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「ソノさん、星座詳しい?」真由はすっと腕を伸ばして夜空をひらひらと仰ぎながら突然そんなことを言い出した。「全然」と彼の返事はそっけない。だが実は真由がさきほど埠頭で空を見上げたおかげで彼も美しい星空を見ることができて内心は嬉しい。今もくっきりと黒い闇に点々ときらめく星たちを飽くことなく眺めているし、ガラスに映っているから有薗が自分と同じく地上よりもむしろ空を眺めていることに真由は気づいていてそんなことを言い出した。「私もオリオン座や北斗七星くらい有名なのしかわかんないんやけどね。でも星空って好き」雪を好む真由は季節ももちろん冬を好むのだが、冬は空気が澄んで星空が美しいからなお好きなのだった。時折雲もなく晴れ渡った星空に雪が舞うような不思議な夜がある。そんなときは透明なぴんと凍てつく空気の中に夜の漆黒が広がり、雪のはかない白、星の瞬きとがえもいわれぬ美しいコントラストだと寒さを忘れて見入ってしまう。夏には夜明けの時刻でなければ見えないオリオン座が早い時刻から空に登るようになると、いよいよ冬が近づいてきたことを知り、本格的な寒さの到来を楽しみにする。子どもの頃は純粋に冬の空気の冷たさや雪の白さが好きだったのだが、今は、長袖を着ていても不審がられないという悲しい理由が付随している。「神戸はこんなに夜景が綺麗なのに、星空も見えるんだね」「東京は星空がないってほんと?」「街が明るすぎるんだよ」「流れ星見たことある?」「子どもの頃に」「私はよく見るよ。しょっちゅう星空を眺めてるとね、たまにすっと現れて消えることもあるし、ほら、ペルセウス座流星群とか、年に何度か流星群の時期ってあるでしょ、必ず起きて星空見てる」「願い事するの?」「綺麗なものを見て、その上願いも叶えてもらおうなんて人間は欲深すぎると思わない?」「そんな考え方もあるのか。びっくりだ」星が好きだと無垢な少女のように話す一方で願い事を欲深いとばっさり切り捨ててしまうとはなんとも真由らしい発想だと有薗にはおもしろかった。それだけ純粋に星を愛でていると言えるのだろうが、それにしてもきっぱりしすぎだろう、願い事もまたひとつの夢ではないか。有薗が自分の見解をおかしがってかすかに笑っているのは、肩が小さく揺れているのが背に伝わるから真由にもわかり、別に理解して同調してほしいわけでもないから「流れ星は、見れたらそれだけで嬉しくなる。私はそれで満足」と締めくくった。「こうやって私たちが見てる星の輝きって、もうずっとずっとずうっとはるか昔の光がようやく地球まで届いてるんだよ。今確かに見えてる星が、実はもう宇宙に存在していないかもしれない。ものすごく不思議じゃない?」「何万光年とかってやつか」「光の速さで一万年分の距離って、そんなもの人間の想像なんて及びもつかへん、まさに神秘やと思う」真由の片手は相変わらず夜空を指してくるくると小さな円を描いたりしていたが、そこをくぐるように、ミニボトルのワインなどあっという間に飲み干して手持ち無沙汰になってしまった有薗の手が真由の脇から回り込んで乳房に触れ「この柔らかさも神秘」と胸元をまさぐった。せっかく空想的な話をしてるのに何が神秘だこの野郎。そう思ったがさすがに口には出さない。「実に神秘的」「大げさな。欲しければあげるよ」「そんなに邪魔?」「邪魔。何の役にも立たない」「何カップ?」「そんなこと訊くんかい!」この野郎という言葉を飲み込んだ真由も、今度は正直に呆れた声を出した。しかし有薗は悪びれもせず「知りたい」と無邪気だ。「G」とだけ冷たく突き放すように答えると「G?」と素っ頓狂な声を上げると同時に有薗の手は真由の胸元を離れ「A、B、C・・・」と数えるのに合わせて指折った。その手を真由の手が包み込んで作業を中断させた。「そうやって胸のサイズを数えられるの嫌いやねん」すると有薗は腰を抱いていたもう一方の手をほどいてそちらで「A、B・・・」と懲りずに指折り始めた。「こらこら」と言いつつも真由ももうどうでも良くなって無理に止めようとはしない。「病院の放射線技師さんでね、私と喋るとき、顔じゃなくて胸見て喋る人がいるねん。背が同じくらいやからその視線の露骨さがよくわかって嫌で。あんたは私の乳と喋ってるんかって言いたくなる」「それはまた、正直な人だな」「私は胸が大きいのはコンプレックスやねん」「世の多くの女性の反発を買いそうだね。贅沢な悩みだって」するりと浴衣が肩から滑り落とされ、露になった左の乳房は有薗の手によって覆われた。細い指がそっと乳首を挟んだり、かと思うと重々しげに乳房を持ち上げたり、存分に豊かな胸の感触を確かめ、楽しみ、味わっている。唇は肩やうなじにに吸い寄せられる。有薗が何度目かにうなじをちゅっと吸ったとき、真由がはっとして体をこわばらせ「ダメーッ」と元から少ない色気もムードも跳ね飛ばす勢いで声をあげた。「なんだよいきなり」と言う有薗の声は若干不機嫌だが、真由はそんなことは一向気にせず「その辺は駄目。前に看護師さんにキスマーク見つけられたの。ソノさん容赦なさすぎ」と冷静である。キスマークを見つけて病院中で笑われるのはもうたくさんだ。第一、キスマークをつけた医者など患者の信頼も得られぬではないか。どのへんならいいのかと困惑気味に問う有薗に、見えないところなら構わないと真由がおよそのラインを指で示すと「ファウルゾーン広いな」と有薗の顔は少し苦笑いに引きつった。「制服の襟元が広いの」「どうせ着替えるとき丸見えなんじゃないの?」「着替えはなんとでもなる。着替えても見えるのは駄目」「そんなこと言われると、かえって付けちゃいたくなるな」腕に力をこめて逃がすまいと抱きしめながら唇を首筋に寄せると「絶対ダメーッ」と容赦なくガンと腹に肘鉄を食らわされ、有薗は一瞬のけぞって言葉を失ったが、ここまで雰囲気のない女はまったく初めてだとファイトが湧いて気を持ち直す。有薗はそっと唇を触れさせるにとどめ、白く弾力のある肌にキスした。「実は他の男に怒られたんじゃないの?昼間言ってたヤクザの元カレとか」「そんなことで怒るような人じゃない」「ふーん、そういう関係だってことは否定しないんだ。不倫もゲームのうちってやつか」「いけない?なんか感じ悪い」「ごめん」「別にいいけど」一瞬醒めた空気が二人を覆った。しかし言葉の通り、真由は本当にそんなことは気にしていない。有薗が本気で嫉妬しているわけではないことも承知ならば、昔の男と関係する自分の淫らさが今更恥ずかしくもないからどうでもいい。真由は自分の腰を抱いている有薗の左手を取ると、それに自分の右の掌を合わせた。初めて見たときから思っていたが、彼の指は本当に繊細というほかないしなやかさ。厚みもないが骨ばっているわけでもない。でも何度か手を触れて思ったのは「大きくて温かい」ということだった。有薗の手は大きくて、こうしてつないでいればきっとどんな人ごみの中でも決して離れずにすむという頼もしさ、安心感があった。「ソノさん、指長いね」「そうかな、普通だと思うけど」「私は体に合わせて手も大きいけど、指が短いの。手の平が大きいのね。だからかな、不器用なの。ソノさんは器用そうな手」「特技は編み物らしいよ」有薗の冗談に真由はしばし絶句し、ばつが悪そうに「それは言わないで、もういい加減忘れて」と呟いた。しばらく有薗の手をもてあそぶと「ソノさんの手、好きだな」と真由は彼の手の甲にそっと口付けた。手を握り返すと彼もまた、真由の手に口付けた。
ベッドへ場所を移すと、有薗は真由の浴衣の腰紐をほどきながら覆いかぶさり「このへんはいいのかな」とくすっと笑って真由のたわわな乳房に吸い付いた。真由の全身は恥らうことなく有薗の唇や手に敏感に反応し、呼応した。そして全身の肌がしっとりと有薗の体に吸い付く。有薗が真由の浴衣をすっかり剥ぎ取ろうとすると、真由はとっさに「明るいのはいや」と鋭く叫んだ。有薗の脳裏に、初めて真由を抱いたときにも同じように明かりに対して強い拒否を示したことがかすめた。いまや浴衣はほとんどはだけており、ベッドライトだけとは言え、その明かりの元で真由は体をさらしている。今更この程度の明かりを嫌がる理由がよくわからない。その有薗の怪訝そうな雰囲気を察した真由は両腕を有薗の首にまわして彼の体をかき抱くと「恥ずかしい」と照れくさそうに言い訳した。
真由が明かりを嫌う理由はたったひとつ、腕の傷を見られたくないがためだ。自傷で傷ついた腕は、自分が見てもぞっとするほど醜い。赤白の幾筋もの痕。浅い傷はたいして傷痕も残らないが、それでもまったく元通りとはいかないから気味が悪いほどおびただしい線状の傷痕があるし、深い傷は周囲の皮膚が突っ張ってケロイド状になり、醜悪さはより増す。もとが白く美しいだけに、その醜さがより一層際立つのである。これだけは、彼に見せたくはなかった。こんなものを見て良い気持ちのする人間などまずいない。気分を害するだけだし、相手のそんな様子を見て自分もまた傷つくことになるだけである。




