一三章 未だ及ばず
この世界のあらゆるモノは自然界に漂う魔力の性質を受けて物理的な法則を生み出し生命の営みを繰り返している。例えば、水属性の魔力が海や雨雲を作る原動力であるなら、木属性の魔力は樹木の育つ根源的な力であり、陽属性の魔力は水の蒸発や植物の生育を促している。育った樹木から炭を作るとき、火を熾す原動力となっているのは炎属性の魔力であり、風属性の魔力は火の勢いを整えてよりよい炭を作ることに欠かせない。そのようにして魔力はさまざまに関係し合って、自然の片隅に住まう人間の生活に浸透している。水属性や木属性の魔力が不足すればたちまち不作となり、風属性や陽属性の魔力が偏って存在すれば気温の上昇や暴風に曝され、自然環境が破壊されて、多くの生き物の生活が立ち行かなくなる。
闇夜の下、世界に満ちた自然魔力のバランスが崩れたことを察して、オトが無属性魔力を手許に戻し、もとの属性にして世界に還した。そのさまは、上級魔法を使うだけ使って自然への配慮を欠く数多の魔術師とは格が違った。といえども、空気に宿る魔力、水に宿る魔力、草木に宿る魔力、土に宿る魔力、それぞれの魔力含有量を把握してその通りに返還することはどんなに優れた魔術師にも困難なこと。じつのところララナも強大な魔法を使わないとやらないことで、その技術は完璧とはいえない。ところがオトのそれはララナの解る範囲で穴が見当たらなかった。整然と、まるでそれが自然なことのようにあるべき場所に魔力が戻っていく──。ララナは彼の左手を両手で握って、その光景に見蕩れた。淡く光る綿毛が風に攫われるようで、あたかも旅立つようで。
魔力の返還現象が感ぜられなくなるとオトが東南東を向いて膝をつき、ララナの手を包むようにして両手を合わせた。何を意味するか判らなかったララナも倣って両手を合わせ、瞼を閉じた。祈りにも似た姿勢は、オトの体温のお蔭か心が落ちついた。
「これで終り。さ、帰ろっと」
何事もなかったかのようにオトが自分の部屋に戻っていく。緑茶荘の天井から降りる際オトに抱えられたララナは、そのまま彼の部屋に連れ込まれていた。
「あ、あの──」
「ああ、時間が時間やし帰るか」
「いいえっ、……申し訳ございません」
強めな声を発してしまったララナは反射的に叱られると思い、頭を下げてびくびくとした。
「ちょっと話すか」
と、オトが穏やかなままララナを下ろし、奥へと連れていく。オトの掌に滲んだ自分の汗に羞恥しつつ、ララナは彼の背中を見つめて歩いた。
テーブル席に案内されたララナは座って間もなくオトの手を放すことに躊躇いがあったが、手汗の著しい自分に羞恥せず済むことには安堵した。
いつものように正面の席についたオトが右手で頰杖をついて、
「お前さん、やっぱり汗っかきやな」
「開口一番がそれなのですねっ」
「いやさ、前から気になっとって。昔は俺もそうやったような気がするが」
「そうだったのですか」
「俺の分もお前さんが汗をかいてくれとると思うことにするか」
「なぜだか恥ずかしいです……」
「いいやん。汗をかいて、血を流す。生きとる、って、そういうことやろ」
「──そうですね。はい、仰る通りです」
オトが汗をかかないのは体を長く動かしていなかったせいか。魔法学的観点だと体内を巡る水属性魔力が不足しているともいえるだろうが、オトが完全に魔力を潜めているためその辺りは判断ができない。一方のララナだが、汗をかいているのはオトに触れているときくらいであるから体の再生がオトに触れるたびに進んでいると都合よく解釈することもできる。そうであるなら、オトの新陳代謝も触れるたびによくなったりしないかとララナは意味不明な理屈を組み立てて自分に都合よく考えてみたりする。
「私と触れ合えばオト様もきっとすぐに汗っかきに戻られますよ」
「それはなんか嫌や」
「よいではございませんか。一緒に汗っかきになりましょう」
「両拳を握って期待満面に言いおって。時代錯誤なスポ根みたいで暑苦しいな」
「すぽこん……。そうですか」
「意味わかってないみたいやけどそうだ。生理的作用なんぞ汗に限らず俺は要らん。多汗症には思わぬ病が隠れとることもあるから悦ばしいと一概に言えんしな」
オトが生に少し前向きになっているような気がして嬉しかったララナである。が、汗のことに続いて、ふと先程のことを思い出して赤面した。
「あ、あの、先程は失礼致しました。抱きついたりしてしまって……」
「お蔭で汗べっしょり」
「申し訳ございません……!」
「冗談よ。あのときはそんなにかいてなかったみたいやし」
「でも付着してしまったのでは」
「異物のような扱いやな」
オトが半眼を閉じ、「別に気にしとらんよ。いい匂いするし」
「いい匂いですか。オト様は汗くさいのがお好みでいらっしゃる」
「変な趣味を付与するな。違うよ……。久しぶりに、女の匂いを嗅いだってことだ。男にしか解らんかもな、こういうのは」
「あ……、いいえ、解らなくもございません」
必死すぎて意識していなかったものの、先程オトに抱きついていたときララナは確かに彼の匂いを嗅ぎ取っていた。思い出すだけで体が熱くなるような魅力的な香りだった。
……ど、どきどきしますね。
「思い出し赤面はさすがにキモいぞ」
「っ、も、申し訳ございません」
オトが半眼を開き、
「口許に含み笑いが残っとるが。まあ、別に謝ることでもないんやない。男としてむしろありがたがるべきかも知れんし」
オトが頰杖をやめて、ララナを見つめた。「さて、堤防で別れたあとから今さっきまでに起きたことだが、どっから話すか」
話題が逸れてララナは冷静になった。
「その前に一つ。大丈夫なのですか」
「終末の咆哮のことか」
そう。兵器であるなら何度でも使える可能性が高い。終末の咆哮の熱源体を再生の暁とオトの魔法で一度は打ち消すことに成功したが、安心してよいものか。先程は切羽つまっていて言及の余裕がなかったが、終末の咆哮が魔導機構に似た兵器なら、使用条件も魔導機構と近いだろう。魔導機構は精霊結晶と使用者の精神力及び魔力があれば確実に稼働する。終末の咆哮はどうだろうか。記憶の砂漠を有するオトだからこそ判るであろうことを、ララナは尋ねる。
「終末の咆哮は魔導とは似て非なるものとのことですが、どのような使用条件があるのでしょうか」
「安心していいよ。つぎ来るとしたら年単位であとのことやから」
「インターバルがあるのですね」
「インターバル──、そうやな、そういうこともできる」
引っかかる言い方をしたオトが説明した。
「圧倒的な破壊力を有する終末の咆哮には欠点が二つある」
「二つの欠点。と、仰ると」
「一つ目。あれは、人命を奪って放たれる」
「!……と、いうことはあの一撃は──」
「左様。実際のところは魔法力に優れん人間を集めて、蒸気機関車の石炭のように消費するわけだ。それでも、肉体・霊体・魂器を構成する魔力や霊素は一流の魔術師を軽く上回る量になる」
霊素とは、魔法を使うのにも用いられる精神力のことである。その霊素のみならず終末の咆哮は肉体・霊体・魂器まで消費する。要するに、終末の咆哮は、人間を形作っている全てのものを魔力と精神力として使用・消費する危険な兵器だということだ。
理屈を聞くとララナは逆算できてしまう。
「オト様の魔法は最終的に五二〇〇乃至五三〇〇人分の魔力総量でした……、無属性を用いて辛うじて相殺したことを踏まえますと、終末の咆哮は最低一万人もの人間を犠牲に……!」
オトが両手を合わせたのは、テラノア軍事国の方角。あれは、黙祷であった。
……──。
ララナは、改めて両手を合わせて瞼を閉じ、哀悼の誠を捧げた。
魂に干渉できるのは創造神アースに創られた裁者を含めてごく一部の存在だとされている。瞼を開けたララナにオトが話す。
「驚くこともない。魂の扱いなら、俺やお前さんにもできる。そりゃそうやよな、創造神アースの転生体なんやから」
「ですが、私達を加えても現存する魂の干渉者はたったの四人です」
ララナとオト、ララナの義兄アデル、一二英雄リーダの一長命、この四人だ。先の戦争の主謀ジーンを含めてもたったの五人しか魂には干渉できないはずであった。ところが、オトの話では終末の咆哮は人間消費──魂への干渉行為──を可能としている。それは異常なことではないか。
「要するに、終末の咆哮の製造には魂の干渉者が関与しとるってことやよ」
「古代遺産というほどですから、古代文明の遺跡から発掘されたのですか」
「奇遇なことに、と、いうと不謹慎かも知れんが、お前さんの出身地やよ」
……レフュラル裏国ですか。
ララナは思わず目を丸くした。「全く存じませんでした」
「そりゃ三大国戦争以前に発見された古文書に、〔およそ五〇〇年前にテラノアが略奪・所有した。〕なんて書かれとるような代物やからな。たぶん誰もその製造年月日を知らんし、レフュラル裏国におった民、お前さんのじつの両親もその経過を知らんかった可能性が高いぞ」
「可能性……。オト様は私の両親の記憶を拾っていらっしゃらないのですか」
「それについては言ったやん。お前さんの過去、つまり俺の未来に関わってまうかも知れんことをわざわざ拾おうとすると現在をねじ曲げる危険性があるって」
「過去・現在・未来の連続性保持。そうでしたね……」
本音を言えば、ララナはじつの両親について知りたいことが山程あるが、オトにそれを尋ねるのはまずいのである。
「と、理屈を言ってはみたが」
オトが加える。「以前、文献の次に記憶の砂粒を古いもんから探ってみたことがあって、お前さんの両親らしき人物の記憶には接触しとらんってだけのことなんよ」
「私の両親が直接的にも間接的にも終末の咆哮と関係していなかったからですね」
「そ。ただ、俺の持つ記憶の砂漠はまさしく砂漠なんよ。膨大な量はもとより、本人でも忘れとるような記憶を拾い上げるのは困難だ」
「私の両親や関わりのある人物が、記憶喪失を起こしていたり、記憶操作などを受けていたりした場合などに限っては、本人がそれをそれと認識していないために、記憶の砂漠をもってしても探れないのですね」
「同年代に生きた人物の記憶も探っといたが終末の咆哮を直接認識しとる人物はおらんかったから、知っとる可能性は極めて低いというほかないな」
オトが両手で顎を支えて肘をつき、こうも続ける。
「問題は、人物の記憶はともかく、終末の咆哮自体の記憶が事実上掘り起こせんことだ」
「あ……」
そうであった。記憶の砂漠は生物の記憶にとどまらず、物に宿る記憶も辿ることができるのである。
「物の記憶については非常に、こう、なんというか、分数みたいに難しくてわけ解らん」
と、オトが深深と溜息をついた。
「分数、難しいですか」
「……喩えが悪かった。馬鹿みたいに難しい数式を列記したみたいな記憶なんよ」
……オト様、分数のレベルでつまづいていらっしゃったのですね。
ララナはツッコまずに微笑んだ。なんでもそつなくこなす印象だった彼の不完全性が垣間見えてほっとしたのと同時に、なぜだか──。
「そんなにおかしかったん」
「癒やされたようで、つい綻んでしまいました。お話の続きを伺いたいです」
「じゃあ話そう。基本、物には眼がなく映像の記憶がないからあまりに客観的で摑みどころがなくて理解もしにくいわけ。あえて言えば算数は昔から嫌いやったから、ホントあかんのよ」
「理解できる記憶が一つもござりませんでしたか」
「あったけど容量が少ないうえ文献の裏づけ程度に収まって進歩がなかったんよ。必死こいて寝ずに解読したのにアホみたいやったわ」
テーブルを這う視線に疲れが顕れている。記憶の砂漠は膨大な知識や経験を与えたが、分野ごとの吸収率はもともとのオトの能力に左右されるようだった。
「お前さんは計算得意やろ」
「人並と存じますが」
「できることなら記憶の砂漠の解読をお願いしたいところだが、どうやら記憶の砂漠へのアクセスは俺にしかできんらしくてな、頼もうにも頼めん」
「解読を他者に依頼したことがおありなのですね」
「一流の魔導研究家や数学者、考古学者なんかにな」
オトには自分の持つ記憶を追体験させる魔法がある。その魔法によって他者による解読を試みたのである。が、
「答はみんな一緒、『何も見えませんでした』。記憶の砂漠に関わることは俺の記憶を経由しても見せられへんらしい。二度までは偶然と思えたが、三度に偶然はあり得ん。おまけに紙に書き起こすことができんし、俺にはあの情報を口述で表現するのは無理と……はぁ」
「困り果てますね」
創造神アースの魂を分ち合った自分ならオトの持つ記憶の砂漠を見られるのではないか。ララナはそう考えて、「私にも試していただけませんか」と、記憶の追体験を申し出ると、オトが快諾、早速試した。
「──どう。見えた」
オトの掌を額に当ててもらった恰好でララナは小首を傾げた。鈴音殺害時の様子と打って変わって何も見えなかった。残念だが、
「数字の一つも見えませんでした……」
「同じ魂を持つお前さんならもしかしたらと思ったが、そうか、」
前のめりでいたオトが、背凭れに上体を預けた。「せめて生物の記憶ならよかったが」
終末の咆哮についてはインターバルがあって現状危険がないということで纏まったので、起源には大いなる疑問が残るものの追究が今である必要はない。
「じゃ、改めて。まずは警備府での出来事をざっと話そう。──」
終末の咆哮に纏わる事柄よりオトの興味を引かない話だからか、終わったことだからか、警備府での貧民と政治家の動きは要約されていた。
ララナが広域警察本部署に空間転移するとオトは列の最後尾について貧民の様子を窺った。哨兵を数で押し退けて警備府へ乗り込んだ貧民は、一部がロビに座り込んで処遇改善を訴える抗議のプラカードを掲げ、一部が銃を担いで会議室に乗り込んだ。燈のついた警備府内。貧民の銃器のほとんどが精巧に造られた偽物であることを認めたオトは、会議室に乗り込んだ一団の後方で状況を見守った。先頭に立っていた貧民代表の男性はなんと前政権の大臣経験者で現在は貧民支援のボランティアをする一富民であった。そんな彼の手には本物の銃が握られており、貧民の苦境を訴えるとともに一発の銃弾を威嚇発砲した。それは謂わば貧民の怒りであり理性そのものでもあった。人を殺しかねず、しかしそれをせず一線を越えぬよう怺えている。その象徴だった。貧民代表者の威嚇発砲直後、広域警察の警察官が警備府に次次集結、ロビに陣取る貧民を確保しつつ、会議室に押しかけた貧民に迫った。そのとき動いたのが総理大臣火箸凌一。警察官が貧民代表者から取り上げた銃を奪って現職大臣を撃とうとした。弾は残っていなかったため銃で現職大臣を殴打して口を開いた。「大臣が攻撃を受けた。その貧民を余さず射殺せよ」と。警察官に動揺が走り、貧民に怒りの形相が顕れたその瞬間、後方にいたオトが動いた。
「──。メモ帳とボールペンを携えた記者に扮して、俺は前に出た。で、火箸凌一の行動を糾弾する、とね」
「それに対して総理大臣火箸凌一はなんと」
「最初は強気やったよ。そりゃそうだ。万一記者が乗り込んでこようと金で解決するか政府から圧力を掛けるつもりやったんやから。案の定そんな提案を持ちかけた火箸凌一だが、貧民代表者は胸ポケットに密かに携帯端末を仕込んでリアルタイムの動画放送を流しとった。俺はそれを承知で出ていったが、火箸凌一のほうはボロを出しまくった。無論、火箸凌一がそうできたのは政府の通信機器以外、外部との通信を妨害する通信機能抑止装置が警備府内にあったからなんやけど、警備府内の通信機器ごと装置が壊れるよう俺が時限式魔法を地下に仕込んどいた、お前さんに氷魔法を放ったときにね」
「あら……」
時限式魔法というのは言葉通り、一定の時間が経ったら効果を及ぼす魔法である。あの魔法にそんな意図があったとは。
「広警本部が襲撃された時点で警備府への指示要請を出すやろうと考えて、テラノア兵団の奇襲が起こるタイミングで壊れるようにもしておいた。幸いにして奇襲時刻は分単位で予測がついたし、そうすることで警備府の異常事態を公的機関に知らせることができる。お前さんも考えたやろ、貧民一揆についての調書が作成されるって。訴追はまだできんやろうけど、空気が盛り上がって広警は火箸凌一を拘束したし、ひとまず、めでたし、めでたしだ」
一切の無駄がない。オトは最初から貧民一揆に広域警察を介入させる予定だったのだ。
「通信機器破壊を器物損壊とはいわれんやろ。でかい犯罪が目の前にあったんやし、その犯罪の主謀者があれこれ理由をつけて事を有利に運ぶため仕掛けた代物なんやから、むしろ感謝状がほしいところだ」
「世界魔術師団からならいざ知らず、政府のトップを拘束に追いやったのですから広域警察からの感謝状は望めませんね」
「面子丸潰れやしな。最初からそんなもん目当じゃないし、通信機器破壊の証拠は隠滅済み」
オトが警備府に乗り込んだ理由は、火箸凌一や貧民が拘束・逮捕されて、場が静まり返ったあとにあった。
「現職大臣達に事態の根源の糾弾を訴えてみた。これがその文書」
オトがテーブルに置いたのは一枚の誓約書。「現職大臣の署名と対応する各人の血判だ。内容は見ての通り」
「今回の〔貧民一揆に対する厳正な処罰〕と、今後の〔処遇適正化〕を……」
「水面下でポスト火箸を狙う政治家は多い。此方充の前例もあることやし、火箸凌一の弾劾訴追案もすぐ可決されるはずだ」
「──オト様は、この機会をずっと窺っていらっしゃったのですか」
誓約書の文面は活字である。オトの家にパソコンやワープロの類はない。誓約書を作るには外出の手間が要るがララナはそんな様子を観ていない。
「いつか使おうと思った手段がうまく転んだわ」
「それこそが主目的だったようですね」
「俺は数字に弱いんよ。そんな計算できへんわ」
「私はそのようには存じません。誓約書は放送局に送付するのですか」
「いや。俺はその役割にない。未成年であることを理由に犯罪歴を持たんだけで殺人の疑いが掛かっとるような一貧民の俺が訴えたところで説得力がないからな。それに事実殺人者の俺ではひょっとすると滲み出るヤバさなんかがあるかもやからね、居合わせたヒイロにコピを預けて行動を促した」
「必要とあらば原本を公開するのですね」
「そ。まあ、その必要はない」
「そうでしょうか。二室さんがこの時間帯に外を出歩いて警備府に侵入していたこと自体が多大なる疑惑を生みそうなものですが」
「問題ない。正式な手続きを踏んで用意した入場許可証をヒイロに渡しといたし、俺とお前さんが合流して間もなくの警備府での出来事が、ヒイロの立場を確固たるものにする」
「と、仰ると」
「再生の暁の起動。あれはヒイロがやったんよ」
オトがほくそ笑む。「失敗したらしたで俺は死ねたわけやからよかったんやけど、ヒイロはどうやら昔と変らず頭脳明晰やったみたいで、俺が渡した起動手順を理解できたらしい。文献には簡単と書かれた内容だが、研究者の簡単は当てにならん」
「難解な手順を理解し、二室さんは再生の暁の起動に至ったのですね。……もしかして、警備府に二室さんがいたのはオト様の誘導ですか」
「ヒイロは自分の興味で再生の暁を調べとった。警備府に再生の暁が置かれとるって判って、居ても立ってもいられんかったんやろうな」
嘘か真か、誘導を完全否定したオトに、ララナは再生の暁についての感想を述べる。
「まさか、これほど近くに国防の要となるような防衛機構があるとは存じませんでした」
「古代の優れた防衛機構をダゼダダの象徴とするため、ときの政治家が政治中枢である警備府に置いたって話だ。モニュメント化してそれなりに時間が経っとったから政治家の中にもただの置物と思っとったもんがおったみたいやけど、だからこそヒイロの立場が強固になる」
誰もが思いつかなかった防衛策で国を救ったヒーロ。実績で勝ち取った社会的信頼が揺るぎない立場を与える。
「最終的に終末の咆哮を止めたのはオト様ですが」
「再生の暁が時間を稼がんかったら俺達の話は中途半端やったやろうから、お前さんが俺に訴えかける言葉も不足して俺は動かんかったぞ」
と、オトがあっさりと言う。
半眼に射られたララナは思わず目線を外し、瞬きして内心をごまかす。昨夜「朝まで待てないのか」というようなことを言ったオトがここに及ぶ事態を想定していたのだとしたら、昨夜中に動くよう説得したララナの行動こそが全てをうまく回すために必要だった可能性がある。
「その、……私の言動に促されたことを、認めてくださるのですね」
「否定しても合理的説明ができんしな。あの状況で俺が動く気になったのは、間違いなくお前さんの言葉と行動の影響やよ。そしてその先、再生の暁が起動してなかったら現在はこうはなかってなかった。ヒイロの行動も間違いなくダゼダダを救ったよ」
飽くまで自分のお蔭だとはいわないオトである。
……それは、やはり……。
いつ死んでもいい。そう思って、実績を求めない。世にいい影響を与えたことを認めないのは、そのつもりがなく、罪を償う気もないからか。
別れたあとから合流するまでの成行きを聞いたララナは、
「こちら側の動きですが──」
と、広域警察本部署での出来事も話そうと思ったが、オトはその状況を魔力反応で把握していた。
「お前さんの魔法的ショックで戦況逆転。態勢を立て直した広警がテラノアの実働部隊と指令役をかねた敵将をとっ捕まえて事態収束。そんなところやろ」
「ご覧になっていたかのようです」
「お前さんの知恵で戦況を覆せることは予想済みやったからな。天白和以下広警が最低限動けばどうにでもなることではあった。この国の国防体制は確かに欠陥があるが、防衛力が高いのは事実やから冷静ならどんな国にも付け込まれんよ。余談を差し込むと、敵将の使っとった魔導通信機は言葉真防衛機構開発所の通信機の魔力流量と酷似しとるから叔父さんの流した技術が使われとるやろう」
「お見逸れ致しました」
通信機の情報は後日広域警察から発表され、世界に報道されるだろう。
オトの半眼はどこまでも見抜いていた。
だが、その眼が決して観ていないものを、ララナは観ている。
「私は、やはりオト様のお力添えもあっての平穏だと考えます。魔力環境の保全についても完璧でした。あれほどの自然魔力を操作したあとですと、地震や噴火、津波などの自然災害を引き起こした危険性がございますから」
一つの箱があったとして、その箱を押せば掌に押した分の圧力が返ってくる。そして箱が動くことによって反対側にいる誰かが押し出されたり箱が落ちて床が凹むかも知れない。それらと同じように、一つの魔法が作用すると反作用や影響が起こる。それらはおおく術者が精神力を消耗することであると説明されるが、自然魔力のバランスが崩れること、つまり魔力環境破壊こそ反作用であり、それによってララナが言ったような自然災害が発生し得る。それを未然に防ぐのがオトの行った自然魔力の返還、いわゆる環境保全である。木の葉が一枚散るだとか砂煙が舞うだとか小規模であるため環境破壊はほとんど見逃され、自然界がその程度では破綻しないということもあって多くの術者の目が環境保全に行き届いていないのが実状である。だが、大規模魔法によって起こるのは先にも触れたようなものであり人的被害が起こり得、さらに、生態系の崩壊に繋がるので回復に年単位の時間が掛かる。
要するに、終末の咆哮を食い止めるため起こ得るそれら悪影響をオトが抑え込んでいたということである。
「じゃ、俺は自己責任を果たしただけやな。魔法らしい魔法を使えて満足したし」
それゆえなのか。オトがこれまでより活き活きしているようにララナは感じた。
「ところで、」
と、オトが不意に真顔。「確か、別れる前にお前さんは俺の行動を邪魔せんかったっけ。敵対したもんやと判断したから、こうして顔を合わせとるのは変な話やな」
「それは、オト様が貧民方に肩入れしていらっしゃるのではないかと考えたからです。それこそご自分が罪を犯しても……」
「それをして利益があるん」
「……ござらぬと存じますが」
「ならなんで邪魔をする」
「いいえ、ですからそれは──、いいえ、私が浅慮だったのです」
オトの目的は善人の保護であり悪の糾弾。貧民は罪を犯した。それを糾弾しつつも火箸凌一から保護して、火箸凌一を糾弾し、かつ貧民の処遇改善を求めて国務大臣に訴えかけた。そこでオトが罪を犯すか否かは全く別の問題であった。
「まあ、今までの言動で誤解を与えたのは確かやな。俺の行動は罪に直結したこともあるし、それで逮捕までされとるから言訳も立たん。が、常に罪を犯すわけでもない」
そう言ったオトが右手で頰杖。「で、お前さんは俺に何を求めとるん」
「──」
突然に核心を衝くような問掛けであった。
これまで何度も触れたように、ララナの仕事は緑茶荘の一〇三号室に借手がつかない原因を調査・解消すること。警備府の混乱やダゼダダ・テラノア情勢が悪化している現状は心配だらけであるが、一方で、オトの行動もあって富民の不正は暴かれ、貧民の扱いは少しずつ改善されていくだろう。テラノアとの関係を除けばダゼダダの治安は確実によくなっていく。
その状況でララナが集中すべきは、一つである。この近辺で最も危険視されているオトが、本当は危険でないことを周知させることだ。そのために必要となるのは社交性だが、ララナはオトに社交性が身につくとは考えていない。ならば、どのように危険でないことを広めていけばよいのか。
答は、存外すぐに思いついた。
「私の言葉を、憶えていらっしゃりますか」
「俺を助けるっていうあれか」
「どのような形でも問題ございません。私に、オト様をお助けさせてください」
恒星と惑星、太陽と月、地と空、それらのようにオトとララナは正反対だ。オトにない社交性がララナにはある。
「仕事のためでもございますが、それ以上に、オト様が悪人のように思われたままの状態を私は看過できないのです」
「そこは『仕事のため』って話を省くべきやな」
「嘘は申せません」
「言葉を伏せることが噓というならみんな噓つきやよ」
「お助けさせてください」
と、しつこいようだがララナは意志表示した。「私は、今回のことで一つ大きな勉強を致しました」
「なん」
「私がオト様のことを完璧に理解することは現状不可能だということです」
「ふうん」
「諦めたわけではございませんが、しかし、それが現実でした。どんなに考えても、オト様のお考えを見抜くことができませんでした。オト様の知識とそれに基づく推察力に、私の思考が追いついていないのが原因です。私はあまりに未熟です……。オト様に取っては、取るに足らない存在です、頼りないとも、お思いでしょう。それでも、オト様に優っていることが一つだけあるのです」
「ビジュアルはなしやよ」
ララナはオトのビジュアルを悪いと思わないし自分のビジュアルをよいと思えない。従ってオトの横槍を構わない。
「私は、オト様が仰る通りです。未来ばかり、光ばかり視ております。ですから、私がオト様を光の先へご案内できるかも知れません。手を取っていただけるなら、暗く苦しい闇の中から私が必ずお助け致します」
誠心誠意。ララナは、真心を込めてオトの両眼に向かい合った。
遮光カーテンの隙間から曙光が漏れると、暗がりの部屋が仄暗く照らされる──。
オトが静かに立ち上がり、キッチンに行って戻る。その手には包丁が握られており、ララナにまっすぐ歩む。
「っ!」
ララナはテーブル脇に空間転移してオトの包丁を躱し、立った。椅子の直上まで包丁が突き出されていた。
「オト様……、何をなさるのです。刺さってしまいま──」
「刺すつもりやったからな」
右手に持った包丁を左手に持ち直し、オトが溜息をついた。「鋭いのか鈍いのか、はっきりしてほしいな……」
「なんのことですか」
「少しは期待しとるんやよ、お前さんのことは。やけど、お前さんは決定的に俺を誤解しとる点がある」
包丁が、オトの右手首をすらりと切りつける。
……っ。
鮮やかすぎるリストカットに息を吞む。
「痛くも痒くもない」
オトの傷口は、見る見るうちに治って、一滴の血が溢れる前に傷口が塞がってしまった。
「俺はな、光の中になんか行きたくない。闇の中がいいんよ。誰にも知られず、誰にも看取られず、どっかで勝手に死にたいんよ。煩わしいからな、関係というのは」
「……確かに、煩わしく感ずることもあるでしょう。ですが──」
「反論は要らん。メンドーは嫌いなんよ。何度も言わすな」
「……ならば、なぜ、私に期待してくださったのですか。せめて理由を教えてください。ひととの関係を煩わしいと仰るオト様が、私に期待してくださるその理由を」
それが突破口になる。ネガティブな考え方に傾倒しているオトを救うには、オトの他者に対する一種の執心を知り、それに副って対処することが望ましいとララナは考えたのである。
が、包丁を持ったオトがララナを玄関にまで追いやる。
「その理由を考えるのがお前さんの仕事なんやろ。俺は、もういいや」
先程まで活き活きとしていたようだったのに、取りつく島もなかったときにまで逆行してしまったかのようだった。
「出てって。俺はお前さんに十分な代金を払ったと思うし、話すこともやることももうない」
「っ、オトさ──」
鋭鋒に圧されるようにしてララナは玄関前まで裸足で追い出され、呼掛けも虚しく遮られてしまった。
刺す気。と、言ったのは冗談ではないにしても本気でもなかっただろう。包丁は、ララナを追い出すための小道具である。
……代金、ですか。
貧民のこと。富民のこと。政治のこと。
確かに、ララナが知りたかった緑茶荘周辺と治安に纏わるあらゆる情報がオトから支払われていた。ただ、先程の話の流れはいやに急だったのでオトの癇に障っただけなのかも知れない。思えば、ララナはまた自分の意見を押しつけていた。抱擁のあとで家にも進んで入れてもらえたことから、オトと通じ合えた自信が自然と湧いて、油断していたことを否めない。
……仕事……。
児童扶養手当の最終給付日である来年三月末にオトが緑茶荘を出ていくことは判っている。それまで何もせず待っていたとしてもララナの仕事は終わる。
当然、オトを助けたい気持でいっぱいのララナはそんな結末を望んでいない。望む結末が意見の押しつけに等しいなら、それも止むを得ない。止まることだけはできない。
……オト様に幸せになっていただくには、どうすればよいのでしょう。
孤独のままで死なせてしまうのが最悪の事態とするなら、他者と関係を作るのが最も早い解決方法なのだろうが、先程のララナの提案が癇に障ったと言うならそれはオトの望みとは相反している。それを踏まえて、オトが最も幸せな状態はいったいどんな状態だろうか。
……他者との関係を必要と感じていらっしゃらないオト様……。どうすれば──。
ララナに置き換えてみれば、他者との関わりなくしてここまで生きてはこられなかった。育ての両親や義妹、ともに戦った友人、戦災に遭ったひとびと、数えきれない交流を経て、ララナはここに立っている。そのうち誰か一人でも欠けていた場合に辿りついた仮定の現在など考えようがなく、仮にいなかったなら、ララナは今のララナとは別の未来に立っていたとしか言えない。関わった者全員と合わず交流しなかった場合の独りきりの未来などあり得ない。それがどこへ向かうかなど想像もできない。
オトが目指す未来がそんな独りの世界なのだとしたら。
他者との関わりに絶望しきっていなければ、そんな考えに行きつくはずはなく、であれば、もはやララナが提案できる幸せへの道筋などないのではないか。
諦めてはならないというのに、
答が見つからない。
根本的なことから考える。そもそも、幸せとはなんだろうか、と。
姿がない。目に見えない。固定の形がない。極めて主観的で感情的で固有的な思考や体感。それが「幸せ」というものだろう。一例を挙げるなら、共感を得られている状態、優位性が確立されている状態、独自性を認められている状態、などなど、、それでもって愉しめていたり達成感を得られていたりすることに幸せを覚えるのが一般的だろう。
非一般性の塊であるオトだが、あえてそこに当て嵌めて考えてみる。
世間の情報に惑わさらず接してきた数少ない人物・鈴音と、何かをともにする時間、その関係にオトは幸せを感じていたに違いない。それを自らの手で絶つこととなった彼の絶望感は、幸せを徹底的に否定し奪った不良殺害の様子からも察することができる。が、凄惨を極めたといえる出来事を経てもオトが他者に歩み寄りを見せたことはララナが一番感じている。
ララナとのこれまでのやり取りがオトが他者との関係を完全に絶ちたいわけではないということの裏づけになる。しかしながら、絶望に敏感なのか常に緊張状態にあるのか、ふとしたことで爆発する火薬詰めの風船のようにオトはうまく他者と共存することができない。と、いうのも、オトの人生は特殊なのだ。親が離婚した家庭というのは現代ではさして希しくなくなったが、子に取っては大きな変化であることに変りはなくオトの場合は自身の犯罪や糾弾姿勢が要因となっているから責任を感じないはずがない。そうして貧窮し、孤立した中で再会した鈴音と心を交わすも自らの手でその命を奪うことになった。肯定的に観て自信を培おうにも、オトの人生は罪が罪を呼び込んでいると言っても過言ではなく立ち上がることが困難なのだ。
そんなオトが幸せになるには、オト自身が罪に感じているであろうことに対して責任を取る必要があった。罪がなくならないとしても、そうしなければ足を掬われる不安から立ち上がれず、前向きに歩いてゆけないからだ。ところが、夫婦間の問題でもある離婚はさておき鈴音殺害の罪でオトは裁かれなかった。これがまず大きな歪みを作ったに違いない。自身を現実主義といったオトだ。裁きがなければ人生の立て直しができない。それゆえに公的な裁きを求めている、と、いうことを暗に伝えていたのだろう。
……しかし、鈴音さん殺害の罪を償うのは不可能です。
オトが自らのために鈴音との最期の思い出を曝け出すことはない。証拠不十分という検察の判断が変わることもまたない。
心の中でだけでも決着させなくては、鈴音殺害の罪の意識をオトはずっと抱えてしまう。足を掬われること、それは恐らく予測できる危険性、新たに築いた関係を失うことへの虞だ。それが彼を独りの道へ誘っている。ララナがすべきことは、
……オト様の罪の意識をなんとか解消することです。が……。
考えついたものの、心許ない結論だ。包丁を向けられたことで、オトをどこまで理解できているか定かでなくなって、考えに自信を持てなくない。
……空論を弄んでいるだけなのだとしたら、オト様を不幸にしてしまいかねませんの……。
考え込んでいると、朝日がララナを視ていた。足は、いつの間にか靴を履いている。
……。
オトは、魔法の無駄遣いを責めるきらいがある。堤のときのように魔法でララナを家から追い出してもよかったのに包丁でやった。そんなオトが魔法でララナに靴を履かせたのは、それを無駄とは感じていない。──と、好意的に観るなら、オトに見限られているわけでもない。
……思い込みだと、オト様は私をお咎めになるでしょうか。
けれども、ララナはちょっとしたオトの行動にエールを感ずるのである。
もっと頑張れ。
もっと来い。
そう言われているような気がするのである。
……もっと、踏み出さなければ。
一度は拒絶され、一度は魔法で牽制され、袂を分つことも決断して、またその手を取ることを選び、包丁を向けられて、それでもオトのことを想った。オトのためになるならと、ララナはそうして何度も踏み出してきた。
……恐くても、恐くても、きっと、私はまた踏み出すのです。
迷う時間が惜しい。
……できることがないか、考えなくては。
独りの思考は限界。道筋がかすか見えても、ララナはどん詰りだ。このようなとき助言をしてくれるのは、かつてなら──。
……。
もう何年も連絡せず、会ってもおらず、頼ってよいのか。
躊躇いも、彼のためならという思いを退けることはできなかった。ララナは頼る相手を思い浮かべて空間転移した。行先は、ダゼダダ警備国家のあるダゼダダ大陸内でもなければ、別大陸でもなく、それら全てを抱えた惑星アースでもない。何万光年という宇宙空間を隔てたずっとずっと遠い場所。その場所は、俗に神界と呼ばれている。
惑星アースのような星として神界は星の数ほど存在し、その一つ一つに神界宮殿という統治機関が建っている。そこに住んで神界を治めている神を主神と呼ぶ。ララナが思い浮かべたのは、その主神の一人である。
白亜の壁床に透明のテーブルセットが、神界宮殿の一室を無機質かつ善美に彩っている。
「こちらは変りございませんね」
「おや、ララナか。何年ぶりかな」
すらりと長い脚を組んで座っている青年が、部屋の入口付近に降り立ったララナに驚くこともなく振り向いた。
青年が、この神界を治める主神、〈護法の神〉ともいわれるアデルである。
「お久しぶりです、お兄様」
と、お辞儀をしたララナは、もう一人の人物に目を向ける。アデルの向いの席に掛けてカップを仰でいた凛とした女性はララナの師匠である。
「お邪魔致します。セラちゃんがいるとは思いませんでした。時を改めましょうか」
「……気にするな。ちょうどお前の話をしていたところだ」
と、セラことラセラユナが言った。ラセラユナも別の神界を治める主神だが、アデルを訪ねていた様子。
ララナは、アデルとラセラユナの前まで出た。
「お兄様にお話があって参りました」
「オレに話。先程の強大な魔力反応の件か」
と、アデルが言うと、ラセラユナがカップを置いて、
「テラノアの兵器だろう。前に感じた魔力に似ていた」
「セラちゃん、知っていますか」
「当時は先を急ぐため仔細を伝えていなかったな。かつてはメイとわたしで軌道を逸らし海に落とした。──まさか、あれが大陸に落とされたのか」
「いいえ。落ちる前に打ち消されたため狙われたダゼダダ大陸は無事です」
「打ち消した。あれを」
ラセラユナが眉間に皺を寄せた。「まさかお前、暴走したのか」
「いいえ、そうではございません」
ララナの暴走は簡単には起きない。命の危機で発動するような性質のものでもない。
「ラセラユナ、まずは話を聞こうじゃないか」
と、アデルが微笑して、「ララナ、お前も席につきなさい」
アデルが指を弾くと床から椅子がぬらりと構築された。神界宮殿もそうだが、この長脚の椅子もアデルの力で作られている。
ララナは椅子に座り、アデルとラセラユナに切り出す。
「セラちゃんもいたのは幸いです。お二人に相談したいことがございます」
ララナはアデルの次にラセラユナを訪ねるつもりだった。二人は人生の先輩であり、血は繋がっていないが兄と姉であり、誰より頼りにしていた人物である。
「お前から相談とは、」
ラセラユナが横目で。「何があった。なんでも抱え込むお前にしては希しいな」
「それには同感だ」
と、アデルがララナを見つめる。「よほどのことがあったと観るが」
「……」
「話しにくいことか」
「いいえ、どこから話したものか、いまさら考えております」
オトのことをどこまで話していいのか、ララナは迷った。鈴音のことを話せば的確なアドバイスをもらえることは間違いないが避けたい。オトが己の望みを押して秘した鈴音との結末を承諾もなく話すのはどうしても躊躇われた。
「具体性を欠いた私の主観による話ですが、聞いてもらえますか」
ララナは、二人にそう切り出した。
アデルとラセラユナが一瞥し合って、ララナを向き直り、うなづいた。それを合図に、ララナは口を開く。
「とても苦しんでいる方がいらっしゃいます。彼をお助けしたいと考えて、私は行動している最中です。しかしながら、彼の絶望はあまりに深く、救いの手を差し伸べたとしても引き揚げることができません。……何度も話し合いを持つなか一進一退で信頼関係が深まってきた印象がございます。それでも、彼は全く救われておりません。罪の意識が強くあって、独りで存ろうとするあまり幸せを感ぜられないのだと推察、いいえ、推察とはいいすぎで、単なる憶測やも……。私はまだ完全には彼を理解できていない。それでは足りないのだとは承知しておりますが、しかし、でも、絶対に諦めたくないのです──!諦めたら絶対に後悔します。彼の苦しみを取り除かずに見過ごしてしまったことを……」
要領を得ない現状説明に対して明確な答が出せようはずもない。
ララナは、二人の先人にこう尋ねる。
「彼が幸せになるためには……。彼をお助けするために私に足りないものはなんでしょうか。ご助言を、どうか、お願い致します」
アデルとラセラユナが、それぞれ熟考の構えを見せた。
吹き込む穏やかな風に、民衆の活気ある生活を聞いた。
先に応えたのは、懐かしき兄然口調のアデルだった。
「彼がどんな人物かオレは知らないが、ララナがそれほど気になっているのならきっと惹かれるものがあるんだろう。端的にアドバイスしよう。お前には、自信が不足している」
「自信ですか」
「かつてのお前には揺るがぬ自信が観えた。それがどうしたことか、今は全く観えない。彼に打ち砕かれたか」
「……そうだと、……いいえ、そうです」
少なくとも、現在のオトと逢うまでのララナは自分に不信を感じたことがなかった。過去の暴走で後悔や罪の意識はあっても、暴走には理屈や理論で説明できることがあって、ある種の逃げ道があり、精神的には安定する余地があった。が、抜き身の刃のようなオトの言動に翻弄されるうちに、自分の思考力や行動力、知識や魔法や物の見方、あらゆる部分の自信がどんどん打ち砕かれていった。それでもオトに近づかずにはいられず、頭でっかちのララナは知らず知らず頭で物を考えて「これで大丈夫」と盲信した状態でオトと接してしまっていた。
「そんな自信のなさが、彼を、不安にさせているんじゃないか」
ララナははっとした。
アデルが微笑み、話を続ける。
「独りでは心が弱くなるものだ。心が弱くなると、要らぬ心配をしたり、要らぬ不安に苛まれたり、ネガティブになる。それでなくても相手が自信喪失していれば、心を預けることはできない。厳しいことを言うようだが、共倒れしてしまうことを危機意識が察知するからだ。ひとは基本、自分を最優先で保護する。独りがつらくとも自分が倒れないように動こうとしてしまう。……そう、今のララナは彼を支える状態にない。大きなお世話で傍迷惑に思われている可能性もあるだろうな。強いて加えるなら、お前は彼に頼りすぎているんじゃないか。例えば、確たる証拠もないのに大きく出てしまうことがあったのではないかな」
「……」
「思い当たる節があるようだな」
「はい……」
アデルの指摘を、ララナは嚙み締める。何か言わねば、と、彼の考えを頭ごなしに否定したこともあった。彼の気持やスタンスを無視した自分本位の考え方で道を示して否定されたのはまさに先程のことである。オトのことを理解できていないからといって、自分本位の考え方で意見を押しつけるのでは無意味なのだ。彼を救う、と、自信を持っていえるほどの理解が、今は必要ということになるだろうか。
続いてラセラユナが口を開いた。
「わたしも概ね同じだが言い方を少し変えよう。自信のない奴に命を預けることはできない、と。ひとは、何かを成し遂げんとする強い意志を持つ者にこそ信頼を寄せ背中を預けられる」
「今の私には、欠けたものですか」
「頼るなとは言わぬが、自分で解決できずわたし達を頼ってきた時点でそれは明白だ」
ラセラユナはオトについても述べる。「アデルは触れなかったが、わたしが思うに彼とやらは相当に厄介だな」
「なぜ、そう思うのですか」
「最高の弟子をここまでコテンパンにしている……。興味が湧いた」
不干渉のラセラユナとしては希しい主張であった。
「っふふ……」
「何がおかしい」
「いいえ、少し、自信が戻った気がしたのです」
ラセラユナに睨まれてララナは気持が少し和らいだ。どんな成果を挙げても睨むような目差と厳しい口調を崩さなかったラセラユナに師事して直走った過日を、ララナは思い出す。振り返ればできなかったことの多い日日だったが、できたことがたくさんあって、自信を培うことができた日日だった。
「そうです、私はセラちゃんの弟子です」
「最初で最後のな。さらには、お前はわたしを超えていったんだ──。自信を喪失する理由がどこにある」
高圧的な言回し。それがラセラユナ流の励ましである。
……そうでした。だから、少し判ったのでした。
世に溢れ返っている傷つけるだけの言葉。それに似たオトのきつい言葉はラセラユナの励ましに似ていた。ずばずばと心に切り込むようでありながら理解できればしっかり為になる言葉だ。じつはそれはとても得難い。なぜなら、そんな言葉は無関心では発せられない。
ララナは二人の言葉に勇気づけられて、一つ気になった。
「セラちゃん。私の話をしていた、と、言っていましたね」
「取留めのない話だ」
「噂話ですか」
「ラセラユナが心配していたんだ」
アデルに一瞥されて、ラセラユナが舌打ちした。
「ひとが伏せようとしていることを。愚か者」
「困ることでもないだろう。話を聞いてオレも心配したんだ」
二人の言う心配とは何に対してか。
「セラちゃん、お兄様。どのような話をしていたのですか」
「こうなったら白状するが、お前が惑星アースを彷徨っていた件についてだ」
「彷徨っておりません」
「いいや彷徨っていた。暴走・鎮静後、お前はアデルに会い、それ以降、惑星アースを放浪していたそうだな」
まさか復興ボランティアの期間をいわれているのか。ララナはきょとんとした。
「戦争に巻き込まれた町や村を回っておりました。復興活動ですよ」
「釈明はそれだけか」
ラセラユナがカップを仰ぎ、ソーサにカチッと戻す。「何かほかに言うことはないのか」
「……」
ラセラユナが何を促したのか、ララナはやっと察した。
「連絡をしなかったことは、謝ります。申し訳ございません」
頭を下げて謝ったが。「便りのないのは達者の証とも申します」
「殺しかけた仲間に謝るだけ謝ってとっとと姿を消したお前が連絡もせずに独り旅だ。それが気に留まらぬほどわたしは冷血ではない」
「お前はその辺りにするといい」
ラセラユナの口を止めるも、アデルが注意する。「せめて心配性のイノチやフルーテくらいには直接連絡を入れてやるべきだったな。彼らは、自分達の弱さを悔いて今も苦しんでいる。同時に、お前が自責の念から早まった行動に出てはいないか、心配もしていたんだ。ラセラユナもここに来るのは何百回目だ」
「黙れ、わたしのことはどうでもいい。瑠琉乃が居場所を逐一調べて皆に伝えてはいたが、皆が気を遣ってお前に会いに行かなかった」
ラセラユナの補足に次いで、アデルが注意を続けた。
「お前が暴走して皆を害そうとしたことを悔いているように、お前に押し負ける程度の力しか持っていなかった皆も、同様に悔いているんだ。そのことだけは、ちゃんと憶えておくんだ。いいな、ララナ」
「……はい、お兄様。勿論です」
後悔している皆に何をしていけるか。何をしたら皆の幸せに繋がるか。それを考えることが必要だ。ララナは兄にうなづき、ラセラユナに目を向けた。
「セラちゃん、黙って動き回っていたこと、申し訳ございません。許していただけますか」
「許さんなどとは言っていないだろう。お前は自分で抱えすぎなのだ」
ララナはラセラユナに頭を下げるしかない。問題を抱えすぎているのだとしても、ララナはそんな自分でしかいられない。
蟠りを示すような沈黙。
短く息をついたラセラユナが「まあ、いい」と言って提案した。
「近年の不通を水に流してやる。その替り、お前を追い込んだ奴に今すぐ会わせろ」
「はい」
オトの名前を伏せた意味を潰すように、ラセラユナが立ち上がって行く気満満だ。
アデルがくすっと笑う。
「こうなったら聞かない。ララナを尾行してでも会うだろう」
「ああ」
と、ラセラユナが帯剣して肯定。
こうなったら聞かないとは、ラセラユナの指導を受けてきたララナもよく知っている。
「麗璃琉ちゃんとも会いたかったですね……」
義妹麗璃琉はアデルと結婚してこの神界にいると、ララナは瑠琉乃から聞いていた。
「そちらが落ちついたらだな」
と、アデルが言った。「彼とやらを優先するといい」
「……そうですね。左様に致します」
相談して策を練り、麗璃琉に活を入れてもらって、必要なことをして、オトに会いに行こうとしていたララナであるが、策を練り終わらないうちに、
……妙なことになってしまいました。
二人に改めてお礼を言ったララナは、ラセラユナとともに空間転移した。
早朝の輝きに照らされた緑茶荘。その佇まいを一見したラセラユナが目を逸らした。
「おい。まさかと思うがこのボロ屋がお前の家ではなかろうな」
「中も外も綺麗ですよ」
「見た目はな。で」
「一〇三号室だけですが、はい、家です」
「正気か」
「はい。広さも施設も十分です」
「お前の慎ましさを理解しているつもりだったがここまでとは……」
聖家本邸にララナの私物は多くなく、緑茶荘に持ち込んだのは隣空間に運び込んでいた着替やエプロン、布団一式、それから調理器具くらい。備えつけの家具があったので不便を感じない。
「生活に不便はございませんので心配には及びません」
「まあ、いい。厄介な奴はどこにいる」
と、訊くラセラユナにララナは強めに意見する。
「奴は、おやめくださいますか。とても大事な方なのです。……不愉快です」
「お前にそこまでいわしめるか──。いいだろう」
ラセラユナが緑茶荘を向き直り、「ここにいるのか」
ララナは素直に応ずる。
「一〇二号室が彼のお宅です」
「表札はあれか。……見ない名だな」
「当然なのでは。セラちゃんは初めてお会いするのです」
「お前の目に留まった相手だ。名のある戦士か魔術師かと思った」
警察関係者に知れ渡っていることは、笑顔で伏せておくララナであった。
「じゃあ行くぞ」
ピンポーン……。
ラセラユナが一〇二号室にすっと歩み、ララナが止める間もなく呼鈴を押してしまった。
……私は、オト様に追い出されたあとなのです。
あれから三〇分も経っていないのに無神経ではなかろうか。
「なぜ後退している」
「あ、えっと……」
「何かあったことは承知した」
ラセラユナが酌み取り、「ならば」と、右手に魔力を集め、闇にして玄関扉に放つ(!)
「セラちゃん──!」
ドーーーーッッッッンーーーッ!
爆音が立ち、黒い閃光から薄闇が漂って、じきに消えた。
「ご挨拶やな」
と、玄関扉を開けたオトが言った。ラセラユナが打ち破ったかに思えた玄関扉だが、オトが魔法を弾いたのか。
「貴様になら効かぬだろう」
と、ラセラユナがオトを睨み据えてレイピアを抜き身にした。
「おーい。なんなん、このひと」
と、オトがララナを窺う。「さすがにこれは迷惑でしかないんやけど」
「申し訳ございません、そちらは──」
「ラセラユナだ」
と、本人が言ってオトの前に立ち塞がった。「貴様の名を聞こうか」
「ん、なんで名乗らないかんの。阿呆な無礼者に名を差し出せと。押売りか」
「名乗らぬならそれもよかろう。殺す相手の名は憶えておこうという親切心なのだがな」
ラセラユナが殺気を放つ。
……なぜ。セラちゃん、本気ですか。
ララナは制止しようとしたが、ラセラユナの一撃のほうが速かった。
ギヂッ!
ラセラユナの剣先を、右手の中指・人差指で受け止めてオトが微動だにしない。
「……生身で受けるか。少しはやるようだ。この程度で安心するのも早いが」
「いや、安心っていうか、なんなんほんまに。こっちは状況が摑めんのやけど。ねえ」
立ち塞がるラセラユナの肩上からオトが覗くので、ララナは弁明のチャンスと口を開くが、一手早くラセラユナが鋭い蹴りを繰り出した。左脇腹を抉られたオトが緑茶荘を囲う塀に飛ばされてしまった。
「オト様──!」
ララナは緩衝壁の魔法を塀に施してオトのダメージを完全にカットしたが、ラセラユナが魔法弾で追打ちを掛ける。
「セラちゃん、やめてください!」
「お前は黙っていろ」
ララナはラセラユナの放った全ての魔法弾を空間転移で上空へと逃がして、ただちにオトに駆け寄るが、
「いや、お前さんはほんと黙っとけ」
オトがララナの脇を抜けて、「よく解らんが、ちょっと相手になったろう」
「オト様……」
オトを止めることはできない。ラセラユナも止まってくれない。
……どちらの魔法も桁外れです。ここで衝突すれば周辺に被害が。
歩いていくオトと、剣を構えるラセラユナ。
予想だにしないことになって、ララナは立ち尽くすほかなかった。
──一三章 終──