一〇章 「国」の戦い
「私は、現在のオト様の手を握らせていただきたいと存じます」
ぱらぱら……。木の葉を打つ雨に掻き消されるような告白であった。
腰の曲がった老人の木が、雨を被って二人を見守る。
オトの手に、ララナの手から汗が伝う。暑いのではないが、熱い、ような感じがした。障壁に守られた体は気温に曝されないが、オトの沈黙が何を思ってのものか想像すると、ララナは否応なく体が火照った、ような感じがした──。
感じているオトの体温が現実なら自分の体温も伝わっている。そのことにララナは半分恐怖していた。
「まず、初めて直接触られて、驚いたほうがよかったんやろうな」
と、オトが反応したのは、ララナが口を閉じて何分も経ってからだった。
「推察、いや、推測、いや憶測やな、それの通りやったから、驚いたのはどちらかというと俺の考えの的中率やな。まあ、いまさらか。幼い頃から外れたことなんかほとんどない。お前さんならこの感じが、自分にしかできんことがある感じが、他者とは明らかに違う感じが、判るやろ、──死んだ体を持つお前さんなら」
全身を覆う障壁と体表面のあいだにわずか存在している魔力の変化を読み取って機械的に温度を測っているに過ぎないが、ララナの手は、オトの体温を焼けるように熱く感じている。
「お前さん、死んだやろ。魔力の具合から、なんて、逆算せんくても八年前の悪神討伐戦争末期しかないな、お前さんはその渦中におったんやし。お前さんが未来改変に一種の目的を持っていたことを勘案すると結論としては蘇生魔法を発動したってところか。それも不完全な、何かを犠牲にする蘇生魔法だ。観た限り、お前さんは自分のためだけに動くタイプじゃない。結果が己の利益になることも、過程は常に他者に重きを置いとるような特殊な奉仕タイプの思考だ。それは幼い頃から血の繋がらん人人の中で培われた、己を生かすための技術といっていいからどんなに間違ってもそこは変わらん。──未来改変は、犠牲の上に成り立った行動によって救った仲間がお前さんのせいで再び危険に曝されることとなりそれを俺が救う」
心を無にしてララナは応えなかった。
「いい判断だ。もう何度か話してまったけど、過去を教えるということは俺の未来を教えるということであり、お前さんの知る過去をねじ曲げる危険性がある。ただでさえメンドーな過去における未来改変がいくつも起こるとここにある現在が破綻する可能性もある。と、解りきったことはいいや。お前さんの話をしよう。それが結局、俺の話にもなるんやから」
オトの認識が予想を遥か超えていることをララナはすぐに知ることとなった。
「まず、なぜ俺とお前さんのカップリングなのかって話やな」
「それはいったい……」
「これを話すには二四年前乃至それ以前の、俺達が生まれる前に遡ることになる。それは俺達がまだ一つだった頃の話だ」
「──」
「じつをいえばこれは推察もあるが知っていたということもできる。なぜなら八年前、豹変したとされた俺は、その時点で存在するこの世のあらゆる生物や物の記憶を得ていたからだ」
「……」
声も出ないほど驚いたララナを余所にオトが語る。
「記憶は主観と客観、感情と感受が入り乱れて量も膨大やったから語り尽くせんが、人間も動物も魔物も植物も天使も大地も悪魔も宇宙も神すらも俺は記憶として捉えた。およそ考え得る全ての記憶を、俺は知った。その理由や経緯は定かじゃないが、記憶を有したがゆえに、一つ言えることがある。俺とお前さんは一つの魂から分裂した。お前さんもそれくらいは把握するところやろうけど、悪神総裁ジーンがまさしく人為的に行ったこととは知らんかったやろ」
ララナが知っていることと知らないことに関して、オトの指摘は的確だった。
「彼がどのような手段で。それに、なぜ左様なことをしたのでしょうか」
「俺の記憶によれば悪神総裁ジーンはその魂の持主を排除しようとしとった。創造神アースが創造した神の一人やったジーンは、その生い立ちと同時に〈裁者〉という特別な肩書と力を有し、魂に直接干渉することのできる存在だ」
「彼が、アデルお兄様と同じ、裁者──」
神であることを秘して聖家に入り弟妹の転生体を見守りじつの兄として振る舞っていたアデルを、ララナは最も信頼できる相手として観ていた。戦いを終えて肉体を失い魂のみとなっていたジーンを裁者の力で破壊した、とは、悪神討伐戦争が終結したあとアデル本人からララナが聞いた。その場にいなかったオトがそれを知っているのが、八年前にあらゆるモノの記憶を得たという言葉を裏づけた。
「魂すなわち魂器というのは、魂器外殻と魂器内核から成り、基本的に外殻が内核を守るようになっとる。やけど、裁者の持つ力は外殻・内核双方に同時に干渉できる。その力でもってジーンがとある魂を真二つにして生まれたのが俺とお前さんということだ。そこに二つの疑問があるか」
「一つはジーンさんが割った魂の持主、もう一つはオト様と私の出生時期のずれ、ですか」
「ああ。順に明かそう」
一つ目の疑問は、ジーンが割った魂の持主は誰か。
「ジーンは裁者としての力をめったなことでは使わんということで、その力を知る者はほとんどおらん。実際、相対しとったお前さんやラセラユナを始めとする後の一二英雄も知らんかった。そんな力を使うほど嫌った相手。答は簡単やろう」
「父親ともいうべき創造神アースですね」
創造神アースは、何を隠そう一二英雄のリーダだった一長命の父でもある。一長命が幼い頃に創造神アースは他界し、一長命の母が火葬を見届けている。
「駆足で悪いが説明するぞ。ジーンは創造神アースをひどく怨んどった。時期を考えれば理由には見当がつくやろうな」
「お兄様がジーンさんの妻子を処刑したことですね」
「処刑自体途方もない昔に起こったことやから経緯がいろいろとおかしなことになっとるが、ジーンの怨みは堆積し、関係するあらゆる者へ向かった。その一つが、アデルをも創造した父親、創造神アースということだ。そもそも創造神アースはアデルとジーンに同じ裁者の力を与えながら、アデルを善神側に、ジーンを悪神側につけた」
悪神は邪心の増幅によって魔力も増幅することができる特殊な神で、それゆえに、邪悪だとされた。善神の軍勢を引き連れたアデルは正義の旗を掲げ、悪神を討伐して回っていた。その中で、偏見に抗い、悪神側を率いていたのが悪神総裁キルアと悪神副総裁ジーンである。先陣を切って戦い、最も多くの善神を討滅したのはジーンにほかならない。一方、善神側の参謀とキルアのあいだでは血で血を洗う戦いに終止符を打つべく密かに協議が持たれていた。して善神側の参謀は悪神側の現場指揮者ジーンの命を要求した。協議を知らされておらず結論だけ伝えられたアデルは弟ジーンを処刑するのは忍びないと独断でジーンの妻子に接触、ジーンの罪を引き受けるよう説得、その命を奪った。ジーンの怒りは堪えがたいものだった。反面ジーンは愛の深い神とあって妻子の死を弔うことを優先した。そうして、時を経るにつれて己の行動を責めるようになった。己を責め続けるにはあまりに理不尽な戦いのプロセスがあった。ジーンは悪神総裁キルアを退け地位を簒奪、悪神総裁となって、戦争へと舵を切った。最初はアデルを殺すためだったが、かつてと同じことを繰り返した自分を次第に悔いるようになった。
それも、部下にまで罪を背負わせていたことにジーンは絶望した。罪を犯せば善神も悪神も隔てはない。時が流れてジーンは原点に立ち返る。目指すべき悪神像を取り戻すべく、自分と全ての部下の罪を背負って裁者であるアデルの裁きを待ち──、結末は、語るまでもない。
悪神討伐戦争は、偏見に抗った悪神の思想的一揆が始まりだったのである。
「穢れた魂を滅ぼす裁者でありながら、悪神に生まれたジーンは悪の立場になってまった。その怒りが父親に向かわんのはむしろ不自然とすらいえる。やけど、絶大な力を持つ父アースを討ち滅ぼすことは、裁者のジーンにも不可能に近かった。そこでジーンが選んだ手段が、父アースの死後、生身になった魂に接触、消滅させることやった。転生すると前世の記憶がなくなるのが普通だが、アースがその力でもって転生後に記憶を復元すると読んでの行動やった。誤算は、父アースの魂が裁者の力をもってしても消滅させられん頑丈さで、あろうことか二分するにとどまったことだ。ただ、そのお蔭で完全復活は阻止できた。ジーンに取ってはそれだけで価値ある行動やったんやろう。ここで、二つ目の疑問を解消しよう」
二つ目の疑問は、オトとララナの出生時期のずれである。
「魂の転生は普通一日二日掛かる。誤差もその範囲で収まるべきところやけど、お前さんと俺は誕生が約四年二八三日、以下便宜上五年と略すが、そんだけ開いとる。これはアースの魂が〈誅棺〉にあったことに原因がある」
「死後世界の誅棺というと、流れついた魂が転生できない場所だとセラちゃんから聞いたことがございます」
「本当にそうならジーンは警戒せんかったやろ。裁者の力を持ち魂を管理するための知恵がほかの神より深かったジーンは誅棺から転生する魂があることを知っとって、創造神アースが転生すると予測した。生身のジーンが死後世界に介入するにはそれなりの時間が掛かったが、創造神アースの魂の消滅を狙って二分には至った。結論からいえば、誅棺に流れる魂には一つの特徴があって、その特徴を失ったお前さんの魂が先に転生した」
「その特徴とは、なんですか」
「生前の未練やよ。二分された創造神アースの魂は、未練の有無も二分され、未練のないほうは真新しい魂も同然で自然と転生に向かい、お前さんとして生まれ落ちた。一方、未練ありありの魂は誅棺を漂いまくって、飽き飽きした。未練を棄てることでようやく転生したが、そうなるまでに約五年を要したわけだ。で、生まれたのがこの俺。周りに合わせるのをやめて常にやる気がないのはつまり、転生直前にあらゆる未練を意識的に排除した結果だ。未練とは謂わば自分や他者への思い入れなわけやから、それを棄て去って生まれてまたそれを手に入れようなんて考えるほうがどうかしとる。魂の根源的な流れに逆らう思考は俺にはないってことやろうな」
聞いてみれば合点が行く経緯であった。
しかしながら、ララナは一つの大きな疑問をいだいたのである。
「私が創造神アースの転生体で、ご自身と同じ魂を持った存在だと、オト様は初めからご存じだったのですか」
「知ってはおったよ」
あっさりだ。オトはこうも続ける。
「俺は、八年前に手に入れた膨大な記憶を、〈記憶の砂漠〉なんて喩えてみた。記憶の砂粒で埋め尽くされたそこを探るのは時間が掛かるし、正直俺に取ってはメンドーこの上ない。やから、お前さんを最初に見たときはどこかで見た顔やなぁ、くらいにしか思わんかった。けど、何度も会うと記憶の砂粒を拾いやすくなる。それも創造神アースに絡んだ悪神討伐戦争の話が出た。それで全部繋がった。ああ、この子が俺の半分か、って」
妙にあっさりと口にしたのは、驚くという感情を生まれる前からオトが棄てていたからだろう。驚きは感動。心に根差して未練と成り得る感情だ。
……創造神アースの片割れがオト様なら、私の力の欠落に説明がつきます。
創造神アースの最たる力としてあらゆるものを意のままにする〈創造の力〉が神話に描かれており一部では有名な話だが、ララナはそれを使えなかった。精進が足りないと考えて修業したこともあるが使えず終いだ。魂が半分になり、魂由来の力が分散していたからと考えればどんなに修業しても創造の力を使えなかった理由に納得がいく。
オトのことに話を戻すが、自分に不利になることも淡淡と話してしまうのは誅棺に閉ざされ転生できなくなった経験から魂に刻んだ性質なのだ。ララナの力のことも踏まえて、創造神アースに起因する全ての事象に合理的な説明がついたともいえる。
が、ララナとしては見過ごせない点があった。オト自身の、気持だ。ララナの過去を聞いてから繋がりの起源を明かし始めたのは、オトがララナに対して何かしらの執着を持ったからではないか。魂の性質通りに生きているなら、宿命的な繋がりを共有しようとはしないはずなのだ。
「オト様はまるで無感情・無関心・無干渉のように仰りましたが、私はそうは存じません」
そう思うのは執着を感じたからだけではない。最たる根拠はララナが未だにオトの手を握っていること。「いい加減放せ」と、ララナの手を振りほどいてもいい頃である。今そう言われたらララナは放してもいいと思っていた。が、オトは振りほどいていない。アーケード前では放せと言った。なぜここでは言わない。彼の言動は矛盾している。
「オト様は私の心を深く慮ってくださりますね。それは、ほかならぬオト様がお疲れになっているからではござりませんか」
だから手を振りほどかない。オトの孤独を悟ったララナは、そう感ずるのである。
オトが、ここに来て初めてララナに目を向けた。
「敵わんな。異常なくらい親身なヤツだ。同じ魂を持っとるとはいえ、なんで俺みたいなクズにそこまで手を差し伸べられるん」
「左様なこといわずもがなではございませんか」
ララナは、オトの問に応えた。
「オト様が幸せならよいのです。そのために、私はなんでもしたいのです」
「……その言葉は、卑怯やな──」
オトが瞼を閉じ、
……っ!
一瞬間、オトの魔力が発せられて突風のように吹きかかった。かと思うとすぐに治まった。
「っと、また飛んだ……」
「眠ってしまわれましたか」
「驚かせたか」
「先程より強く吹きつけましたので、少し。ですが、問題ございません」
反射発動型覚醒魔法。オトはそれによって目を覚ましたのだろう。
だろう、と、いうのは、ララナがその魔法を認識できなかった。一度は見逃したのだとしても、二度となれば偶然ではない。いや、以前見た空間転移なども合わせれば幾度と見逃した。魔力が集束しなければ魔法を行使することはできないが、オトの魔法は魔力集束の手順をすっ飛ばしているのか、認識できないほど高速で行われているのか、あるいは、こうだ。
「オト様は、魔力を潜めて魔法を発動できるのですね」
「それはお前さんも同じやろ」
一流の魔術師であるララナや才能あるオトが魔法発動時の魔力集束を感ぜられないのは魔法学的にはあり得ないことだ。が、ララナは昔から魔力反応を気取られず魔法を使えた。同じ魂を持つ彼も同じように魔法を使えるのではないか、と、いう推測が当たっていた。
「外見や性格は似てないが、似とるな」
「はい、似ておりますね」
神界を旅したララナは、創造神アースの創った神神と何人も会っているし、創造神アースが創った星星も目にしている。それらを含めて世界の全ての起源を創造したのが創造神アース。ララナ達はその転生体であるから魔法に優れるのは当然であろう。
「ぶっ飛んだ話だが、俺達の魔法は創造の力の片鱗なのかも知れんな。人智を超えた力ゆえに魔力も感ぜられんとするなら納得がいかんこともない」
「オト様のご高察ですので恐らく的中しているかと」
「それはちょっと過信しすぎな気はするが、特に論証があるわけでもないし、今はこんくらいの認識でいいやろう」
と、言ったオトが、不意にララナの手を握り返した。
「ふゃぁっ!」
「なんやの、いきなり」
「ひぇっ、そそそのっ」
今の今まで自分の力しか加わっていなかった手に外圧が加わったことにララナは思いのほか驚いてしまったのである。拒絶されるのではないかという恐怖感はあっても握り返されるという展開は全く予想していなかった。おまけに誰にも触れられたことのない肌は異常なほどに敏感だ──。
「汗がすごいな。死体なのに代謝はあるのか、蘇生魔法が細胞の壊死を食い止めたからか、魔力の死後還元現象に積極性も観られんし」
「えっと……、汗については私もよく存じません」
おかしな話のようだが、ララナの肉体はオトが指摘したように蘇生魔法の反動で一度死んでいる。死んでいるというのは心臓が止まっているということである。肉体を維持できているのは一二英雄も救った蘇生魔法の影響と、全身を覆っている障壁がララナの肉体の腐食を食い止めている。魔法的反動を障壁が防げないことや自分の放った蘇生魔法が障壁を無視して辛うじて肉体を救ってくれたことは魔法学的な理屈で理解できたが、発汗を促すような作用はどこにもないはずなので、ララナは理屈が解らない。
「ふむ。蘇生魔法が反動を相殺するに至らんかったとは推測がつくが、なんとか凍結できた肉体を障壁が徐徐に解凍・再生しとるんやろう。裁者であるところのアデルの力で障壁は作られとる」
「仰る通りです。お兄様が私を保護するためにと幼い頃に施してくれたのです」
正式名称は〈全耐障壁〉という。オトはそれすら知っている。
「魂に干渉する力で、魂の器である体を保護してある。が、主目的は別──。頭がキレるな。自損する可能性を見越して魂の身体再生作用を最大限発揮できるようにしてある」
「お兄様は私が蘇生魔法で死亡することを──」
「そういうことやな。そしてそれをやる可能性も。ただ、それも可能性の一つと見越してのことで、最大の目的は、ジーンに狙われたとき保護できるようにって意味だ」
創造神アースの魂を持っているから。
「お兄様のいう保護に、左様な意味が……」
ララナも想定していなかった。それに、アデルもそんな話をしていなかった。ジーンが滅びてララナが狙われる心配がなくなったから話す必要がなくなったことは想像に難くないが。
「ところでオト様、そこまでご存じということは、私と未来のオト様との関係もご存じなのでは。オト様の捉えた記憶の中に私の記憶もござりましょう」
「そこは意識しんようにしとるんよ。先にも述べた通り過去の未来改変がねじ曲がると現在に支障が出かねん。やから、過去のお前さんを意識させるようなことはいうなよ、結構大変なんやからな、意識せぇへんってのは」
知っていることを知らないふりをする、と、いうレベルの話ではない。体の内側で起こる神経的・反射的な認識動作が起こらないようにすることを意識的に行うのである。それができるということは、目の前で不意に花火が爆ぜたとしても「瞼を閉じる」という反射的動作を意識的にやらないことも可能ということに等しいので、最早人間の業を超えている。進化の過程で培ってきた生存本能や遺伝子を捨て去らなければそんなことはできない。
「畏まりました。では、その点は触れません。触れませんが、」
ララナはオトの手を握ったまま立ち行かない。
「さっきから挙動不審やな。握り返したのがそんなに意外やったか」
「それ自体も驚かないわけではなかったのですが、その、肌が、思いのほか、か、過敏と申しますか」
「こそばいん」
「それが、その、こそばゆいのもございますが」
「ああ、なるほど、ね」
と、オトが察して、しかし手を放しはしない。
「俺は性的に欲求不満やからこのまま家に連れ込むとお前さんを襲う自信がある」
「ふぇ!」
「ということで、俺は一人で行く。お前さんはあとから一人で帰れ。いいな」
「は、はい。あ、その」
ララナはオトの手を放しかけて、「先のお言葉は──、お答と受け取らせていただいてもよろしいのですか」
「恋愛初心者め、早合点すんな」
木陰の外。オトが雨降る路地へと出て、ララナは手を放す。
「女に告白させたんやからこっちの気持を伝えんのは男として終わっとるやん。ただ、お前さんのことを好きかどうか俺自身がまだ判らん。欲情するくらいには女として観とるから、諦めずに俺に向かってきてよ。その間に、ゆっくり考えさせてもらうわ」
緑茶荘方面へ歩き出したオトが、一度振り返って、「ああ、一つ言い忘れたな」
「なんですか」
「俺は本当に何もせん男の癖に、女に手を出すのは早い。仮に俺が気持に応えたなら、お前さんに取っては地獄の始まりと考えたほうがいいぞ」
山田リュートや鈴音と付き合っていたことを考えれば、その手の早さは本人に言われるまでもない。ララナはオト一筋だが、オトにも愛情を傾けろと言うつもりはない。愛は、常に無償であるべきだとララナは思っている。
「私から、改めて申し上げます。私は、」
「いわんでも解っとる」
「……、はい」
ララナ自身がオトの幸せになるならそれがいい。ただ、オトがそうと感じないならララナはオトの思う通りにしてほしいのである。綺麗事だ。実際に振られたら泣くほどつらいだろう。それでも、ララナはオトの幸せが自分の幸せになるとは確信している。オトの不幸が自分の後悔になるとも。そうでなければ手を握らなかった。その手を握って放さなかったのは、彼が孤独なままで不幸に突き進んでいくのを見過ごせなかったからなのだ。
ララナの真意を察したであろうオトが、いつもの無表情で、
「損な性格やな。でも、そんなお前さんやから、俺は記憶の砂粒を拾い上げることができた」
そう言って、去っていった。
ララナはオトの背中を見送った。死した体が火照っている。両手の記憶が高揚の波を運ぶ。それらは所詮、ようなものという錯覚なのかも知れない。が、ようなものでは片づけられない心の脈を、ララナは感じて止まない。
オトを助ける。そろそろ、その足掛りができたと思っていいだろうか。取りつく島もなかった最初と比べれば間違いなく距離が縮まった。ララナとしては自分の全てを伝えきった心持で、少しずつではあるがオトからも気持を伝えてもらえている自信を得た。
無論、なんの緊張もなく胡座を掻けば彼は遠退いていくだろう。そんな予想が当たらないように、ララナは積極的にオトに関わっていく必要がある。先の「みんな死ねばいい」発言もある。彼を救う道程は長く、その入口に立ったばかり、と、いえよう。
……気合を入れて頑張らなくては。
障壁が雨を退けることは知っているが、ララナは交流の余韻に耽って木陰を浴した。
名前は伏せられていたが、知人であれば朝の報道番組で堤端総が逮捕されたと察することは簡単だったようだ。
堤端総は看守に呼ばれて留置場から出て、面会室にやってきていた。穴の空いた透明の板。隔てられた空間のこちら側と向こう側で、世界が大きく異なることを堤端総は知った。
「──自由に立ち上がることも許されないことがこれほど苦痛だとは思いもしなかったな」
夕と言うにはやや早い時間に訪ねてきた二室ヒイロに、堤端総は溜息混りに言った。
「ぼくは、本当に法に触れてしまったんだと、いたく思い知らされるよ」
「駅の破壊と、被疑者、いや、彼を逃がしてしまったんだよね」
実質誤認逮捕された竹神音のことも報道で名前が伏せられていたようだったが、二室ヒイロが竹神音の存在に感づいている。
「ぼくはこの通り。彼を責めるつもりが自分の身の振り方を誤ってしまった」
やり方が間違っているとは気づいていたが、「彼が昔のように戻ってくれるなら十分な賭になると思った」
「賭には、勝ったの」
「判らない。罪の意識があるのか一度は留置場に戻って、昼には釈放されたようだ。広警は勿論、堤端産業や魅神産業の調査員でも、追加の犯罪事実を見つけられなかったということだろう」
「会社のほうで調査もしていたんだね」
「尽くせる手はなんでも尽くす。それがぼくの、堤端の末裔の特権だろう」
「……」
二室ヒイロが難しい顔をしているのは竹神音が過去の犯罪について責任を負っていないからだろうか、と、堤端総は思ったが、
「……なんで今だったの」
二室ヒイロが尋ねたのは堤端総の行動。「もしかして、彼が捕まったのが総君の罠だったりしたの」
「っはは……、さすがはヒイロ。そう、ぼくの罠だよ。強引な手段だったから、犯罪事実は偽装だとプロにはバレてしまったようだが」
「本当に強引な手段を。軽率すぎだよ。それにその選択に意味はあったの。最後に彼を逃がすつもりだったんなら最初に一対一で話しておけばよかったんじゃない」
その疑問はご尤も。堤端総だって部外者ならそうしたかも知れない。
「ぼくは、ララナさんに惹かれてる」
「……それと、何か関係が」
「彼に殺された鈴音さんのことも、好きだった」
「そうだったんだ……」
「だから、警戒しすぎたし、欲張りすぎたんだ。ララナさんに万一のことがないよう、ララナさんを彼から遠ざけようとしたのがメインプラン。彼を陥れるのはその作戦が失敗したときの保険だった。ぼくはララナさんを甘く観ていた。捕まった彼と面会して責めを食わせるつもりだったけど、ララナさんの署名運動が早すぎてぼくが面会可能な今日、彼が釈放されそうだった。事実そうなってしまった。保険が足りなかった、いや間に合わなかったのか、そもそもなかったのか……」
「だから強引な手を。留置場からの脱走は彼への心象を悪くするし、それ自体が罪に問われかねない。拘束時間を引き延ばせれば面会する時間も来るだろうし、いや、それならどうして総君は木下城に彼を連れていったりなんてしたの」
「そんな情報も出回ってるのか。……それが一番彼に効くかな、って、思ったんだ。ぼくら仲良しメンバ全員が行って学んだ場所、それも、彼が率先して桜を助けた場所だから。想起した優しい頃の記憶に更生を促されるんじゃないか、ってね」
「賭の結果は判らないんだよね」
「面目ないけど。もしかしたら母さんが手を回して犯罪行為を隠蔽してくれるんじゃないかって期待もどこかでしていたかも」
「呆れるほど、だね……」
「そう、だね。(甘いな、ぼくは……。)しかもぼくは、彼とララナさんの関係をお膳立てしただけだったような気もしてる」
「え、二人はそんな関係になってるの。昔の彼ならいざ知らず、聡明な彼女が──、あ」
「算数や数学、記憶力はどうか知らないが、彼の頭脳や魔法が優れるのはぼくらが一番知ってる。性格が豹変しても、彼が孤高であることに変りはないんだ。そんな彼と、シンパシを感じたんだろうと思う」
「たった一日で彼を釈放させてしまうような人だものね。あのバイタリティは目を見張るものがある。まるで、昔の彼のよう──」
身近な人人にとどまらずダゼダダじゅうの人人を助けて回っていた幼い日の彼のよう──。だから、堤端総は一つ納得している。堤端総は昔、同性とは知らず言葉真音に惹かれたことがあった。橘鈴音にも惹かれた。そして聖羅欄納に惹かれた。彼・彼女の生命力や知性は、眩い輝きを放っていた。
「ところでヒイロ、なぜ面会に」
と、堤端総は自身の疑問を伝えた。
「ご挨拶だね。友人の逮捕を知って駆けつけないのは非情だと思うんだけど」
「淳も桜も来ないけど」
「……報道を観てないんじゃないかな。って、ボクが連絡すればよかった話かな。メール一つで済むことをしてないんだから」
「葵や太一達も来ないけど」
「……ごめん。寂しいよね」
「いや、その、ごめん、ぼくもヒイロを困らせたかったわけじゃないんだ」
善良な一般人と罪人の世界が、わずかな空気で繋がっていた。
「用なら、じつはあるよ」
と、二室ヒイロが言った。「いろいろあるけど面会時間に限りがあるし、手短に済ますね」
二室ヒイロが語ったのは、言葉真本家当主と警備大臣が逮捕されたと報道されたこと。そのあと、気持を語ってくれた。
「総君がボクの敵になるというようなことをいったけど、こうなった今、敵も味方もないよ。ボクは友人で、ずっと味方だ」
「ヒイロ……」
「じつは調べ物をしてたら棚から牡丹餅、興味深い文献を見つけたから追加で調べてるんだ。それについても、今度、一緒に勉強しようよ。ね、総君」
「(こんなぼくと、一緒に……。)ありがとう──」
手短だった。でも、堤端総は、涙が出るほど嬉しかった。また、自分の軽率な行動が、心を砕いてくれる友人とのあいだに壁を作ったのだということにも気づかされた。
面会時間が終わり、二室ヒイロと別れた堤端総は再び留置場に戻って、自分と竹神音のことを考えた。
……オト、君もこんな気持になったんだろうか。
引籠りとなっていた竹神音の心中を、堤端総は三角座りの膝に想像した。
……君は、誰との接触もなく、孤独を生きていたんだろうか。
だから、橘鈴音と深い仲になったのだろうか。一人、諦めず接触した橘鈴音に心を開いたのだろうか。
竹神音の更生を願って、と、虫のいいことを考えながら監視していた堤端総では、竹神音を更生させられはしなかった。豹変に目を向け、内面に対して積極的になれなかったのが、唯一絶対の原因だ。もしも、二室ヒイロのように他者を思いやる心があり、竹神音に心を砕くことができていたなら、状況はもっと好転していたかも知れない。
ただの想像かも知れなかったがそう思ったのだった。
そして、そんなふうに思った自分が今後竹神音の友人となることはないとも堤端総は思い、竹神音とは相容れないとも──。
……ぼくは、独りにはならない。友人達に誇れるように、必ず、更生してみせる。
事件は突然に起きる。物語でも戦時でもそれは変りなく、日常でもそうだった。
家に戻って夜食を作り、携帯端末で報道番組を確認したララナは、度胆を抜くような状況変化を知ることとなった。
〔──ただいま入りました速報です。昨夜逮捕された言葉真防衛機構開発所元所長の言葉真国夫容疑者の解放を求め、ダゼダダ警備国家に対してテラノア軍事国が兵器による圧力を掛けた模様です。テラノア軍事国は攻撃する準備があるとして、ダゼダダ大陸の北東一〇キロ沖に弾道ミサイルを撃ち込みました。映像が届きましたので、ご覧いただきます〕
男性アナウンサのいる報道フロアから海に映像が切り換わる。現場に居合わせた一般人が撮影した映像は緊迫感に揺れているが、画質は良好であった。流れ星のように赤く光る物体が空から画面奥の海面に落ちる。数秒後、激しい閃光を放って火柱の如き爆発と大きな波を起こした。衝撃波に煽られた撮影者。地を這って、爆発本体を捉える。時間差でカメラのレンズに水飛沫がつき、突風が吹きつけて画面が揺れた。荒れ狂う風が周囲の木の枝を圧し折っていく。そのあと撮影者は危険と判断、退避行動に移って映像が途切れ、画面が報道フロアに戻った。
〔兵器による圧力であることは明白ですが、テラノア軍事国がなぜ言葉真国夫容疑者の解放を求めているのか声明は出ておらず、詳しい関係は判明しておりません。情報が入り次第、当番組でもお伝えします。ご紹介が遅れましたが、今日のコメンテータは広域警察の元刑事で軍事アナリストの天白武蔵さんです。こんばんは〕
〔こんばんは。よろしくお願いします〕
〔早速ですが驚きましたね、ミサイルが近海に着弾していた模様です〕
〔わたしも驚きました。言葉真防衛機構開発所が言葉真国夫容疑者の逮捕後で統制を失っていたためでしょうか、本来発動するはずの迎撃ミサイルが稼働していなかったと考えられます。しかしですね、言葉真の迎撃ミサイルは外周県の各地に在って自動で稼働するはずなんです。システムに異常が生じていたのか、考えにくいことですが停止していたと推測できます〕
〔と、すると、現在国内の防衛機構は全く稼働していないということになるんでしょうか〕
〔いいえ、そういうわけではありません。外周県を担当している言葉真防衛機構開発所は信用を欠いたと言わざるを得ませんが、ダゼダダの国防は相末防衛機構開発所も担っています。こちらは中央県を担当していますが、相末防衛機構開発所に勤める知人に尋ねましたら、「本件を受けて外周県への防衛機構配備を調整している。次の攻撃には配備を間に合わせます」とのことでした〕
〔なるほど。では配備が済み次第ひとまず安心といったところですが──〕
そこまで観て、ララナは報道番組を閉じ、食べかけの夜食をそのままにオトの家を訪ねた。呼鈴を押すとオトがすぐに現れた。
「こんばんは。夜に来るとは」
「夜分に失礼致します。いかが思しですか」
「ワンピース一着で出歩くのはどうかと」
「いただいボレロも腰に巻いておりますがそちらのことではございません」
「大変なことになったな」
オトが玄関扉を足で留めて、壁に寄りかかった。「まあ、想定内だが」
「言葉真国夫さんとテラノア軍事国の繋がりが何か、ご存じなのですね」
「ん。民間人のお前さんに伝えるのは憚られたからいわんかったがな。世界魔術師団の取調べで伝えといたから一応大丈夫かと思った。後手に回ったみたいやけど」
「後手ですか」
何に対して。「打てる策がございましたか」
「広域警察と世界魔術師団が防衛協力態勢を整えとれば、テラノア軍事国の動きを先読みして牽制するとか、そこまで早くなかったとしても弾道ミサイルを撃ち落とすとかできたやろう」
「なるほど」
防衛というものは幾重の網のように張り巡らせるもの。言葉真防衛機構開発所の防衛機構がなんらかの要因で稼働しなかったことに加えて、広域警察と世界魔術師団の防衛協力態勢が整っていなかったために弾道ミサイルを食い止めることができなかったということ。
世界魔術師団は国境を跨いだ捜査を許された警察組織だがレフュラル表大国の組織であるから、他国で活動するにはその国の許可を取る必要がある。言葉真国夫・此方充逮捕に関連したオトの聴取はできたようだが、それ以外の協力態勢は不十分だった。
「弾道ミサイルに意図的な魔力反応はなかったから科学の結晶やろう。脅しの意味があったのは間違いないとして、広域警察が大人しく叔父さんを解放するかが焦点やな」
オトは言葉真の新家出身。言葉真国夫は、オトの父の兄、つまり叔父に当たる。
「外交問題といえども、警察組織が犯罪者を解放することはないのではございませんか」
「いや、考えてもみぃ。世界魔術師団としては親交のあるダゼダダにテラノアの脅しが入ることは自国の不利益になるから避ける。なら、俺から得た情報を広域警察に伝えて防衛協力を申し出たはず。けど協力態勢が整ってない。広域警察が許可を出さんかったか渋ったんよ。叔父さんの件でごたごたしたタイミングやから他国の介入を嫌って助勢を断ったとつい考えてまいそうやけど、そんな在り来りな理由ではないやろう。どういうことか解るか」
第三者に捜査されては不都合があるということなら、
「広域警察にテラノアと通じている者がいるということですか」
「それは少し違う。教えたやろ。総理大臣だ」
「火箸凌一総理がテラノアと繋がっていて、圧力がそちらから掛かっていると仰る」
「それも少し違う。って、これ以上外で話すのも。ちょっと入れ」
オトが奥へ入り、閉まっていく玄関扉に促されるようにララナは入室した。夜間なので扉が鳴らないように静かに閉め、鍵をしっかり掛け、「お邪魔致します」と、声を掛けてからオトの待つダイニングへ。
カーテンが閉めきられ、テレビの光が照らす一室。
立ったままのオトがララナの顔を認めて話し出した。
「火箸凌一は隠蔽工作に動いとるだけやよ。テラノアと通じとったのは飽くまで叔父さん。叔父さんの話が世間に出れば当然、癒着があって逮捕された此方充のことまで掘り返される。それ自体も厄介なのに、ダゼダダの国防に携わる叔父さんが緊張状態にあるテラノアと関係しとるとなれば管理不行届を咎められて、火箸凌一はどうあっても失脚を免れんからな」
だから火箸凌一は世界魔術師団と広域警察の防衛協力態勢に待ったを掛けたのか。
「お待ちください。左様しからば協力態勢を整えて言葉真国夫さんを保護したほうが結果的には安全なのでは。このままの流れですと解放するほかないのです。それは広域警察の沽券に関わりますし、警備大臣不在のいま此方充さんを警備大臣に任命した火箸凌一総理の責任になります」
「此方充が捕まってまだ一日。此方充と一つ穴の狢を探って排除しとったとか引継ぎを含めて指揮系統が混乱中とか、って、言訳を押し通す手もある。暴論を述べるなら、警備大臣代理を立ててそいつに責任を被せることもできる。その上で叔父さんを解放、テラノア軍事国に引き渡して厄介払いする算段やと思うぞ」
「まさしく暴論ですね。仮にそうなりますと、貴重な防衛機構の技術がテラノアに渡ることになってしまいますが、その点はどうするのでしょう」
「火箸凌一は攻撃兵器の開発を訴えとる過激派思想やから、テラノアに叔父さんを引き渡したあと、叔父さんもろとも消し去ることで技術の流出を食い止める。テラノアの攻撃的な姿勢も叔父さんのテラノアとの繋がりも利用し尽くして、公約であるところの攻撃兵器の開発を正当化して世人を納得させ、自身の攻撃的思想を浸透させるのが最終目標だ」
「なんと愚かな……」
攻撃の既成事実ができてしまったら、引くに引けなくなり、攻撃的思想が深まり、果ては根づいてしまう。
「まさしく暴論やろ。まあ、これはまだ予想でしかないから、後ろ向きに考えた一パターンと捉えるくらいでいい」
人生と思惑と空気が絡み合って、定まらぬ幾多の分岐の先に未来がある。しかしながらオトの無表情から発せられた暴論を、ララナは否定することができない。なぜなら彼の推察は、あらゆるモノの記憶を有する記憶の砂漠に下支えされている。不足している情報も過去の出来事から類推することができるはずなのである。
「人間は過ちを繰り返します。過去に似たようなことがあり、オト様はそういった過去の出来事から現在と近未来を予測していらっしゃるのでしょう。従って、外れることはほぼないと観て、最悪の状況を想定して動くべきではございませんか」
「俺は昼も言ったように動く気がない。動きたいならお前さんが勝手に動きゃあよ」
「はい、それは勿論ですが、オト様もご一緒してくださりませんか」
閉じ籠もっていることでオトの精神が病むことをララナは危惧している。
「メンドーだ。ああ、これは別に俺が動くことで捕まるからとかじゃなく、本当に今、俺が面倒くさく感じとるって意味でだが」
「畏まりました」
「なんか吞み込み早いな」
「ご無理を強いるつもりはございません。気分転換は必要かと勝手ながら気を回しました」
「まさに余計な気やな。俺は大丈夫やよ、久しぶりに人肌に触れて気が済んだし」
オトが艶っぽく目を細めて示したのは、ララナの手を握ったことだろう。そのときのことを思い出してララナはどきっとしたが、「でしたら、よかったです」と、オトの心の安定を素直に悦んだ。
「では、私は動きます」
「こんな遅くにか」
「おや、オト様は私の特異性を既にご存じのことと認識しておりました」
「寝んくても平気なんやろ。俺も同じやから判るよ」
「ふむ……」
寝なくても平気というならナルコレプシも怪しくなる。仮に本当だとしても発作の判断はつけにくいが、オトが寝たふりをした場面にララナは心当りがある。
「オト様は狸寝入りがお好きなようですね」
「広警本部でのことをいっとるん。案外執念深いヤツやな。解るやろ、追い払うための建前ってことくらい」
「やはりあのときは狸寝入りでしたか」
「鎌だったか。発作と噓つきゃよかったわ」
と、オトがやや目を逸らして。「まあいいや、バレて困ることもないしな。で、こんな夜中に女一人で動き回るのはいかがなもんかと思うが、お前さんはどう思うん」
「ゆえに、ご一緒してくださりませんか。と、伺いました」
「まずは外出を控えぇよ。最初から思ってはおったが強引な女やな」
「オト様にはそのくらいの勢いが必要だと学んだ次第です」
「押しに弱いのが男の性質やし接触による執着心の植えつけも否定せんけど」
オトがララナに視線を戻した。「お前さんが女として守るべきものを危険に曝そうとしとることに対して俺は抗議しとるつもりなんやけど、伝わっとらんのか」
ララナは頭を下げた。
「申し訳ございません。勉強させていただきました」
「素直なのは美点だ。それに免じて譲歩するが、明日の朝じゃいかんの」
「行動は早いほど有利です。オト様曰くダゼダダ側は既に後手に回っているのです」
「俺の言葉を捉えたうまい攻め方やね。しようがないから一緒に行くことにしよう」
交渉成立。オトが同行を受け入れたところで、ララナは携帯端末を取り出して最新の報道を確認する。
「最近は便利になったもんやよな、こんなメモ帳みたいな機械で世界中の情報が瞬時に手に入る。魔法も時代遅れな気がしてまうよ」
「ご謙遜を。オト様の魔法はきっと何にも劣りません」
「転移や目覚ししか知らん癖にえらい確信を得とるな」
「魔法刃を拝見致しました。空調や電気ショック、魔力を潜める魔術も。これらも含め、私と似ていらっしゃるということで使える魔法のバリエーションや質に疑いはございません」
「高学歴の自信か。鼻につくヤツめ」
言葉と裏腹にやや愉しげに含み笑いをするオトである。表情は相変らず作り物のようだが、それを感じ取れていることも踏まえてララナはオトを理解できているという実感を得た。
「っと、関連情報だ」
オトに続いてララナは口を閉じた。視聴しやすいよう携帯端末を彼に寄せ、ララナは内容に集中する。
〔──テラノアの動きに関連があるのでしょうか、元警備大臣此方充容疑者の金の使い道について判ってきました。此方充容疑者は大臣就任以前から多数の未成年との不適切な関係を持っていたことを供述している模様で、言葉真国夫容疑者から受け取った賄賂の多くを少女買春に充てていたということです。──〕
報道は続いているが、ララナはオトを窺う。
「ご存じでしたか」
「当然。火箸凌一は少女買春をネタに政敵此方充を従僕化。そんで、国防に通暁しとるわけでもない此方充をナンバ2に抜擢した」
「では、此方充さんが大臣を退いた今も変りなく政ができる状態にあるといっても──」
「過言じゃない。火箸凌一が政敵すらも取り込む求心力を持つと示すための看板、それが此方充だ。火箸凌一はそうやって味方を野党にまで広げた政権を樹立した」
「……とんでもないですね。事実上一党独裁ではございませんか」
「同感やね。まあ、腐っとるんやから仕方ない。ダゼダダには火箸凌一ほど尖った政治家がおらんのも痛いところやろうな。と、続きだ」
オトに促されてララナは番組に集中する。
〔つい先程、テラノア軍事国の声明が発表されたようです。警備府の発表の様子をご覧いただきます〕
無機物のように冷静な警備府報道担当官の映像に切り替わった。
「テラノア軍事国からの正式な抗議文が届きましたので、警備府報道担当官から発表させていただきます。読み上げます。
『我がテラノア軍事国は我が国の友人言葉真国夫氏の解放に尽力するとともに言葉真国夫氏を不当に拘束するダゼダダ警備国家に対して苛烈な憤慨を示すものとする。これより一二時間に言葉真国夫氏が解放されない場合、我が軍の総力で以って言葉真国夫氏の解放を完遂することをここに声明する。我が国と我が軍の憤慨に触れることを意図せぬなら、言葉真国夫氏を解放しテラノア軍事国に引き渡すこと。低頭の意思表示は六時間を目処とし、それ以降の表示は偽りと判じて我が国は武力行使を確定するものである。
3023/12/04 ダセダダ標準21:50現在
テラノア軍事国国王テラノイ』
以上です──〕
続いて質問を受けつけているが記者席にマイクがないのでやり取りが不鮮明。
ララナはオトに質問する。
「テラノアの声明がなぜかダゼダダ時間で示されておりますが、声明文のままでしょうか」
「刻限を解りやすいように示したってことは、一秒の遅れも許さん、って、いう脅しやろう」
「テラノア軍事国国王は現在一七世です。署名を家名に簡略化したようですが、意図はなんだと思しですか」
「自分が唯一絶対の国王という誇示やよ」
「なるほど。先軍主義で自尊心が強いですから、ご高察の通りでしょう」
ララナは現テラノア国王ゾーティカ゠イル・テラノイ一七世と面識があるので実感がある。
「テラノア軍事国、それもかの国王と言葉真国夫さんに繋がりがあるとは。一体いつからでしょう……」
「確か一六年前だな」
ララナがゾーティカ゠イルに謁見したのは九年前。言葉真国夫とはそれ以前から繋がっていたということだ。
「ダゼダダへの武力外交が活発化したのが一五年ほど前。因果関係がありそうですね」
「外交手段の明示やよ、叔父さんへの圧力をかねた、ね」
「友人とは呼んでも左様な扱いですか」
「三大国の一角なんていわれながらテラノアの国際上の存在感は薄かった。なりふり構っとったら余所にいいようにされる」
弱い地域は強い地域に支配されていく。神界でも嫌というほど観た光景であるが人間も長い歴史の中で侵略・防衛・支配・隷属を繰り返してきた。現代でのそれは金・人材・資源・デジタルに移行しているといってもいいが、それらを持たない地域や個人が相手であれば相応の手段を用いることになる。脅しという原始的な手段はその一つだ。
「言葉真国夫さんの利益は脅しを掛けられるに足る大きなものだったのでしょうね」
「叔父さんは腐ってもダゼダダの人間だ」
「その心やいかに」
「人はそれのために命さえ捨てることがある」
「……命以上のもの──」
「今は叔父さんの動機なんぞどうでもいい。脱線だ」
オトが話を戻す。「テラノア軍事国の弱みは、防衛機構が脆弱で国内から軍を動かしにくかったことにある。三大国戦争時点ではダゼダダに強大な軍事力があるとは把握できず、ダゼダダ大陸をレフュラル大陸侵攻の橋頭堡とせんとしてテラノアは軍を国外に出すことができたが、現代は違う。どんなに強がっても、防衛機構の弱さを衝かれる危険性を考えんわけにはいかんかった。それを象徴するような出来事が九年前に起きとるしな」
「テラノア軍事国の南に位置するメリーツ闔国との緊張ですね」
メリーツは領地が近いことから、勢力拡大を狙うテラノアに狙われていた。九年前は緊張が最も高まった時期で一長命達が渦中にいた。メリーツ側についた一長命がテラノア兵団長を一退させてメリーツ侵攻を食い止め、一長命の仲間が防衛力に穴のあったテラノア本国を攻め、国王の戦意を削いだことでテラノア兵団が完全撤退、メリーツ軍との戦闘が回避され、徐徐に緊張が緩まった。その約一年後、一二英雄の誕生とともにメリーツのバックに一二英雄の長がついているという噂がまことしやかに流れ、テラノアは手を出せなくなって今に至る。
「九年前たったの数人に攻め落とされたテラノアだ。防衛機構開発所所長の叔父さんとの結びつきが一気に加速した原因はそこにある。そうして水面下で防衛機構を強化し、攻撃兵器に偏った国であると見せかけて世界を油断させるために、テラノアはダゼダダに攻撃兵器をちらつかせて政治的な不利を緩和してきた。現在はしっかり防衛機構を調えて、国内の守りと国外への進軍を可能とした、まこと軍事国としての総力を得たわけだ。それにテラノアには、──」
「……、いかがされましたか」
「いや、なんでもない。ってこともないけど、時期的にもうすぐやろうからそのときにでも話すわ」
「はい……」
オトが言葉にしなかったのは何かの推察か。さておき、ララナは世界情勢に関して重要なことを理解した。
「テラノア軍事国が国外へ進軍できないと世界は誤認しております。言葉真国夫さんとの関係を深読みしても、まさか国内の防衛機構が万全とまでは考えないでしょう。と、なると、最悪の事態は、世界大戦です──」
「それも、テラノア兵団に不意打ちされる形での幕開けだ。真先に狙われるのは三大国戦争でテラノアと同時にレフュラルをも退けたダゼダダ警備国家。ダゼダダを一気に攻め滅ぼしたあと、愕然としたレフュラルが浮足立った隙を衝くのが最も効率的。メリーツは三番目に攻め落とされることが予想されるが、そこまで行くとメリーツが潮目を読んで白旗を振り、戦が起こりもせんやろうな」
「言葉真国夫さんを解放せよとする声明や国王署名の強気な姿勢から推測しても、このままではダゼダダは確実に攻め落とされてしまいます」
「それも含めた後手だ」
オトが腰に手を当てて、「世界魔術師団と協力態勢を整えとれば、ぐだぐだな今の広警がテラノアを迎え撃つ事態を避けられた。現況、ダゼダダ国内におる世界魔術師団は全く動けん。中には態勢にも秩序にも縛られずに勝手に動くヤツもおるかも知れんが秩序立って動かん組織は一流の軍隊が相手では恰好の餌食だ」
オトの口調は淡淡としているが言葉には緊迫感があった。
「テラノア兵団は、既にダゼダダ国内に潜伏しているのでしょうか」
「とっくに配備済みやよ」
「レフュラルの企業が占有しているはずの空間転移装置を使わずして可能なことでしょうか」
「軍事国のテラノアにこそ必要な魔導技術やから、密かに拵えとる。常に侵略を考えとるから無論公表はせん」
テラノアは情報開示に消極的だ。三大国戦争やメリーツ領海衝突未遂があって国際的に推測がされたのであって軍事力の全容・実態は明らかでない。戦略上、軍隊を自由に長距離移動させることを考えないはずはなく、であれば、空間転移装置を開発していないほうが不自然である。従ってダゼダダ国内にはテラノア兵団が潜んでいる、と、いうのがオトの意見である。
「テラノア国王の声明にあった刻限、叔父さんを解放するか否かをダゼダダが表明せんといかん約六時間後までは、確実に潜伏する。言い換えれば、以降安全の保証はない」
明日午前三時五〇分が、ダゼダダ存亡の分れ道である。
ララナは携帯端末をしまって、質問する。
「ダゼダダ国内にテラノア兵団が潜伏済みと仮定すると、ダゼダダが言葉真国夫さんを引き渡したとしてもテラノア兵団は退きませんね」
「ダゼダダを叩くならむしろそのタイミングやろう。言葉真国夫を引き渡せば時間を稼げる、と、考えて警備府は机上で作戦をこねこねするやろうからそのあいだ広警は指示待ち状態で膠着する。天白和のことやから警戒はするやろうけどそれがどこまで有効かは怪しい」
「ダゼダダが攻め落とされることは、決定的ということですね……」
ララナは、「いまさらなのですが」と、もう一つの疑問を口に上す。
「三大国戦争でレフュラルとテラノアの軍隊を退けたのはダゼダダ政府の命を受けた言葉真家であると私は学びました。オト様はご存じですか」
歴史の授業をほとんど受けていないであろうオトでも記憶の砂漠を得て知ったことがあるだろうと考えて、ララナは質問した。
案の定オトは知っていたが、それは記憶の砂漠を得るより前のことだった。
「昔から知っとったよ。両国を退けたのは俺のお祖母さんとその部下やから」
「言葉真家が強大な魔法力を有するとは聞き及んでおりましたが、恐れながらお祖母様のことを存じ上げませんでした」
「ダゼダダの教科書にすら固有名詞が明記されとらんから仕方ないわな。戦前のダゼダダでは最強の魔術師なんていわれとったらしいぞ、って、お父さんが自慢げに話したことがあった。教科書に載っとらんからお父さんが小さいころ周りに噓と思われたらしくて、ショックやったみたいやな」
「二室さんが見せてくれた新聞にも固有名詞がありませんでした。ダゼダダでは英雄視されるべき方ですのに、なぜ……」
「お祖母さんが勲章授与式を蹴ったんよ。戦場に行く前にも当時の総理大臣に『人殺しに名誉も何もあるか』って啖呵を切った」
「気っ風のよい方だったのですね」
「まあね。それで総理大臣の怒りを買って歴史から抹消されたわけ。ある意味それが武勇伝になっとる気はするが、そんなことがあって家系の魔法力はともかくお祖母さん個人のことは誰もが知るところではなくなった」
「オト様の才能は、魂に加えて隔世遺伝もあるのかも知れませんね」
「そればかりは記憶の砂漠をもってしても判らんが、俺もそう思う」
感傷に耽ることもなくオトがすぐに話し出す。
「お前さんはどう動くん。さっきから話しとる通り、ダゼダダはどの道テラノアと戦闘する。お祖母さんはとっくの昔に死んでまったし、叔父さんが逮捕されて言葉真家が弱体化しとる。しかも叔父さんはテラノアに取られた状態で交える戦だ。テラノア優位で進むのが判りきった戦いともいえる。世界魔術師団は手が出せん。広域警察も警備大臣の件で落ちついとらん。お前さん個人ができることといえば、一二英雄に匹敵するその能力でテラノア側を押しきるくらいだろうが、それで全てを解決とはいかんやろう。なんせ、この国は敵が多い」
そんな国があるなら、テラノア同様警戒対象だろう。広域警察がそこまで予想して動いているならいいが、予想していなかったら、
……またも戦争で傷つくひとが増えてしまいます……。
一般人にこそ被害が拡大する。そうならないように、ララナは立ち回りたい。
「テラノア以外に、ダゼダダ侵攻を企てている国があるのですか」
「ある意味では、警備府が最も戦いづらい相手が準備を着着と進めてきたからな」
段階を踏んだようなオトの言回しは、もったいぶっているようにも聞こえて、ララナは焦りを感じた。
「どちらですか」
少し早口で尋ねたララナに、オトがすっぱり答えた。
「既にダゼダダにおるよ」
──一〇章 終──