九章 孤独と孤独
感情が伴っても記憶がないことがあるのだとララナは初めて知った。鍋をつつきながらオトと雑談に興じて、舞い上がって、何を話したか憶えていなかった。ただただ幸せで、ただただこの時間が長く続くことを祈っていた。
鍋はやがて底を見せ、炊飯器は空となり、デザートのレモンチーズケーキも皿を残すのみとなって、あっという間の出来事だったかのように昼食が済んでいた。
「袋に残っとるこれはどうするん」
と、箸を置いたオトが示したのは、
「蜜柑ですね。召し上がりませんか」
「食うけど、いや、そっちじゃなくて、米が残っとるやん。四袋か」
「お裾分けです」
ララナはテーブルの上の買物袋から生米を取り出して、オトの前に置いた。「ざっくりと四食分ですが、小分けなら八食分になりましょうか。お米は計量カップか何かで掬って、同じ嵩の水で炊いてくだされば──」
「ありがたいが──」
「要らないなどと仰らず。私……、オト様とこうしてお話ができてとても嬉しかったのです。お礼としてお受け取りください」
「ふうん……。じゃあ、とりあえず置いとこう」
「はい。ありがとうございます」
「そりゃこっちが言うことやろ」
生米の入った袋を纏めて冷蔵庫に収めたオトが、テーブルに戻って蜜柑を手に取る。ララナもオトに続いて蜜柑を手に取り、皮を剝き始めた。
「ここで質問」
「はい、なんですか」
「皮を剝いたあと蜜柑の袋が纏う繊維質『アルベド』を、取り除く派・取り除かない派、お前さんはどっち」
「取り除きません。おいしいですよ」
「ふむ、やはりできるな」
できる。それはメンドーに並ぶオトの口癖だろうか。彼の手許を伺ってララナは頰が緩む。
「オト様もお取りになりませんね」
「メンドーやし、ほら、俺は乾燥肌やから、こういうところでちょっとでも多く美容成分を補充せんと」
肌の黒ずみを消し、潤いを与えるビタミンAやビタミンCが豊富な蜜柑は、体外に排出されやすいビタミンCと同時に、ビタミンCの吸収を助けるヘスペリジンなどを含むアルベドとともに食べるのがよいとされる。
「運動不足であろうオト様にも蜜柑は適した果物ですね」
「動脈硬化や二型糖尿病を始めとする生活習慣病、ほかにも特に骨粗鬆症に有効なβ-クリプトキサンチンも豊富に含まれてとるって話がテレビでやっとった気がするな」
「はい。β-クリプトキサンチンは『自然に』甘い蜜柑であるほど豊富とされております」
甘い蜜柑の見分け方で重要なのは大きく分けて蔕・軸・皮・大きさ・表面の五点。蔕が黄色掛かったもの。切られた軸が細いもの。皮の色が濃いもの。皮の表面のぷつぷつが多いもの。サイズの小さいもの。「菊蜜柑」と称される表面がデコボコしたもの。このうちいくつか当て嵌まれば蜜柑は概ねハズレがない。積まれた蜜柑は圧迫された下層の蜜柑が腐りやすいので、箱買いならひっくり返してから開けて食べていけば腐敗しにくくなる。さらに、軸を下に向けて保存しておけば軸からの水分蒸発を防げるため比較的長くみずみずしい蜜柑がいただける。
「余談やけど、缶詰やドライフルーツみたいな加工品に関してはビタミンCが少なくなるし糖度が高いから、既に糖尿病に罹患しとるようなひとにはお勧めできんな」
「ええ。一方で、皮を剝いて食べる自然の蜜柑は健康食品といっても過言ではございません。β-クリプトキサンチンは油によって吸収率が高まるため牛乳やヨーグルトなどと一緒に食べるか食後に食べるのがよく摂取目安は一日二、三個、とは、余談の余談ですね」
蜜柑話に熱が入ってやや脱線したので、ララナは少し軌道修正する。「乾燥肌には緑黄色野菜や納豆などが有効と聞いたことがございます。オト様に差入れをさせていただく際はお肌によいものを考慮致しますね」
「お隣さんやからか」
「それもございますが、端的に申しますとオト様の健康状態を慮っております」
彼の症状は栄養失調とか不健康の一言で済ませていいのか疑問である。
「さっき意識が飛んだのを気にしとるん」
「私が存じ上げないだけで、ほかにも不調のサインをお出しでないとも限りません」
「ん、そうやな、立ち眩みとかはしょっちゅうかな。頭痛もあるし感覚の麻痺もあるし目も見えんくなってきたし──」
「どこまでがお戯れでしょう」
「全部だ」
無表情で。
ララナは怒っていないがあえて怒ってみせる。
「オト様、私は真剣なのです」
「解っとるよ。けど、これもまた暇潰しだ、ぶつくさいわずに付き合ってくれ」
突然に嘘を連ねるからララナとしては油断ならないのだが、オトが挙げた症状はないということ。ララナは少し安心した。
「では、当面は肌によいものを拵えさせていただきますね。意識喪失については少し調べてから対策致します」
「いや、不要だ」
「いいえ、ここは退きません。必ず作らせていただきます」
「あいや、それは頼む、作ってくれ。俺が不要といったのは、意識喪失の原因究明だ」
オトに料理を振る舞う機会ができたことはよいことだ、と、ララナはうなづくが。
「不調の原因をご存じなのですか」
「知っとるっていうか、たぶんこの世の誰も判らんことだ。原因不明ってヤツやね。昔、総が調べたことがあってな」
「昔に。不調は最近生じたものではないのですか」
「ああ。物心ついた頃にはもうあった。本家ならいざ知らず新家出身やから昔もお金がなくてね、病院での診断はされとらんが、俺の不調は、俗にナルコレプシなんていうね」
「ナルコレプシ……、睡眠障害の一種ですか。原因が突き止められていないものもあるとは耳にしたことがございますが、オト様の症状が──、しかし、少し妙です。オト様の意識がなくなっていた、いいえ、不意に眠っておられたのはほんの一瞬。睡眠発作の症状は最低でも数分続くのではないかと」
ナルコレプシの症状は、強い眠気を生ずる睡眠発作を始め、情動脱力発作・睡眠麻痺・入眠時幻覚の四種類が挙げられる。それぞれ発症時間が違い、オトの発作時間と一致するのは、激しい感情に反応して筋肉の力が抜けてしまう情動脱力発作。ただ、情動脱力発作は筋肉の力が抜けるだけ。姿勢が崩れたりするものの意識はちゃんとある。姿勢をそのままに意識が飛んでいた、と、いう表現をしたオトとは症状に食い違いがある。
オトが情報を補完する。
「堕ちたとはいえ魔法の技術はあるからな」
「何かしらの治癒魔法で症状を緩和していらっしゃる」
「治癒魔法じゃなく力技、反射発動型覚醒魔法だ。俺が眠りに落ちた瞬間に叩き起こす魔法といえば早いな。必要に応じてセットしとるよ、目覚し時計みたいに」
「夜間までセットしておくと眠れませんからね」
「そういうこと。だがまあ、この魔法は不完全だ。REM睡眠が発生したときに反射的に発動するにしても、時間差があって一瞬寝てまう。意識喪失はそういう理由やから気にするな。年食えば治るなんて話もあるし、気長に寛解を待つよ」
そう言ったオトが蜜柑を食べて、一息ついた。
「ふぅ……、米もそうやけど、嚙めるものがあるっていいね」
「ハードクッキはお嫌いなのですよね」
「それはそれ。煎餅なんかは嫌いじゃないし」
「お団子もきっとお好みですね」
「察しがいいな。しっかし久しぶりやなぁ、蜜柑、めぇらおいしいわ」
「(めぇら。)おいしいと感ずるのは、きっと体が必要と感じているのです」
「ん、解る気がする。最初こそうまかったはずの具なし焼きそばも、ずっと食べとったら罰当りにもまずく思えてきたからな」
「体が不要と訴えているのです。私の体は野菜やお菓子ばかりを求めてしまうので困ったものなのですが」
「それは糖質の過剰摂取が原因やない。最近の野菜は甘い、つまり糖質が多いってことやろ。野菜や果物の糖質は砂糖をまんま摂るよりは吸収率が低いと思うが、糖質はドーパミン神経系を刺激するから快感を得ることと同じらしい。その神経系はどんどん鈍感になって糖質摂取量が増え、終いには過剰に求めるようになる。かなり雑やとは思うが、そんな流れで薬物にも勝る中毒性を発揮してまうのが糖質やと俺も実感するところだ」
「──ご解説いただいて気づきました。なるほど、中毒性は落し穴でした……」
オトの不健康を論っていたララナだが、自身の食生活も見直そうか。
一つ目の蜜柑を食べ終えたオトが、二つ目の皮を剝いて口を開く。
「ところでさ、お前さんはお菓子で何が好き」
「ケーキ類は概ね好きです。駄菓子も好きですので、たまにいただきます」
「へえ、駄菓子食うの。ちょっと意外」
「なぜですか」
蜜柑を半分に割って右手側を丸ごと食べたオトが答える。
「いやさ、出自はともあれ名家の令嬢なんやから、食事もおやつも一流のシェフなんかが作って駄菓子の入る余地はないもんかと」
「聖家は料理人を雇っておりますが、飽くまで血縁のない家でのことです。悪神討伐戦争へと繋がる旅に出てからは特に自炊しておりました。駄菓子は自炊では出ない味があるので、食に変化をつけるため携帯しておりました」
「なるほどね。じゃ、ここで質問。駄菓子といえば」
「私はレイスクープチョコです。平たくて長い五〇ラルで買えるものがとてもよろしいです」
「糖質中毒確定やな。でもまあ、解る、俺もついつい買っとった。あれってスナックをチョコで覆っとるだけっぽいけど家では作れなさそうやよな」
「私は調理に挑戦致しました」
「マジか」
一お菓子の話題とあって二人とも前のめりだ。
「あの軽い食感と、チョコのなんともいえないねっとりした口どけがうまく再現できません」
「スナックのほうはコーンを練った生地をオーブンで焼くんやよな」
「はい。コーティング用チョコには生クリームを配合した生チョコを用意、焼き上がったコーン生地に掛けて冷やして完成です。が、生地もチョコもうまく再現できておりませんでした。生地が少し重くチョコがやや泣いておりまして、残念な仕上りでした」
「アレの原材料に生クリームは入ってなかった気がする。テンパリングのやりすぎや糖度で口当りが違ったか、スナックに浸みんよう素早く冷却する必要があるか、生地に問題があるか、ひょっとしたら駄菓子特有の添加物が決め手か。チョコにクラッシュピーナッツ入れてない点とか、はしょった点やアレンジしすぎな点も踏まえて風味を本物に寄せるべきやな」
「オト様」
「なん」
「クラッシュピーナッツではなくクラッシュアーモンドです」
「細か。じゃあなんでナッツ抜いた」
「うまくできあがったら妹達にも食べてほしかったのですが、年少の子に脂質ばかりあげては毒です」
「その配慮があって糖質に気を配れんとは、まさしく落し穴やな」
「この辺りに駄菓子屋さんはございますか」
「この流れで食いたくなっとる相手にはツッコみも無駄やな」
「つっこみとは」
「なんでもない。初等部の横にもあったが、ここからやと商店街方面が近いな」
「研究のためにも、オト様もいかがですか」
ララナの盛り上がりにつられるようにして聞いていたオトが姿勢を戻す。
「俺は金ないからいい。それにだ、お前さんはお前さんで糖分を控えぇ。今に家畜のように肥えるぞ」
「それはないと思いたいですが……」
「美しさにスタイルキープは必須。ちょっと我慢すればケトン体回路が働いて脂肪をエネルギに換えて自制できるって話よ。筋肉量維持目的に蛋白質を摂りつつ自重なさい」
「(なんだか麗璃琉ちゃんのようなお叱りです。)仰る通りに自重致します」
勝手に盛り上がった直後になんだが、ララナはオトを巻き込む。
「オト様、お好きな駄菓子はござりませんか」
「俺はクイーンドーナツかな、一つ小包装されたヤツで三〇ラルする」
「存じております。円を描いたオーソドックスな外観やシンプルな材料と味つけでロングセラとなっているものですね。私も旅中携帯したことがございます」
「旅ならチョコのほうが合理的やとは思うが、そうか、お前さんも食べとったか。そこそこのカロリがあるし、よく動くなら都合がいいかもな」
と、オトが納得して、手許の蜜柑を食べきる。
「『六人介せば誰にも通ず』とはよくいったもんやな、存外世界は狭い。一週間前まで見ず知らずやったお前さんと、同じ駄菓子を食ったなんて話をしとるんやから」
「感慨深いです」
「まあそれも、なんだかんだ趣味が合っとるからなんやろうけど。この歳になって駄菓子がどうのお菓子がどうのと話す相手は男にはおらんからな」
と、オトが言って、「話を変えるが、お前さんは仕事せんでいいの」
「唐突ですね」
「お前さんの仕事は治安が悪くなった原因の調査とかが重要やろ。今日は土曜。休日前の労働者を始めとして週末は気が緩むから調査にもってこいやと思ってな」
急な展開であったが、人人の隙を狙う犯罪者が動く、と、いうオトの示唆にララナははっとさせられた。
一〇二号室にオトがいることで一〇三号室に借手がつかない可能性はあるが、この町の治安悪化も注目すべき要素だ。オトの助力で癒着が明らかとなった言葉真国夫と此方充が世界魔術師団に逮捕され、広域警察に引き渡されたと昨夜報道番組が伝えていた。それによって貧民問題に解決の兆しが見えたといっても未だ手放しに悦べる状況ではない。そちらは一調査員のララナが一人で解決できる問題ではないだろうが、一〇三号室の借手がつかない要素を洗い出すのは仕事の内だ。
「なんなら手伝ったろうか」
オトの申し出に、ララナは目を丸くした。
「ありがたいのですが、またも急ですね」
「この米とこれからの健康的食事の代金ということで」
米は会話のお礼として贈ったものだが、オトはまだ納得していなかったよう。彼が筋を通すには、ララナの手伝いをすることが必要なのだろう。
ララナとしては地元住民の手助けが是非ともほしいところで、オトはこれ以上ないというほどの人材である。
「具体的にはどのようなお力添えをくださりますか」
「むちゃな労働じゃなければなんでもいいぞ」
「では、特に治安の悪いとされる地域の見回りをしてみましょう。二人ならいろいろな問題点を見つけることができるかも知れません」
「ん、いいよ。いわゆる地域安全マップの作成みたいな仕事やな」
「左様です。地域安全マップ……を、失念しておりました」
ララナは携帯端末を取り出し、田創町内で制作している地域安全マップがないか検索した。
「私は視野が狭いです」
「なんや、ネットにあったか」
「はい」
最初に見つけたのはカラフルで目立っていた。児童の防犯意識や警戒心を養う啓発性の高い授業で制作されたものが公開されていた。
「俺に構いすぎやな。目の前の危険に視野狭窄するのは止むを得んやろうけど」
「仰る理由には抗議致します。さておき手間が省けそうです」
「内容はどうなっとるん」
オトがララナの席の横に移動して携帯端末の画面を覗き込む。肩が触れてララナはどきりとしたが、面には出さず地域安全マップを確認する。
「緑茶荘を含む一帯に危険を示す赤い吹出しがございます」
「俺がおるからな」
逐一の抗議もおかしい。なんと返せばいいだろう。新手の冗談と捉えてみようにもララナにツッコミの才能はないのでまじめに応える。
「オト様のことは直接書かれておりません。入り組んだ細い路地が多く、不審者が隠れる隙がございます。通りから見通せない袋小路が多く空き巣の被害も多そうです。さらに二四時間営業や夜間営業の店舗が少ないなど、犯罪被害者や子どもの緊急避難先が少ないことが赤色判定に影響しているでしょう。南北へ参りますと要注意の黄色ですね。街灯の少ない農道が多く家屋が少ないため、夕方から夜間の人出が少なく目が行き届かないことが要因です」
本日オトと歩いた農道はその一角である。緑茶荘に比べれば視野が開けている点で黄色判定となっているよう。農道の多くは通りに接続しており、不審者の逃走が容易な分、暗い時間帯は危険度が高まるだろう、と、注意書きがされている。
「緑茶荘の東、商店街は安全を示す青色の吹出しです。夜間は閉まっている店舗が増えるようですが、アーケードが一直線で街灯も豊富なことが挙がっておりますね」
「北西と南東を結ぶ縦断道路とアーケードが交わった中央部には交番があるし、宝飾品店が率先して防犯カメラを設置したことも評価されとるね」
「ならず者がスプレなどで書く落書きの除去や不法投棄されたゴミの処理、不審人物への声掛けや魔導灯の定期交換等等、治安悪化を防止する活動も高く評価されているようです」
「治安悪化は減収に直結するからな。多少の防犯対策費や心懸けで生活破綻を防げるならそうするのが賢い選択やろう」
「オト様は地元に精通するうえ防犯の知識も深くていらっしゃりますね」
「不良三人を殺したときに、防犯上、穴のある場所を選んだからな」
「杵柄ですね」
「杵柄に謝れ。それとちょっとは引くとかしろ、仮にも女なんやから恐がるとか」
「ご経験を活かすために余念がないのです」
「いいのか悪いのか。まあ、俺もいちいち驚かれたり引かれたりするより楽ではあるが」
オトが納得したところで、ララナは地域安全マップを少し縮小して右往左往。
「……青色の吹出しが少ないです」
「お前さんも知るところの身代金要求事件で人質となった金持やその子が略取・誘拐された場所、そうゆう情報も参考にしたんやろう。もっと縮小したらオレンジ色になるくらい赤色と黄色で埋め尽くされとるはず」
探してみると、いくつかの魔法学園が集めたデータを統合して平面地図に情報を転写した地域安全マップの完成版があった。田創町全域を網羅したそのマップを縮小してみると、オトが言うようにオレンジ色。目指す青色からは程遠い危険な田創町である。
「ねじ曲がった思想の下に統治された国の中心。それがこの田創町というわけだ」
「癒着の事実が明るみに出たことで、好転するとよいのですが」
「国も人間だ。転落は一瞬やけど、這い上がるには時間が掛かる。して、この国では這い上がるのを諦めざるを得んような搾取をされる人間が多いのが問題やな」
以前に似たような話をしたが、今回は癒着事件が明るみに出て搾取の根拠が得られている。オトの言葉の重みが違った。
「昨夜の報道番組が、言葉真防衛機構開発所の傘下・関連企業の重鎮に不正な金の流れがあることを詳細に解説しておりました。オト様はそこまでご存じだったのですね」
「でなけりゃ、貧民の起こす犯罪と富民の不正が関係しとるなんて言わへんわ。俺は基本現実主義、実在論者なんよ。仮に根拠がなくても最低限の推察はつけとく。報道ではどこまでの不正を明らかにしとった」
「オト様は情報を得られなかったのですか。誤認逮捕ですのに留置場に押し込められて……」
署名運動をしてもオトが不当な扱いを受けていた。厳重抗議に値する、と、天白和に対してララナは内心めらめらとしていたのであるが、オトがいい具合に水を注してくれる。
「で。今お前さんがどこまで知っとるかを聞きたいんやけど」
「畏まりました。私が知りおいた報道内容は先程のものを省いて以下の通りです。言葉真本家当主にして言葉真防衛機構開発所所長言葉真国夫は、中小零細を含む傘下企業全ての長並びに重鎮に不正経理を指示、純利益を少なく見せかけることで実益の一部を搾取。重鎮を含め全体にある程度の痛み分けがあったとのことです。搾取の皺寄せは当然立場の弱い労働者ほど大きく、末端の日雇い労働者は設備費や紹介料などの名目で給金の半分以上を搾取されたこともあったそうです。そうした日雇い労働者は一週間から二週間をその給金で過ごすほどに貧窮していることも──。富民への犯罪に駆り立てられる怒りも納得がいこうものです」
ララナの話を聞いて、オトが席に戻った。それからテーブルに両肘をついて合掌し、ララナをまっすぐに見つめる。
「貧民の誰もが俺のように魔法の才さえ持っとればお金に困ることもないのかも知れんがな、世の中そんなに都合よくはいかん。才能の芽も貧民という肩書に潰されとる」
ララナは携帯端末をワンピースのポケットに一旦しまって、オトに向かう。
「魔法学園の初等部・中等部は義務教育とはいえ月謝が掛かりますからね……」
「ああ。ダゼダダには給食費未納問題がたびたび持ち上がるが、これも貧民への皺寄せが影響しとるといえる」
「レフュラルでも給食費未納はときたま聞こえますが、給食の理念を理解していない初等部低学年の児童を持つ親に原因があり、給食の重要性を理解させることで中学年以上の未納はないと聞きます。ダゼダダにおいてはそもそもお金がない……。理念普及以前の問題ですね」
「お金がないだけならいいが、何代も前から貧困に喘いどった貧民の場合は給食というものの理念自体を否定しとる者も多い。体が過度な栄養摂取を受けつけない、少ない栄養で生き抜けるように遺伝子レベルで変化している、だから、金を払わされた挙句に過度な栄養を摂ることで体質が堕落することを軽軽に受け入れることができない。と、いうのが、一部思い込みもあるとは思うが、主張やな」
「極貧への順応性とでも申しましょうか。適応力が仇になってしまっているのですね」
「一部貧民の末裔は給食を摂ってか学を得て就職し、まともな給金を得るような例もあるが、本当に一握り。貧民全体の思考を変化させる流れとしては小さい
ララナが図書館で二室ヒイロから聞いた一部貧民の貧困脱却。その事実をオトは知りおいていた。
「この国は確かに変わりつつある。が、まだまだだ」
緑茶荘の帰途、オトは渡せる情報がないと言っていたが。
「まさか、言葉真国夫さんと此方充さんの癒着以外にも根源的な問題があると、オト様は推察していらっしゃる」
「推察じゃなく知っている」
ならばオトはなぜそれを告発しない。
「オト様。治安改善のためにご協力いただけませんか」
「情報を寄越せと。メンドーだ」
「そこを押してお願い申し上げます」
「素直なのは評価する。が、お前さんに取ってもメンドーだ」
「……なるほど」
ララナは少し察した。つまり、オトがメンドーとして拒否したのは、「捕まってしまうような手段でしか物証を得られないのですね」
「ん」
オトがうなづいて背凭れにうっかかった。「ついでを言えば、今度はお前さんも共倒れすることになるぞ。前と違って俺のやり口を知った上で催促しとるんやから」
ララナとしてはオトと共倒れすることに吝かでないが、それでは聖家に累が及ぶ。オトも母親に今以上の迷惑を掛けることを望んでいないだろう。それに、不正を暴く側が恩赦を見越して不正に及ぶのでは道理が通らない。
「別の手段を講じましょう」
「別とは」
「不正を行っている者を教えていただければ、私が一人ででも正当な手段で物証を集めます」
「無理やな」
「なぜですか」
「この際だからいうが、相手がまさに国やから」
「……」
ララナは耳を疑った。
が、オトとしては当り前のことを言ったようであった。
「お前さんはダゼダダ出身やないからダゼダダ政府警備府の組織図に疎いのかも知れん。それをちょっと観ればある程度の推察はついたやろう」
オトが再び肘をついて合掌した。「警備府という組織は、首長である総理大臣と各省庁の長である国務大臣、それから五六〇人超の議員で構成されとる一種の議会、なんだが、力関係は明白だ。ナンバ1が総理大臣、ナンバ2は誰か解るか」
「警備大臣ですか」
「ん。まあ、組織図では国務大臣に縦の序列はないことになっとるけど、このご時世、国防を担う広域警察を管理するともなれば暗黙の了解だ」
警備府に集まる情報を頼りに捜査では浮かび上がらない国内外の不穏な動きを捉え、警備大臣がトップダウンで広域警察に迅速・的確な命令を出すことができる体制。ゆえに、警備大臣はほかの国務大臣より権威が高まるのである。
「国の不正とはどのように繋がっているのですか」
「現在の総理大臣火箸凌一と逮捕された警備大臣此方充は過去激しく対立した政敵。ところが火箸凌一が総理大臣になると、此方充は火箸凌一の右腕といわれるまでになった」
「仕事ぶりが評価されたのでは。最大の敵を味方につけて足下を固めたとも捉えられますね」
「総理大臣が身辺調査もせずに大臣を任命すると思うか。最悪、任命責任を追及されて共倒れすることになるのに」
「総理大臣火箸凌一は此方充さんの不正を知っていたと」
ララナは思い出す。「火箸凌一総理が昨夜の報道番組でコメントを出していました。
〔現職大臣の不祥事に遺憾の意を示すとともに国民の皆様に深くお詫び申し上げたい。警備大臣一時不在によって起きた混乱を速やかに治めるため全責任を持ちまして舵取りをさせていただく所存です。〕
と、いう内容でした」
「そのとき、テラノア軍事国については触れてなかったか」
「触れておりました。先の文言に続いて、
〔昨今テラノア軍事国の軍事的圧力が増しており防衛機構の増強が叫ばれている。しかしながら狭義的防衛機構では時代に則しているとはいえぬほどダゼダダとテラノアの国交は緊張状態にある。従って、後日改めて国防について議会で述べさせていただく予定です。〕
と、いう流れでした」
「攻撃兵器やな」
「議会で話す予定という、国防についての話ですか」
「不正は、まさしくそこで起きとるんよ」
「攻撃兵器のための、不正──」
大事になってきた。
……オト様の仰ることが事実なら、不正を暴くことでダゼダダはどうなるのですか。
仮に火箸凌一が不正を続けることでダゼダダの国土と人命が救われるなら、不正を暴くことはダゼダダ国民に取って必ずしも幸福ではないのでは。
「その迷いは傲慢やな」
「……なぜですか」
生きていなければ幸せになる以前の問題だろう。それに、殺されて幸せなどという人間がどこにいる。
オトが、新月のように暗い瞳で言い放つ。
「生に限り幸求むは這う者知らぬ愚鈍」
「……私は、──」
「いいたいことは解るよ。死ねば、それが他者による不意のものなら、幸せなはずがない。やけど、生きとればいつか幸せになれると考えとるようならそれは間違いだと、この国の裏を垣間見ても判らんなら、価値観の押しつけもはなはだしい」
淡淡とした口調は変らず、笑わぬ眼が怒りすら発していた。
ララナは己の考えを省みる。
「申し訳ございません……、浅はかでした」
貧民の中には、今現在も搾取されて生に希望を持てない人間が山のようにいるはずである。ララナは、状況を理解していながら人人の心までは酌み取れていなかった。
「この国の自殺者がどれほどか知っとるか。三大国なんていわれて先進国の一つに数えられとるけど、一〇万人当りの自殺者数は一〇九人超でレフュラル表大国の約一〇倍、あの軍事国と比較しても約三倍だ。自殺要因や数の録り方、テラノアに関してはデータの正確性から比較することがどの程度意義あるものかって疑問はあるやろうけど、あえてそこを問わず深刻に受け止めるなら、ダゼダダの異常さが際立っとる。自殺者のほとんどが貧民であることはいわずもがなやな。けど、それ以上に問題視すべきは、一部に富民が含まれとる」
「良心の呵責でしょうか」
「死人に口なしやから推測の話になるが、富民の自殺者は俺のように国の関与を知ったか悟ったかしたんやろう。けど、国へ手は出せん。なんでか解るか」
「火箸凌一さんが攻撃兵器開発の推進派だからですね」
危険な相手はこちらから打って出てでも排除すべきであると考えているのが火箸凌一なのである。その標榜に共感した国民が彼をその地位に押し上げたことは言うまでもないが、それは同時に火箸凌一のマニフェスト達成に協力を惜しまない者の存在をにおわせている。そんな総理大臣に対して下手な告発の動きなどしては、身の危険がないとは言いきれないだろう。
「──。あるいは、告発の準備をしとる最中に感づかれ、自殺に見せかけて殺された、とも考えられるやろ。なんてったって広域警察のトップは警備大臣。多少粗があっても自殺の判断を下せる。無論、粗のある暗殺なんかせんやろうけどね」
這う者知らぬ愚鈍。オトの言葉が、ララナの耳を追いかけた。
……ダゼダダの自殺者数が突出して多いのは、他殺を自殺にしているからですか。
携帯端末で国別の自殺者数と他殺件数を確認する。ダゼダダの自殺者数はオトも言ったように他国と比べて異常に多いのに、他殺件数は目立って多くない。さまざまな要因があるだろうが、自殺者数が異常に多く治安の悪い町を抱えるダゼダダにおいて、治安のいいレフュラルと他殺件数に差がないのは、仮にレフュラル側での数のマジックが働いていても奇妙だ。保安や国交上の意図で減らすことはあっても増えることのない数字が、人口対比数に差がないならいざ知らず実数で肩を並べるとは考えにくいからである。
ララナの迷いは消えた。
「ご高察が事実であった場合、火箸凌一総理の不正は暴くべきです」
「ほとんど真実だが、まあ、まだ物証が手許にないし疑いは持っとくほうが正常やな」
オトが立ち上がり、「地域安全マップは作られとったけど、そろそろ出歩かへん」
「そうですね、現地を観て回るのがよいでしょう」
現政府の首長、事実上の国が相手ではむやみに動けない。暗殺対象になってしまう危険を孕んでおり、ララナには身を守る障壁があるがオトにはそれがないのだ。
……オト様の身にもしものことがあったら私は──。
思わず慄えたララナは、両手で太股を強く押さえた。
……まだ大丈夫です。慎重に動けば必ず不正を暴くチャンスが来るはずです。
焦りは禁物だ。
……ひとまずは地域安全マップの現地確認です。
気持を入れ換えて立ち上がろうとしたララナの肩に、
「これ羽織りゃあ」
と、オトが上着を掛けた。長袖のボレロである。
「オト様、こちらは」
女物であるのは言うまでもないが。
「いま魔法で作った。お前さん、ちょっと震えとったやろ」
と、言うオトの眼に先の闇はない。「まさか寒くはないやろうけど、女は体を冷やすといろいろよくないからな」
それだけのために魔法を使ってまで服を作ったのか。ララナの空間転移は咎めていたのに。
……オト様は、作ってくださった。
オトが魔法を使う基準は、もしかすると非常に善意的なのではないか。ララナは立ち上がり袖を通して、
「お心遣い、感謝申し上げます」
と、お辞儀をした。「ぴったりです。目測ですか」
「これこそが杵柄ね」
「勉強になります」
「お前さんのより庶民的やろ」
「素的と存じます」
着心地のよい生地を撫でながら、ララナは思う。
……以前は鈴音さんに作ってあげたりしたのでしょう。
オトと鈴音が何かを作っていたとは日向像が言っていた。ひょっとしたら、料理も一緒に作っていたからオトは包丁慣れしていたのかも知れない。
「さて、行くか」
「……。はい」
「と、その前にトイレ行っとけよ。把握しとるとは思うがこの辺は公園少ないし、公衆トイレもほとんどないから」
オトの言葉に、ララナは一瞬固まってしまって、
「いいえ、私は結構です」
「なん、今の間」
「その、特に意味はございません」
「ふうん」
女性に対して配慮が足りない。とか、思ったのではない。我慢していたから図星を衝かれたというわけでもない。ララナは──。
「とかく私は問題ございません。オト様はいかがですか」
「済ませてから行く。ちょっと待って」
そう言ってお手洗に入っていくオトの背中を見送って、ララナは下腹部を摩る。
広域警察本部署からオトと過ごして三時間は過ぎた。飲み食いしていたことも踏まえると尿意の一つも催そうものであるが、ララナにはそれがない。一切ない。
テーブルの上の食器をシンクで洗って水切りに置いたララナに、用を済ませたオトが声を掛けた。
「片づけありがと。手、洗わせて」
「はい。今すぐ下がります」
ハンカチで手を拭き終えたララナは、シンクをオトに渡した。
「料理上手は片づけも早いとはよく聞くが、本当に手際がいいんやね」
「特別なことはしておりません。慣れです」
「経験値か。まあ納得した」
痩せた石鹸。手を洗い終えたオトがタオルで手を拭いて、「じゃ、行くぞ」と、改めて号令を執り、ララナは彼について外へ出た。
オトが施錠する後ろでララナは空を見上げた。
「少し曇って参りました」
「やな。出歩く分には日差があるよりいいやろ。帰りは熱視線やったからな」
「……、そうでしたね」
「また妙な間を」
「特別な意味は──」
「ございません、か」
前に回ったオトに見下ろされて、ララナはどきっとしたが、
「はい」
と、気取られないようすぐにうなづく。
オトが黒衣の胸許を抓んでぱたぱたと扇ぎ、
「なんか隠しとるのは判ったが、言いたくないならいい」
と、譲歩の姿勢を見せた。「すまんな──。それ、コンプレックスなんやろ」
「……──、はい」
見抜かれている気がして、ララナはうなづくしかなかった。
背中を向けたオトが、独り言のように言う。
「害のない特異性を否定する気は毛頭ない」
それは、ララナのコンプレックスの原因を見抜いた上での言葉であろう。少なくとも、当てずっぽうで特異性とまではいえない。
オトが歩き出した。
追うように、ララナは歩いた。
「……。どちらにお越しになりますか」
「それはお前さんが決めてくれ」
「商店街に向かいましょうか」
「ん、反対やな」
緑茶荘前の通りを引き返して東へ向かう。
「俺はてっきり危険地域を回ると思ったが」
「西に赤の吹出しがたくさんございましたね。袋小路や死角の多い一角です」
「一理論において犯罪機会の減少が犯罪に強い地域作りに欠かせんという話やな。抵抗性・領域性・監視性によって犯罪機会の減少を目指す情報が地域安全マップだ」
「ソフトとハード、人の意識的な面と建物などの設計を足算するような理論です。解りやすく実用的に犯罪対策を執ることができ、レフュラルでも多くの地域で実践されております」
「この辺りでは商店街がモデルケースといえる。それ以外の一帯では見た通り赤色や黄色だらけで、多くはハード面、恒常性・区画性・無死角性、すなわち死角のある区切られた空間が変らず存在することを問題視しとる。ソフトこと人間の意識的な面は、警戒心の強い人間が多いから上辺には問題ないようやけど、犯罪を起こしにくいように管理しようとか犯罪者の侵入を防ごうとか考えとるかといえば、犯罪者目線では穴だらけやろう。それも貧民が多いゆえに総合的知識の欠如が著しいこと、知識はあっても対策費用や時間がないことが大きな要因といえなくない。戦争や魔物の被害が少なくても、こんなんじゃ意味がないな」
悪循環だ。一部富民の不正が国に大きな影を落としている。
「だが、」
と、オトが付け加えるのは、「貧民も堕落してないとはいえん。あらゆる面で学ぶ機会を捨てて公的な支援に人生を預けすぎてないとはいいきれんもん。まあ、俺もそれなんやけどね」
大人びているが、オトは現在一八歳である。
「父子・母子家庭への児童扶養手当ですか。レフュラルでは、該当児童が一八歳の誕生日を迎えたあとの三月末までの分が給付されます」
「同じやな。経済成長率トップのレフュラルと保障が同じなんてダゼダダは太っ腹すぎるな」
「給付額ですが、レフュラルは児童一人の場合、一月五万ラル以上六万ラル未満で推移しております。ダゼダダはいくらでしょうか」
「現在は四万二〇〇〇ラルやな。受給資格のある子が一人増えるごとに六〇〇〇ラルが上乗せ給付される」
「レフュラルでは八〇〇〇ラル前後上乗せされます。給付額に違いはあるものの、期間のみを観れば同等の制度ということになりましょうか」
ララナがそれを知っているのはさまざまな環境下の子どもと話してきたからである。
ダゼダダ警備国家とレフュラル表大国が三大国戦争終結以降親交を深めていったことを考えると、制度が相互で見直されて似通う部分があったとしてもおかしくはない。
「あと二回だ」
「なんの回数でしょう」
「俺の分の児童扶養手当の給付回数。今月末と来年三月末。これがなくなれば、完全におんぶに抱っこの厄介者だ」
「……お母様に対してのことですね」
オトが無職でいられるのは母親の出稼ぎだけでなく児童扶養手当があってのこと、と。
「これまでは先の金額を四箇月分纏めて給付されとった。来年三月の給付、一二万六〇〇〇ラルを最後に、俺は本当になんの役にも立たん厄介者に成り下がる。出て行く潮時だ」
家を出る。オトがそう言ったのは児童扶養手当の最終給付期日を見越してのことだったか。
商店街のアーケードが視野に入る。
「私と一緒に働きませんか」
と、ララナは提案した。「オト様はお母様に迷惑を掛けたくないとお考えでしょう。ならば自立されるべきではないでしょうか」
「迷惑は掛けたくないが、メンドーやな。いちいち金を発掘して換金しに行くのも魔物を討伐して報酬を得るのも」
「金の発掘はそれなりに高度だと存じますが、魔物討伐は人材不足が叫ばれております。オト様の魔法の実力ならば──」
「俺の魔法を魔物討伐のために、人間を守るために使えと」
他者を守る気はないということか。
「オト様は、他者を無差別に憎んでおられるのですか」
「無差別じゃないよ。お前さんにはそれなりに好感を持っとるし、お婆さんには気に懸けてもらって感謝しとる。やけど、馬鹿の多い国が嫌いやから、魔物に食われてみんな死ねばいい」
淡淡とした口調だが、冗談という雰囲気ではなかった。
アーケードに踏み込む直前、ララナはオトの背中に声を掛ける。
「オト様、先のお言葉は看過できません」
途端オトが踵を返してアーケードに背を向けた。
「あっそ。じゃ、一人でやって。支払いは別の形でやるわ」
生米や今後の料理の代金か。
ララナは失礼を承知で、脇を抜けるオトの左手を取った。
「お待ちください。私は──」
「放せ」
オトの半眼が静かにララナの目に落ちた。威圧感はない。が、ララナは押し潰されそうになった。
……なんという、眼なのでしょう。
ララナは理解した。
オトの眼に宿るものは、理解されなかったことの悲しみ。裏を返せば、
……私への、失望。
ララナはしかしオトの手を放さない。放したら、雨に打たれた綿毛のようにどこかへ転落させてしまう。そんな恐怖感が胸に迫っていた。
背にした人人の賑わい。オトのかさついた手に立ち込めていたのは、孤独であった。その手を放せば、ララナはたちまち崩れ落ちそうだった。
未来改変のためではない。
自己満足の償いのためでもない。
ましてや、自分がオトに救われたいがためでもない。
……この方をお助けできなければ、私は──。
後悔する。
初めて触れたオトの手を、両手で取り直してぎゅっと握った。
「放せ」
と、オトが再び呟くように言った。
ララナは、息が詰まるような心地がした。
「放しません……、絶対に」
あるいは、薄薄感じていたのかも知れない。だから、視野狭窄して、オトばかり気に懸けていたのかも知れない──。
オトが瞼を閉じて、前を向いた。
「……なんでお前さんが泣いとるん」
「……、気づいたら、出ておりました」
「……。ひとに見られとるぞ」
「問題ございません」
涙を拭うということは、オトの手を放すということだ。それだけはできない。瞼を閉じてオトの姿を目から外すこともまた、ララナにはできない。
何人もの視線が二人を過ぎ去った。
オトが小さな溜息。
「敵わん……、場所を変えよう」
オトがララナを見下ろし、「逃げんから放してくれへん。歩きにくいし」
「放しません」
「強情なヤツやな……」
ララナは頑として譲らない。オトが歩き出しても手を放さず、緑茶荘西に位置した袋小路までついていった。もとは橋が架かっていたのか、ガードレールのない川岸である。木陰に入ると、ぱらぱらと降り出した雨が傾いた木の根元に二人を閉じ込めた。
手を放さぬまま、オトの沈黙に促されるように、ララナは過去を口に上した。
「私は、ずっと孤独でした。孤独だと思っておりました。生まれ故郷が滅ぼされ、両親が亡くなり、見ず知らずのひとの許で暮らして──。以前オト様が仰ったように、それでも恵まれておりました。義理の両親や妹達はとてもよいひと達でした。じつの娘のように、じつの姉のように迎え入れてくれました。けれども、いつも孤独だったのです。体は誰かの近くにあっても心はいつも誰の傍にも置いておけず、心置きなく自分のことを話したことなど一度たりとございませんでした。旅に出て、期せずして血を分けた妹と再会するも、彼女も亡くなって、再び孤独となりました。この世に心を置ける、傍に置いてくれるひとは、いなくなってしまったのだと、絶望の底に突き落とされたようでした。(いいえ、しかし──)」
オトが無言のまま、木の枝先を見つめている。手を握っているのは自分なのに、いつからかオトが手を握ってくれているようにララナは錯覚した。
「……。悪神総裁との戦いの準備に全てを懸けるようになっていきました。もとからそちら側ではございましたが、それまで以上に神界へ足を運び、横の繋がりを持ち・繋いで、悪神総裁に対抗できるようにとあらゆる手段を考えては実行していきました。手助けしてくれるセラちゃんとは別行動となり、単独行動が増えて私はいつしか機械のように戦争への道を歩み、暴走する無人列車のように、虚しいままに止まることができなくなっておりました。そんなときに出逢ったのが、オト様だったのです──」
それは突然だった。無感情に走り続けていたララナの前に現れたオトは、ララナの深い孤独を癒やした。
「オト様はこうして手を握ってくださりました。(あるいはそのときのオト様はこの日のことを思い出していらっしゃったのかも知れませんが、一言も仰りませんでした。けれども、)私は悟ったのです。私一人が孤独ということはないと。オト様がいらっしゃるから、決して孤独にはならないと」
「その俺と今の俺は別人やけどな」
「そうですね。あのころ出逢ったオト様は、私のことを全てご存じでした。が、過去の未来など私にはもう関係がないのです」
握った手の感触をしっかりと確かめる。
ララナは、踏み出すことにした。それはかつて戦争のために漲ったエネルギが、自分の想いを発するために初めて使われた瞬間だった。
「このぬくもりを、手放したくないのです」
──九章 終──