始章 邂逅──。
少女は孤独を潜めてお菓子を作った。足許を見れば必ず貼りついている影のように、それは幼い頃より付き纏った。
「お姉様、どうかされましたか」
「お姉ちゃん、なんか考え事でもしてるの」
少女は呼ばれて微笑んだ。
「新しいお菓子のレシピを考えていたのです。今度試作致しますね」
毎日綺麗なキッチン。お菓子作りに用いる道具は少女も管理するが、少女が手を出さなくても専属の料理人が綺麗にして、至高のお菓子や料理を生み出して食卓に並べる、そんな家庭。
手にした実感のない姉という立場を、家族という温かい場所を、失わぬためには孤独を秘するほかなかった。
自分はどこの誰で、どこへ行けばよいのか。誰と繋がり、何を道標に歩めばよいのか。誰に愛され、どんな「未来」をうむのか。
──君は、ぼく達の子じゃないんだ。本当の親は──。
自分という存在が始まった場所・時間はどこにある。じつの両親と思っていたひとと血の繋がりがないと判った瞬間から、少女は考え始めていた。
──答は出ず、不安定な足は未来を思い描くための一歩を踏み出すこともなかった。
雨が降りては草木が芽吹き、花が咲いては実が溢れ、大地に根差しては雨露を吸い、草木が息吹く──。
〈ひと〉は不確かな未来を確かなものとするために過去を積み上げる生き物である。
しかし、その前提が崩れたとき、ひとは何を選ぶだろうか。
〔──。
後の世に〈悪神討伐戦争〉と語り継がれる争いの末期。
人間、天使、小鬼、神などが手を取り合って、一三人の精鋭が戦地に乗り込んだ。諸悪の根源たる悪神総裁率いるキルアシオ軍が守る堅牢な城を突破し、未来を託された一三人は悪神総裁ジーンのもとに辿りついた。
悪神総裁ジーンは悪神副総裁という立場にあり、当時の悪神総裁キルアの記憶を封ずるとともにその座を簒奪した。これは、キルアが長らく統制した悪神の世界においても、バランスを崩す事変であった。すぐに変化が顕れた。キルアシオ軍を始めとする悪神は善神の治める名だたる神界への侵略を開始、暴虐の限りを尽くした。悪神総裁となったジーンには暴虐の由があった。愛する家族を善神に殺害されたのである。眼前のこと。無残であった。一度は怺えた。罪を犯したらば裁かれることはいつの時代にも正当な悪因悪果であると。悪神副総裁当時ジーンは数多の善神を殺した。その罪を家族の血で償った恰好であった。けれども、日を経るにつれて己が身で償わなかった愚かを思い知る。恐れではなく、悲しみでもなく、寂しかった。あったはずの家族の命が、心を癒やしてくれる家族の命が、もう得られないことの寂しさであった。が、自ら償うことなく罪は消えていた。ゆえに、ジーンは再び罪を求めた。悪神総裁の座を奪い取り、悪徳を極め、家族の命を奪った仇敵アデルと再会し、彼に殺されるために──。
一三人の精鋭のリーダ格一長命は、ジーンがアデルの断罪を求めていることを一年に及ぶ聞取りと推察で確認するに至った。その上で、アデルの助力を断り、集めた一二人の仲間とともに立ち向かうと決め、キルアシオ軍の城へと踏み込んだのだった。
──。〕
ジーンと相対する精鋭。
それぞれがそれぞれの思いを胸に秘めて戦いに臨んでいただろう。
ある者は悪神に奪われる命を増やさぬために。
ある者は平和な世の中を作るために。
ある者はのんびりとティータイムを愉しむために。
ある者は偏見を覆すために。
ある者は生命を守るために。
ある者は悪を憎むがゆえに。
小さな願い。大義を掲げた願い。さまざまな思いがあったことだろう。共通のようで共通でなく共鳴ゆえに並び立った願いもあったことだろう。間違いないのは、悪神総裁ジーンと対峙するために立っていた。
が、皆と肩を並べながら、唯一願いを持たない精鋭がいた。名を、聖羅欄納という。ジーンの指示によって滅ぼされた国の生き残りであったが、ララナは悪神を憎んでいなかった。ジーンという存在に同情すらしていた。一方で、いざ相対したジーンになんの感情も働かないという現実に、ララナ本人が一番驚いていた。
……私は、なぜここにいるのでしょう。
戦闘が始まってもララナはそんなことを考えていた。城が瞬く間に塵と化し、大地が荒れ果てていくような、考え事などしていられる生易しい戦いではなかった。誰の命も失われ得る状況であった。
ララナは感情が動かない。殺されたじつの両親の無念を思えば怒りの一つや二つは湧き上がってしかるべきであった。でも、ララナは感情が動かない。理由はいくつかあったが。
……攻撃に殺意を感じません。
最たるものはそれだろうか。
あまりに破壊的で凶悪な攻撃群。常人は掠っただけで体が弾けて即死する。散弾のような剣や大剣の乱れ打ちに床が破砕されていく。それなのに、明確な殺意が観えず、呼吸を眺めているかのような錯覚を催す。ジーンのそれが作戦でないことをこの場の全員が悟りながら指摘せず、己の願いを果たすため、叶えるため、立ち向かっていたことだろう。ララナも事前に立てた作戦を基に役割をこなしていた。一長命を始めとする面面の体力の回復と、ジーンの観察である。ジーンに隙あらば〈伝心〉の魔法で声を発せずして皆に伝え、臨機応変に作戦変更を提案・実行、指示を行う司令塔という立場もあった。
ララナの義妹麗璃琉の振り翳した杖をジーンが弾き飛ばす。上体が煽られて隙だらけになった麗璃琉の胴を目掛けた大剣を赤髪が受け止めた間に、ララナは麗璃琉を安全な場所に空間転移させて体勢を立て直させた。
ジーンがララナを見下ろす。
「やはり、お前が最も厄介な存在のようだ」
「おい、コラッ!テメーの相手は今はオレだっての!」
赤髪がジーンの胸に拳をねじ込むと、ジーンが数歩後退して、大剣を構え直す。
「聖羅欄納。お前の存在は耳に入っていた。──よもやここまで来るとは思わなかったが、わたしが行動するためには、お前をここで挫く必要があることは間違いあるまい」
「だからっ!オレが相手だって──」
「雑兵は黙っていろ」
「ぐぁっ!」
ジーンが光速の突き。赤髪の大剣を切断、腹を貫通して無慈悲に引き抜かれた。辺りに鮮血が舞い、赤髪が自らの血に倒れ伏す。と、そこからは一瞬のことであった。ララナを除く一二人が斬り裂かれ、熔岩のような血溜りを成す。
「所詮は寄せ集め、容易いものだ。……お前にはわたしの攻撃が通ぜぬと観たが果して独りで何をなす」
ジーンの攻撃は、確かに、ララナには通用しない。ジーンが求める裁きの主アデルによって施された障壁がララナの体を覆っているため刃物や砲弾、魔法にも脅かされることがない。この障壁を通過できるのは魂を同じくする者、現実的にはララナ本人のみである。それゆえにララナは他者に触れることなく生きてきた。倒れ伏した一二人が受け入れてくれなければ、ララナは本当の意味で独りだっただろう。
「──私は、独りではございません」
「此奴らは最早治癒魔法でも助からぬ。増援が存在したか」
「彼らと私だけです」
ララナは仲間が死に瀕するこの事態を予測していた。こうならないことを計画していたが、現実となった今ララナの採るべき選択肢は一つであった。
蘇生魔法。生命の禁忌に触れるこれは、条件が揃うと自動で発動するように用意していた。
ララナの操る魔法はどれも他者に探知されないほど高速であり精密であり密やかである。
「ぐっ……!いつの間に──」
呻いたジーン。彼を背後から突き刺したのは、ララナの師匠であり、ジーンの妹に当たる神ラセラユナであった。
「貴様はただ死ねばいい。善悪を語る必要はない」
ラセラユナの刃が決着の皮切りとなった。ララナの魔法によって能力が強化された上で息を吹き返した一二人が、猛攻に次ぐ猛攻を仕掛け、ジーンの光速度の刃すら打ち破り、やがて、巨悪を絶った──。
戦争であった。
味方も敵もない。
命を落とせば、全てが終わる。命を奪えば罪を負う──。
悪神に滅ぼされた町は数えきれないが生き延びた者がいた場所は少しずつ復興する。もとの生活を取り戻すところもあれば、復興の途上で苦悩するところもある。滅び、荒地となった地が無数に及び、生活破綻に追い込まれる者も多い。歴史に繰り返された非人道──。その「悲惨」に反抗者として荷担したララナは、立場によっては守護者であり、略奪者であった。踏み躙った生命の一つ一つを覚えてはいない。それが、戦争の側面である。生きるため、生かすため、踏み躙られる生命を武力と捉える。武力は敵であり、敵は己から全てを奪う危険性である。その「武力」を「生命」と捉えれば、己こそが「武力」として潰され、この世から消えていく。葛藤は無意味。不条理と非常識、血みどろの争いは日常を奪い去り、生命から尊厳も信念も奪い去る。数多の武力への容赦ない蹂躙。いかな理由があろうとも、不条理と非常識は同じ。だというのに、覚えてもいない「武力」の死に際が、記憶の齟齬のようにふと蘇るのはなぜなのだろうか。自問自答は堂堂巡り。己の胸に結論が眠っているか定かでない。繰り返された非人道。過去の悲惨に荷担してしまった者の轍を愚かにも踏んでしまい、新たな悲惨に荷担した。それでも生きることを望み、蘇る武力に自問自答し──。
──その連鎖の中で、ララナは辛うじて、罪を負って生きた。
ジーンとの死闘が終わって、八年が経った。
ララナは旅に出ていた。願いが、一つだけあった。悪神討伐戦争は一長命率いる精鋭の活躍で終結したことになっているが、ジーンとの決着のあと、一長命達が語れない激戦があった。それは、蘇生魔法を発動して前世の魂に支配されたララナと、ある男性とのあいだで起きた。一長命を始めとする一二人の仲間を襲ったララナを正気に戻すための戦いだった。
男性の名は〈オト〉。ララナに取って、彼は仲間の命を救った恩人であり、ララナがただ一人触れてもらえた特別なひとであった。魂を同じくしていることが障壁を通過する条件であるが、ここで言う〈魂〉とは精神や気力ではない。生命を生命たらしめるため体に宿り、肉体の原型となる〈霊体〉を形作って魔法力の管理を行っている器官が魂である。一人が一つの魂を宿して生まれるのが原則であるから、他者が同一の魂を保有することはない。ところがどうしたことか、ララナはオトに触れられた。それは、同一の魂を持って生まれたことのほかならぬ証拠。ララナとオトは同一人物といえば解りやすいだろう。
ララナは、オトを捜していた。
戦時のお礼を述べたいのは当然として、彼と交わした約束を果たすために。
──いつか、俺を、助けてくれ。
仲間を救ってララナの目覚めを見届けた彼が、別れ際に放った言葉だった。
ララナは、「勿論です」と、即答した。
なんの因果か、不条理と非常識を抜け出たあとになって、ララナは願いを得たのだった。
ボランティアで復興に携わりながらララナはオトを捜した。主に、戦争で多くの防衛力を失った小規模集落へ出向き、生活基盤を失ったひとびとに食事を振る舞うとともに仕事を斡旋、住居の建て直しを行い、魔物を退ける人員を大国から招いて、住民が安心して眠れる環境を作った。ひとびとの心に余裕が生まれたらオトについて尋ねてみた。が、八年間、オトは見つからなかった。
……居場所をお訊きすべきでした。
当時はオトと話すことや触れ合うことばかりに気が行って肝心なことを失念していた感が拭えない。初めて男性と触れ合ってのぼせてしまっていたのだろうか。巡っていたのが小規模集落であったから、情報集積能力に期待できるわけがないと言われればそれまでだったが、ただただオトを捜す旅に邁進するのは躊躇われた身でもあった。
直近の復興活動が一段落ついたララナは、
──お姉様にしか頼めない仕事があるんです。
との、義妹瑠琉乃の頼みで、瑠琉乃の父が経営する安アパート〈緑茶荘〉に引っ越す運びとなった。戦前から周辺で犯罪が横行している影響か、緑茶荘の一室に借手がつかないとのことであった。治安改善を図ってその一室の需要を高めるため、また、逮捕に至っていない犯罪者の炙り出しを行うためララナは派遣された。
これも一つの復興活動。そんな思いで瑠琉乃の頼みを請けたので、ララナは今しばらくボランティアを名乗る予定である。裕福な育ての両親や義妹に頼らずとも生活基盤がある。自立してから他者の救済に乗り出さなくては本末転倒、「承認欲求全開の自称ボランティアが押しかけてきた」と言われるような身の振り方をしないのは基本中の基本である。
治安改善は人間の住環境に必要不可欠。戦争で傷ついた人間が平和に暮らすための環境を整えることはやり甲斐のある仕事としてララナの目に映っていた。
遅蒔きの説明となるが、この惑星はララナの生まれた〈惑星アース〉。表面積の七一%が水で覆われた青い星。
問題の緑茶荘は、ダゼダダ大陸中央県の一住宅街にある。到着したララナは身を守る障壁に感謝するほかない。日差を緩和する〈遮陽〉という魔法で通常よりは温度が抑制されている町だが、赤道直下である。師走間近でも冬の気配など皆無で、普通の人間であれば干上がるまで汗が止まらない。ララナは障壁に覆われており、体が気温の変化からも守られ、浄化作用によってお風呂に入る必要もない。
……向かって左手の、一〇三号室。こちらがですね。
こぢんまりとした門柱を抜けると、飛石を設けた砂利敷を挟んで二階建てのアパートがあった。北に玄関扉、南に大窓のある細長い間取りは非常にありふれており、一〇三号室という新たな住居は使い古した趣であった。
旅をしていた頃から大荷物での移動はしなかったが、ボランティア活動も荷物は最小限。今回も手荷物は鞄一つだ。瑠琉乃から預かった合鍵とセットの部屋の鍵でララナは入室した。玄関で靴を脱ぐのがこの国の基本様式だ。フローリングで滑らないように靴下を脱ぐのもいいが滑り止めのついたスリッパを履くのが効率的かつ衛生的だ。動線をまっすぐ歩いてダイニングキッチン、向かって右手には襖で隔てた薄縁の寝室。スリッパを脱いで寝室の隅に鞄を置き備えつけのタンスに着替を収めた。
……近隣へのご挨拶は大切です。
調査をかねれば一石二鳥。地図を取り出して周辺の人家の確認をしようとしたが、今回は必要がなかった。一言に挨拶回りといっても引っ越す場所によってさまざまなパターンがある。アパートやマンションでは同フロアのお宅と上下隣接した二宅、自治会長や大家、管理人がいるならそちらも挨拶回りの対象となる。緑茶荘は一フロア三室の二階建てであるから、一〇一号室、一〇二号室、それから上隣の二〇三号室に挨拶するのが適当であろう。余談だが、一軒家に引っ越した場合は、敷地の接したお宅、向いのお宅と両隣三軒が最低限の対象となる。
……粗品は、こちらですね。
真円に開いた異空間〈隣空間〉に手を入れ、用意していたタオルの箱詰めを取り出した。贈る物は好みに左右されない生活雑貨や消耗品がいい。火を使うものは火災を連想させるため避けるのが一般的。熨斗には「粗品」の二字、紅白の水引の上部に「御挨拶」、下部に「聖羅欄納」と姓名を記してある。治安が悪い地域で女の一人暮しを伝えるのは危険だろうが、ララナには他者から害されることのない障壁があるので気にせず名前を書いた。
一〇一号室には管理人の老婆が住んでいるとのことなのでララナはまずそちらを訪ねることにした。昔は剣道で名を挙げたというだけあって背筋のぴしっとした人物で、八〇歳を超えているとは思えぬ若若しさだ。
ララナはお辞儀して、
「初めまして、一〇三号室に引っ越して参りました、聖羅欄納と申します。ご挨拶で伺いました」
と、進物の箱を差し出した。「どうぞ、よろしくお願い致します」
「これは、これは、ご丁寧に。経営者さんから伺っとりますよ。初めまして、管理人の日向像佳乃と申します」
お辞儀をした日向像が進物を受け取ると、
「何やら大変なお仕事をされるとか。お手伝いできることがあったら気軽に声を掛けてくんさいね」
「お気遣い、ありがたく頂戴致します。その折は是非ともお願い致します」
「ええ、是非。あ、次の挨拶回りがありますね。この辺りで引っ込みますよ」
日向像が柔和な笑みで、「ご機嫌よう」と、扉を静かに閉めた。
……無駄も隙もない方ですね。
神を相手に丁丁発止のやり取りをしてきたララナも未熟と思わされた。
……さて、次は一〇二号室ですが──。
そちらに目を向けようとしたところで、背後から声が掛かった。
「初めまして、君は……、まさか新しい住人かい」
一六歳前後の男の子が門柱を抜けてララナに歩み寄る。一〇二号室の住人だろうか。ララナはひとまず挨拶する。
「初めまして、一〇三号室に引っ越して参りました、聖羅欄納と申します。恐縮ですがあなたはどちらさまでしょう」
「あ、こちらこそ不躾で。ぼくは二〇三号室の堤端総。高等部三学年の一八歳、一人暮しをしてます」
「そうでしたか」
挨拶予定の住人なので順番を前倒ししよう。ララナは紙袋から進物の箱を取り出した。
「ご挨拶の品です。どうぞ、よろしくお願い致します」
「あ、はい、こちらこそよろしくお願いします」
箱を受け取った堤端総が、ララナをじっと見つめる。
「私の顔に何かついておりますか」
「あ、ごめんなさい、暑さでちょっとボーッとしていて。気にしないでください」
平均気温二〇度超の熱帯である。額を腕で拭って堤端総がララナの紙袋に目を向ける。
「進物がまだあるようですが、挨拶回りはどこが残ってるんですか。二〇一号と二〇二号は最近空室になりましたが……」
家族が夜逃げをした二〇一号室、男性が老衰で亡くなった二〇二号室、それぞれ二週間前と三箇月前に空室になっており、どちらの部屋もちかぢか新しい住人が入る予定がある、と、瑠琉乃の連絡にあった。
ララナは相槌を打って質問に応える。
「あとは一〇二号室ですね」
「っ……」
わずかの間、堤端総が目を見開いた。
……一〇二号室に何かあるのでしょうか。
なかなか借手がつかない物件とは、ララナが越してきた一〇三号室のこと。地域の治安は問題の一要素だが直接の原因かどうかは明確でない。隣室の一〇二号室に瑠琉乃の知らない原因がある可能性を考えて、ララナは堤端総から話を引き出すことにした。
「管理人の日向像さんも堤端さんも人柄のよさそうな方なので、一〇二号室の方も──」
「いや、やめておいたほうがいい」
堤端総がララナの言葉を遮るように言った。「君は、その、女の子だから余計に危ない」
「(予想的中でしょうか。)危ないとは、何がですか」
「……そこの住人には、近づかないことです」
堤端総が苦い顔で情報を出した。「前に住んでいた住人は、そこの住人に殺された──」
……なるほど。
瑠琉乃からそんな情報は入っていない。ここ〈ダゼダダ警備国家〉では、殺人者の情報は警察組織の情報開示とメディアによる報道で全国に発信される。そうでなくても、現代では個人の噂がデジタルの情報となってインターネット上に流れることもあるだろう。瑠琉乃が殺人者の情報を摑んでいなかったとは考えにくい。
「その情報は噂でしょうか」
と、ララナは尋ねた。
堤端総は、進物の箱を持ち直して、
「ぼくは真実だと思います。殺人者の彼は、……ぼくの友人でしたから」
「ご友人なので──」
「とにかく、彼には近づかないでください。君の身が心配です」
ララナは堤端総の真剣な目差を受け、
「ご忠告いただき、ありがとうございます」
と、応え、一〇二号室を訪ねないとは言わなかった。
その意図を察してか察せずか、堤端総が微苦笑で、
「ぼくのことは総と呼んでください。ご近所さんですし、何かあれば必ず相談に乗ります」
「重ね重ねありがとうございます。早速ですが総さん、図書館はございますか」
差障りない雑談を挟んで総と別れると、総が二〇三号室に戻るのを見送って、ララナは耳を澄ます。地獄耳というと聞こえが悪いが、ララナは非常に耳が利く。
一〇二号室を訪ねるひとを全力で妨害する気なら部屋に戻った総が玄関扉に張りついて足音が遠退かない、と、考えたララナである。
……考えすぎでした。
総は部屋に入ると奥へ引っ込み、進物の箱をテーブルか何かに置いて食事の用意を始めたよう。これほどの距離があれば総に動きを気取られることはないだろう。
……では、訪ねましょう。
治安が悪くなれば悪くなるほど人人の心は荒み、生活が暗転、思考が少しずつ暗がりに浸蝕されて立ち上がれないほど沈み込んでしまうこともある。そうなったら、並大抵の努力では立ち直れない。一〇二号室に治安を乱すような存在が住んでいるなら対処する。それこそが、緑茶荘にやってきた目的だ。
一〇二号室の玄関扉の前に立つと、ララナは耳を澄ます。
……感じてはおりましたが、お留守ですね。
室内に物音がない。個人の魔力も探ったが人らしきものを感じない。
が──、なぜだろうか、ララナは、その玄関扉に釘づけとなった。なんの変哲もない、塗装しただけの木製の扉は力づくで開けようと思えば開けられるほど防衛力の欠片もない造りで、外見も中身も注目すべき点がない。それなのに、
……何か、感じます──。
存る。物音ではなく、魔力でもなく、確実に、何かがこの一室に存る。息が弾むような、心が弾むような、刺激を感ずる。障壁によって外界との接触を一切遮断されている肌が、何を感ずることもないはずなのに。
コンッ、コンッ。
刺激に促されるように一〇二号室の玄関扉をノックしていた。呼鈴があるのに目に入らず、興味津津の遊び道具に跳びつかんとする子のように、ララナは前のめりになっていた。
と、扉が開いた(!)
ゴンッ!
……うぅっ!
扉が額に当たって、ララナはあまりの痛さに尻餅をついた。そのことに、……っえ!
ララナは腰が抜けるほど驚いた。障壁に覆われた体は刃物や砲弾、魔法にも脅かされることがない。かの悪神総裁の攻撃も一切受けなかった。なのに、人間の開けた玄関扉に尻餅をつかされるとは想像だにしておらずララナは放心していた。戦時であればどうなっていたことか。それほど大きな心の隙が生まれていた。
「すまん、大丈夫か」
と、声がして、我に返ったララナは慌てて立ち上がり、出てきた住人を認めて、──固まった。腰こそ抜けなかったが、先程とは性質の異なる放心状態に陥っていた。
「なんか用なん」
と、言った一〇二号室の住人は、感情の欠落した半眼でララナを見下ろしていた。
扉や尻餅のこと以上に、不意のことだった。
ララナは息を吞み、思いがけず涙が零れそうになって目許を急いで拭い、先の刺激や衝撃の理由を理解したのだった。
「──、初めまして、お隣の一〇三号室に引っ越して参りました、聖羅欄納と申します」
「初めまして」
と、返す男性住人。ララナとしては、「初めまして」ではなかった。
なぜなら、眼前に佇むのは、見紛うことなき捜し人〈オト〉だった。なぜ彼が、目の前にいる。
──勝てるがゆえに戦争したいと。それを正義と信じ込めるとは、恐れ入った、素晴らしいな。
ふいに、その昔に聞いた彼の言葉がリフレインした。彼の言葉をすげなく扱って悲惨の轍を踏んだ。鬼のような存在だったララナが辛うじて人間側に戻ってこられたのは、過去の彼の言葉があったからだ。ただ、彼の言葉の多くを、戦後もほとんど思い出していなかった。
目の前に彼が現れた状況を理解できないものの、自己紹介を終えたララナは万感の思いで立ち尽くしていた。無精髭に天然パーマをもさっと伸ばした姿は、義妹麗璃琉がいうような美形男性とは程遠いのだろうが、ララナに取っては何より捨てがたい「彼の構成要素」であるから外せない。
「ん。で」
「あ、はい、お世話になります。何卒よろしくお願い致します」
ララナは一〇二号室の住人ことオトに進物の箱を渡した。「お名前を伺ってもよろしいですか」
「オトだ」
「……オト様──」
名前を呼ぶ。ただそれだけのことを、何年待っていたか。
……瑠琉乃ちゃん、なんと粋なことを。
恐らく、瑠琉乃の耳に殺人者の噂は入っていた。が、それが、ララナが捜索しているオトであることを隠していた。仕事に当たることを口実に自然にオトへと近づける。そのチャンスを瑠琉乃がくれたのである。
……総さんの話が本当ならオト様は問題を抱えていらっしゃる。それをどうにか──。
ララナが思考の海を漂っていると、
「じゃ」
……あら。
予想外のことで現実をおろそかにして扉を閉められてしまったララナであった。
……しかしこれは、どういうことでしょう。
瑠琉乃に裏づけを取れば判ることであろうか。外見要素自体はほとんど変わらないが、八年前に出逢ったオトより現在のオトのほうがやや若い印象を受けた。
……考えられるのは、過去のオト様が現在より年を経たオト様であるということですか。
時系列がややこしいが、現在より何年かあとの〈未来のオト〉が現在から八年前の戦場に現れてララナや仲間を救った、と、いう流れであり、現代のオトはララナを知らない、と、いうことになる。その状況をオトとの対面時に悟って「初めまして」などと取り繕ったララナだが動揺は隠せない。未来のオトが言っていた「いつか救ってほしい自分」は過去の自分、つまりこの時代の彼のことだからだ。
そのことから、一つの現実を直視する必要がある。
……過去への介入による未来改変、ですね。
個人のことであれば大きな未来改変にはならないだろう。が、オトが過去に介入したことでララナは意識を回復し、ララナの仲間である一二英雄は救われた。その多くは復興支援に多大な支援をしており、世界に大きな影響を与え続けている。
……私がオト様をお助けすることで、未来改変が現実となるのですね……。
過去への介入は世界の法によって禁ぜられている。一魔術師が過去や未来を自由に改変する危険性を取り除くための法律であることは言うまでもないが、よい方向に変えるためだったとしても一魔術師の一存で行っていいことではないとの観点から制定されている。
ララナは、罪を背負っている。それは、戦時における不可抗力であったといえばそう。だが精鋭の司令塔でもあれば数数の軍を動かす軍師という立場にもあった。数多の返り血と重く暗い罪がララナから消えることはない。
……未来改変を止めることで、私はより多くのひとを苦しめることになります。
過去にオトが現れたのは飽くまでララナとララナの仲間を救うためだ。と、ララナは思っていたが、いま思えばララナの罪を軽くするためだったのではないか。
……過去の救いは、オト様が与えてくださった贖罪の機会だったのですね。
戦後復興にボランティアとして携わり続けていたのは、ララナなりの贖罪であった。それを未来のオトは知っていたに違いない。八年経った今もその罪を感じ償いたく思っていること、さらに、何年先か不明だが未来のララナも罪を感じ続けていることを、オトは──。
……ならば、私は、未来改変を選びます。
世界の法には反することとなる。オトに、その罪を負わせることにもなってしまう。が、現在のオトが抱えているだろう問題を無視して関わらずにいることは、ララナにはできない。扉に釘づけになったあの感覚──、オトとの深い繋がりを暗示しているように思えてならなかったのである。
……そうと決まれば、オト様の現在を調べなくては。
総の話も気に掛かるところである。仮にこの町の治安を乱しているのがオトであるなら仕事としても放置はできない。
……今しばらくお待ちください、オト様。必ず、私があなた様をお助け致します!
真夏のような冬の町。陽炎の中でララナは決意を固めた。
──始章 終──