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こうして楽しく会話を弾ませながらうまい料理を口にしていたのだが、ふと真由が手を止め、両手を膝におろしてかしこまると「そう言えば私、ソノさんに謝らなければならないことがあります」と言い出した。「何、あらたまって」と怪訝そうに有薗も手を止めて真由を見た。「実は大阪のライブ、遅刻しまして。ごめんなさい、ソノさんの『愛』を聴き逃しました」「そうなの?別に僕に謝らなくてもいいけど。どうせ明日もやるし、ってあ、セットリストばらしちゃいけないんだっけ」「いえ、ぜひやってください、お願いします」ぺこりとテーブルの上に真由が頭を下げると「いやにしおらしいな」と有薗がぷっと小さく笑った。「『愛』好きなんだもん、楽しみにしてたのに」顔を上げた真由はひしとした眼差しでそう訴える。有薗と知り合いだから持ち上げているのではなく、本当に曲が好きなんだとその目が全力で訴える。「あれはまだJAMANIAに参加してないくらいむかーしに書いた、若気の至りみたいな曲で恥ずかしいんだけど。せめてくさいタイトルを変えさせてくれつったけど却下された」有薗は照れくさそうにそう言うが、真由はその若々しさとまっすぐさこそ好きだと反論し、なお「ちょっとJAMANIAっぽくない路線で逆に好きなんだけどな」とこだわった。作曲家であり演奏家でもある有薗ではあるが、今は一人の男として真由と向き合っているだけのありのままの人間だからあまりに曲を褒められるのは嬉しいよりもかえって居心地が悪いらしく「遅刻ってどうしたの?」と曲そのものからは話を逸らしてしまった。急患があったために仕事を終えるのが遅れたのだと真由が説明すると「大変な仕事だよね。今日も当直明けなんでしょう、眠くない?疲れてない?」と優しく気遣う。「ありがとう、平気」と真由が微笑むのを見て有薗もにっこりしながら「いっぱい食べな」と言ったかと思うと「これ大きいよ、ほれ、あーんして」と促して自ら手元の皿からフォークに海老を刺し「銀歯発見」などと言いながらそれをぽいと真由の口に放り込んだ。海老を飲み込んでしまうと「これ、差し歯です」と真由は言わでもなことを答えた。「殴り合いのケンカでもした?」「私をそういうキャラだと思っているわけね」チロッと真由が軽く睨むと「いえ決してそういうわけでは」と有薗は慌てて自分の言葉を否定する風でいながら顔にはちっとも反省の色などない。大柄な女とはいえ、喧嘩で歯を折って差し歯とはどれほど乱暴者だ。有薗の思いがけない発想に真由は怒る気にもならない。「子どもの頃ものすごく歯磨き嫌いでね、虫歯が多かった。そのうちの一本を高校生のときに抜きました。以来、歯医者にかかる方が大変だと気付いて、歯磨きはせっせとしとります。それにタバコ吸うから」「タバコと歯磨きが関係あるの?」「病院は禁煙でしょ、絶対に患者さんにタバコの臭いを気付かれたくないから吸ったら歯磨きするし、タバコは虫歯の原因のひとつです。喫煙者の方が虫歯率高いってデータがある」さすがに医者らしい明確な根拠だと有薗は感心したが、続けて「だから職場にももちろん歯ブラシ置いてるし、鞄にも入れて持ち歩いてる」とまで真由が言ったときにはいまさらながら真由の真剣すぎる物事への打ち込み加減にいよいよ感心した。「やるとなったらとことんやる人だな」と苦笑とともに思いを漏らしても本人はさほどでないらしく「そうかなあ?」と気にしていない。「そうだよ。苦情が来てから音楽聴けなくなっちゃったり。やることが極端っていうか、中間がない感じ」「そんなことない。私はとってもルーズ。いい加減」「いや、きっと自分がそう思ってるだけで、真由さんのいい加減は普通の人の普通、もしくは普通より頑張ってるレベル。やるとなると徹底的にやる」「そんな風に見える?」「見える。恋人と別れるために引っ越しちゃうとかも、徹底的にその人との連絡手段を絶つってことでしょ。どっかで手抜きと言うか息抜きしないと疲れちゃうよ」ふと、高遠を思い出した。彼もよく真由に手を抜け力を抜けと言う。自分は他人の目にはそういう風に映るのか、と不思議な思いだった。それにしても、何年も毎日のように顔を合わせて真由の性質も病気も知っている高遠と、さほど深くは自分を知らないはずの有薗が同じことを言うのは不思議だ。やはり有薗には、真由が必死に隠している本当の自分が、透けて見えているのだろうか。彼は鋭い観察眼の持ち主かもしれない。「ソノさんは息抜きってどうやるの?」「僕こそお気楽いい加減人間だからライブのリハ中でもこそっといなくなってコーヒー飲んでたりしてよく叱られてるよ。強いて言うなら、家で一人、好きな曲を好きなだけピアノで弾くことかな。ギターとかもするけど、ピアノが一番リラックスできるな。あと読書、映画、旅行」「いっぱいあるね。私は映画、海」「映画ってどんなの好き?」「なんでも。ラブストーリーでもホラーでもサスペンスでもコメディでも。一番好きなのは『ライフ・イズ・ビューティフル』。あれは胸が締め付けられる思いだった」「あれは良かったね。僕も覚えてる。父親の命を賭しての無償の愛が、コミカルに描かれているだけに、ずしっと重くくるんだよね」有薗が発した父親という単語に触発された真由はさらに続けた。「遠藤周作の『父親』って読んだことありますか?」「遠藤周作か、『父親』は知らないな」「号泣しました。あれも父親の愛の物語です。しかも娘と父。私には父がいないからか、小説の中の父親が、時に厳しく、時に甘く、ふところ深く娘を受け入れる姿がね、ぐっときた」「そんなお父さんが欲しいと思うの?」「ううん。欲しいと願ってもそれはかなわないことだから」父親の愛情を描いた映画を好きだと言い、小説に泣いたと言いながらも、自分はその愛を永遠に得られないことを知り抜いて諦めきっている真由がなんともせつなかった。確かに死んだ父親を追い求めても仕方のないことだが、それにしても彼女はきっぱりと割り切りすぎていてそれがかえってせつない。もっと素直に愛情を求めることを自分に許しても良さそうなものだ、と有薗は胸が苦しかった。「じゃあ最近はどんな映画見た?」と今度は有薗が訊ねた。「題名は覚えてない。ミニシアター系のフランス映画。癌で余命わずかな夫と彼を支える妻の愛情の物語。映画館の中ですすり泣きが聞こえたな」「真由さんは泣かなかったの?」「ちっとも泣けなかった」「おもしろくなかった?お医者さんだから泣けないのかな」「私はね、泣き方を忘れちゃったの」「何それ?」「忘れちゃったの。それだけ」そう言うと真由はうつむきがちに目を伏せた。果てしなく絶望的な表情だった。また、有薗の胸はきゅっと絞られた。何が君にそんな悲しい顔をさせるの?




