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一五章 影、愛、

 

 現職総理大臣火箸凌一が拘束された日の夜。オトと出掛ける先を探す傍ら、ララナは日課となっている報道の確認をした。火箸凌一の拘束はおろか一揆に参加した貧民の話題すら上っていなかった。報道規制と考えてその日は見送った。

 翌日の昼、報道各局が色めき立っていた。再生の暁を起動してテラノアの兵器からダゼダダを守ったのが一八歳の少年二室ヒイロだということを報道した結果であった。それ自体の話題性も大きかったが、世界三大産業の一つに挙げられる魅神産業総統の魅神(みかみ)(みなぎ)が再生の暁起動に関わったということと、魅神漲が一つの罪を告白したことが大きかった。魅神漲は言葉真国夫と共謀して防衛機構の技術をテラノアに流出させていたことを明かし、一方で、再生の暁の起動に尽力したことでダゼダダ・レフュラルの両国に免罪されたとも明かした。罪に問われなかったとは言え、平和に(あだ)()した道義的・社会的責任を取ってその日づけで総統の座を辞任した。これが大きな衝撃となってレフュラル表大国内に報ぜられたのは言うまでもない。魅神漲の告白に続いて、二室ヒイロが報道各局へ送った誓約書も明るみに出た。ダゼダダの現職国務大臣が署名して血判を捺した誓約書は貧民への正当な裁きと処遇改善を訴えたもので、当然のように火箸凌一の拘束や貧民の逮捕にまで話が及び、報道各局は貧民一揆の内部映像を始め摑んでいた情報をあれよあれよと言う間に開示した。

 反響はインターネット上ですぐに確認できた。ダゼダダ内外の世論が富民の不正を非難、現職国務大臣の誓約を支持し、不遇に不遇を強いられてきた貧民の一揆も止むなしと観て、貧民一揆に参加して逮捕された人人の減刑を訴える動きが早くも起きていた。さらには富民の不正を知りながら看過していた火箸凌一の弾劾をレフュラル表大国政府が警備府に要請、即日議会が火箸凌一の訴追案を議決、火箸凌一の罷免並びに訴追が事実上確定した。

 火箸凌一拘束の翌翌日。火箸凌一拘束、貧民の逮捕、テラノアの襲撃、それからテラノアの最終兵器──終末の咆哮──並びに再生の暁の起動という激動から二日後とあって、ララナは報道内容の変化が乏しくなったことを確認した。昨日は魅神漲の関与など大きな事実が判明して出掛ける場所の検索ができなかったので、本日はそちらに時間を割くことにした。ところが、希しく自宅の呼鈴が鳴ったかと思うと訪れたのはオトで、ララナの顔を見るや言うのである。

「出掛ける先だが、決まってないなら俺が決めていいか」

 ララナはオトが来てくれただけで舞い上がってしまったので、

「はい」

 と、思わずうなづいてしまったが、少し冷静になった。

「オト様、どちらかお越しになりたい場所がござりましたか」

「まあね」

 オトが場所を告げる。「今週の土曜と翌日の日曜に掛けて、お前さんの生まれ故郷レフュラル裏国へ行こう」

 ララナに断る理由はない。しかしながら、観光名所になっているのでもなく、現在は魔物が出入りする遺跡である。

「オト様、なぜレフュラル裏国へ」

「馴染のある場所のほうがいいやろ。まあ、記憶の上では馴染も何もないやろうけど」

「ええ、……」

「嫌か」

 と、尋ねるオトに、ララナは首を横に振って応えた。

「いいえ、愉しみです。オト様のお伴をさせていただけるのですから」

「なら決定。泊り(とま  )の用意しといて」

「はい」

 オトがさっさと自宅へ入っていくので、ララナは見送ってしまった。

 ……泊り。あ。

 オトの言っていた外出予定日は土日の二日間。つまり、最低一日は外泊する。それも、遺跡となっているレフュラル裏国での外泊。ホテルや旅館がないことを考えると、

 ……野営です。テントに、オト様と──。

 ぼーっとしている暇はないというより、顔から火が出るような想像を現実的思考で掻き消すほうが先だった。今日は火曜日。土曜まで日がない。急いで準備しなくてはならない。

 

 

 なんの苦労もなく、と、言うと語弊はある。が、一揆を起こした貧民のように搾取される側ではなく一度として衣食住に困難を感じたことがないまま一九年を生きてきた人間としては、父親が突如として罪を告白して地位を捨て去ってしまって、「己」の将来こそ暗澹としていると悲観するも止むなしであった。

 少女というほど幼くなく、女性というほど大人になりきれていない一九歳の「己」は、魅神(みかみ)早苗(さなえ)という名前を誇りに生きてきた。将来は父魅神漲から総統の座を継ぎ、魅神産業を背負うのだと考えて勉学に励み、誰にも後ろ指を指されないよう社交的に振る舞い、身形を小綺麗にして、誰にも慕われるよう歩んだ。両親のお蔭か祖父母のお蔭か容姿や健康に恵まれたことは幸いだが、それゆえに妬まれることも少なくはなく、負の感情達とも折合をつけながら歩んできた。

 魅神早苗は、怒っている。

 父にではない。言葉真国夫にでもない。父を罪の告白に導いてしまった二室ヒイロの行動にでもない。魅神早苗が最も将来を悲観したのは自分のことでありながらじつのところ半分は自分のことではないがため。

 ……総様……。

 未来の婿。の、予定だった。

 父の情報操作か、堤端総が逮捕されたことを知らずに魅神早苗はついさっきまで過ごしていた。自分の携帯端末でネットニュースを遡ってようやく堤端総逮捕の事実を窺い知り、矢も盾もたまらず学園を早退、聖産業に向かった。聖産業の次期社長であり学園の先輩に当たる聖瑠琉乃を訪ね、ダゼダダへの空間転移をお願いした。

 血相を変えて訪ねた魅神早苗を心配した聖瑠琉乃が事情を聞かず無償で転移装置を稼働してくれた。

 一二月八日、平日の水曜日である。学園は休みではない。学年首席という立場上欠席は控えるべき魅神早苗なのだが、そんなことは言っていられなかった。ネットニュースには、堤端総の逮捕に関連して彼の元親友と思われる人物がちらついたのである。

 魅神早苗が空間転移してやってきたのは緑茶荘前。こぢんまりとした二階建ての安アパートは、下流階級のひしめく地域にいくらでもありそうな外観。ここの一〇二号室に目的の人物がいる。かつては魅力的な好人物であったが現在は数数の犯罪の疑惑を向けられており、危険人物として警察組織にマークされている。

 ……竹神。それが、今の彼の名前。

 表札を見るまでもなくリサーチ済みではあった。堤端総の行動を調べるうち竹神音の存在がちらつき、もしかすると堤端総が竹神音の行動になんらかの関心を持っているのではないかと予想して、堤端総・竹神音両名を注視したことがあったためである。しかし、一年前の橘鈴音の事件以来目立った動きはなく、それまでに堤端総が竹神音と積極的接触をしなかったため、父の権限で張りつかせていた観察役を外さざるを得なかった。

 そのあとの、堤端総の逮捕である。

 ……やっぱり、無理にでもつけておくんだった。

 そんな後悔とともに、魅神早苗は一〇二号室の呼鈴を鳴らした。

 数秒経って扉が開き、少年時代とは見違えるような顔が現れた。

 ……これが、今の言葉真さん、いいえ、竹神さん。

「なんか失礼なこと考えとるやろ」

 言葉遣いでかつての竹神音と同一人物だと判断できた。

「変化が激しいとは思いましたわ」

「お前さんはなんも変わらへんね。美人で気品高くて食べられるものがあっても気に入らなければ棄てるような顔をしとる」

 昔にはなかった言葉の棘がある。

「失礼はどっちですの。あなたは……総様を見捨てて安穏としているじゃありませんか」

「随分遅い話題やな。父親の庇護の下にあって情報取得が遅れたか。総統候補としての能力に欠陥を感ずるな」

「……安い挑発には乗りませんわ」

 言うや、魅神早苗は右掌(みぎてのひら)で素早く彼の頰を打った。熱く湿ったダゼダダの空気に、乾いた音が鋭く──。

 竹神音が、叩かれたまま顔を動かさず、瞼を閉じた。

「らしくないんやない、暴力なんて」

「お嬢様は無感情に笑えと。それは性差による(ジェンダー)嫌がらせ(ハラスメント)ですわね。ワタクシだって怒るときは怒りますわ」

「総を見捨てたって話か。あれの流れは総が起こした行動に俺が乗った。逮捕されるような犯罪事実が認められんかったから解放されたんよ」

「言訳ですわ。少しでも友情を感じていたのなら総様と一緒に償おうとするはずです」

「どんな規則の()()()。俺にはそんな暑苦しい真似はできんし、お前さんの言い分も友情を押しつける嫌がらせ(ハラスメント)といえんくないやろ」

 瞼を開いた竹神音の言葉は鋭い。魅神早苗は滲む汗を拭って額に手を当てた。

「総様を裏切って犯罪に手を染め、あまつさえ同年や後輩、先輩方にまで迷惑を掛けて、トラウマを刻んで、いったい、何がしたかったのです」

「それを考えようともせん阿呆に教えてやる義理はないな。総統候補、頂等部学年首席なんて立場が話を引き出すためのツールになると思い上がっとるなら、幻滅だ」

「なんの努力もせず親の脛を齧って引き籠もっているあなたに何がわかるのです!」

 思わず大声をあげて魅神早苗は俯いた。「社会の中で懸命に生きてきた総様を裏切って、関わりを一人拒絶した癖に……」

「それしか言うことがないなら帰れ。耳を貸してやっただけでも感謝してほしいもんだ」

「総様を貶めたあなたに誰が感謝なんてするものですか」

 堤端総が竹神音を留置場から連れ出したのは更生を願っていたからだろうと魅神早苗は考えていた。どうだ。竹神音は昔のような優しい彼ではない。更生したふうは微塵もない。

 ……こんなひとのために、総様は罪を──。

 魅神早苗は竹神音をキッと睨みつけて立ち去ろうとしたが、背中から声が掛かる。

「総とは()ったん」

 魅神早苗は怒りのままにダゼダダに飛んできた。

「今からお会いしますわ。面会するにも向こうの都合がありますから、(広域警察に連絡を入れないと……)」

「そう。じゃ、勝手な思い込みで怒鳴りつけに来たわけか」

「思い込みなんかじゃ──」

「どっちでもいいけど、総はなんで許嫁のお前さんのことを考えてなかったんやろうな」

「!」

「もう会うこともないやろ。……お幸せに」

 ぱたん。

 魅神早苗は振り返る。竹神音の姿はなく、拒絶するような玄関扉があった。

 ……総様……。

 竹神音の言うことが正しいとは思いたくない。けれども、昔から彼の言葉は的を射ていた。

 ……ワタクシのことを、総様は考えていなかった、のか。

 それを確かめるためにも魅神早苗は道を急いだ。携帯端末で広域警察本部署に電話して堤端総との面会を取りつけると、日が落ちる前に面会室に入ることができた。

 アクリル板が仕切った空間の向こう側に現れた堤端総は、思いのほか明るい表情であった。

「総様……、訪ねるのが遅くなって申し訳ありませんでした」

「気にしなくていいよ。いろいろと重圧があるって知ってるし、早苗はレフュラルに住んでるんだからなかなか来れないことくらいは想定してた」

 微笑の彼は少し窶れた感もしたが、

「……大丈夫ですの」

「うん、……思ったより、ずっと平気だよ」

 留置場での生活に苦を感じている様子はない。

 竹神音の話が真実とは思いたくない。真相がいかなものか聞きたくない。だが魅神早苗は訊かなければならない。

「総様は彼のために罪を……。先程、会ってきましたが、更生しているとはとても」

「彼のこと、やはり君も考えていたか。君も彼のことが好きだったからな」

「えっ」

「──違ったのか」

「い、いいえ、……そんなときもありましたけど、……総様に伝えたことがないはずなので」

「君は隠し事ができないタイプだから判る。それに、彼には名状し難い魅力があった」

「今は違いますからね」

「解ってる。──ありがとう、早苗」

 微苦笑の堤端総が、「申し訳ない、こんなことになって……。ぼくは、君のことを考えてなかった。いや、ぼくの勝手でしか動けなかった。周りの人達のことまで考えて動けなかった。だから、……ごめん」

 頭を下げる堤端総。

 魅神早苗は、アクリル板に拳を押しつけ、俯いた。空気も、アクリル板も、冷たい。

「……悔しいですわ」

「え……」

「やっぱり、総様のこと、ワタクシより彼のほうがよく解っているみたいで、悔しいです」

「……、なんの話だい」

「彼が言っていましたの。ワタクシのことを考えていなかったから総様は罪を犯せたんじゃないかって。それは事実だったわけですわよね。だったら、努力不足じゃないですか……。総様の罪を止められなかった抑止力のなさはワタクシの努力不足じゃないですかっ!なのにワタクシは……それを棚に上げて彼を怒鳴りつけに行ってしまったのですわ……」

 魅神早苗は俯いたまま後悔を零した。

「そんなことが……」

 と、堤端総が呟く。次にはアクリル板に手をつき、「それは違う」

 分厚いアクリル板。熱など伝わらないはずなのに、ぬくもりを感じたようだった。

「早苗はよくやってくれてた。問題はぼくのほうにあったんだ。ぼくが無遠慮で、無配慮で、前後不覚で、……、ぼくこそ、努力を欠いてた。──君にこんなに想われてるのに、政略結婚の相手だと侮って、軽んじて、真剣に君のことを観ようとしてなかったんだ、いや、違う、それは言訳で、……。恐かったんだ、ぼくは」

 魅神早苗は、ぐしょぐしょに濡れた顔を上げて、同じように涙している彼を見つめた。

「傘下企業のたかが次期社長候補というだけで、ぼくが君のような立派な女性の婿になんてなれるのか……、ずっと恐かったんだ。悦び勇んで受け入れて役目を果たせなかったら、そう思うと恐くて、押し潰されそうで、君の想いを感じても受け止められなくて、余所見するしかなかったんだ……」

 その言葉を聞いて、別れ際の竹神音の皮肉めいた言葉が魅神早苗の脳裏を過った。

 ──お幸せに。

 堤端総のことを竹神音はよく知っている。魅神早苗の気持が届いていたことも──。

「総様っ……」

 魅神早苗は上擦った声で応えた。「父が総統の座を退きました」

「えっ。漲さんが、どうして」

「言葉真国夫と通じてテラノアに技術を流していたのですって。だからワタクシ、もう次期総統でも候補でもなくなりましたわ」

 それを、魅神早苗はそのまま自分の運命として受け入れるつもりがない。

「ワタクシ、自分の力で必ず魅神産業の総統になってみせます。そのときは、総様に支えていただきたいのですわ、いかがですか」

 魅神早苗の訴えに目を見開き、堤端総が呟くように、

「ぼくで、本当にいいのか……」

 自信なさげな目差に、魅神早苗は全力で応える。

「いいに決まってます。総様以外に、ワタクシに似合う男性がどこにいるのですか」

「早苗……っ」

 アクリル板の向こうの堤端総の手に力が入り、魅神早苗は手を握られている感じがした。

「総様……、待っていますからね!」

「……ああ、あぁ……待ってて、必ず、君に相応しい男になってみせるから!」

 アクリル板の妨げもなく、面会室は涙と愛に満ちた。

 面会時間が終りに近づき、魅神早苗は堤端総の前向きな言葉を聞いた。

「今日にも拘置所に送られることになってるんだ。そしたら本格的というのもおかしいが服役だ。まじめに勤め上げて出所したらヒイロと勉強しようと思う。それから、福祉の問題にでも取り組めたらと思ってるんだけど、どうだろう」

「ワタクシに異存はありませんわ。総様に支えてもらいたいですけど、やりたいことを邪魔したいわけじゃないですから。可能ならば支援させていただきますし、魅神産業の総統になる日が来たなら、それこそ支援を惜しみません」

「心強い。君は、やっぱり強いな」

「いえ、ワタクシだけでは強くなれません」

 魅神早苗はつくづく思う。「総様あってこそ強くなれる。それがワタクシ、魅神早苗です」

 微笑む魅神早苗に、堤端総が力強くうなづき返したのだった。

 道は険しい。これまでの人生に比べれば困難ばかりと言ってもいい。これに魅神早苗は立ち向かうことにした。彼の期待や自分の可能性を信じて。

 ……あなたは、どうします──。

 

 

 連日の猛暑。冬であることを完全に忘れた木曜日の夜。

 オトはダイニングのテレビを眺めていた。

(矮小にして愚劣。人間など碌なものではないな)

 元総理大臣火箸凌一の新たな犯罪事実が全国に報ぜられた。身代金要求犯罪をでっち上げ、犯罪被害者給付金を不正に高額で給付、共謀した富民と折半した火箸凌一は、そうして集めた資金を、攻撃兵器開発反対派を推進派に誘い込むための賄賂としたり、攻撃兵器開発に使ったとのことであった。

(見上げたところもある、か)

 それに憤りを示したのが、これまで沈黙を貫いてきたダゼダダきっての防衛機構開発所を有する五大旧家の一つ相末家であった。言葉真国夫や火箸凌一、元警備大臣此方充の犯罪事実と攻撃兵器開発のための暗躍を非難した上で、「この国の未来を潰す気か」と、遺憾の意を表したのである。報道各局が報じた貧民への処遇改善、そのための出資を始め富民への徹底した体質検査や政府内の正常化を相末家は積極的に支持・推進することを表明し、警備府は正式に相末家へ協力要請する運びとなった。

 

 

 未来は光を通さず真黒でインスタントコーヒのようだ。広域警察本部署で目を覚ました厳重取締班の穂咲稲穂はコーヒを飲んでそんなことを思った。

「穂咲、すまないが今日の監視もお前に任せる」

 厳重取締班の班長砂縁圭が穂咲稲穂のデスク脇に立って頭を下げたのは、誤認逮捕に際して竹神音を暴行したことを上層部に睨まれているために積極的な仕事ができない。同じ理由で、穂咲稲穂の同僚柴倉誠治も、竹神音の監視業務に長時間当たれない。現場にいて唯一暴行に関わっていなかった穂咲稲穂は万一のことがあっても取り乱さないと認められて、竹神音監視の任務を多く回されることになった。

「明日はわたしの番だから、ゆっくり休んでくれて構わない」

「班長、気にしないでくださいよ」

 と、穂咲稲穂は努めて明るく答えた。

 すると、柴倉誠治も穂咲稲穂のデスク前に立って頭を下げた。

「先輩、オレの分もすいません、お願いします!」

 砂縁圭も、柴倉誠治も、本当は竹神音の監視業務につきたい。竹神音を検挙したい。その思いで刑事になった者しか、ここにはいない。

「班長の気持も柴倉の気持も少しは解りますから、二人の分も悦んで監視してやりますよ」

 コーヒを飲みきって椅子から起ち上がった(た あ   )穂咲稲穂は、羽のような軽い足取りで署をあとにした。

 ……気楽なわけはないけどね。

 二人の気持を酌みたいことや竹神音を検挙したいという気持に、嘘はない。穂咲稲穂は竹神音の危険性を感じているから内心では警戒心を解いたりしない。

 ──いやぁ、参ったね。大丈夫、なんとかなるし、なんとかするよ。

 穂咲稲穂の父はそんなふうに明るく笑っていた。穂咲稲穂はその笑顔に救われて、広域警察の刑事になることを決めた。多くのひとが安心して暮らせる町にするために、竹神音の悪行をなんとしても白日の下に曝して治安改善に大きな一手を打ちたかった。一方で報道されているのは、現場で汗水流している刑事を嘲笑うかのような不正を行っている富民の存在。そちらが治安悪化の元凶ではないかと疑ってしまうほど悪質な行為だった。元国務大臣の一人が貧民を纏めて人生を懸けた暴挙に出たからこそ不正が明るみに出たが、ダゼダダ警備国家所管の治安維持組織たる広域警察がこれまで政府重鎮の不正を何一つ摑めず悪人どもを野放しにしていたことに穂咲稲穂は呆れ返っている。竹神音検挙のためだけに結成された厳重取締班に所属する穂咲稲穂でも責任を感じている。政府重鎮だろうと不正があれば緒引いて(しょぴ   )償わせたく思っている。全ては、皆の平穏と幸せのためだ。

 ……今日はここにしよう。

 緑茶荘東の十字路、塀の陰から竹神音の監視を始めた。屋内は見えないものの緑茶荘全体を見渡せるため大きな動きがあればすぐに駆けつけられる。気取られる危険性があるので監視をする場所は都度変えているが、緑茶荘と十字路を繋ぐ一直線上は最も観察しやすく効率的である。一箇月に一度か二度しか買物に行かない竹神音の生活パターンからして十字路を通ることは少ない。通る場合に追いやすいという利点もあってここは監視場所に適している。竹神音は五日前の一二月二日に聖羅欄納と買出しに出たばかりだが、穂咲稲穂は妙な勘が働いて、ここを選んだ。

 勘が当たった。

 ……竹神音──。

 緑茶荘を出た彼が東に向かった。距離を取って尾行するといつもの買物コースだった。地域安全マップにおいて数少ない安全地帯〈田創町第五商店街〉の中央アーケードを北寄に歩いてスーパーマーケット〈フクヤマ〉で何から作られたかも疑わしい激安の焼きそば麺を三袋買って帰途についた。その背を追った穂咲稲穂は、不意に父の背を思い出した。

 ──なんとか、したかったな──。

 そう言って、首吊り自殺した父の背を、思い出した。

 ……なんて、悲しい背中。

 五年前の父の背を、なぜ、竹神音の背に重ねてしまうのだろうか。片や懸命に働いた父、片や疑惑の竹神音、全く異なる人生を送っている二つの背が、なぜ、ダブる。

 ……助けたかったからだろうな。

 父の自殺を止められなかったことは、後悔でしかない。穂咲稲穂は睡眠薬を盛られていた。目覚めた穂咲稲穂の首には痕があったが、死んでいたのは、父と母だけだった。父の死を見届けた母が穂咲稲穂の首を絞め、しかし諦めて、自身を殺した。穂咲稲穂は、遺された。

 両親がいつそんなに追いつめられたのか定かではない。ただ、穂咲稲穂が記憶の片隅に観たのは両親がよく怪我をして帰ってきたこと。仕事やちょっとした買物から帰るたびに、怪我をしていた。穂咲稲穂が竹神音と同じ初等部に通っていたことがばれたからではないか。そう導き出したのは、田創町立第一魔法学園初等部の出ということで穂咲稲穂自身が白い目で見られた経験があった。両親の死の動機について確証はない。捉えようのない過去。穂咲稲穂に取っては推測のみに真実があった。

 ……お父さんと彼は、違う。

 無論母とだって。悪いことをせず懸命に働いてきた両親と悪の権化のような竹神音では比べ物にもならない。竹神音はただの悪人だ。

 気づけば、穂咲稲穂は中央アーケード西の路地裏に先回り、息を殺して、

「ッ!」

 歩道を歩く竹神音を引き摺り込んでその頰を渾身の拳で殴りつけていた。魔法を込めた一撃は竹神音の体を軽く吹き飛ばし、汚れた路地裏に叩きつけて起き上がることもさせなかった。

「あなたさえいなければ、多くの人が安心して暮らせる──」

 包装の破れた焼きそば麺が薄汚れた路地裏にぶちまけられていた。食べられそうもない食品を、倒れ込んだ竹神音が拾ってレジ袋に入れていく。

「もったいないことをするんやないよ」

「何で作られたかも知れないそんな粗末な食品すらあなたは口にする権利がない」

 竹神音の手を踏みつけ、焼きそば麺を蹴り飛ばし、続けて彼の腹を蹴って路地裏奥に叩き込む。威力が余って塀にぶつかった穂咲稲穂だが飽き足らず、竹神音を幾度となく蹴りつけ、通りから見えない袋小路に押し込んで肩を足蹴にした。

(とお)で神童云云かんぬんとは、よくいったものね、神童言葉真音。八年前はあなたがこんなになるだなんて思いもしなかったわ」

「古い呼び名やね。元ファンといったところか」

「……そうよ、ファンだった、憧れだった、その正義に感銘を受けもしたわよ」

 新聞やテレビに出ていた彼が、同じ学園にいた。誇りに感じた。

 幼い日の穂咲稲穂は、もういない。一発の弾丸を込めた拳銃、その安全装置を外した。

「あなたを殺したいと願っている人間がごまんといる」

 竹神音に拳銃を握らせ、引金(ひきがね)に指を掛けさせる。銃口は、穂咲稲穂に向けてある。

「他人を傷つけることをなんとも思ってないんでしょ。化物なら社会のルールは関係がない。なれるものなら自由になってみるといい。そのほうが傲慢な犯罪者らしくて大層ステキだわ」

「余裕がないみたいやね」

「黙れ。(あたしが突破口を開くんだ!)」

 竹神音の胸倉を摑んで穂咲稲穂は銃口を自分の胸に押しつけた。

 幾度となく攻撃を受けて竹神音が袋小路に追いつめられたことを現場が語ってくれる。この状況を認められて、引金を引くに十分な()()が発生したと後に見做せる──。死角の路地裏とは言え、通りに声が聞こえないわけではない。あとは、皆の聴覚に訴えるだけだ。

「さあ……、大人しくしなさい!」

 路地裏に響き渡る叫びが静まるか否か、穂咲稲穂の体が後ろに引かれて、崩れ落ちかけた竹神音を別の人間が締め上げた。

「穂咲、退け(ひ )

「は、班長っ──、柴倉も」

 穂咲稲穂が柴倉誠治に拘束・後退させられた間に砂縁圭が竹神音から銃を取り上げた。

 竹神音の首を締め上げながら砂縁圭が言う。

「口を噤んでここは退いてもらえるな」

「台無しなんやけど」

 竹神音の目線の先。砂縁圭の靴に怒りが宿り、焼きそば麺を()(にじ)った。

 合わせて柴倉誠治が静かに怒鳴る。

「警察舐めんな。あんたが正当に金を稼いでないことは調べがついてんだ。就職もしてない。ネットもない。引き籠もってる。それでできる仕事があるなら言ってみろよ!」

「柴倉、その辺にしておけ」

 砂縁圭が竹神音を睨んで、「わたし達は君を怨んでいることを隠さない。怨みを義心に変え必ず検挙すると決めているからだ」

「じゃあ、その銃を使えばいい」

 竹神音が悪意満面に微笑した。「指紋がついとる。穂咲やったっけ。その子の怪我も活用するといい」

 穂咲稲穂は言われて気づいた。頰に擦過傷。竹神音を蹴った反動で塀にぶつかったことを思い出す。興奮して痛みを感じていなかったが、そのときについた傷だろう。

「〔路地裏に連れ込まれた際に穂咲が塀にぶつかった。怯んだ隙に銃が奪われた。監視していた砂縁・柴倉両名が銃を奪い返して竹神音を拘束。〕こんなシナリオでどうにでもなるな」

「検察で自供を翻す気だろう。一年前のように」

 橘鈴音の事件で裁かれなかったのは、そういうことだと穂咲稲穂達は捉えていた。

「それもいいな」

 と、竹神音が認めるようなことを口にした。「暴力肯定の正義として最高の末路やな。暴走した義心に価値はないと皆のいい教材になる」

「何様だよッ!」

 柴倉誠治が竹神音に迫りかけたので穂咲稲穂がその腕を摑んで止めた。

「むやみに近づいては駄目よ、柴倉。ああやって煽って、こちらの隙を狙ってるんだわ」

「ああ、考えてもみんかった。ありがとう、勉強になった」

 グッ!

 砂縁圭が竹神音の首をちぎる勢いで絞めた。

「もう煽るな。こちらは人間だ、限界がある」

「ふうん。我慢せず逮捕すればいいのに」

 先程からずっとだが、竹神音は首を絞められていながら平然と話している。「そんなやから正義を完徹できんのやよ。半端者が勘違いするんやないよ」

「ッ……」

 砂縁圭が腕に魔力を込めて全力で竹神音の首を締め上げる。竹神音の首から血が噴き出し、辺りを染める。

 ……班長──。

 砂縁圭も、柴倉誠治も、穂咲稲穂の暴走を止めたのだ。それなのに竹神音を殺しては(!)

 ドッ!

 穂咲稲穂は竹神音を蹴り飛ばし、砂縁圭の手から強引に引き離した。薄汚れた地面に転がり込む竹神音。砂縁圭の腕は、勢い余って辺りに強風を巻き起こして、止まった。

「はぁ……はぁ……」

「班長……、もう、いいんです、ありがとうございます──」

 一番冷静でなかった穂咲稲穂が言えた立場ではないが、「冷静に、なりましょう……」

 穂咲稲穂の言葉を受けて、砂縁圭と柴倉誠治も竹神音を見下ろして、平静を取り戻した。

「悔しいですが、この人は、まだあたし達の前で罪を犯してない……」

 罪がなければ、捕まえられない。当り前のルール。

 イカスミでもなく真黒になった焼きそば麺は形を保てず地面に馴染んでいる。竹神音が元食品を観て、溜息とともに立ち上がった。首の怪我は見る見る治癒して血痕も消えていく。

「化物め……」

「改めて言う意味はあるん」

「……ないわ。ただ、聞きたいことが一つある」

 穂咲稲穂は、砂縁圭や柴倉誠治も持つ疑問を代表して口にする。「あなたが熱源体を食い止めたあの夜を、巷では〈奇跡の夜〉と呼んでる。宝石や流星に優って美しかった、と、みんながあの景色に感動した。あなたは、あの夜、何を思ってあんな行動をしたの。犯罪者であるはずのあなたが、みんなを助けるような行動を、どうして……」

 正義のためなのではないか。

 幼少期に大人を凌駕し、魔法の腕前にはケチのつけようがなかった竹神音。その力を他者のために用いる思考力と強い心があったように穂咲稲穂は思うのだ。誰もが絶望したであろう巨大熱源体を前にして、絶望せず立ち向かい、事実打ち勝った竹神音に、なんの正義もなかったとはどうしても思えない。

 ……皆の、いい教材。

 ひょっとすると、そのために悪を演じているのではないか。そんな気さえしてしまう。

「ここだけの話やよ」

 と、竹神音が半眼を空に向けた。「あれはどうしようもなかったからね。がつがつどんどん感情ぶつけられたら布目や針の穴くらいは可能性を残したくもなる」

 布目や針の穴──、穂咲稲穂は意味が解らなかったが、砂縁圭が深い息継ぎのあとに問う。

「聖羅欄納。彼女が、君を変えたということか」

「引籠りだって疲れるんよ。ストレス発散で熱源体を打ち消したんであってそこに高尚な意志なんかない」

 竹神音が薄汚れた麺とレジ袋を拾って、仄かに笑んだ。「消せない過去が如実に(もの)を語ります」

 ……──!

 怒りに震えていたはずの三人がその笑みに絆され、その丁寧な言葉遣いにぞくりとした。テレビ越しの彼の声に魅了された頃の記憶をも鮮明に思い出したのである。

「あなた達はこれまで通り、正義を体現する者として、素直にいきなさい。以上、ここだけの話にしてね」

 レジ袋を提げて立ち上がった竹神音の背を、時間が止まったかのように見送っていた。

 竹神音が立ち去ってしばらくしてから、穂咲稲穂達は十字路に移った。砂縁圭と柴倉誠治は穂咲稲穂の様子が少し変だと感じて、署からずっと様子を窺っていたとのことだった。

 ──穂咲の変化に気づけて幸いだった。

 とは、コーヒを届けた班長砂縁圭の言。土壇場で踏みとどまるだろうと思っていた砂縁圭と柴倉誠治は、穂咲稲穂が竹神音に拳銃を握らせた辺りから飛び出すタイミングを見計らっていた。それにより、穂咲稲穂の描いた竹神音検挙のシナリオは失敗が確定していたのだった。

 緑茶荘を三人で監視して、竹神音に思いを馳せる。

「……去り際は、明らかに昔の彼でしたね」

 穂咲稲穂の呟きに、砂縁圭、柴倉誠治がうなづいた。頭がくらくらするほどに、三人は感動している。極端にいえば、籠絡されたようだった。

「演技なんてことはないだろうか」

 と、砂縁圭が言うが、本心からの言葉ではないと解る。「彼は、わたし達の警戒心を削いで何かをしようとしているのでは」

「その可能性はあると思います。でも、それならあたし達をさっき殺したんじゃないですか。わざわざ注意を促すようなことを言って、監視を続行させるわけがないんです」

 神童。化物。どちらであっても殺人は容易いこと。証拠隠滅だってそうだろう。

「『素直にいきなさい』。懐かしいな、あの言葉」

 と、職務中では希しく砂縁圭が微笑した。「彼は昔もそう言っていたことがあったな。悪戯が過ぎた少年を矯正する企画だったか」

「あ、憶えてますか……」

 柴倉誠治が何やら恥ずかしげに笑って、「その少年……、じつはオレなんですよね」

「『マジ』」

 穂咲稲穂と砂縁圭は声が重なった。

「っはは……、オレ、落ち零れだったからみんなの気ぃ引きたくて悪戯ばっかしてて、両親にも友達にも余計見放されて──」

 柴倉誠治の更生を、穂咲稲穂と砂縁圭、それから多くの視聴者が観ていた。言葉真音に諭された柴倉誠治は寂しかった気持をみんなに打ち明けて、受け入れられた。言葉真音が出演した番組で有数の感動回として、言葉真音ファンの中では有名だった。

「──今や、正義の使者ですからね、オレ。なんか、ちょっと、泣けてくる……」

 当時のように号泣というわけではないが、涙を浮かべた柴倉誠治がコーヒを眺めた。「あいつがいなかったら、オレは、みんなに迷惑かけてばかりのクズヤローになってたと思います」

 だから余計に、柴倉誠治は竹神音の堕落に怒りを禁じ得なかった。穂咲稲穂と砂縁圭にも同じような感情がある。

「昔の彼をわたしは尊敬し、励んで明け暮れた」

 と、砂縁圭が切り出した。「力強い彼、優しい彼、賢い彼、笑顔の似合う彼。わたしが観ていた彼に少しでも近づけるよう、これからも、やっていこうと思う。それが育ててくれた両親への恩返しになると考えている」

「……」

 穂咲稲穂の両親は亡くなってしまったが、「あたしも同じです」と、賛同した。

「先輩の両親は、亡くなった、んですよね……」

「気を遣わなくていいわ。亡くなったけど、なんとなく胸の中で生きてるから大丈夫」

「なんとなくですか」

 はっきりいうと小恥ずかしいでしょ。とは言わないが、穂咲稲穂は語った。

「竹神音がいなければきっともっと長く生きられた。なんて言ってても始まらないんだって、さっき、ぶん殴られたみたいに気づいたわ」

 竹神音の態度のお蔭だ。

「施設で育ったことも悪くなかった。学園では友達もできなかったのに、施設に入ったら出身校を気にする器の小さい(ちみっちゃい)奴はいなかった」

 両親は生きていたほうが勿論よかったが、一方で、大切な仲間がどんなものか、両親が亡くなってから解ったのも確かだった。父の背を思い出して弱く幼い自分が唐突なように顔を出し竹神音を襲ってしまったが、仲間を瞼に思い浮かべ、今まさに目の前にいる仲間を見ると、憎悪に縛られた自分より仲間達を大切にする自分こそが追い求めた自分だと再確認できる。

「班長。柴倉」

 コーヒ片手に穂咲稲穂は微笑む。「暴走、止めてくれて……助かりました。二人のお蔭で、自分の過去を、踏み躙らなくて済みました」

 コーヒは依然黒く、その奥は覗くことができない。未来も等しく暗くて見通せないものだ。が、ずっと感じていた。揺れるコーヒは光り輝くことがあることも、香りの奥に落ちつく爽やかさがあることも。味わえばほんの少し苦い過去が覗いて、甘い現実をもさっぱりと見定めさせてくれる。

「班長。彼は橘鈴音さんを本当に殺したんでしょうか」

「凶器は提出されているが、彼の自白は当てにならない」

「調書見てても、どうにも白白しいというか、嘘くさいんですよね」

 柴倉誠治の意見に砂縁圭が(がえ)んずる。

「消息不明の三人の強姦犯人についても見つからず、解決していない。真相は、闇の中だな」

「それもまたオレ達が追やぁいいんじゃないですか」

 柴倉誠治の言葉が穂咲稲穂と砂縁圭を唸らせた。

「素直に、よね。前向きでいいわね」

「ああ。疑わしいなら疑い続けるだけだ」

「悪人に舐められてたら正義の名折れ。やってやりましょう、班長、先輩」

 うなづき合った三人はコーヒ片手に今日も化物を監視する。いつか憧れた彼に負けぬよう、追いつくよう、そして、乗り越えられるよう。

 

 

 外泊の予定が決まってからオトの家を訪ねる予定もなく、オトが訪ねてくることもなく、ララナはオトと関わってから初めて平穏に過ごしていたが、心が落ちつかなかった。

 オトを訪ねようと思えば訪ねることができたが、水曜日の午後、知人らしき女性がオトを訪ねて直接非難している様子だったため、ララナは足を運ばず耳を塞いでいた。「いったいなんの話をしていたのでしょう」。そう訊いてしまうのが関の山。みだりに罪を犯さないと伝えたオトとしては、仕事に(かこつ)けて穿鑿されるのは気分のいいものではないだろう。

 ……少し謙虚にならねばなりません。

 どうしても気になるなら泊りがけの二日間に訊けばいい。

 そう割りきってララナは外泊の準備を進めた。旅は慣れているので鞄一つにそれなりの支度をすることは難しくない。問題は、服装である。オトがララナの生まれ故郷を選んだことに深い意図があるのだとしたら、適切な恰好で臨むべきと考えたのである。

 ところが、外泊着について瑠琉乃に相談してみると、

〔女性らしい服装を心懸けるのがいいです

 よ。男女ペアの、謂わばデートでの外泊

 ですからね。〕

 ……そういうものなのですか。

 故郷は今や遺跡。固い話が付き纏うだろうことから、ララナはデートを想定しておらず上下フォーマルスーツを予定していた。

 既婚者の瑠琉乃の意見は参考になったが、オトとの外泊はデートと捉えてよいものか。エクレアの代金として話し足りなかったからお釣程度に外出しようという展開だったはずで、それならばある種の取引である。幾度と取引をする中で着ていたワンピースは許容範囲のように思えるが、固い話を見据えてスーツが適切であろう。

〔 オト様がデートとお考えか疑問です。

  仮に交渉事とお考えならば、スーツで

 臨むのが最適ではないでしょうか。〕

 と、ララナは改めて瑠琉乃に尋ねた。

 日が暮れて、着替を買い込むにも時間の余裕がない。

 瑠琉乃の返信がすぐにあった。

〔でしたら、どちらも持っていくのがいい

 でしょう。機先を制するのは諦めること

 になりますが、泊りのあと、つまり二日

 目にはオトさんがどんな心情であるかを

 概ね判断できているはずです。〕

〔 なるほど。オト様が交渉事とお考えな

 らスーツに、そうでなければカジュアル

 に着替えればよいのですね。〕

〔そういうことです。ところで、お姉様方

 はどちらにお泊りになるんですか。〕

〔 レフュラルで野営の予定です。〕

〔ボランティアがてら部族に間借りしてキ

 ャンプでもするんですか。〕

〔 そんなところです。〕

 ララナ誕生の地であるレフュラル裏国に行くとなると変な気を回させてしまいそうなので、ララナは「裏国」という呼称を伏せて話していた。

〔野営となると、テントが別別かどうかも

 問題になりませんか。

 ──。〕

 瑠琉乃の疑問にララナははっとした。野営はそういった問題があるのに、服装のことを考えているうちに忘れてしまっていた。

〔──。

 特に、着替えは同じ場所でするわけにも

 いきませんよね。お風呂の問題もありま

 すし、よくよく考えれば寝間着のチョイ

 スも大切では。寝間着は女性らしさを引

 き立てますが一方で悪目立ちすることも

 あるでしょう。似合うものが一番でしょ

 うが、背伸び・若作りをして隙のある女

 性を演ずる手もありますからね。それか

 らオトさんとの関係進度によってはあえ

 て普段と異なるエッセンスの服装やアク

 セサリでインパクトを与えることで奥行

 きのある女性を演出し、関心を深めさせ

 て最終的には関係も深めることもできま

 すから挑戦的である必要もありますね。〕

 一通のメールで次次言われて、ララナは頭がこんがらがりそうである。

〔 寝間着はネグリジェしか持っておりま

 せん。全耐障壁の浄化作用があるのでお

 風呂は入らなくても平気ですが、着替え

 る場所の確保は考えつきません。オト様

 をテントから追い出すわけにも参りませ

 ん。私が外で眠れば済みそうな話ですが

 不審がられてしまいそうですね。〕

〔野性的な女性が好きな男性もいるとは思

 いますが、お姉様のイメージからは掛け

 離れすぎてかなり不審ですね。部族の家

 は吹曝しが多いので頼れませんが──。〕

〔 改めて聞きたいのですが、私のイメー

 ジとはどのようなものでしょうか。

 ──。〕

 オトと年齢が近く既婚者でもある瑠琉乃の感性が、ララナに取っては頼みの綱であった。

 

 瑠琉乃と意見を交わして用意を進めて、いよいよ土曜日を迎えたララナは、お弁当をバスケットに入れて、お泊りセットをリュックに纏めて背負い、逸る(はや  )気持のまま、早朝、家を出た。早朝は早朝でも、日の長いダゼダダにあって星の出ている時間。周囲を砂漠に囲まれている中央県に、涼しい風が最も強く吹く時間帯であった。

 ……眠れませんでした。

 うきうきしすぎて横になることもできず、お弁当の準備をしていた。もとより眠らなくても平気な体。深呼吸して涼しい空気を満足いくまで取り入れ、オトと対面したとき妙な受け答えをしないよう落ちつくことに注力したララナである。

 が、

「早すぎ」

「ふぁ〜っ!」

 耳許で言われてララナは跳び上がって驚いてしまった。

「ふぁ〜って、なん」

 無表情のオトが背後に立っており、ララナは捲れ上がったワンピースの裾を押さえて呼吸を整えた。

「おはようございます」

「冷静を装っても冷や汗がすごいぞ」

「そんなことはございませんよ」

「高速のハンカチで証拠隠滅しとるやん」

 ララナはオトのツッコミを受けつつも、彼の恰好に安堵した。カジュアルだ。と、いっても黒基調のコーディネートはフォーマルな印象もある。

 ララナはいつものようなワンピースであるが、長袖を羽織ったセミフォーマルである。

「固くなりすぎず緩くなりすぎん服装で来たんやね。感心、感心」

 と、オトが好印象を口にした。「野営するって判っとるのに薄着で来たら帰すとこやった」

「そうでしたか」

「見聞の旅ってわけでもないが遊びオンリってわけでもないのは場所を考えればすぐ判るもんね。それでカジュアル、しかも薄着でなんて、遊ぶ気満満な証拠やもん」

「なるほど」

 ララナは瑠琉乃と長長協議して、お互いの意見を半半にしてこの恰好に落ちついた。

「それ、ニーハイか」

「薄手ではありますがタイツです」

「フォーマルは露出厳禁やから素足は論外としても、お前さんがタイツ。意外やな」

「レフュラル裏国遺跡は北半球の中緯度で今頃は冷えます。陽光を捉えて体を温めやすいように、また、準礼装の意味合も込みで全体的に黒色を選びましたが、いかがでしょうか」

 口にはしなかったがオトが好きな色でもある。

「目障りにならんし、いい判断やね。いろいろ安心した」

「と、仰ると」

「全耐障壁があるお前さんはともかく、万一普通の人間が居合せたときに薄着のお前さんを連れ歩いとるとなれば、俺は幼女誘拐疑惑で捕まってまうわ」

「私は成人ですから容疑はあり得ません。もし容疑が掛かっても私がしっかり弁明致しますからご安心ください」

「外見の問題やよ。お前さんは幼すぎる」

「んにゅっ」

 頭に軽いチョップを食らったララナはオトを見上げる。闇夜に融け込むような黒いシルエットが半眼を落としている。

「ほら、そういうとこ。身長の低い俺に対しても見上げる恰好になるし、サバ読んでも中等部がいいとこやろ」

「そうでしょうか……」

「ひとは外見に一生さえ左右されるんよ。事実を認めぇ」

 ララナは納得いかない気分であったが、オトの指摘が別のところへ及ぶ。「で、なんでバスケット。そこはかとなく、と、曖昧にしたいところだが、正直、アホなくらい違和感あるぞ」

「そうですか」

「真夏のビーチに湯たんぽ抱えてきた奴や真冬のゲレンデにアロハシャツで登場する奴とかおらんやろ」

「場に相応しくないと存じます」

「それと同じ。その服にバスケットってどこに行くつもりの恰好なんかよう判らん。おまけにリュックもね」

「……そ、そうでしょうか」

 四日間の準備期間で瑠琉乃に相談して服装こそ決まったがタイムスケジュールを誤って、バスケットやリュックの新調が間に合わなかった。

 ……粗が出てしまいました。

 手ぶらのオトが言って東の空を見やる。

「また、実用性重視ならいいんやない。お弁当は必要やろうし」

「はい、仰る通りです、必要なのです」

「違和感はあるけどね」

「左様ですね……」

 ことさら指摘されて恥ずかしくなってきたので、ララナは荷物を隣空間に移すか迷った。

「日が昇るな」

「あ……」

 ふっと上体を起こした輪郭は深い夢から目覚めて一つの波紋を描き世を白く照らしていく。夜が去り、新たな一日がこの町に訪れた。

 景色の妙を少しだけ眺めて、

「さ、行くぞ」

「──はい。参ります」

 レフュラル裏国へ向かうと決まった時点で、ララナはその行き方を心得ていた。レフュラル裏国遺跡がある大陸は一般的には海路で向かうが、それだと二日に収まらない。

 従って、ララナはオトの左手を取り、空間転移した。

 冬でありながら真夏のダゼダダに対してレフュラル裏国遺跡はまことの冬季。雪こそ降っていないが足許に霜が見える。砂漠の砂が風に運ばれるダゼダダ中央県とは土質も異なり、踏み締めた大地の感触がやや硬く、空気はさらっとしている。

「こちらはまだ夜でしたね」

「時差は七時間だったか」

 ダゼダダが早朝だったので、レフュラル裏国遺跡は前日の夜ということだ。

「ひとの気配はないな」

「近くには魔物もいないようです」

「とりあえず、テント張っとくか」

「はい、左様に致します」

 リュックに収まらなかったテントを、ララナは隣空間から取り出した。

「おぉ、もう組み立てられとるやん」

「グランドシートはあとで敷きます。このほうが早いですよね」

「ああ、楽でいい」

 梁の役割を果たす骨組(ほねぐみ)を微調整してペグ打ち。ララナがてきぱきとテントを設営すると、オトが疑問符。

「テント、二つあらへんの」

「あ」

「お前さん、しっかりしとんのか抜けとんのかホントよう判らんな」

 ……そうですよ、二つ用意すれば自然と別別に──。

 ララナは意図的にテントを一つにしたのではない。昔から一人旅で、同伴するとしてもラセラユナくらいで不足がなかった。バスケットやリュックを新調する時間があったら気づいていただろう。

 ……まさか、瑠琉乃ちゃんのお膳立て、なのでしょうか。

 振り返ってみると瑠琉乃が服装のことをしきりに話していた。ララナが不慣れなことに対して熱心にアドバイスするふりをしながらオトとの距離を縮めるための策としてテントを一つしか用意させないように時間を削って──、

 ……と、瑠琉乃ちゃんに責任転嫁するだなんて言語道断です。

 ララナがしっかり考えていなかったのが悪い。

「オト様はテントをお持ちですか」

「俺の肩書は」

「無職ですね」

「ついでに引籠りね」

 つまり持っていないと。ララナの建てたテントの中を覗いて、オトが腕組をした。

「実物を観るのは初めてやけど……、ふうん、この構造なら作れそうやな」

「魔法ですね」

 オトが魔法で服を作れることは知っている。「無駄遣いになってしまいませんか」

 と、どきどきしながらララナは尋ねた。もしオトが魔法の無駄遣いと判断したら同じテントで二日を過ごすことになる。嫌ではない。むしろ嬉しい。ゆえに、ララナは自分のはしたない考えをオトが打ち砕いてくれることを望んでいた。

 オトの応答は。

「女なんやから、結婚前にほかの男と二人になる状況は控えろって。俺は外で寝るからテントは持主(もちぬし)のお前さんが使えばいい」

 ララナはほっとした。反面、肩を落としたくなる気持も湧いてしまったのだった。

 ……全くの邪です。

 オトがテントから離れて、

「せっかく時短したんやし、荷物を置いて早速散策しよう」

「そうですね」

 テントにグランドシートを敷いてリュックとバスケットを置き、ララナも手ぶらになった。

 歩いていくオトの背を追って、ララナはレフュラル裏国遺跡へと入る。

 長きに亘って人人の生活を支えてきたであろう石造りの建造物は足許のみが遺り、寒天の星に照らされた青白い姿は亡き住人の無念を忍ばせ索漠としている。迷宮と窺える複雑な町並を垣間見るも、歩けば歩くほど同心円に建物を並べて構築されたことが判る。地を這うように進軍する人間の軍隊が相手ならば、町の外縁に位置した分厚い壁を有する家家や複雑な構造の町並によって進軍を遅らせ撃退が容易な構造といえる。ときの悪神総裁ジーンが侵略を指示した悪魔は、この町を空から攻めたに違いなかった。空からは時間を掛けず構造を把握でき、建物の外にいる民の動きを鳥瞰できただろう。

 ……もし、この国に──。

「いい魔力が溢れとるな」

「あ、はい、……」

 ララナは思考を中断して、「レフュラル裏国は魔法大国と呼ばれていたそうです。自然魔力の集まりやすい土地、いわゆる〈大地(だいち)(へそ)〉に築かれたのだと推察されます」

「閉鎖的やったから国外に歴史資料なんかが遺っとらんのやよな」

 都市がこのありさまであるから、資料の有無は言うまでもない。

「私の両親に関する情報も遺っていないのでしょう……」

「それは探してみんことにはなんともな」

 オトが淀みなく歩いている。明確な行先があるのか。

「オト様。もしかして、私の出自や両親についてお調べになりたいのですか」

「いや」

「即答ですね」

「だって違うもん」

 オトが歩みをそのままに言うのは、

「俺は、二日でお前さんに嫌われようと決めて来たからな」

 ララナは言葉を失った。

 オトの癪に障ることをしていたか。付き纏うように積極的に接したことが、独りでいたいというオトの考えを否定しているようだったからか。ララナの脳裏で、オトに対するこれまでの行為全てが一瞬のうちに駆け巡った。

 けれども、オトの意図するところはララナの推測とはやや違っていた。

「お前さんの好意は素直に悦んどくよ。普通、って、俺がいうのも変なんかも知れへんけど、一定の関係にある相手から好意を向けられれば嫌な気がしないってのは普通の反応やろ」

「……はい、仰る通りと存じます」

「お前さんがなんで俺なんかに積極的になるのかはよく解らん。お前さんは根っからの善人みたいやから、性善説的に俺をいい方向に解釈して好感をいだくような要素を抽出できたんかも知れん。だが、それはお前さんの認識であって俺のとは違う」

 夜風が吹き抜け、砂埃がかすか舞い上がった。

「早い話、お前さんはいい奴やから、俺よりもいい相手がごまんとおる。彼氏募集でも掛ければ引く手数多の引っ張りだこやろ。そんなお前さんが選りに選って災いの渦中におる俺なんかと。っふふ、あり得んね」

 振り返ったオトの無表情は、星明り(ほしあか  )に照らされてどこか愉しげである。

「日曜まで愉しんで、それで嫌われて終りにしたい。前も言ったが、独りがいい」

 その思いは決して変わらない。そう言うように、オトが再び背を向けて歩き出した。

 ララナは、その後ろをついていく。空間転移したときは繋いでいた手がいつの間にか離れていたように、気づいたときには、オトの手は離れている。

 ……私では、オト様には釣り合わないということですか。

「やから、それは違うって言っとるのに」

 と、オトが心に答えた。「どう聞いて卑下しとるん。言っとるやん、お前さんのほうが高嶺の花なんよ」

「左様なことは──」

「ある。と、」

 オトが脚を止めた。「ついたな」

「町の中央部ですね」

 見通しのいい通りがいくつか繋がった石畳(いしだたみ)の広場を観察して、そう判断することができる。建物があった頃は円形に空が切り取られた場所であったのだろうと想像こそすれ原形はない。約一七〇度の視野に広がる星空は美しいが、遺跡の中にあっては、そっと染まる。

「お前さんは、この土地で生まれた」

 その場に座って反り返るようにしてララナを見上げるオト。

「当時の事を思い出す術があるとしても今の俺にはできん。未来改変後にならやってもいいけど、まあ、そのときにはお前さんとは別の道を歩んどるやろうから思い出す必要もないな」

 ララナはオトの後ろに佇んだまま、オトの眼を視ていた。

「思うに、記憶にもないような幼い頃の体験ってのは、個人の主観や思考を大きく左右する。例えばお前さんは、大切な両親に守られ、死を免れ、生き延びることができた。例えば俺は、自己を押し殺すことで暴力的な父親から心身を守っていた」

 何気なく語られたオトの過去に、ララナは胸が詰まるようだった。

「オト様は──」

「ストップ。俺は俺が愉しむために来たんよ。お前さんのために来たんじゃない。代金は『お前さんと出掛けること』で支払われとるんやからね」

 オトが寝そべり、星を仰ぐ。「やから、お前さんは俺の話を聞くだけ聞いて質問やらなんやらをする権利はない。しても、応答はないと思って」

 仮に応答があったら、それをもって出掛ける時間が少なくなる。

 ララナは、「……はい」と、うなづいた。

「順応が早くていいな。育ち云云じゃない、お前さんは、記憶もないくらい小さいときに他者の話をよく聞くよう躾けられたんやろう。品格のある教育やとも思う。やから、俺とは違う高嶺の花だ。いつも高いところに存って、広く声を拾うことができる、広く観察することができる、光を浴び、光を返して、光を導くことすらできる。その身は枯れても大地を肥やし、実は新たな生命を育み、美しい花を咲かせる。高嶺の花は、常に高嶺の花だ。暗闇から生まれてヘドロに塗れて闇を見続け、光は当たろうとも足許ばかりに目が行ってしまう影のような存在とは真逆だ。影に優しさはない。広く聞く耳も、広く観る眼もない。光を浴びることも光を返し光を導くこともできない。あるのは、己の影に潜む闇とヘドロのような感情を敏感に嗅ぎ分ける穢れた指向性くらい。運命に幾多の分岐があったとして、光を当てられない影に選べる道は消去法的消極性の選択肢でしかない。影は影。天地が逆さになろうと0が1にはならないようなもの。影は光にはなれない。逆もしかり。影の視ている世界は光には見えない。己の光によって全てが搔き消されて跡形もなく立ち去ってしまった視界には、影の視る世界は欠片も残っていない。高嶺の花にできるのは、自らが光を求めず闇に落ちるか、光を求めて影を見捨てるか、選ぶだけ」

 抗議したいのではないが無策に意見を言えない現状。ララナは口を閉じてオトの言葉を聞くのみである。

「俺はそれでも、つくづく思うよ。闇に眼を慣らしてきてよかったって。こうして星を観るのは光の中で難しいことだ」

「……」

 ララナは隣に正座して、オトがそうしているように星を仰いだ。警備府前で仰いだ闇夜にもきっとあった空だ。

「綺麗ですね……」

「お前さんのほうがね」

「っ……恐縮です」

「誰もおらんなら、美しいものを美しいと感ずることができる」

 オトが瞼を閉じた。「静かでいい場所やな」

 ……虫の羽音や、風の流れる音の世界。

 自然界の奏でる不規則な、それでいて心落ちつかされる音色に星の煌めきが呼応しているよう。敏感なララナの耳にも、遺跡は静穏を保っている。

「お前さんは落ちつきがないように見えて、そのじつ物静かで穏やかで反抗的でなく、それでもって順応性が高くそのくせ自我が強くて己を貫くこともできて気品もある。褒めようと思えばいくらでも褒めることができる。そんな性格や気質は、これまでの認知の上にあるものも多いやろうけど、この土地のどっしりとした落ちつきをそのまま継承したようにも感ずるね」

「……そうですか」

「自分ではよく判らんことかもね。客観視は難しい。褒めすぎやって言われそうやけどあえて言おう。俺から観れば、お前さんは理想的な女性像の一典型やよ。信用に足るくらいだ」

「ありがとうございます……、でも──」

「ストップ。俺の認識が前提なので反論は受けつけません」

 いちいち反論されてはたまらないということだろうか。

 これまでになかった好意的なオトの見方に嬉しく思う反面、ララナは焦燥感が高まった。

 ……私は、やはり邪です。

「考えとるのはテントのことか」

「んぅっ」

「図星か」

「……ぅ、ご一緒しても、私は……」

 もらった一瞥に心臓が跳ねる。

 オトが再び星空に目を移し、

「いい場所やな。俺ですら、素直になれる気がする。──俺も、お前さんならよかった」

「っ、でしたら、」

「影同士なら同化できるんやけどね」

「……」

 オトは闇であり、影なのだ。

「魔法学でもそうやけどね、光と闇は対立する。聖なる力と死する力とでは相容れん。いかに極めようとも、いかに道理と真理を弁えようとも、立場と属性が変わるでもない。この世界はこんなに美しい。こんなに美しいのに、目にすることができる者には限りがある。そんな残酷な側面も、この世界は併せ持っとる。そして生者はあまりに脆く、残忍で、清らかにして醜い。ガラス細工みたいやな、一瞬の外圧で全てが終わる、壊れる。損なわれた姿が戻ることはない」

 制されていたからではなく、思いつかないがためにララナは返す言葉がなかった。オトの絶望をそのまま聞いたかのようで、息をするのも苦しく、また、考えることが虚しく感ずる。

 ……でも、考えなくては。

 全てと対するかのような孤独感。どんな人生を歩めばそんな絶望をいだくのか。否、どんな人物が彼を壊してしまったのか、だ。竹神音。悪因悪果と認めてきた現状を初めて自分以外の要素によって生じたものと示した彼の言葉は、口に出したくても出せなかった悲鳴のようにララナの胸に突き刺さったのである。

 ララナは瞼を閉じた。

 ララナの記憶にないレフュラル裏国での話をしたのは彼がくれたヒントであろう。要は、オトの人格を大きく変えてしまった外圧もとい人物は幼いころ既に傍にいたということだ。ララナが知る範囲で該当しそうな人物は三人。両親と、叔父に当たる言葉真国夫である。中でも、止めようと思っても手を出せなかった言葉真国夫や、男性に対する今現在の敵意を育んだであろう父親の存在は人生に暗い影を落としたに違いない。一方、母親に対する感謝や後ろめたさを感じている様子が観られることから、良心は母親が育んだと推察できる。

 

 暗い闇の中。かすかな光が射していたとしたら、どんな気持になるだろうか──。

 

 その感覚が、ララナの胸に落ちた。

 ひょっとすると、母の育んだ良心が彼に落ちた暗い影をより深めてしまったのではないか。良心は、他者と通じ合うために大きな役割を果たした。二室ヒイロを虐待から救ったこと、結崎桜を転落から助けたこと、やり方は間違っていたとしても不適格な教師を糾弾することで被害に遭った少女を救ったこと、鈴音の最期の願いを叶えたこと──。

 良心が、彼を追いつめた。

 善行が相反する深い影に傾倒して、己が純然たる善たり得ぬことを知り、知り、知り……、終いには、愛する人を手に掛けてしまった。そうして、彼は完全に闇となってしまった。鈴音を死へと追いつめた不良を残虐な手段で殺め、善たり得る者を保護するためにはときとして己の手を汚しても構わないと考えるようになってしまった。けれども、そこでも、良心が彼を苦しめた。

 ……ご自分の行為が悪たり得ると熟知し、己を善人から遠ざけることをお考えになった。

 オトは、そうやって生きてきたのではないか。

 だからこそ、あらゆる悪がのさばることを許せない。悪因悪果がそれを為す者以外に及ぶことを許さない。その中で自身が善として認識されることを嫌うことは国務大臣の誓約書を二室ヒイロに預けたことからも判るが、その真意は、己が悪であることをオト自身が最も強く感じているからなのだ。かすかな良心が、オトの善意を否定する。かすかな良心が、オトの悪行を許さない。ゆえに、オトは、ここまで壊れてしまった。

 そういう意味で、オトを壊したのは母親であると言えよう──。

 瞼を開いたララナは、立ち上がっていたオトを見上げる。

「オト様は──」

「歩こう」

「……。はい」

 考えていることは、オトに伝わっている。そう捉えて、ララナはオトについて歩いた。

 思考が時を費やしたか。星が五度ほど動いていた。

「寒くない」

「全耐障壁がございますので私は平気です」

「そうやったね。ちょっと昔を思い出す」

「どのようなことか、伺ってもよろしいですか」

「取引内になってもいいん」

「あ……」

「冗談。別に大した話やないから与えた時間を削るつもりはないよ」

 いくつもの曲り角を抜けて、遺跡西部へ向かう。

「小さいときお母さんに連れられて買物とか行っとったんやけどさ、ダゼダダやと冬の夜なんかは存外冷え込んで冷たい風がここみたいに鳴っとったなぁ、って」

 建物の足許や隙間、ぽつぽつと根づいた草の合間、それらを吹き抜ける寒風がぴゅうぴゅうと鋭い音を立てている。

「ここが栄えた頃は違う風が巡っとったんやろうけどね。たった二三年、されど二三年。些細な境の前後で景色も空気も風も変わって、俺達は認識を異にした」

「私も記憶していないのですが……」

「どことなく違和感はあるんやない」

 言われてみればそうかも知れない、と、いう不確かなものでしかないが、

「……もっと、肌で感じたように、思います」

 レフュラル裏国が滅ぶ前の記憶がないのだから言い表しようがない。ただ、肌が風の冷たさを、耳が風の音を、目が景色を、それぞれ捉えて、ここにあったかつてのそれらとは違うのだと訴えているよう。

「風はもっと穏やかで、温かくて、空はもっと白かったような気が致します」

「赤子の目線からは、建物が高かったやろう。風はひとびとのぬくもりを乗せ、生活を帯びてゆったりと(うた)う」

「素的ですね……。思い做しか左様に存じます」

 何もかもが優しくて、穏やかで、過去そうであったようにずっとそれが続くのだ、と、赤子なりに信じていたのかも知れない。

「レフュラル表大国なんかでいうと、こっちのほうにはスラム街があるね」

「はい、西区、貧民街がございます」

「ここを見る限りでは……」

「レフュラル裏国には、貧民街の様子はございませんね」

 平皿のような土地に長方形の石材を敷きつめたレフュラル裏国。建物が崩れ去って遺跡と化しているものの、どこを歩いても貧富の差を捉えることはない。

 レフュラル表大国と比較的土地が近く名前も似通うことから類似点を探るが、レフュラル裏国の起源は定かでなく似た要素は存外ない。レフュラル表大国と滅亡する前のレフュラル裏国に関係があったかも判然としていない。

「よほど治世がよかったんやろうな。鎖国状態やったとは思えんくらい、それぞれが心豊かに暮らしとった証拠やと思うわ」

「そうですね。(そのような国に、──)」

「っと」

「んっ」

 曲り角を抜けた先の地面が抉れて数メートルはあろうかという穴になっていた。オトがそれを跳び越えたのに対して、考え事をしていたララナはありもしない地面を踏み締めんとしていた。オトが間一髪ララナの手を引いて穴への落下を防いだが、

「のぅっ」

 オトが、身代りのように穴に落っこちてしまった。

 縦長の穴の中で後頭部を摩るオトに、ララナは手を伸ばす。

「申し訳ございません!ご無事ですか」

「平気、平気。ちょっと頭打っただけやし」

 平気でもないだろう。

「摑まってください」

「いや、いい。ちょっと離れて」

「……はい」

 ララナはオトの跳躍力を忘れていた。ララナが穴から少し離れると、ぴょんと穴から出てきたオトであった。

「ほぉ、びっくりした」

 と、無表情で言われても伝わってこないが。

 ララナはオトの後頭部を診る。

「血が出ております。治癒魔法を──」

「要らん」

「……」

 さっさと歩いていってしまうオトに、ララナはついていく。そうこうするうちにオトの傷は消えてしまったから、治癒魔法は無駄遣いになるということだった。

 舗装された石畳は襲撃のせいか風化のせいか荒れている。オトがそれとなく左右に軌道修正して荒れた道を躱し、後ろを歩くララナを誘導している。

 ……オト様は、本当はとてもお優しい方なのです。

 穴に落ちそうになったララナをとっさに助けることも、性根が腐っていたらできはしない。

 オトはララナに嫌われるつもりで来たと言ったが、

 ……私は、もっと、もっと……──。

 切ないほどに、苦しいほどに。彼の背中に孤独とともに感ずるは。

 

 

 

──一五章 終──

 

 

 

 

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