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給湯室の二人

作者: 味噌田楽

 どこか遠くで鳴いている犬の遠吠えが聞こえる、そんな静かな夜のこと。硬くなった肩をほぐしながら僕が給湯室に入ると、そこには既に一人の先客がいた。

「よっす。遅くまでお疲れ様。」

 コンロの対面に陣取った彼女は給湯室に入ってきたボクを横目で見ながら鍋に火をかけようとしている。僕は備え付けの小さな椅子に腰かけ、息をついた。

「もう帰ったのかと思った。」

「帰れるものですか。なかなか思うようなデータが得られないんだもの、この調子だと今日は帰れるかどうか。」

「はあ。うちも大変だけども、どこも大変なんだねえ卒研って。」

 僕がそう言うと彼女は乾いた笑い声をこぼした。僕もつられて笑ってしまう。


彼女は同じ研究室の同級生。少しいい加減なところもあるが気が良くて誠実な彼女は気の置けない友人の一人だ。どうやら実験がうまくいかないらしい。

「あ、コンロを使いたいならもう少し待っててよ。あと2、3分で空くから。」

 彼女が冷蔵庫から何かを取り出し鍋に入れる。静かな部屋を煮えた湯が湧きたつ音が満たす。

「ああ、いや。僕は適当に漁りに来ただけだからお構いなく。コーヒーとか、カップ麺とか。」

 僕がそう答えると彼女は適当な返事を返した。


「ところで研究はうまくいってるの。 いや、こんな時間まで居残りしているってことはうまくいっていないんだろうけど。」

 そう彼女が尋ねた。シンクのそばに立ちコンコンと音を立てている。卵を割っているようだ。

「ま、そりゃそうだよね。私も他人のこと言えた身分じゃないし。試料の準備だけでも厄介たらないよ、本当に。」

 鍋に卵を落としながら彼女が言った。そして間もなく大きなあくびをした。

「あーあ。早く寝たいわ。自分の布団で。」

「まったく同感。嫌になっちゃうね。」

 そんな風にお互い愚痴を言っている間、彼女は鍋の様子を見ながら何度も小さなあくびをしてその度に背筋を伸ばしていた。ここのところ寝不足気味なのだろう。同じ研究室だからそれくらいのことは想像がつく。それに僕がこの給湯室で彼女と会うのは今夜で4回連続のことだ。十分に休めているとは思えない。

 そんな訳で僕も眠気を覚まそうと、彼女が伸びをするたびに彼女の真似をして思い切り両手を広げ、背筋を伸ばしたのだった。


 そうこうしているうちに彼女は料理を終えたらしい。コンロの火を消して僕のいる机へとやって来た。僕の隣に座る彼女の両手は二つのどんぶりがのったお盆を支えている。

「あれ、誰かに頼まれたの。」

「あんたに分けてあげる。食べるもの無さそうだし。」

 そっけない調子で彼女が答えた。

「本当は一人で食べようと思ってだけどね。はい、お箸。」

 彼女が差しだしたどんぶりを覗き込むと、そこには真ん丸な黄身をした卵の乗ったうどんが湯気を立ち昇らせながら収まっている。月見うどんだ。

「それじゃあ、お言葉に甘えて。ありがとう、いただきます。」

 僕は両手を合わせるとうどんをすくい上げ一気にすすり込んだ。熱と出汁の風味、グルテンの甘みが口の中に充満する。熱い、でも美味しい。僕は無言でうどんをすすった。彼女も一心にうどんを食べていた。


 次に僕は円盤状の卵を箸で掴み、噛みついた。うん、美味しい。

「あー、三日月になった。」

 僕が食べているのを見た彼女が呟いた。彼女の視線の先には僕の齧った卵、食べられて欠けた黄身の形は確かに三日月のように見える。

「もうちょっと大事そうにして食べてよね。その卵、綺麗な満月にするために結構がんばったんだから。」

 不満そうに唇を尖らせる彼女。その手元にあるドンブリには黄身と白身の入り混じったまだらな卵が浮かんでいた。

「本当だ。綺麗な月だったんだね。」

「今更遅い。食べる前に言わなくちゃ。」

 そう言って僕の肩をはたいた彼女の顔は嬉しそうで、そしてどこか照れくさそうだった。


 机に空のどんぶりが二つ、それにカップも二つ置いてある。うどんを食べ終えた僕たちは食後のコーヒーを飲んだあと、他愛もない話をしていた。

 ふと彼女が立ち上がった。

「ようし、そろそろ片付けて実験に戻ろう。」

 どんぶりとカップを両手いっぱいに持ちシンクへと向かう彼女。僕も彼女を手伝おうとシンクに近づいた。

「手伝おうか。」

 僕が尋ねると彼女は食器を軽くすすぎながら首を振った。

「結構。あんたは自分の研究に戻っていらっしゃいよ。」

「でも、ひとりに任せたら何だか悪いし。」

 僕がそう言うと、彼女はカラカラと笑いながら布巾を絞り僕に手渡した。

「それじゃ、テーブルを拭いてよ。私はここにもう少し居たかったから別に一人で片づけても良かったんだけどね。」

「へえ、何もない給湯室に。それはどうして。」

 不思議に思った僕が尋ねると、彼女はシンクの向こう側にある窓の方へと目をやった。窓の向こうにはうどんに乗っていたあの卵の黄身よりもまん丸で黄色い月が浮かんでいる。

「綺麗でしょ。」

 彼女が僕に問いかけた。僕は黙って頷き、黄金色の月を見つめた。そして、今日の月が中秋の名月であることを思い出したのだった。


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― 新着の感想 ―
[一言]  さりげない行動に深い意味があるのかもしれません。
2017/10/06 18:28 退会済み
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