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真由が先にシャワーを使って浴衣姿で窓際に歩み寄ると、一人ビール片手に景色に眺めいっていた有薗がふっと視線を上げて窓ガラスの上で目が合った。「風呂上りの女の人って、濡れた髪をタオルでまとめるじゃない、あれってセクシーだよね」「どうせ私はセクシーじゃないやい」そう言いながら真由が後ろ髪をかき上げるような仕草をしてみせると「あははっ、似合わねえ」と有薗は腹を抱えて大笑いした。「でも真由さんのうなじきれい」「昔からうなじはよく誉められるの。日本髪結うと似合うよねって。一生のうちに日本髪を地毛で結う機会のある人が世間に一体どれだけいようか。顔もイマイチやし、ほかに誉めるとこがないんやろうなって子ども心に思ってた」「髪伸ばしたことないの?」「腰くらいまでのロングやったことあるよ」「その頃にアップスタイル楽しまなかったの?」「不器用だから。基本の三つ編みすらまともにできなかった。いっつも一つに束ねてるだけ」「幾つの頃?」「二十歳くらい」「成人式で結ってもらおうと思わなかったの?」「成人式に出席する気が毛頭なかった」「成人式しなかったの?」「だから永遠の十九歳なわけですよ」そうきたか、と再び有薗は楽しげに大笑いした。「突っ立ってないで座れば?なんで僕たちは窓越しで会話してるわけ?」そう言われて素直にすとっと真由が腰を降ろすと同時に有薗が彼女を床に押し倒した。「おおっと」と大げさに驚いて見せつつ、真由はドキリとした。ついさっき戯言で大笑いしていた男と思えぬ目の強さと湛えている色っぽさに驚いたのだ。「ピアス外しちゃったの?ゆらゆらしてるの、色っぽかったのにな」と惜しむ声で有薗が真由の柔らかな耳たぶをつまみ「あれ?ピアスの穴、一個じゃない」と気づいた。「三つずつあるよ。普通の人よりたくさん開けてやれって思って」「誰と勝負してんだよ」真由のわけのわからぬ負けず嫌いな意地に有薗は小さく苦笑を漏らした。かと思うと急にふわっと顔が近づいて有薗が軽く真由の耳たぶをかじり、続けて首筋にキスをする。「うちの病院の看護師さんでへそピアスしてる人がいるの。しかも大人しい地味な人やねん。あれはびっくりしたで」真由のお喋りに構わず有薗の唇は彼女のほお、首筋から肩にかけて次々とやさしく足跡を付けていく。彼の指が浴衣の胸の合わせ目をくぐりぬけて真由の左の乳首をきゅっとつまんだとき真由は妙な声色を使って「あふん」と言って、有薗の手はぴたりと乳房の上で静止した。「何、今の」呆れたような低い声で訊くと「あふんボタン」としれっと答える。「じゃあこっちは?」と今度は右の乳首をつまめば「あはん」とまたまた妙な声色で、そのくせまったく官能的でない無表情な声が返ってくる。「まったく、ムードのない奴だな」有薗は胸に顔をうずめると同時にほぼ全身を真由に預け、真由は彼の重みを心地よく感じながらその頭をなでた。「真由さんの心臓の音が聞こえる」「ドキドキしてる?」「ドキドキしてるの?」「さあ、どうかな」「続きは後でね。シャワー浴びてくる」そう言うとあっさりと体を離して有薗はバスルームに姿を消した。
浴衣を調えなおすと、真由は立ち上がって部屋の明かりをベッドライトだけに落とした。さっき有薗が飲んでいたのが缶ビールの最後だった。持ってみるとまだ残っていたので、ちびちびと続きを飲みながらじっと、ただじっとうずくまって窓の外を眺めていた。さきほど有薗が言ったとおり、自分たちは医師と患者として出会った。まさか大好きなJAMANIAのベーシストだとは気付かず、それでも彼の穏やかな人柄は真由の印象に残っていた。二年近い年月を経て、彼とこんなに近い距離どころか、肌を重ねて同じ時を過ごしているのは今も、自分でも信じられなかった。素敵なピアノを聴かせてくれる。とても心安らぐ時間をくれる。新鮮な驚きをプレゼントしてくれる。自分は彼からもらうばっかりで、何もお返しできていないし、これからもできないであろうと思うと悲しかった。ふと思いついて、ラッピングを再び解いて有薗にプレゼントされた万年筆を取り出して眺めた。程よく大人らしいボルドーが美しい。自分が万年筆で字を書くのが好きなどと話した覚えはない。これまでにも自分の心を見透かすようなことを何度も言われてきたことを思い、彼はきっと超能力者だと思った。さもなければよほど人を喜ばせる天才か。どんな便箋を買おうかと考えた。早速明日、便箋を買おう。そしてライブから帰ったらすぐに手紙を書こう。でも興奮でおかしな文章を書いてしまうと恥ずかしいから、やっぱり日を置いて書いた方がいいのかな、どんな書き出しにしようか、と一本のペンから広がる想像の世界で楽しく遊んでいた。その間に有薗がバスルームから出てくる気配がしたが、振り向きもせず、大事そうに万年筆を両手に包み込んで胸に押し当てて目を閉じていた。「どっちにする?」有薗は真由の後ろから彼女を両足の間に挟み込むようにして座り、抱きすくめた。真由の胸の前で交差した彼の右手に白、左手に赤ワインのミニボトル。グラスを持っていないのはミニボトルなのをいいことにラッパ飲みのつもりか。「ソノさんは?」「どっちでもいいよ」「じゃあ後で替えっこしよう」と真由が有薗の左手から赤ワインのボトルを取ると彼の手がほどけた。ひとくちワインを飲むと一旦ボトルを床に置き、万年筆を丁寧にラッピングし直し、精一杯腕を伸ばしてテーブルに置くと、再び頭を有薗の胸に預けた。「なんで万年筆なん?」「たまたま通りがかった文房具屋で万年筆フェアってやってたの。そこに『女性へのプレゼントに最適』みたいなポップであの赤いペンが飾られてて。綺麗だなあと思った」「ネーム入りのペンなんて初めて。大切にする」「手紙楽しみにしてる」「あんまり期待しないで」「どうして。書かないの?」「ライブ楽しかったです、で終わっちゃうかも」「それだけ?JAMANIAではSONOが一番かっこいいです、とか」有薗の意外な文面の提案に真由が「えーっ」と低い不満げな声を上げるので「全力で否定かよ」と不服そうに苦笑いしてきゅっと真由のほっぺを軽くつねり抗議した。それでも、真由が「メンバーで誰が一番人気とか、気にするの?」といくらか本気で訊ねるのは「するわけないでしょう」と言下に打ち消した。「私の友達は清水さんが大のお気に入り。こないだの大阪では増岡さんに黄色い声が多かったな」「君は?」「太田さんかな」「それはなぜ?」「ソノさんが怪我で運ばれてきたとき、私にすがりつくようにして『あいつ治りますか』って、ものすごく心配してた人がいたの、あれたぶん太田さんやったんちゃうかなあ。もはや確かめようもない勝手な思い込みやけど。ものすごく思いやりのある人な気がする」「うん、多分あいつが一番温厚で気のいい男」いつもメンバーやスタッフを笑わせて場を寛がせる空気を作りだしてくれるのが太田で、ツアーではいつも相部屋になるが一緒に密な空間にいても居心地がいい。有薗がそう言うと「じゃあ今夜は一人なの?」と真由が訊く。「たぶんね。もしかしたら寂しくなって他の部屋に押しかけているかもしれない」ごく当たり前のように有薗がそう答えると「寂しくなるんや」と大の男が、同室の連れがいなくなった途端さびしがる様を思って真由はちいさくぷっと笑った。「寂しがり屋じゃないかな。同じ部屋だとあいつずーっと喋ってるもん」「ソノさんはどっちかっていうと静かに人の話聞いてるタイプだよね。ちょうどええやん」「メンバーが六人だから二人ずつ三部屋でしょ、大抵同じ奴と相部屋になるんだ。みんな仲いいけど、より長い時間を一緒にいるとなるとやっぱりなんとなく相性があるんだろうね。僕はだいたい太田か、清水」「清水さんとは朝までヘベレケに飲んだくれてそう」「そのとーりっ」「威張るな。まさかソノさん、太田さんとか清水さん襲った?」「ん、それはどれくらい本気で言ってるのかな?」「半分くらい」「半分は本気なのか。なんかショックだ」がっくりと落ち込んだ風に頭を垂れて顔を真由の肩に押し付けてみたものの真由は「ごめんごめん」と笑うばかりで言い出したことを取り消そうとはしない。好奇心から訊いただけで、まったく悪気はなさそうなものだから有薗の方が負けて結局は「メンバーは僕以外全員妻子ある普通の男」とまともに答えてやるのだった。「そうだよね、普通結婚して家庭を持ってる歳だよね」「真由さんだってもう独身の友達の方が少ないでしょう」有薗のストレートな物言いにはいくらかショックなことを言ってのけた真由への負けん気も含まれている。「あれっ、そんなこと言う?まあね。結婚した友達にいつも『早く相手見つけろ、結婚しろ』って言われる。なんで結婚なんて面倒なことを人はするんだろう」「普通の人はそれが面倒じゃなくて、幸せなんだよ」「ソノさんはもし日本で同性結婚が許されたら、する?」「しない」「即答やね」「一人が好きだもん」「恋人と一緒に暮らそうと思ったこともない?」「ない、一度も。自宅に呼んだことすらない」「えっ」有薗の何気ない返答は真由には大いに衝撃で小さく飛び上がりそうな程だった。「一度だけ滅茶苦茶酔っ払ってどうしようもない状態になったときに仕方なく連れて帰ったことがあるけど、それだけ」「じゃあなんで私を連れて行ったの?」「なんでかな、なんとなく。もう夜遅いのに泊まるところがないって言ってたし。最初からうちに泊めようと思ってたわけじゃない」どうりであの部屋には恋人と過ごしているような空気が一切なかったわけだ、と真由は彼の部屋で感じたいろんな違和感がすっと解けるのを感じた。それにしても、恋人でさえ呼ばない自宅へ自分を強引なくらいに招き入れたとは、一体どういう心境だったのだろうと不思議に思わずにはいられないが、有薗自身もそこらの説明はつかない。自分でもよくわからない、というのが正直なところなのだった。「あ、真由さんごめん、ワイン半分以上飲んじゃった。ミニボトルじゃなくて普通のを買えば良かったな」そう言って互いのボトルを交換しながら「もっと酒買うべきだった、もうおしまい」と心底残念そうな有薗に「もう十分飲んだやん。どんだけ好きやねん」と真由はおかしそうだ。「真由さんちっとも変わらないもん、おもしろくない」「ソノさんだって全然変わらない」「僕は変わらないけど記憶がなかったりする。決して強いわけじゃないんだな」「私も。気がついたら自分のベッドで、いつどうやって帰ったんだろう、自分は何かしでかしたんじゃなかろうかとサーっと血の気が引く」「真由さんでもそんなことあるの?二日酔いって経験ある?」「あのね、人を化け物みたいに思ってない?私だって飲みすぎれば酔っ払うし二日酔いにもなるわいっ」ぺしっと有薗の膝頭を叩くと彼は「想像つかないよ」とカラカラと笑った。




