一一章 プライオリティ
回答は設問であった。
……テラノア以外の敵が既にダゼダダにいる、とは。
ララナは国の名前を訊いたつもりであるからオトの応答はちぐはぐ。だが、察しのいいオトがララナの意図を汲み取れないはずがない。よって応答はちぐはぐではない。それがどういう意味か。
「──まさか、」
ララナは息を吞んだ。「貧民が……」
オトがうなづいた。
「ご明察とまではいかんな。お前さんの考えが及んだのは身代金要求犯罪で得た金が一揆ともいえる貧民暴動のための支度金になったってことまでやろう」
「不十分でしたか」
「ああ。お前さんは事の本質を判っとらん」
オトが外へ。ララナも彼の背を追うように外へ出た。施錠したオトが緑茶荘前の飛石から跳んで天井に載ったので、ララナは腰に巻いていたボレロを羽織ってからオトの横についた。
「どちらにお越しですか」
「やっぱ地元出身やないから判らんか。警備府やよ。国防の要が広警本部署なら、政治の要が警備府だ。先程のニュースを観た貧民の多くは国内のテラノア潜伏を察して警備府方面に一気に動き出しとるはずやぞ」
「失礼ながら、私達でもテラノア潜伏の確証を持っていないのに学びの機会を逸している貧民の皆さんがどのように察するのでしょう。プロセスに異常を感じます」
「俺の言い方が悪かったな。貧民全員がテラノア潜伏を直接察しとるわけじゃない。……貧民ってのは、富民に比べて生存本能が強くある。それは、頭がないなりに生き延びるための直感力といってもいい。政治が解らんくても政府の危うさなんかがなんとなく解るヤツがおるのと同じだ。その場の雰囲気を読む力ならお前さんも顔負けやと思うぞ」
「そうなのですか」
「この例えならより解りやすいか。溺れた人間が踠くこともせずに沈むことはない、と」
「危険な状況を回避すべく可能な限りの抵抗を試みる。生物に共通することです」
「最悪の想定やから貧民の直感力が働いた前提で話を進めるが、俺は貧民一揆を予感した」
オトがフッと爪先に力を入れて跳ぶと数百メートル跳躍、川沿いの堤防に着地した。その間一秒もなかった。ララナはオトの速さについていくため空間転移したが、そのときにはオトはさらに数百メートル先の橋に立っていた。
……お速いですね。
(お前さんが遅いんよ)
(そうですか)
(一応ゆっくり跳ぶから見失わずについてこい)
(頑張ります)
(じゃ、行くぞ)
オトの姿が橋から消えた。一瞬の残像を頼りに数キロ先へ空間転移したがそのときオトはララナの頭上を高速で抜けていった。オトの移動速度と軌道を計算し、ララナは瞬時に次の空間転移を行使、オトの手を捉えようとしたが、指先は空を捉えた。
(惜しかったな)
……お待ちくださ、っと。
オトが前進しているのに対してララナは落下している。選りに選って川の真上に空間転移してしまったので水面を氷結させてそこに下りた。行ったことのない場所への空間転移はこういった危険が付き物である。その間もオトが視界から跳び去っていく。ララナは立て続けに空間転移して、大きな建物の上に佇む彼になんとか追いついた。
三階ないし四階建てのこれは、
「魔法学園、初等部ですね」
オトの過去を聞くするために訪れた魔法学園であった。南舎屋上からグラウンドを見下ろすと、薄れた石灰の角丸長方形が夜の闇に浮かび上がっていた。
「懐かしいな、と、一丁前にいってみたが」
オトが溜息。「存外懐かしくもないもんやな」
「オト様の中で新しい記憶なのでしょう」
「買物以外は碌に出歩いてないしな」
その買物も、ララナが来るまで焼きそば麺を買う単調なものだった。新たな体験が乏しかったために、たださえ埋もれにくい罪の記憶が鮮明だったことだろう。
目的地はほかにある。
オトがグラウンドに跳び下りて人間的速度で歩行し始めた。貧民についてはそれほど焦る必要がないということか、などと、オトの行動を観察したララナは、校舎を跳び下りてオトの左斜め後ろについた。すると、途端にオトが振り向いて呆れた声。
「ワンピース着とんのに跳び下りんのやめてくれへん。俺、欲求不満っていったやん」
「もしか、欲情なさったのですか。何故ですか」
「裾が捲れたの」
「左様なことですか」
「性欲の制御が利きにくいんよ、年上のお前さんが警戒して」
「申し訳ございません。しっかり下に重ね着しておりますのでご安心ください」
「いや、この場合は押さえた裾が捲れ上がらんせいで重ね着して見えんのが問題なんよ。絶対領域の破壊力を女が知らんのはホントに危険やぞ」
「絶対領域ですか。存じ上げませんでした。結界魔法の類ですか」
「ある意味で精神攻撃魔法やよ。一部男の理性を打ち崩して女を蹂躙させるヤバぁいヤツだ」
「左様に危険な魔法があったのですか……!」
自分のどこからそんな危険な魔法が発せられているのかララナが本気で探し始めると、
「喩えを真に受けんな」
と、オトが前を向いた。「正確にいえば、それは魔法学術的な分類じゃない。個人の趣向に左右される価値観と属性の作用だ」
「私には難しいお話のようです……」
理解力にそれなりの自信を持っていたララナだが自信を失いそうだ。
「優秀なのも考えもんやね。思うに、お前さんは女の価値や服装による見え方をちっとも解っとらんげ」
「女性の価値は世を未来へ繋ぐ積極性、それとも忍耐でしょうか。服の可愛さなどは妹の影響で多少理解しております」
「女の価値が精神性の低い男の意見に捉えられる問題は百歩譲って脇に置いとくとして、可愛さの件も俺の求める回答とは方向性や視点がちょっと違うな」
「男女とも性別に囚われず平等であるべきですし、服装は節度とマナーを守って個人の好みに従えばよろしいかと存じます」
「答が優等生すぎる。ダゼダダでは男尊女卑が長く続いとるから平等にって意見は一理あると認めとくが、俺がいいたいのはそうじゃない。お前さん個人の価値と、他者がお前さんを見たときの見え方のことだ」
「私個人の話だったのですね。主語が抜けていたようですが──」
「脈絡で察しろ、この猪突天才め」
「天才がある種の思考の省略を行っていることは理解できますが猪突猛進とは結びつかないのでは」
「冗談をまじめに校正すんな」
「冗談でしたか……。拾えるよう精進致します」
オトに続いてララナも縦格子の南門を跳び越えようとしたが、
「待て、跳ぶな」
と、オトがグラウンド側に舞い戻った。
「お忘れ物ですか」
「こっちの台詞だ阿呆。変なところでリュートみたいやな……」
「オト様の初めての恋人ですね」
「言っとくが褒めとらんぞ。性的警戒心が薄すぎる馬鹿やって罵っとるんやからな」
オトがララナの鼻先に人差指を当てて、熱弁(?)を揮う。
「いいか、俺くらいの年齢の男はちょっとしたことで理性の箍が外れることを知っとけ。千差万別だろうが一日中女の体を妄想して終わるような男もおるかも知れんってくらい性欲が治まらんこともある。そんな男の箍が外れたら剝き出しになった欲望が女の心と体を人生ごと破壊する。性的警戒心がないことで女はズタボロにされて最悪人生を終えることになるんよ。男のそういった危険性を、女は最低限知っとくべきだ。男の精神的成長は女よりずっと遅く、本能に塗れ、いっそ一生ガキだと脳味噌に刻んで忘れんな」
記憶の砂漠。間接的な経験談ゆえの説得力か、ララナは妙に納得させられて、
「申し訳ございません」
と、謝ったが。「仰りたいことは理解できました。ですが、それと門を跳び越えてはならない理由は繋がりがあるのですか」
「全く理解しとらんげ。時間返せ阿呆。返ってくるかボケ」
オトが額を押さえて疲れた顔。「早い話、仮に男性用下着を重ね着していようがいまいが、裾のひらひらしたもんを着とる女がむやみに跳び上がるな、って、こと。理由は、跳び上がった女のひらひらした裾と脚が扇情的で文字通り男の欲望を搔き立てるからだ。理解できんくてもいいから頭に叩き込んどけ」
よく解らないままのララナだが、自分を想って話してくれたのだと解釈してうなづく。
「ご指摘ありがとうございます。重ね着は猿股に替えるとよりよいのでしょうか」
「馬っ鹿……。いっそ闇属性魔法でもいいから重ね着ごと隠しとけばギリギリセーフってことでいいわもう」
「はい、今後気をつけます」
早速魔法を施したララナを横目にオトが溜息。
「ったく、こんなくっだらん話を長長するとは欲情も真青だわ」
門を手動で横に動かしたオトが、「ほら、ここから行くぞ」と、門の向こう側へ移動して手招きした。ララナはオトが開いてくれた門と門柱のあいだを抜けた。
門をもとに戻したオトが、ララナに背中を向けて真剣な声で質問する。
「昼の話だが、お前さん、俺に手を握られてどうなっとった。じつのところ、性欲が湧いとったんやないの」
ララナは脈が強く打ったような気がした。実際打ったのかも知れない。オトと話す機会が増えてから、死した体がどんどん再生しているようだ。
性欲の有無は答えにくい。それ自体が口に出しにくいことであるのはなんとなく解っているララナだが、オトの手を握ってうずうずしていた感覚、握り返されて全身に電気が走ったような感覚、昼のあの感覚が性欲なのか、判然としなかったのである。ただ、初めての感覚だったのは確かだ。
……あれが、オト様を求めた、性欲だとしたら──。
ララナは今また感覚がぶり返すようで、胸が熱くなった気がして、全身を支配していくその感覚や熱が決して不快ではないことを自覚すると、オトの背に、まじめに応えた。
「──左様でございます。とても高揚して、その……、とても、気持よかったです。手を通して全身にオト様を感じました。心も体も融け合っていくようでした、あのような、感覚は……」
心奪われた過去のオトに対しても催さなかった感覚を、今のオトに感じている。
「息荒かったもんな」
「そうだったのですかっ……」
「目も潤んどった」
「ふぇっ……、そ、そ、そそんなに私──」
平静を装えていると思っていたララナは昼間の出来事を思い出して顔から火が出るようで、思わず両手で額やら頰やら口やらを押さえて息を止める。
そのさなか、オトがさらに言葉を向ける。
「正直、目のやり場に困ったよ。お前さん小柄な癖にキャミソールワンピースでブラもしてないから、ちょっと俺に寄りかかって前傾姿勢になるだけで見えそうやった」
「そ、その、お目汚し申し訳ございません」
「……。全耐障壁の影響やろ」
「はい。痛いこともなく昔から下着が不要でした」
同年頃の義妹はしきりに痛がってスポブラを買いに行ったりしたものだったが、ララナはそんな経験がなかった。
「それは、女が男とは違うと自覚する貴重な経験を善かれと奪ったアデルに謝ってもらうことでお前さんが謝るべきことじゃない。問題はお前さんに警戒心がなさすぎることやよ。俺は、……それは、困る」
……あ……。
ララナは、ようやくオトの気を察した。
「オト様は、私の貞操を大切にしてくださったのですね」
そうでなければ、跳び下りるなとか跳び上がるなとか、説教じみた指摘をしない。
「申し訳ございません。不心得でした」
「別に、お前さんの貞操を大切にしたわけやないよ。今までに女を何人も犯しとるから、それが大切にすべきかどうかといったら、俺は俺の欲求を解消できるならそっちを優先するもん。けど、それを軽んずるような女に欲求の解消を求めるかといえば、今の俺は求めん。欲情しきれんから」
「……そうでしたか。でしたら、なぜ──」
「お前さんに欲情したのは飽くまでお前さんが処女だからってだけ。誰にも犯されとらん無垢な体を保っとるからってだけ。それを、俺は汚したいし、壊したい……。破壊欲求に近いな。綺麗なものほど壊し甲斐がある。理解できんかも知れんけど、俺の欲求を表すなら、そういうほかない」
オトがやや振り向き、しかし目は見せず、付け加える。
「強いていえば、それでも、お前さんに操を立ててほしいわ。純潔を失っても俺以外を受けつけんっていう確たる意志を、今のうちから養って常に発しといてほしい」
「オト様──」
自己中心的で我儘なその要求を嬉しいと感ずるのは、おかしいことだろうか。
……私は最初からオト様に対してだけのつもりでしたのに。
気持はそうであっても、オトにはそう観えていなかったのだということに、ララナはひどく衝撃を受けた。だからこそ、嬉しい。認識の差を正そうとするまでにオトが期待してくれているのだと、ララナは感じたのである。
「重ね重ね、申し訳ございません。以後、気持を改めます」
「解ったならいいけど」
歩き出した彼の後ろに、ララナは続いた。
……これからは少し厚着にしましょうか。
ララナは靴下を履くのを避けるほど、体に物を身につけるのが好きではない。物心がついた頃、聖家のお金で買ってもらった服を大量消費することに対する違和感から薄着を徹底したのが始まりだったが、着替えが簡単で脚に纏わりつくことのない服が自分の好みであることをいつからかララナは自覚した。幼い頃、周囲の女子から一般的な羞恥心を学んでブルマを履くようになって、制服が小さくなる前に卒業したことで膝丈の裾がしっくりくるようになって、膝丈のキャミソールワンピースという服装が定着した。オトに言わせればそれは女としての警戒心が欠けたチョイスであった。
……もっと肌の露出をなくせばよいのでしょうか。しかし靴下は嫌ですね。
オトの要求に副いつつ自分の好みをかねるのは至難の技といえそうであったが、
「服装は大きく変えんくていいよ」
と、オトが言った。「インナも不要と思うならそれでいい。ただ、男から見て女を感ずるようなことはするな。それがたとえ俺が相手でもだ」
「困難です。恐らく無自覚の部分もございます」
「簡単やん。俺がさわるまでは枯れ草のようにじっとしとればいい。そうすれば裾が捲れ上がることも脚が過剰に露出することもなく胸が男の視界にちらつくこともない」
「現実的には困難です」
「それができんなら、お前さんは俺とは合わんってことなんよ。ほかに彼氏がおるならどうぞそちらへ、と、お勧めする」
きっぱりと言われてしまった。
ララナもきっぱりと返す。
「彼氏云云の話は以前もございましたが、……オト様と同じで独身です」
「彼氏が一人や二人おっても不思議に思わんが」
「その、改めて、申し上げます。彼氏はおりません。その上で、態度について善処致します」
「全力でやれ。テキトーじゃ伝わらんぞ」
「はい……!」
オトの背中を追うことに終始しかけたララナは、魔法学園の斜向いに位置した保育園を一瞥した。
「ふと思ったのですが、この保育園はオト様が通われていた場所ですか」
「ん、そうやよ」
「では、二室さんをお助けになった場所でもございますね」
「ああ、そんな話を聞いたって言っとったっけ。大したことでもないのに話題に上るとは」
「いいえ、大したことです」
二室ヒイロは保育士に虐待され、助けを求めることができずにいた。それを助けたのがオトである。満三歳が大人の保育士に立ち向かうということは並大抵ではない。
「素晴らしい人助けだったと存じます」
「人生で唯一の善行かもね」
「そんなことは──、おや、」
保育園を通り過ぎると民家前の通りに広域警察の車両があった。「何か事件でしょうか」
「何を言っとるん。そこが言葉真本家やん」
「存じませんでした」
「正確にいえば、言葉真本家本邸、となるか。暗号化された契約書もとい叔父さんらの誓約書をくすねた場所やな」
周辺の民家と比べればそれなりに大きいのだが、一般的な豪邸と比べると際立った大きさでもない。一見して名だたる旧家とは思わないだろう。
「今は証拠物件の押収や後処理などの真最中ということですね」
「ほとんどは世界魔術師団が押さえて広警に引き渡したやろうけどね。報道で出た情報、叔父さんとテラノアの関係を知るために広警が追加捜査しとるんやないかな」
言葉真本家本邸の向いの小路に入る。
「二室さんの話に戻ってもよろしいですか」
「そんなに興味あるん」
「はい。幼少のオト様がどのような思いで二室さんをお助けになったのか気になりました。普通のお子さんなら恐怖が先に立って大人の行為から逃げ出そうとするでしょう。オト様に左様なる感情はござりませんでしたか」
「そうやな、その辺の細かいことは憶えとらんが、俺も幼い頃から大人顔負けに魔法を使えたから力づくで来られたらぶちのめそうとは考えとったかも」
……なるほど──。
「ただ、そもそも俺がヒイロを助けたって見方は誤解やと思うね」
「何かほかに意図するところがござりましたか」
「お父さんがクズやったからなぁ、ストレス溜まっとったんよ。で、ストレス発散のために、有無をいわせず大人を屈服させたかったってことは憶えとる」
「オト様の、ある種の支配欲求はお父様が原因でしたか」
「ん」
時折見せた男への蔑視も父親の影響だろう。
「まあ、それでも父親は父親やし、母親は母親、姉は姉やから俺は俺ってことで勝手にやることにしたよ」
坂道を上り、田創町には希しい大きな建物の燈が遠目に入る。
「またふと思ったのですが」
「俺の親姉のことか」
「お姉様がどうお過ごしかご存じですか」
「そっちでも調べたんやっけ。アマの作家をしとるよ。俺と違って今も懸命なる目線で生きとるやろう」
「交流していらっしゃらないのですね」
「お母さんの離婚後、しばらくは緑茶荘におったから顔を合わせとったけど、家を出てからはないな。ダゼダダ国内におるけど、俺を避けとるし」
「なぜ避けているのでしょう。オト様は実弟ではございませんか」
「そりゃいわずもがなやん。お姉の言い方で表すなら、『化物と一緒にいたくない』」
……じつのお姉様まで左様な言い方を──。
「不憫に思う必要はないぞ。言ったと思うが、人間上りの化物崩れやと自分でも思うし、他人から観れば所詮生ゴミやろ」
「他人だなんて。肉親ではございませんか」
「血を分けとれば親しくなるってか。総合的に幸せな人生を送っとるヤツ同士のことやろ。俺は一〇歳にして取返しのつかん間違いを犯した。その代償ならメンドーやけど自業自得。受け入れんのは頭がおかしいと思うが」
「人間として未熟で当り前の年頃に犯した過ちがどんなに重くとも、償う姿勢を貫けば償えないことはないはずです。オト様は、確かに罪を受け入れていらっしゃる。でも、受け入れているのみで償っているとはいいがたいです」
「償うつもりがないとも前に言ったはずだが」
「改めて伺います。何故です」
「改めて、メンドーやから。そも化物の俺に人間の定義で動けというのが間違い。法律だって規範だってそう。なんで俺ばかりが他人と合わせないかんの、メンドーくさい。一〇歳まで合わせたったんやからもういいやろ」
オトの言葉は淡淡としているが投げやりなようでもある。
希薄な感情表現の中に見えるオトの本音を、ララナは酌み取る。
「オト様は皆さんと打ち解けようと必死だったはずです。そうでなければ、面倒なことを一〇歳まで続けることは、オト様の性格上不可能でしょう」
「ゆうね」
「推測を包み隠さず率直に述べております。オト様はそうして一〇歳を迎えられて、またも罪を犯す大人を、同時に、不遇を強いられた子どもを、見つけたのです」
当時初等部教諭だった名鎚弘也とセクハラを受けていた女子児童のことだ。
「オト様は思われたのですね。『この男を始末しよう』と」
「そう」
と、オトが認めた。「ストレス発散としてあいつをぶちのめすことにした。似たような不適格者を見つけたから、そいつも巻き込むことにした」
「菊地澄子さんですね」
「名鎚弘也の後輩に当たるあの女は学園終りにホストクラブ通いして男を侍らせるような性狂いだった。いい的やったよ。邪淫同士仲良く臭い飯を食やあいいって思ってね」
オトは悪を看破する眼を持っている。それは現在も曇りなく発揮されている。
「記憶の砂漠の取得は八年前とのことでしたが、名鎚弘也さんや菊地澄子さんに接触する前ですか、後ですか」
「前やよ。だからこそ精神ぐっちゃぐちゃでやり方の露骨さを否めんな。今なら絶対に露見せんようにやりきるよ。あの不良どもにしたように」
「前…………、(そういう、ことでしたか──)」
堤を進むオトの足が、北に位置した大きな建物を望んで止まっていた。
「オト様の行動は確かに一般人から観れば奇異ですし、巻き込まれた方は嫌悪感を持っているでしょう。しかしそれは結果です。オト様の行動理由を改めて伺って、確信を得ました」
ララナはオトの言葉を嚙み締めながら、その心に反証を突きつける。
「オト様は、なぜ、意図して善人を傷つけないのですか」
「……、必要がないからやよ」
応答に明らかな間があった。
ララナはオトの背中を視て、捲し立てるように、けれども静かに尋ねる。
「必要とは、何を基準に仰っているのですか。基準はオト様の思想に準拠していますか。その基準は一般的な規範や法律を拠り所にしていないと言いきれますか」
「……」
応答がない。
それはそうだ。
オトが何を言おうと、オトの行動理由のある一点を否定することはできない。記憶の砂漠を得た前後でも、その一点は変わっていないのである。
「二室さんを虐待から助けたとき。結崎さんを転落から救ったとき。名鎚弘也さん達を成敗せんとしたとき。そして鈴音さん関連事件のとき……。オト様は悪を目にし、悪を感じたときに行動していらっしゃる」
「桜を助けたときに悪人はおらんやん。鈴音のときだって罪のないあの子を殺しとる」
「鈴音さんのときは三人の不良を殺害していらっしゃります」
「ん」
「ここで肝要なのは、結崎さんの件です。オト様は結崎さんが転落したそのとき、ご自身の中に悪を見出したのではござりませんか。見殺しにした自分を想像して、それは悪だと、お思いになったのではござりませんか」
「……」
深いところに切り込んだ。オトの閉口によって、ララナはその実感を得た。
「時系列としては、オト様が結崎さんを救った翌年に学園支配が起きました。記憶の砂漠を得て精神が不安定となった時期に重なる学園支配ですが、オト様が精神不安定となった理由は、記憶の砂漠の取得ではなかったのでは。単刀直入に伺います。それは、ご自身の他者に対する悪意が、善人には向かないことに対する矛盾が原因だったのではございませんか」
そんな矛盾が、それから七年を経て究極的にねじれてしまったのではないか──。
「善人を救っているという認識が、結崎さんを助けるまではオト様にはなかった。ですから、オト様は学園支配に及び自身を悪人とすることで『ご自身の基準が何を拠り所にしているかを試験した』のではございませんか。その結果、オト様はご自身の善性を確かめるに至った。善人を意図して傷つけることができないことを、並びに、善人を傷つけることに自分が苦しむことを、確かめるに至った」
「根拠は」
「総さんを始めとするご友人方の要望を叶えなかったことです。以前の説明ですと、学園支配がじつは共鳴者の行為でオト様の手を離れていたため。また、要望書が叶えることには回答者の意志が反映されないため。ですが、理性を失わせる魔法を掛けたはずの相手がオト様を嫌悪しているという構図はいささか妙でもございます。なぜなら、精神魔法が作用している最中の記憶は、消えるのです。──」
事件後に齎された情報によって嫌悪することも考えられないことではないが、やや主観に染まっていても事件現場にいた総達や教員の記憶はかなり鮮明だった。精神魔法を掛けられたことを覚えているためには、その者が──事後に記憶が消える精神支配を主とする──精神魔法を受けていないことが条件であり、客観的に精神支配を受けている他人を確認していなければならない。
「──。つまり、総さん達ご友人を始めとした善人には理性を失わせる魔法自体が効かないようになっていたのではございませんか」
オトが二三うなづいた。
「ん。さすがにそこまで考えが及んだのはお前さんが初めてやけど、間違いは正しとこうか。あの魔法は結構な手間を掛けて理性喪失の魔法に見せかけといたが、実態は酒気の魔法だ」
酒に酔ったような状態に陥らせる魔法だ。酔いにはその者の持つ本性や押え込んでいる部分を露呈させる面があり、理性喪失の魔法に見せかけられる。要望を叶えられた者とそうでない者に分れたのは、酔いによって叶うような場当り的な要望を本人が叶ったと認識したか否かの差。共鳴者によって学園支配が展開したのは、酔いの状態が抜けた共鳴者が自身の欲求発散行為を記憶していたために過去から脱却できなかった、すなわち堕落、依存性がある欲求発散行為から抜け出せなくなったからだった。そこにオトの意志は介在しておらず堕落者は己の行動としか述べようがなく、オトの指示を示すことも当然ない。事件が「学園支配」などと一部で呼ばれたのは、被害を受けたと感じた総のような当事者が現実逃避のためオトに全責任を負わせたからだったのである。
「魔法に掛からんかったもんが客観的に単純な理性喪失の魔法であることを認識してくれんと最悪俺の意図が推察されて要らん追及を受けたやろう」
「魔法の考察は外れておりましたが、目的に関する私の推測をお認めくださりますか」
「認めよう。俺はあの学園支配で俺自身をリトマス試験紙に掛けたんよ」
結果は言うまでもない。「正義のヒーロとは似ても似つかんが、アイデンティティなんやろう。俺は、自分の意志以前に悪人に過剰反応するらしかった」
酒気の魔法自体には傷つける行為がないため、オトの善性を無視して講ずることができた。それでも、多くの者の意に反して掛ける精神魔法には違いがなく、その魔法に掛けることをオトは悪行と捉えたということである。そこで当然のように記憶の砂漠から得た経験が自覚の補助をしただろう。記憶の砂漠の取得のタイミングが最悪だった。数多の主観は己のアイデンティティを見失わせ、行動理念や意志を削ぎ取り、本来なら迷ったであろう要望書配布という行為にオトを押し出した。オトが己の善性を再確認できたのは、きっと、一線を越えてしばらくしてから──。幼いオトは、あらぬ方向へ踏み出していった。
「共鳴者にあとを委ねたのは面倒になったのではなく、要望書配布時点で実質的にはオト様の目的が果たされていたことや名鎚弘也さん等を排除することができると見込めたためですね。その上で、ご自分の行為が及ぼす影響とその責任を一手に負うことをお決めになり、教育者との問答を通じてご自分が悪の根源であるように世間に印象づけた」
オトの名前は未成年ゆえ公に曝されない。自然、悪童や化物という二つ名が独り歩きすることになり、二つ名はオトを示す隠語として公然と周知された。持論を否定する過程で「悪童」や「化物」との接触があったと著名な教育者ににおわせさせて、あらゆる憶測と敵意をオトに向けさせる。オトが教育者の持論を論破したのはそれが目的だろう。漠然としているにも拘らず他者の考えを排斥する認識として、憶測による思い込みほどのものはない。そんな他者の思い込みを利用して、オトは己の責任を他者に咎めさせ続けることを選んだのではないか。
ララナの推測を、オトが否定した。
「そんな恰好のいいもんじゃないよ。愕然として思考停止しとった間にそうなっただけ……。俺が他者に合わせることで成そうとしとったのは、善人の保護やったんやから。名鎚とか一部を除けば教育者もその範囲やよ」
自身の考えに結論を得たオトだが、オトの中では要望書配布時点で既に自分が悪人となってしまっていた。だからしばらく学園には通ったものの、他児童の目に触れにくいところで鈴音と逢うまで独りでいた。その間に訪れた教育者は持論をもってオトの更生を試みた。オトが学園支配の前段階で何を目的にしていたか知らない教育者の説諭は的外れで、オトには届かなかった。教育者は論破されたのではなく自ら持論を否定するに至って一部は自殺を図った。それがオトと教育者とのいざこざの真相だった。
時は流れ、鈴音が不登園となり、オトも不登園となった。そんな中、言葉真国夫と此方充の癒着をオトが指摘すると、両親が離婚してしまった。その後オトが引越し先の緑茶荘と周辺の極めて狭い範囲に行動範囲をとどめたのは、悪名が広がって善人を保護できない立場に行きつき成すべきことを失って絶望していた。
さらにオトを追い込む出来事が、学園支配から七年後、現在から一年前に、起きた。
「鈴音さんを殺めたのはなぜですか。過程で欲しても捨てたくなる。オト様はそう仰りましたが絶望に反しております。偏見を抜きに接してくれた鈴音さんはオト様に取って保護対象となり、どんなことがあろうと救おうとされたはず。今も強く残る鈴音さんとの記憶がその傍証となるでしょう。なぜ、殺めることになったのですか。お話しくださったように、事件の真相を公にしないためですか」
オトが本当にそうしようとしていたならそうできた。その頃にはとっくに自我を見定め、善人の保護を徹底できたはずなのだから、記憶の砂漠を用いて事件のディテールを公表されないシナリオを書き上げられたはずなのだ。
捨てたくなる。そんな説明は嘘なのだとララナはもう悟っていた。オトを一心に想っていたという鈴音と自分を重ねれば、当り前のように導き出せる明確な答があったのだ。
学園支配や教育者とのいざこざの真相を語ってから閉口を続けたオトに、ララナは切に問いかける。その唇は、慄えてしまった。
「鈴音さんはオト様に訴えたのではございませんか。──」
ララナの言葉の直後、オトが膝をついた。
「オト様──!」
「……、大丈夫。ちょっと、思い出しただけ」
寄り添ったララナは、彼のいつもの横顔に、確かな感情の跡を観た──。
「お前さんのいう通り、やよ。あの子は、俺にいった……。選りに選って一番キツいことを、求めた」
オトの掌が不意にララナの額に押し当てられる。と、ララナの目の前の景色が変わり、その声が脳裏に響いた。
「──ころして」
視界は、引き裂かれた服を掻き集めることもできぬ細い息を、俯瞰している。
うっすら開いた瞼の奥に雫が溜まり、零れそうになって揺蕩う。
ベッドの上はもとより乱れた髪や体の至るところに男の汚れた欲望が撒き散らされていた。
視界には、少女の絶望とともに、雪の微明を宿した刃が下がっていた。
「……しいです、……、わたし、何か、罰があたるようなこと、し……でしょうか……。あなたに触れてほ……のに」
下がった刃が、震えている。
「……こんな、ことに、なるなら、……、きれいなまま、死ねばよかった。そうすれば、……あなたに、こんなこと、頼まなくても、すんだ、んですから……」
刃が、ゆっくりと、少女の胸に下りていく。
「くるしま、ないでいい、です。わたしは、あなたを──。だから……、お願い……」
少女の雫が、無造作に零れた。
「最期を、あなたの記憶で、かざらせてください──」
瞬間。
刃が雷光のように少女の胸を衝く。閉じつつあった瞼がぴくっと開かれ、しかし穏やかに、再びわずか閉じて、黒玉は主観を一直線に捉え、不動となった。
刃が引き抜かれ、鮮血が寸時噴き上がり、視界をしばらく真黒に染めた。
右の頰が温かい。まだ、温かいのに。
温かさが離れて、視覚が戻ると、少女の右目が、顔が、間近にあった──。
……!
気づけば、ララナの視界は闇夜を捉えていた。
「見えたか」
「今のは──、オト様の記憶ですね」
まるで本当に人を刺したように両手が固く萎み、震えている。息が乱れている。
「あの子を殺したときのだ。なかなか臨場感あったやろ」
オトが両眼を閉じて立ち上がった。両膝をついていたララナも少し経ってから、オトの左手に寄り添うように立つ。
「鈴音さんは、オト様に最期を委ねたのです……」
「最低やろ。保護すべき対象をあろうことか殺してまったんやから。あいや、それだけじゃないな。大事な子を犯されて殺されかけた上、止めを刺すことを選んだ。浄化と治癒または蘇生もしくは時遡、あの出来事をなかったようにすることくらい、いくらでもできたのに俺はやらへんかった。あのあと、俺は男どもを殺しに行った。魔力を追跡、路地に追い込んだ。浅めに切り刻んだ。苦しむように、痛むように、痛覚を何倍にも引き出させた上で、すぐさま死なんように止血して。性の象徴なんぞあの男どもには不要。──」
その先で語られたのは、「男性」というものへの聞くに堪えないほどの破壊行為であった。持ち得る尊厳を奪い、救いを請う声も本能的な生存意志も徹底的に否定していた。鈴音の受けた苦しみを体現するかのような生生しい暴力は、あるいは地獄に落とすよりも凄惨な報復である。しかしながら、オトは未だ許してなどいないようだった。
「──。確信したよ。俺は心底こいつらが嫌いなんやって。殺しても飽き足りんから生かして心を殺してやるんやって。でも、途中、耳障りな声で助けを求めてくるもんやから煩わしくなった。あの子も同じように助けを求めたやろうにそれを無視して平気で蹂躙しておいて自分達だけのうのうと生き延びようとするなんて虫のいい話やと思ったよ」
鈴音を襲った不良の地獄は、強力無比なオトの治癒魔法によって永遠のように続いた。「あの子はぼろぼろにされて助けもなく苦しんだってのにだらしない男どもだった」
オトの言葉は過去の出来事を淡淡と紡いだ。だが、これまでと違う。声が地を這うように低い。あまりの威圧感にララナは鳥肌が立ち、息をすることもできなかった。
「俺は馬鹿やけど、男どもがなんであの子を狙ってきたか判らんほどじゃない。あの男どもは俺のせいで人生を棒に振った連中。俺への復讐だ。まあ、それも結局自己責任で俺への責任転嫁やから到底納得できん。理解はしてやると俺がいったらあいつら、それなら見逃してくれと言い出した。呆れて物が言えんかったわ。代りに石ころを拾って喋らんくなるまで口に放り込んだ。いつの時代も、恐怖は忍び寄るもんだ。目を潰した。あえて石を拾う音を立てた。吐き出そうとする舌の動きを封じて石を放り込み続けた。──」
やがて終わった。寿命が存在するように人間には自己治癒の限界がある。そうでなくても、オトの向けた嫌悪は人間に受け止めきれるような過酷さではなかった。誰であろうと、体内に異物を押し込まれればただでは済まない。
「──。呆気ないもんやよ。あんなに容易く潰えるヤツらと知っとったら昔に芽を摘んでやったところやけど俺も未来の悪人までは知れん。男どもの肉体は血痕や証拠物件もろとも空間転移で地下深くマントル層に投下したから見つかるはずもない。空間魔法で外界と隔絶してやったから当然目撃者もない。完全犯罪だ」
ララナが見たオトの記憶。警察関係者や検察関係者に見せればオトは望むままに逮捕されたことだろう。オトは、見せなかった。
「私に記憶を見せてくださったのは──」
問掛けに、オトがうなづいた。自分の望みで捕まって悲しい罪を清算するか。大切なひとの望んだ記憶と罪を胸に秘めるか。オトは後者を選んだ。
オトが悪意の眼で前方の建物を見つめる。「俺ほどか否か、秘した嫌悪を迸らせて迫る多数の気配を感ずるな」
オトの声音がもとに戻っており、ララナは人心地がついた。鈴音殺害について追及する手立てがないこともあって、現在を見つめる。
「あの建物が、警備府でしたか」
「近くで観ると存外ショボいから気づかんのも無理はないな」
事務局のような三階建ての建物は農業組合の詰め所のような印象を受ける。
「ダゼダダは農耕民族が興した国やからセンスが垢抜けんよね。警備府もどこか土くさい感じに纏まっとる。一般との交流に適した造りともいえるかも知れんが現実は程遠い」
「体面を取り繕う必要がないので経費は抑えられそうです」
オトと鈴音の過去を体感したララナは動揺が治まっていないが、半歩下がって尋ねる。
「貧窮した人人が、本当に警備府を狙うのでしょうか。犯罪で稼いだ身代金があったとしても少額、しかもごく一部の貧民のみに供給できた程度でしょう」
「ちょくちょく捕まっとるからな」
貧民が犯罪で稼いだ金の大半は押収されている。「が、成功した例もある」
低所得者や無戸籍の者が最後に頼る仕事として、各地を巡って行う雑務や魔物討伐がある。そんな身分を騙れば最低限の自衛目的として武器購入が容易だ。
「武器の仕入れを済ませて襲撃計画を進めている可能性が十分ございます。貧民の皆さんに横の繋がりがあるとオト様はお考えですか」
「ある」
「断言されますか」
「そもそも身代金要求犯罪が横行した理由を合理的に説明するにはそう考えるほかない。捕まるリスク、実際捕まった連中もいるリスク、紙幣番号を控えられているためにすぐに使えるような金でもないと予想できるのに貧民がそれを奪おうと動き続けたリスク、それら全てを補う利益はなんだ。赤貧、現状への不満や未来への不安、付き纏う理由がさまざまあるだろうが、原因が政治にあると知ったならば、な」
それをオトは察していながら以前は話さなかった。
暇潰し。理由はそれだけか。
オトに何を言われても何をされても、ララナは極力疑いたくない。が、貧民の思惑を語らなかったその理由は、疑うに値する悪意を孕んでいる。
「オト様──」
「言わんでも解る」
と、オトが制した。
「お前さんはそちら側。気に病むことはない。最初から解っていた」
貧民の一揆ともいえる襲撃を助けるか、傍観するつもりで、オトはここにいるのだ。間違いないのは、成功を望んでいる。
「オト様は警備府に乗り込まれますか」
「状況によるね。貧民一揆がうまく運べば傍観するし、芳しくなければ乗り込むし」
「火箸凌一総理の不正を暴くおつもりですね」
「貧民の一部が知恵をつけて一定の所得を得たのも、じつのところ賢い選択をしたからというわけでもなく、一揆のノウハウを学んだ、と、いう見方もできる」
オトがそのように推察するほどこの国の貧民問題は深刻ということ。
「一揆を、オト様が傍観することも、幇助することも、私は看過できません」
ララナは、オトの右手が動くのに合わせて堤の隅まで後退した。ララナのいた場所に鋭い氷の刃が突き刺さっている。落ちたのか、空気中の水分を集めて氷結したのか不明だが、攻撃的な意図を疑う余地はなかった。
「厄介の芽を摘まぬ愚かを知った。俺の邪魔をするなら……それなりの覚悟をしろ」
ララナは唾を吞み、落ちついて応える。
「その道の先は、もっと険しい道です。オト様ならばお察しと存じます」
「ああ、十分に。この程度の攻撃に恐怖心が露呈するとは、かつての勇士も俺を止めることはできないようだ」
オトがララナの心情を正確に見抜いていた。
「確かに、私は、恐れております。当然ではございませんか──」
「そうだろうな──」
ララナは、これまで誰にも傷つけられることがなかった。だが、オトが相手ではアデルの授けた障壁は機能しない。オトの放つ一撃一撃が致命傷に成り得る。
「私の仲間がなぜ足を竦ませていたのか、いまさらながら、実感致しました」
「死の恐怖に直面すれば、誰もが足を竦ませる。お前さんがそうならなかったのはアデルのお蔭であり、アデルのせいだ。お前さんのせいではない」
「ですが、私は、何も知らず叱咤激励しておりました……。罪深いことをしていたのだとも、実感せざるを得ません」
「本当の罪は、罪を罪とも思わないことだ。目を逸らし遁走することだ。お前さんは目を背けず逃げることもしない。懸命で、賢明で、立派だ」
「……」
対する立場で恥ずるべきか。ララナはオトの言葉が嬉しかった。過去の後悔が深まり、今の悦びにも打ち震えて、一番いい解決方法がなんなのか考えることができないほどに感情が心を満たして、涙が零れた。
「おとさま……」
「情けない声を出すな」
「ですが……、わたくしは、」
「そちら側なんだろうが」
と、オトが右手を振って水刃を横薙ぎにする。不意を衝くその一撃はララナの喉元を擦り抜けて消えた。
空を駆けた水飛沫が輝く。
最後の牽制。
両膝を折ったララナは、崩れるように座り込んだ。
「私は……、オト様を、その道に行かせたくございません!」
「……、耳障りだ」
オトが振り向き、見下ろした。「止める力がないなら。当事者になる気がないなら。黙って座っていろ」
「……──」
ララナは両眼許を左手で押さえ、指間の向こうの凍える眼を見つめ返した。
……止められないのです。
オトがなぜ貧民に肩入れするのか、ララナは理解していた。憎しみは深い愛情と表裏一体。父が憎くとも不利に追い込まぬために、貧民の苦境を生み出す一要因たる本家当主の叔父を見逃したのだろう。だがそれは言訳でしかない。悪だ。悪を看過し、理不尽を生み出したことに目を瞑っていたことが、悪だ。オトはいつでも悪を挫ける位置にいた。叔父の不正を昔から知っていたのに糾弾できずに先頃に至ってしまった。そうして火箸凌一の増長を許してしまっていた。
オトは、悪である自分を追い込んでいる。善人を保護するために追い込んでいる。
ララナがオトを止められない理由はそれだけではない。
振り返れば、オトが引き籠もっていたのは外界と触れることで自分が悪に変質することを、教育者とのいざこざから予見していたからではないか。あらゆる悪を糾弾するため化物と罵られることを承知で行動することをも、学園支配を経て予見していたのではないか。
事実のみ掻い摘まめば、ララナが接触したことで、オトは悪を成した。連行しようとする刑事に手を当てたことが、それだ。言葉真国夫と此方充の癒着を窃盗に及んで糾弾したのも、それだ。
オトをその道に立たせてしまったのは、ほかならぬララナ。
その事実は重かった。オトの意志に任せると言いながらしきりに外に連れ出そうと働きかけてきたララナには。
ララナはオトの背中を何時間も見つめていた。
闇夜が落とす星光と伸しかかるような湿気に交わす言葉はなかった。
オトが動いたのは、
「三時五〇分だ」
と、言ったとき。ララナを振り返り、「報道を観ろ」
ララナは座り込んだまま、ポケットの中の携帯端末を取り出して報道番組を確認する。と、時刻が確かに三時五〇分を指しており、
「これは──」
〔広域警察が言葉真国夫容疑者解放〕
〔レフュラル政府協力のもと空間転移にて引渡し完了〕
と、テロップが表示されている。アナウンサの状況説明によれば、テラノアへの言葉真国夫の引渡しは一〇分前に完了していた。
「まさか。対応が早すぎます」
「国賊的犯罪者一人を除いたダゼダダ国民の命を重視したという火箸凌一の政治判断だ。不適格大臣を任命した責任は躱せるだろうが、さて、こちらをどうするか」
「……!」
ララナ達のいる堤に長蛇の列が進行、堤を下りて警備府に向かっていく。ちらほらと光っているのは携帯端末の画面だ。ララナはオトの隣に空間転移して、彼を窺う。
「貧民ですか」
「身形で判るだろう。貧民には携帯端末を契約するほどの金がない。就職した一部の元貧民が情報収集役を担ったわけだ」
「そんな……」
長蛇の列をよく観ると、棒状のシルエットが天を衝くように揺れている。携帯端末よりも圧倒的に多いその物体には、目を凝らせば金具もついている。
……銃です。
「魔物もいない町中で使えば不正威力行為、銃刀法違反だな」
「それでもお止めになりませんか」
「止めたいならお前さんが止めればいい」
長きに亘って堆積した憤りが、長蛇のシルエットに漲っている。
「お前さんは別のところに行ったほうがいいと思うが」
「え」
「直感頼みで当たる確率が低く観られた一揆勃発が的中した。ならば、別の予想はどうか」
「っ!」
防衛力を高めたテラノアが言葉真国夫の知識と技術を手に入れた。ダゼダダが貧民との未だかつてない紛糾に目を向けた隙に一気に広域警察本部署を攻め落とせば、テラノアはダゼダダ国防体制の大部分を瓦解させられる。
「何かと能動的なお前さんが何もせずにいると」
「──広域警察に参ります」
ララナはオトに背を向け、東北東を向いた。「不正は暴かれるべきです。守れる命は守るべきです。私はまず後者を優先致します」
「賢い選択やな。次に会うことがあれば、俺がどこにおるかで傍観したか介入したかを判断してね」
客観視すればもともと深い関係だったわけではない。が、一つの三行半のようであった。
ララナは、うなづくしかなかった。
「……。失礼致します……」
袂を分つほかない。オトを止められない現実を受け入れるほかない。
……私が、オト様を悪にしたのです。お助けするなどとは、申せません。
が、単純に傍観することもできない。テラノアに占領されでもしたらダゼダダは治安悪化では済まないのだから、オトが予測した最悪の事態だけでも回避すべきだ。
……テラノア本国の防衛機構を破壊すれば撤退を促せますが……。
却下だ。攻撃は最大の防御という言葉をよく聞くが、侵攻を擁護・許容・支持しているのではなく、防衛・平穏・繁栄への積極性と前向きさを説いているのである。人的被害を出さなかったとしても、レフュラル国民のララナがダゼダダのためと称してテラノアを無用に攻撃したのでは、三大国の秩序を乱して後世の関係各国に禍根を残しかねない。まさにそうしようとしているテラノアを止めるための手段として、テラノア本国攻撃はあり得ない。そんな手段を講じていいタイミングがあるとしたら核弾頭発射など危機的状況が把握できたときくらいで、今はそのときではない。
……防衛のため、後世のため、ダゼダダ国内で迎え撃つ。これが最善です。
ララナはただちに空間転移して、広域警察本部署に舞い降りた。屋上で多くの警察官に忙しなく指示を出している天白和に歩み寄って声を掛けた。
「天白さん、お話がございます」
「君か。見ての通り立て込んでいる。あとにしろ」
「テラノア兵団の急襲ですね」
天白和はテラノア兵団だとも知らなかったようで、目を見張った。
「装備がデータと明らかに違う。君がなぜテラノアと知っている」
「オト様が予測しておられました」
「先導したんじゃなかろうな」
「混乱して妙な勘繰りをしないことです。事実は異なります」
「事情を知っている、か。話してもらおう」
「ええ」
指揮を部下に任せた天白和に、ララナはテラノアの軍備拡張を手短に伝えた。その間も地上からはテラノア兵団の攻撃と思われる爆発音や進軍の足音がひっきりなしに響いていた。
「──テラノアはいつでもこちらに攻め込む準備があったか。出し抜かれたものだ」
「レフュラルとて同様です。報道で情報が出る頃には広域警察本部署が陥落、事実上ダゼダダ攻略を完了し、レフュラルが攻められているでしょう。ダゼダダの陥落を、なんとしても防ぐ必要がございます」
「レフュラルのためか」
「冷静になってください。レフュラルの国益が主体ではございません。ダゼダダの民を脅かされるわけにはいかないと申し上げております」
ララナは徹底して冷静に、天白和に訴えた。「世界魔術師団と協力態勢を執ってください」
爆薬の放つ強烈な光。舞い上がった砂埃と火薬のにおい。テラノア兵団がすぐそこに迫っているのは明明白白。言葉真国夫の解放でただでさえ混乱していたであろう現場の警察官がさらなる混乱によって統制を失い、押されている。風下にあって化学兵器などを使われようものなら、手の打ちようがなくなってしまう。これ以上の後手は危険だ。
「君は冷静だな。あのジーンとやり合っただけはある」
「余談は結構。火急に協力態勢を」
「そうしたいのはやまやまだができない」
「なぜですの」
「魔術師団とは話がついている。問題は警備府だ。先程から連絡が通じない。これでは許可を得られない」
縦割組織の弊害と思われたが、それだけではないかも知れない。
……警備府の燈は点いており、人の出入りがございました。しかし。
警備大臣は空席で総理大臣の火箸凌一が兼任しているのが実状。警備府に貧民が流れ込んだであろう現在、火箸凌一が貧民対応に追われて広域警察の連絡を受けられない可能性がある。
「連絡はいつから出していますか」
「言葉真国夫を解放した直後、テロリストもといテラノア兵団が現れた約一〇分前からだ」
広域警察としては万一のミサイル攻撃などに備えようとしていたそうだが。
「そのときには警備府に先遣隊が入っていたのでしょうか──」
「なんの話だ」
「警備府に銃を持った貧民が雪崩れ込んでいるのです」
「何!そんな情報は入っていない」
「恐らく警備府で連絡を遮断している者がいます。それが貧民なのか、テラノア兵団なのかは測りかねますが」
最悪、オトがそれを成しているとも──。
……いいえ、それはいま考えるべきではございません。
冷静にならなくては。
「どの道ここは兵団相手で一杯一杯だ。分署に連絡しろ!警備府に武装した貧民が雪崩れ込んでいると!」
天白和が声を張り上げた。
……これで、よいでしょう──。私の卑怯を、ご容赦ください。
オトを直接止めることができない。だからと言ってやはり看過もできない。オトが介入する前に貧民の動きを広域警察に止めさせる。広域警察が介入すれば必ず貧民の言い分が調書として公文書に残る。さすれば此方充を従えていた火箸凌一は国民の信を失う形で失脚、ダゼダダ警備国家の不正は元凶から消え去る。オトが介入する余地を失わせるにはそうするしかない。
急拵えの策だ。あとあと良策といえるかどうかも判らない。今のララナでは、これが限界。
ダゼダダに対しては、まだやれることがある。
「私も、防衛戦に参加させてください」
「信用はしない」
「構いません。私が戦いたいだけなのです」
「……君は広域警察と無関係だ。いいな」
「はい」
ララナはうなづくや屋上の隅に空間転移、地上の軍勢を隈なく確認した。物音で判っていたが態勢を立て直せていない広域警察側が劣勢となっている。本部署前、南北に伸びた道路に展開する警察官が東の通りから現れたらしいテラノア兵団に分断されており、テラノア兵団の一部が本部署に入り込んでいる。作戦本部となっている屋上にテラノア兵団が侵入できないよう階段や屋上の縁を対物理障壁で塞いでいるが、なにぶん急拵えで空はがら空き。空間転移魔法や遠距離砲撃で本部署上空から攻められればすぐにも陥落させられてしまう。
……天白さんが害されれば広域警察の指揮系統がさらに混乱し、果ては瓦解です。
広域警察本部署は国防の要とオトが言っていた。広域警察本部署長が害されることはダゼダダ防衛において致命的なダメージとなりかねないということだろう。
ララナは天白和に密かに障壁を付与した後、地上のテラノア兵団一人一人の個体魔力を掌握し、その個体魔力に向かって〈自然魔力〉を凝集して飛ばした。
……退いてもらいます。
魔力を持つ者は己の意志とは関係なく自然界に漂う自然魔力を吸収して個体魔力を高めている。その摂理を利用して、本来の魔力吸収量を少し上回る魔力を与えることで、
バタンッ!
テラノア兵団が転倒し、武具が地面を打つ物凄い物音が立った。テラノア兵団の大半が身動きしなくなると形勢が逆転した。
「何をした」
物音に気づいた天白和が携帯端末を耳に当てた恰好で部下とともにララナの横に並んだ。
「一時的な魔法的ショックです。すぐに動き出しますし、乱戦になっている本部内は区別がつきませんでしたのでテラノア兵団がほぼ無傷です」
「急ぎ拘束する。指示を聞け──」
天白和が部下に次次指示を出していく。
「あとは、後方で指揮している敵将を捕らえれば終了です」
敵将の居場所は既に突き止めて、同じく魔法的ショックを与えてある。
「天白さん。敵将を捕らえてください」
「居場所が判っているのか」
「テラノア兵団の小隊長と思われる人物達と交信している魔力の中心に、一際大きな魔力反応がございました」
「伝心や魔導通信機で指示を出していたということか」
「魔法より一定で無機的な魔力流量。察するに魔導通信機です」
「ショックは」
「与えました。今なら捕縛は容易いかと。位置は──」
ララナから敵将の位置を聞いて拘束の指示を出した天白和が、当面の仕事を終えて屋上の欄干に手をついた。
「雰囲気がどこか変わったようだ。何かあったのか」
「何もございません」
ララナは立ち止まるためにここに来たのではない。
天白和がやおら口を開いた。
「──君が彼との関わりを継続するのなら、話しておきたいことがあった」
「……」
「彼の能力は神懸かっているがあまりに危険で公的信用に堪えない。突然のようにわたし達に食ってかかったり逆にわたし達を助けたりする君がいることを思えば、彼の行動はわたし達に取って悦ばしくないだけでどこかで誰かが救われていることもあるのかも知れない。だが、人には立場がある。──わたしは彼を逮捕する。必ず」
「……、健闘を祈ります」
天白和の言う通りだ。ひとには立場がある。それぞれの目的や幸せがある。相容れないことは、同道する仲間ですらあり得ることだ。
鈴音を想う彼は、誰にも捕まらない。
……立場。
オトの立場を思い、もっと早く彼を理解できていたなら、彼を悪にすることなく救うこともできたのだろうか。全てはあとの祭だが、ララナはそう思わずにはいられなかった。
──一一章 終──