつもりはない」
「……」
オトの推測は間違いといいきれるものでもないので気兼ねなく話してくれたと前向きに取ることもできるが、嫌われるためわざと発した言葉であるなら、悦んでいいのか悲しんでいいのか。ララナは微苦笑を浮かべてしまった。
ララナはオトと協力してテントの両サイドを抱えると、建物の仕切りの中に移動、石床が剝げて土が曝されたところにペグを打ち直し、テントを固定した。
「もとはここにひとが住んでいた……。勝手にお邪魔して、申し訳ない気持になります」
「塩を撒いとけとはいわんが、弔いたいなら──、言うまでもないか」
「はい」
ララナがここへ訪れたのは、二度目だ。
「戦争が終わったあと、ここに来たんやろ。で、亡くなった同郷の者を弔った」
「はい。一人では……ゆっくり巡ることはできませんでした」
「ここに来るの断ってもよかったのに」
「オト様のお誘いです。お断りできませんし、お断り致しません」
「そ」
もとは家の壁であった瓦礫が手狭な空間を区切って、壁に背中を預けて座るオトとテントの距離を詰めさせている。
ララナはしばらくオトの隣に座っていたが、
「あと二日ある。今日はテントに入って寝れば。どうせ寝とらんのやろ」
「──。そうですね……」
遺跡はまだ「昨日」。明日と明後日の二日間、探索できる。
「オト様、お腹は空いていらっしゃりませんか」
「いや、まだ。食べるのは昼にしよう」
「畏まりました」
ララナはテントに入る前にオトの前に正座して、「おやすみなさい」と、三つ指をついた。
「ん、おやすみ」
と、言って腕組をするとオトが瞼を閉じた。
仄かにお弁当の香りが漂うテントの中。ララナはジッパ式の出入口を閉じるとネグリジェに着替えて、結い上げた髪を下ろして軽く梳き、隣空間から布団を取り出した。全耐障壁に浄化作用がなければお風呂に入りたくなるのかも知れないが、ララナにそんな欲求はなく、すんなりと横になることができた。
虫の羽音や風の音、遠くを駆け巡る魔物の足音までが鮮明に聞こえる索漠の亡国に、今は、二人きり。
……、……オト様の寝息が聞こえます。
掛布団の中で高鳴る胸に手を置いて、ララナは深呼吸を繰り返す。
「……、……」
ほんの少し前までは聞くことのなかった声、息遣い、体温、感触を蘇らせるオトの寝息に、ときめく。
トック、トック──。
ときめいて、ときめいて。
トック、トック──。
息が苦しい。凍結したはずの心臓が動いているのは錯覚か。本当に息が苦しい。
トック、トック、トック──。
本当に、動いているのかも知れない。握った手に、少しだけ汗が滲んでいる。
……オト様、寒くないでしょうか。
障壁に守られているララナは寒風を感じないが、オトは生身。魔力に優れる者は気温の影響を和らげることで体調を崩すことがないとは言えララナは気に懸ける。
出入口を開けてテントの外を窺う。寝入ったふうでオトが俯いている。睡眠発作で眠ってしまったときには魔力が漏れたり反射発動型覚醒魔法が発動したりと忙しないが今は落ちついている。
……でも──。
寒いのか。
それとも、もとからなのか。
オトの寝顔に、安らぎはない。
いつもの無表情が、そのまま張りついている。
……独りは、おつらいのではござりませんか。……──。
テントの外へ出たララナは、抱えた掛布団をオトの前方から肩に引っかけるようにして固定し、吸い寄せられるように手が向かった彼の頰を見つめ、
……お邪魔しては、なりませんね。
手を引っ込めた。
かさついた肌。初めに観たときよりは血色がよくなったが栄養状態が完璧とはいえない。
……。
いつも見上げていたオトの顔を期せずして見下ろす恰好になって、ララナは彼の下唇に異常を感じた。
……ひどい傷です。
繰り返し嚙みつけたような痕が、生生しく残っている。ボランティアで接した人人にもよく観られた症状で、いずれもストレスが主な原因だった。歯嚙みに比べて軽度とされるストレス発散行為だがオトはそれが癖づいている。学園支配後から過度のストレスが続いたのだろう。そのストレスを解消するどころか、日日積み重なって現在に至ったことも突拍子のない攻撃的言動から容易に想像がつく。
……やはり、独りは、苦しかったのですよね。
そうでなければ、その唇の傷痕に説明がつかない。疑問が意欲のきっかけとオトは言っていた。その意欲を携えて答へと歩むことに幸せを感ずるのだとしたら、オトは長年その歩みを止めざるを得なかったことになる。それこそがストレスの正体であり、傷跡の原因ともいえる。
……歩みを止め、考えること・疑問をいだくことも棄てて直視なさった不幸──。
自傷行為による忍耐あるいは現実逃避をオトは密かに繰り返してきた。あの自己治癒力をもってしても再生しきらないほど頻繁に繰り返してきた。ララナは、オトの絶望の形を初めて見止めてしまった。途端──、
「……、っ……、…………」
胸に重いものが押し寄せて、慌ててテントに引っ込んだ。声を殺しても声にならない声が漏れた。絶え間なく息が吐き出された。悲しみが込み上げた。オトの痛みを解ろうとしたのか、気づけば下唇を嚙んでいた。
敏感な粘膜には、あまりに鋭く刺さり、あまりに悲しい。
ララナは固く握った左拳の甲で口許を押さえ、必死に嗚咽を怺えたが、堰が、切れた。
「ーーーーーー!」
敷布団に広がる感情の跡が、理解の浅さの象徴だった。
……私は、オト様を、もっと、もっと知らなくては──!
助けることなど、到底できない。
踏み出さねば、助けられない。
何度も思ってきたことを確認して、ララナは今一度、
……痛い……。──斯様な痛みの中、独りきりで、孤独になど……!
擬似的に感じ取ったつらさを嚙み締めて、ララナは、決意を新たにした。
眠れぬまま夜が明けた。
丁寧に梳いた髪を結い上げて普段着のワンピースを着るとオトにもらったボレロを羽織ってララナはテントを出た。決意のまま接するつもりが肩透かしを食った。オトが寝ていた場所に掛布団のみだ。
……どちらに。
掛布団を持ち上げたララナは、ふと、掛布団から自分とは異なる感を受けて、
ぽふっ。
顔をうづめた。
……ぬくもりと香りが、仄かに──。
落ちつく。レフュラル裏国にあった家は、ひょっとするとこんな香りだったのだろうか。
……だなんて、オト様の香に任せた妄そ──。
「まさかのにおいフェ──」
「ふやぁっ!」
「ふやぁっ……て、言葉を遮るほどびっくりしたんきゃ」
振り返ると、オトが瓦礫の上に立っていた。「まさか、掛布団を匂い袋にでも──」
「致しませんっ」
否定しながら掛布団を隣空間にそっとしまったララナは、疑いの目を向け続けているオトにもう一度、「致しませんよ、はい」と、冷静を装って言った。
テントの横に降り立ち懐疑的な目を向けつつ彼が差し出すのは、木製のカップに入った水。
「湧水を沸かして採った蒸留水だ」
「あ、ありがとうございます」
「冬でも寝起きは脱水に注意やからな。お前さんはただでさえ汗っかきやから水分吹っ飛んどるかと思って」
「私のためにわざわざお時間を──」
「いや、俺が飲みたいからついで」
嘘でもないだろうが、遠慮しなくていいという意味もあるだろう。ララナは、オトの言葉に甘えて蒸留水をいただいた。
「純度の高い魔力が豊富に含まれておりますね」
「そこは普通に『おいしいです』でいいのに」
「そ、そうですね、っふふ……」
決意の出端を挫かれて羞恥心を煽られてしまってもララナは気にならなかった。
……このぬくもりを、張りつめた決意で撥ね除けてしまうのは、惜しいのです。
羞恥は心を程良くほぐした。嫌われるつもりだと宣言された身で気楽に構えてはいられないが、オトのくれるものを素直に受け取ろうとララナは思ったのである。
「……ふぅ、うまい」
オトも蒸留水を飲んで、ララナの服装に目をやった。「今日はフォーマルじゃないんやね、タイツだけお前さんらしくないけど」
「オト様がお気遣いなしなら私も私で愉しもうと存じます。じつはフォーマルは好きではないのです。タイツは、オト様の仰る『万一』に備えて自由意志を示すためです」
オトのアドバイスを受けて施した魔法も継続しているが。
「ふうん。配慮は感謝する。フォーマルはなんで好きやないん」
「素材が硬くて動きにくいですし、ストッキングなどを履かなければなりませんし、何より堅苦しいではございませんか」
「お前がそれを言うのか」
「──。おかしいですか」
「おかしいわ。……いや、まあ、いいや」
オトが木製カップの底でララナの頭頂をぽこっと叩いて、「あれより似合っとるよ」
「っ、そうですよね。少し舞い上がってよろしいですか」
「恋愛初心者め」
「っふふ、初心者ならばよいではございませんか」
気に入っている服を褒められるのがこんなに嬉しいことだとは。それに、
……オト様が、初めて私を「お前」と呼んでくださった。
距離がぐっと近くなったような気がしてララナは言葉通り舞い上がっていたのだが、
「そう、そう、お前さんさ」
と、すぐにもとに戻ってしまった。「ん、何もないところで転びかけてどうしたん」
「いいえ、なんでもございません」
ララナは、蒸留水の残りを飲み干してオトにカップを返した。
「ありがとうございます。このカップはどちらでお作りになったのですか」
「水沸かしとるあいだに近場の倒木から削り出してきたんよ」
「この場で調達されたものとしては相当になめらかな作りですね」
唇が傷つくこともないほどに──。「……」
「どうした」
「っ、いいえ、なんでもございません」
「そう」
テーブル替りになりそうな瓦礫の上に木製カップを置くオトを眺めながら、ララナは彼の傷痕を思い出して心臓が止まったように苦しくなってしまった。
……しっかりしなくては。
つらいのは、傷を抱えている本人なのだ。
ララナは気合を入れ直して、オトの背中に声を掛ける。
「今日はどちらにお越しになりますか」
「東部やね。ちなみに、明日は北部を探索しようと思う。南部に関してはテントに近いから、東部・北部に行くまでに道を変えて行けば探索できるやろう。全てを観て回るのは不可能やからざっくりと探索する感じだが、どうかね」
「西部は昨夜探索致しましたので、左様な順序で問題ないでしょう」
方針を聞いたララナはオトの目的を尋ねる余地を得た。「オト様は、遺跡探索が目的でお越しになったのですか」
「まあね」
と、オトがうなづいた。「そも目的はお前さん提起の『外出』。付加価値として、遺跡の類は知的好奇心を刺激してくれるんやないかと思ってね。うぅむ……」
オトの言うようなものは見当たっていないわけで。
「レフュラル裏国遺跡は遺跡の中で新しい部類ですが、魔法大国といわれたこともあって魔法技術や金品を狙う盗掘が横行したのでしょう」
「八年前に来たときもなんもなかったってことか」
「はい。弔うために参りましたら現状と差のない状態でした。建物は壊れており、何もかも吹き飛んでしまったかのように中が空でした」
「変やよな」
「と、仰ると」
「一方的戦勢ではあったかも知れんが戦争特有の混乱があったはずだ。それなのに争った痕跡が建物や通りにしかなく、金品はともかく生活雑貨の類が全く見られんってのはね」
ざっくりではあるが西部まで一通り観て、建物以外の残骸がなかった。それから考えられるのは、広範囲魔法による襲撃だろう。
オトが遺跡を東寄に歩き出し、ララナはついていく。
「魔法による襲撃であれば広範囲を一気に攻めることができますし、空から攻めた際の効率が非常によいです」
「魔法の発生地点を上空と仮定、風属性魔法なら発生地点から遠退けば威力が落ちるから、比較的頑丈に作られた建物の基礎辺りしか残ってないのも納得がいく。ただ、魔法大国ともあろう国が魔法で壊滅……、微妙に納得いかん気がするね」
「私もその点はずっと疑問です……。遺跡から観る町の構造は白兵戦に特化したもので間違いないですが、魔法に対策が執られていなかったとは考えにくい。あるいは、なんらかの魔法対策が解除されたあとに攻め込まれたのでしょうか」
「その線はあるね。いまさらだが、レフュラル裏国滅亡は近代で謎を残した最たる事変やから経緯が判れば大発見やな」
滅亡の頃、ララナはこの土地のどこかにいた。
「もしかすると、お父様やお母様のことも……」
「正直期待はできんが、なんかあるといいね」
「はい」
ぱっと見た程度では何も見つからない。ララナはオトと協力して、通り以外にも踏み込んで瓦礫をどかして下敷になっているものがないか確認して回った。西部を回った昨夜は暗くてそこまでできなかったが、日があってやらないのはもったいない。
「その細腕で大石を軽軽持ち上げるのはいかがなもんかな」
ララナは効率よく瓦礫を移動させる方法を選んでいるだけだった。
「魔法の無駄遣いでしょうか」
「それは魔法を使ってないからそうはいわんが」
魔力を有する者は保有する魔力量に比例して身体能力が向上する。人間の中で最も魔力に優れるとされる世界三大魔術師なら大石の一つや二つは持てる。
「参考までに訊くが、バランス度外視で一人でどのくらい持てそう」
「計算上は……、三〇トン以上可能かと」
「たのもしい」
「呆れていらっしゃりますか」
「素直すぎるのもドン引きやと思っただけ。まあ、それがお前さんらしさなんやろう」
ララナはオトの言葉を前向きに捉える。
「どんどん運びます」
「働きもんやね」
ララナが瓦礫を運ぶ一方、オトがその下に隠れていたものを観察していく。
「地面しかない」
「新発見にはそうそうありつけないということでしょう」
盗賊の類が大量に入り込んだであろうことに加えて、調査を目的とした魔法学者や考古学者の正規発掘隊なども訪れている。そういった人人の利益目線や知的考察を超越・逸脱した目線で探索することで新発見に繋がるかも知れない。
「しかしな、雨が降り込んで瓦礫の下は湿っとる。小さい虫なんかには好かれそうなもんなのにそれすらおらんとは、どういうことなん」
「土地自体が痩せてしまっているのでしょうか。遺跡内には草木をほとんど見ません」
自然魔力が豊富な土地には樹木が根づきやすく、食物連鎖の観点から動物が集まる。自然魔力が豊富にも拘らず動植物の少ないこの土地は魔法学的に不自然だ。
「属性魔力の割合は風や木、水、地属性が多い。日中ともあって夜より光や陽属性が多くなっとるが時間帯の推移に沿っとる。全体を観ても一般的な割合やし特に異常はないが」
「妙ですね」
「ああ、妙だ」
魔力環境に特別な異常があるなら自然環境の悪化に顕れる。例えば木属性や水属性の魔力が極端に減少しているなら植物は育たないという具合だ。が、この土地は、魔力環境に目立った異常がないのに自然環境が悪化している。一帯の植物を根こそぎ抜いた直後であるなら考えられないこともない状況だが、現実的な観察とはいえない。
ララナは瓦礫を置いて、露出した土を拾う。やや粘土質で硬く、水捌けが悪く湿っている。腐葉土の全く混じっていない土でもないので水分に加えて養分もそれなりに含有しており根の強い雑草は簡単に根づきそうなものだ。植物の種子を食べるスズメやアオジ、ヤマガラも数は少ないが飛んでいるので、遺跡内外に植物の種が定期的に運ばれているだろう。
「二三年ものあいだ、この土に草木が根づかないということは考えにくいです。根張りを阻害する何かしらの要素がありそうですね」
「野焼きの痕跡は見当たらんし、魔物や草食動物が食い荒らしたとしても根っこくらいは残ってまた生えてくる。冬ということもあるのかも知れんが、枯れ草の少なさも考えると別の阻害要因があると観ていいかもな」
「オト様がコップを作られたという倒木ですが、遺跡の中にあったのですか」
「いや、遺跡の外。正確な距離は測っとらんけど、テントから南に三キロくらいの地点だ。そこまで行っても木をほとんど見かけんかったが」
「その辺りは樹木が育つ環境であったのにいつからか生育が滞って朽ちた、と、いうことでしょうか。詳しく調べる必要がございます。根張りの阻害要因が魔法性であれば、それは〈負〉である可能性がございます」
負は、対象から魔法力や生命力を奪い取る類の魔法的作用の総称で、魔法なら負魔法、魔導なら負魔導というように言い換える。その性質から禁忌とされ、世界の法によって使用が禁止されている。
「倒木の周辺にも草木は少なかったから影響を受けとるかもな。やとしたら、負としては効果範囲が相当広い。俺は何かを奪われとる感がせんし、ここに来てからそれらしい魔力を感じとらんが、植物に影響を与えとるなら食物連鎖的に動物や魔物にも影響が出る。特に魔物が食糧難になると、お前さんが言ったような感じでレフュラル表大国に魔物が流れてまうやろうから調査は必要やな。負魔法や負魔導の使用・管理者が遺跡近辺に潜伏しとるなら、取っ捕まえる必要もある」
善人を脅かす可能性があるがゆえに。
オトの考えに賛同し、ララナはうなづいた。
戻した土を均して手を払って視線を上げたララナは瓦礫の奥に空間らしきものを発見した。
「オト様、瓦礫の撤去をお願いできますか」
オトが瓦礫の全体を見渡す。
「蹴っ飛ばすと崩れそうやね」
遺跡のほとんどは壁と屋根が一気に吹き飛んだふうであるが、ここは屋根が崩れ落ちたまま残ったよう。壁となっている瓦礫を撤去すれば密閉された奥の空間を開放できそうだ。
オトの手も借りて壁となっている瓦礫を取り除いたララナは、暗い口を開けている空間に四つん這いで入ってみた。
「どう、なんかある」
と、オトが後方から問いかける。
太陽の光が入らずどんよりと暗い空間は奥行がなく、ララナは空間から這い出た。
「何もございませんでした」
「閉鎖的な空間でも物はどっかに吹っ飛ばされたんかな」
「暖炉や換気口のようですね、奥の天井に穴がありました。魔法本体か余波でそこから出ていってしまった可能性がございます。もっと調べてみる必要があるでしょうが、愚見ながら襲撃時に概ね消失してしまったものと」
自分とオト以外の第三者がここに来ているかも知れないと思われた直後であるから、秘密の抜け穴か何かではないかとララナは疑ったがハズレ。
「思うより簡単にはいきませんね」
「そりゃそうやろ。もし第三者が入り込んどるとしたらそれなりに警戒心の強いヤツやと思うぞ。遺跡としては新しいし、今は俺達しかおらんみたいやけどほかに誰か来る可能性はまだまだあるんやから、簡単に見つかるようなところにはおらんよ」
疚しいこと──負の行使など──をしているとすれば潜伏に細心の注意を払う。
「負の使用者の確認、または草木の根張りを阻害するそのほか要因の調査を、レフュラル裏国の住人の生活ぶりを窺える品の発掘と併行なさりますか」
「ああ。そうする」
方針を微調整して遺跡を探る。別行動したほうが効率はいいが、何者かが潜伏しているなら鉢合せしたときに何をされるか判らないので単独行動は危険。とは、オトが言った。
「注意しよう。俺には全耐障壁なんて便利なもんはないしな」
「オト様ならお使いになれませんか」
「理論上可能やけど無駄遣い」
「なるほど」
オトが言う「魔法の無駄遣い」の定義を、ララナは摑めてきた。
「必要に迫られて使う魔法以外、全てが無駄遣いなのですね」
「そんなん当り前のことやん。環境保全もせんヤツばっかなんよ。コンビニで買ったものを飲み食いしたあと包みや容器を道端で棄ててくようなもんだ。余所から持ち込まれた物を別のところで棄て、自然にはない環境を無責任に作り出す。それは、俺には理解できんな」
「反省致します」
「考え方はゴミの扱いと同じ。幸いお前さんには魔法の経験と才能がある。魔力のリサイクルをするだけの頭も技術もあるんやから、気づいた時点で改善すればいい」
「はい。(魔力のリサイクル。よい響きですね)」
オトの表現にララナは密かに感銘を受け、我が身を正すことにした。
遺跡東部に向かって歩く。迷宮を思わす通りに何度か迷うことはあっても調査自体はつつがなく進行した。かつては一つの国である。遺跡として目にすることのできる範囲はおよそ二二平方キロメートルと狭いが、オトが言った通り一日二日で調査が終わるような広さではなく、ララナとオトは外観で的を絞って一部は手をつけずに通り抜け、ざっくりと調査を進めたのであった。移動は全てオトの歩行速度に合わせたため普通の調査団よりは素早く広範囲を回ることができていただろう。
調査に夢中になるも亡国の生活感を窺える品を見つけることができず、根張りを妨げる要因についても摑めないまま夕方を迎えた。「闇に紛れた遺跡を観察して回るのは困難」としたオトの判断に従い、ララナはテントに戻ってきた。
「期待外れやな」
テントからバスケットを取り出したララナが見つめたのは、尻餅をつくようにして瓦礫に座り込んだオトである。
「思いがけず大変な外出となってしまいましたか」
「お前さんは愉しそうやな」
「それは、それは、愉しいです。オト様にお伴させていただけるのですから」
「それは錯覚。もっと話し上手なヤツが一緒のほうが絶対盛り上がるぞ」
「私はオト様がよいのです。それに、」
オトの左手に正座したララナは、バスケットを脇に置いて中から弁当箱を取り出す。「どうぞ、オト様の分です」
「ん……、別別に作ってきたん」
「はい。オト様の健康状態を改善するためのメニュを詰め込みました」
「バスケットを見た時点でサンドイッチとか唐揚げとかピクニック的な食事を予想したんやけどね、蓋を開けたら蠍や蛇が飛び出すとかマグロの目玉だらけなんてことはないやろうね」
「だらけはございません」
「は」
「ご安心ください。オト様のお口に合いそうなものを作って参りました」
「ふむ、一応信ずるぞ」
オトが弁当箱の蓋をゆっくり開けた。「……ん、案外普通、かな」
「目玉だらけということはございませんでしょう」
「キャベツの千切り、ハンバーグ、パセリ、ミニトマトとチーズのオリーブ添え、そんでもって唐揚げか。むしろ肉が多いか」
「焼きそばばかりというお話でしたから蛋白質補充のためお肉多め、と、見せかけてじつは唐揚げは大豆ですよ」
「あ、なんかそれ知っとる。ステーキとかにもなるヤツやろ」
「ダゼダダでは精進料理などに使われているものだそうですが、レフュラルでは食用肉の削減に向けた動きに関連して推奨され始めておりますね。動物性か植物性かの違いはあれど蛋白質であることに変りはないので、食感が似ており、調味料の絡みがよくおいしいですよ」
ララナは弁当箱をもう一つ取り出し、オトに差し出した。「こちらは雑穀米とお箸です」
「まさしく栄養対策。ありがたや」
と、オトが受け取った。「これでご飯抜きやったらどうしようかと内心ヒヤヒヤした」
「予想以上に調査に時間が掛かりました。しっかり食べなくては次の力が出ません」
「同感だ。いただきます」
「はい。私もいただきます」
オトと同じように手を合わせてララナは自分の弁当箱を開く。
「お前さんは本当に野菜ばっかやな」
「豆類も多いですよ」
「植物学的にはややこしい分類があるとは思うけど豆も野菜といえば野菜やない」
「それもそうですね。っふふ」
ララナは箸で煮豆を一つ口に運んで味わう。「蓄えられた木と地、仄かな風・水・光・陽……美味です」
オトがハンバーグと千切りキャベツを一緒に食べた。
「んむんむ……。お前さんの表現が魔力に依存しとるのは仕方ないとして、愉しそうやな。いいことでもあったん」
夕闇に沈むテント前。ララナはオトの口許をそれとなく窺いながら。
「調査中のオト様がとても活き活きとしていらっしゃったので」
「そう」
「はい。オト様が研究熱心なことは博学であらせられることから拝察致しました」
「知識がそこそこあるのは否定せんが研究熱心ってのと少し違うかも」
「どのようにですか」
「浅く広くやし。白黒つかんのが嫌というかね、モヤモヤしたままなのが嫌なんかも。その点は感情的やから自己満足で充分。深掘りせんでも間違った知識でも自分の中で片がつけば修正せんから全てが追究した知識とはいえん。研究はそうもいかんから俺には向いとらん」
「裏国滅亡の謎についても同じということですか」
「ほら、前に言ったと思うがテラノアの前に終末の咆哮があった場所やぞ、ここは」
「……失念しておりました」
オトが外出先にレフュラル裏国を選んだのは、終末の咆哮絡みで調査したかったからか。
パセリを食べたあと、オトが口を開く。
「終末の咆哮の製造に創造神アースが絡んどって滅亡前のレフュラル裏国に関与しとったとすると、ジーンがレフュラル裏国を狙ったのはそれが関係しとるのかも知れん。その辺りも探れたらいいと思って来とんだが」
「──、それは……」
「いいたいことは判っとるよ」
オトが、初めて言及する。
「お前さんは、ここの滅亡が自分のせいやと思っとる」
ララナは、箸を止め、確と首肯した。
創造神アースを怨み、その魂を破壊せんとしたジーン。その魂が転生したとなれば、警戒してしかるべきだろう。そしてできる限り早く手を打とうとした。創造神アースが創造神アースとしてこの世に生まれる危険性を排除すべく、ジーンは動いた。
「──。それが、レフュラル裏国の滅亡に繋がってしまったのではないでしょうか。私は、そう考えております」
「記憶の砂漠による知識をフル活用しての推測だが、ジーンが悪魔を遣ったのは、創造神アースに目をつけられることを警戒したんやろう。確実性を欠くがゆえに周到なジーンの策とは創造神アースが推察できんやろうからな。創造神アースが自我を復元していた場合、赤子であってもジーンを殺せる力を有した可能性が高い。何せ、〈創造の力〉がある」
全てを生み出すことのできる圧倒的な力。考えただけで他者を害することも生かすこともでき、あらゆるものを破壊も構築もできる、異常なまでの力。それが〈創造の力〉だ。
「嫌われ者という意味で悪神と似ても実際には縁遠い悪魔を遣うことでジーンは自分の関与を暗に否定でき創造神アースから狙われる危険性を排除した恰好だ。レフュラル裏国滅亡後、逃げ落ちたお前さんが狙われんかったのは襲撃担当の悪魔の目から漏れたこともあるかも知れんが、創造神アースの持つ創造の力が観られんくて危険視の必要がなくなったからというのが大きな要因やったろう」
「確かに、私に左様な力はございません。考えるだけで行使できるのは空間転移くらいです」
「使いようによっては恒星内部に直接転移させたりもできる危険な魔法やけど、ジーンから観れば大したことないし、見逃されたんやろう。それに、創造神アースの記憶がお前さんにはない」
「はい。オト様にはござるのでしたね」
「その人格は、世界創造の神として失格といえるほど残念な性質と断言できる。ジーンが警戒して〈魂滅〉を狙うのも理解できるほどだ」
読んで字の如く魂が滅びることを魂滅という。もし可能ならオト自身がそれをやる。そう言っているように聞こえて、ララナははっとした。
「まさかオト様、ご自分を亡き者にしようとしていらっしゃるのは──」
「深読みしすぎ」
オトが溜息。「それは飽くまで俺の人格を否定しての結論だ」
それはそれで吞み込むわけにはいかず複雑な心境なのだが、創造神アースの復活を恐れて自死を望んだのではない、と、いうオトの言葉の意味にララナは安心した。
「しかし……そう考えると、やはり私がレフュラル裏国に生まれたために──」
弁当箱の端に指先が食い込む。
今や誰の息もないこの土地。生活が溢れたであろうかつての姿を垣間見ることもできないのは、罰のようである。
……私が生まれなければ、お父様やお母様だけでなく、国の皆さんも……。
悪神討伐戦争終結後、独り、ここへ弔いにやってきたララナだが、そんな資格はなかった。強いて言えば、ララナのその行動は「弔い」ではなく、
「償い。私は、そのために、この地を訪れなければならなかったのです。亡くなったひとびとの思いに寄り添うような弔いなど、私がしてはならなかった……」
瞼を固く瞑って俯いた。「私が歓迎されるはずがございません。私に弔われることをよしとする方が存るとも思えません。わたくし……、私は、本当に、自分勝手で、オト様に対するときと同じです、無配慮で、無遠慮で、浅慮で、何も解っていない……」
静かな遺跡。
そこに、どれほどの怨念が漂っていることだろうか。
黙って聞いてくれるひとがいる。だから、ララナは誰にも渡せなかった言の葉を零せた。
弁当箱を潰さぬのも限界であった。
「私は、償わなくてはならないのです。調査を通じて、私の両親、血族、この国のひとびと、皆さんに、謝り続けなければなりません」
オトが、瓦礫の上に弁当箱と箸を置いた。
「顔を上げろ」
「……オト様──」
オトが前のめりにララナを見つめていた。
「俺は俺の考え方しかよう解らんが、最悪を想定したとしてもお前さんを怨んどるようなヤツはおらんかったと思うぞ。深い怨念は魂を地上に縛りつける。魂は地上を漂い悪霊と化する。だがどうだ、遺跡に悪霊は一人もおらん。襲撃してきた悪魔に対しての怨念はあってもいいと思うんやけどな、それすらなかった。これが何を意味するか、結論は一つだ。『襲撃に際して国民が一致団結し、滅びはしたが皆の願いが叶っていた』」
そんな状況があり得るのか。ララナには、検討がつかなかった。
オトが人差指を立てて、ララナに向けた。
「お前さんやよ。レフュラル裏国で唯一の生き残り、いや、実際にはもう一人、お前さんの妹を含めてその時点で二人が、生き延びた。それこそが、一致団結した国民の目的だ」
「そんな……」
当時赤子だった自分と妹黎水にそこまでの価値があったとはララナは到底思えない。勿論、ひとの命の価値が年齢や経験で決まるわけではないとは思っているが、しかし、事実として失われた国という容れ物とそこに住まうひとびとの価値が、姉妹と比較して果して同等ないし同等以下といえたのか。
オトの見方には、続きがあった。それは、突如のような指摘から始まる。
「一日、お前さんとずっと一緒におったが、やはりお前さんは排泄が必要ないんやね」
オトが察したのはずっと前、手を繋いで話した日のことだろう。ララナは隠し立てしない。
「生来と存じます」
「摂取したものを魔力に還元する魔法的体質に付随した特異性だ。俺もそう」
「オト様も……。いいえ、オト様、あのときお手洗に──」
「あれは真赤な噓。お前さんの体質を窺い知るためのね」
「そうでしたか」
ララナは全く気づかなかった。オトが同じ体質であることに驚いたが怒りはしない。オトが随分前から自分のことを知ろうとしてくれていたことが判ったのだから。
「妹はどうやったか知っとる」
「きちんと確認しておりませんので確たることは申せませんが、私が知る限りは、同じ体質と存じます」
「ふむ。排泄器官が閉じた状態で生まれ、魔法的に優れた体質を有する俺達みたいなもんはそう多くない。魔法大国レフュラル裏国においてそんな体質を持つお前さん達は至宝ともいえ、どうあっても守り抜こうとしたはずだ。ここからは完全な憶測になるが、それなりに高い等級の家に生まれたことも察するところだ。が、遺跡を観た限り貧富の差はない。建物の大きさは一定、堡塁の役割を担ったであろう外周の建物以外は壁の厚さも一定、床も道も同質の石材を使っとる。地位の上下が発生するとすれば単純に一つしか浮かばん」
「王家……」
「要するにお姫様やな。俺ん中ではだが、この憶測は相当に説得力がある」
オトがララナの頭のてっぺんから膝の先までを指差して、「レフュラル式の皮肉じゃなく、どこからどう観ても気品がある。育ての家系も影響したのかも知れんがもともとそういう家系に生まれてなかったら上辺にも馴染まへんかったと思うぞ。それに、心の声まで丁寧語のお前さんが一般家庭に生まれたと推することに無理がある」
「心の声は単なる癖です」
「癖は人格を映す鏡やと思うぞ。一応ほかの見方をすると、レフュラル裏国の民がよほど文化の成熟した人種の集まりやったか、お前さん個人が厳格な家庭に産まれたかどちらかだろうが」
「国民全員、と、いうのはさすがに考えにくいですね。口語に厳しい家庭というのは可能性としてはございますが記憶もないほど幼い頃のものが今現在の口語表現にまで影響する、と、考えるのはやはり無理がございましょう」
「お姫様やな。旧ダゼダダみたいな武家社会的低頭傾倒文化圏の狭い発想かも知れんが、俺はそう観るよ」
オトの好意的な見方に、ララナは心理が二分した。
「私は悦んでよいのですか。それとも……。国民方が一致団結して私と黎水ちゃんを助けてくれたことは、オト様のご高察の的中率から概ね正しいことでしょう。ですが、私達が大勢を足蹴にして生き延びたことこそが現実なのです。素直に悦んではならない気持が擡げます」
一つの落命にさえ長く苦しむ──。人命は、それほどに重い。二三年前のこの地で零れ落ちていった数えきれない命を、ララナは軽視できはしない。
「それでいいやろ」
と、オトが一言に纏めて、説明を付け加えた。「割りきれん気持なんてごまんとあるよ。いいことも悪いことも常に別別に起こるってわけやないし、いつも笑ってられんのもしようがない。やったら、どっちの気持も偽りのない本音として抱えて、時に泣いて、時が来たら笑えばいい。それが誠意やと思う」
零れ落ちた命への、そして、遺された命への、誠意。仏のような半眼に見据えられて、ララナは、弁当箱に掛けていた力を抜き取られた心地がした。
「今は休息の時間。気負うこともないよ」
「……はい」
涙は零れた。が、相反する気持が決して不純なものではないことを教えてもらい、ララナは気が晴れたのである。
「調査が終わったら、もう一度、今の気持で、皆さんを弔いたいと存じます」
「ああ。警戒は俺に任せて気が晴れるまでやれ」
「心強いです」
ララナはぱあっとと笑った。
ララナに元気が戻ったからか、オトが弁当箱と箸をさっと手に取った。
「さて、食うぞっ」
「はい、私もいただきますっ」
二人揃って両手を合わせ直し、夕食の続きと相成った。
進展のない調査であるが、ララナの中では何より実のある調査になっていた。二三年の人生の中で最も前向きになったかも知れない、と、思えるほど心が軽くなって──。
──一六章 終──