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透明の向こう側  作者:
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 二十二時を過ぎた頃、二人ともグラスが空になり有薗が「もう少しここでお酒飲んでようか。真由さんは平気?」と訊ねると「平気。当直明けでもどうせ寝るのは二時とか、そんなだから」とあっさりとした返事である。それを受けて有薗がドライマティーニ、真由がシェリー酒を注文した。比較的度数の高い酒を真由が頼むので、遅くまで酒を飲んでも構わないのだと理解しつつも念のため「明日は仕事?」と訊くとやはり休みだと言う。するとちらりと微かな笑みを浮かべた有薗がぐっと身を乗り出して真由に顔を寄せて「今夜は帰さないよ」と独特の低く艶っぽい声でささやいた。と同時に真由が「ひゃっ!」と小さな悲鳴をあげ「ソ、ソノさん駄目です、そんな声でささやくのは反則です」とうろたえながら精一杯言い返す様子はどうやらいくらか本気で有薗のいたずらに立腹している。「大げさだなあ」と笑う有薗に「前にも言ったでしょう、ソノさんの声はものすごく色っぽいんやって。わかっててやってるんでしょう。ひどい」と彼のいたずら心を見抜いた上でさらにそのことにむくれている。自分のたわむれが予想以上に成功したことに有薗は声の艶と正反対に子どものように内心大喜びである。「もしかして絶叫マシンに勝てるかな?」と嬉々とした表情の有薗に「間違いなく最強」と真由は小さくもろ手を挙げて降参を示した。真由の力がすっかり抜けているところへそれぞれの酒が運ばれた。オロロソのさわやかな甘さを一口味わって元の落ち着きを取り戻した真由は有薗の手元を見ながら「有名だけどマティーニって飲んだことない。おいしい?」と訊ね「飲んでみる?」と有薗はグラスを少しだけ真由の方へ押しやった。ちょっと失礼と断って真由はそのグラスから一口頂戴し「おいしい。これは好き」と満足そうに顔をほころばせた。「好きなものがひとつ増えたね」と言われて素直に「うん」と応じた真由だが「今日の料理はみんな食べられたね」とまで言われたときには、これでは自分はまるで野菜を食べて褒められている子どもではないかとおかしくなりながら「今日は好きなのばっかりだった」とやはり素直に応えてしまうのであった。「タコは駄目でもイカはいいの?」「イカは好き。でもゲソは無理」「どうして?」「タコも同じ、あのイボイボが苦手なの。まともに見られない。そう言うソノさんこそ海老食べてたやん」「でも一番大きいのは君にあげた」そんなくだらぬことを話していると「こんばんは、今夜もありがとうございます」とシェフがテーブルへ挨拶にやって来た。「前も一緒におみえでしたよね。ありがとうございます」とシェフが有薗に笑いかけると「覚えてくれていたんですか。どうもありがとう。今日もとてもおいしかったですよ」と有薗もにこやかに答えた。「それはよかった。渡部さんは今日は苦手なものはなかったですか?」と会話を聞いていた筈もないシェフまでが真由の好き嫌いに言及する。三十五にもなってこれは恥ずかしい、といくらか困惑しながらも「みんな好きなものばっかりでした。ごちそうさま」と真由もにっこりと笑って食事に満足したことを表情で伝えた。特別に鯛を出してくれたことに礼を言うと、本当はもう一日くらい寝かせた方が旨みが増すのだが本格的な和食ならともかく、この店なら食感の方がむしろ大事で、新鮮なうちにカルパッチョにしたのだと少しのうんちくを垂れて「次は来月にコースでお越しいただくんですよね、お待ちしています」とシェフが去った。その後姿が完全に厨房に隠れてしまうと有薗が「ところで、さっきの返事は?」と真由に顔を向けなおしたので、しらばっくれて「なんのことかな」とはぐらかしてみたが「この後も付き合って戴けますか?」と今度ははっきりと誘われた。真由は薄暗い照明の店内では気付かれない程度にほっと頬が赤らむのを感じながら「きっとシェリーが答えてくれる」と言ってうまそうにグラスを傾けるだけだった。

 二人は店を出るとそのまま旧居留地内を西に向かって歩いた。人通りはさほど多くない。店を出るとき、また有薗が当たり前のように手を差し出してきたとき真由は一瞬ためらった。どこで誰に見られているかわからないと思うとヒヤッとする。手をつながねばならぬほどの人ごみでもない。しかし差し出された手の魅力に抗いきれず、きゅっと握った。「来月はいつものお友達と?」「私の誕生会。祝ってくれる彼氏のいない気の毒な独り者のために毎年開催されます」「今年はそれほどかわいそうでもないんじゃない?僕、お祝いしたよ」「うん、とっても嬉しい。覚えててくれたことも、万年筆も。ありがとう」あらためて礼を言いながら真由が柔らかに微笑むのを見て有薗も嬉しかった。店を出てすぐはそうでもなかったのに、歩き出してしばらく経つと真由は有薗の泊まるホテルに向かって自分が一緒に歩いていることになんとなく落ち着かなくなった。自分にもまだこんな小娘のようなときめきと恥じらいがあるのかと驚くと同時になんだかそわそわするし、それがつないだ手から伝わってしまいそうな緊張が走る。「この辺に静かに酒飲めるところないかな。いいとこ知らない?」とふいに有薗が立ち止まってキョロキョロとしたが「あっ、CUBEはここからは遠い?」と真由を振り向いた。「ここからなら山側へ上がっていって、二十分くらいかな」と北を指すと「じゃあちょっとそこまで歩こう」と有薗はさっと方向転換を図った。てっきり有薗の泊まるホテルへ行くものだと思っていた真由は拍子抜けするとともに少しほっとした。彼の「朝まで」はともに飲んだくれようくらいの気持ちだろうと推測すると大きな安堵を得た。

 CUBEに入るとマスターがすぐに気付いて「SONO!」と嬉しそうに声を上げた。そして真由を認めると「昨年末もお忙しい中お越しいただいてありがとうございました。今年もどうぞよろしく」と軽い会釈をしながら丁寧に挨拶を述べた。「いきなり来ちゃったけど、いいかな?」と有薗が訊ねるともちろんだと言い、もうこんな時刻に予約はないから好きな席に行けと店内を手でぐるりと指した。テーブルに着いて真由がメニューを見ずに「マスターの自信作は何かな、それがいいな。さっぱりめで」とリクエストすると有薗は「了解」と応えたかと思うとボーイを呼ばず立ち上がってマスターのところまで行って直接注文を伝え、そこで何か言葉を交わして席に戻ってきた。ステージでは深いブルーのドレスをまとった女性が少ししゃがれたハスキーボイスで歌っている。姿を見なければはかなげな男声かと思うほど低音が伸びやかな歌声に魅了されつつも、つい真由の目はノースリーブのドレスから伸びた美しい腕に注目してしまう。日本人にしては浅黒い肌だが、健康的に滑らかで、もちろんやましい傷などない。食い入るようにじっと腕に見入ってしまったことに、有薗が席に戻ったときはっとして真由はようやく視線と集中力をボーカリストの腕から外した。「今夜はボーカルメインの演奏なのね」「オリジナルみたいだよ」「そうなの?」「うん。聴いたことない歌だな」「ちょっとブルースっぽい、いい声」そこへマスター自らカクテルを運んで来、こういうオーダーの仕方は嬉しいですね、バーマン冥利につきます、と実に上機嫌な笑顔でカクテルを二つテーブルに置いていった。それぞれ男性向け、女性向けのオリジナルカクテルだというので、あとで飲み比べようとまずは有薗が男性用、そして真由は女性用のグラスを手にした。「素敵な神戸の夜に乾杯」そう言うと有薗は得意のウインクをして見せた。二つのグラスがそっとキスをした。「ねえ、私、マスターに顔覚えられてるのかな?」「そうみたいだね」「デカイ女だから印象に残るのかな」妙なことに不安を抱くものだ、長身は彼女にとっていくらか劣等感なのかと意外に思いながら、有薗はさっぱりと「僕と来たのが印象的なんだろう」と心配を払拭してやった。「僕がここへ来るとしたら音楽仲間ばかりだから、女性と一緒なんて初めてじゃないかな。そのせいだと思うよ」と言葉を足した。しかしそれは真由にとって新たな困惑を生み出してしまったらしく「これから来るの恥ずかしいな」と肩をすくめた。「堂々と来ればいい」そう答える有薗の様子が泰然と構えていて、ああ、この人の言葉を信じてゆだねればいいんだと真由はすっと気持ちが落ち着いていった。


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