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透明の向こう側  作者:
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 窓の外では風が木の葉を散らしていた。落ちる葉はまだ青々と瑞々しいし、空気はむっとするほと湿気と熱がこもっている。しかし確実に、少しずつ季節が移ろいつつある。いずれ、自分の好きな冬がまた巡ってくる。学会の抄録を机上に広げ、真由は医局の窓際に立って外を眺めていた。住宅街に立地するこの病院では近隣へのプライバシーへの配慮から病室も含めすべての窓はブラインドを上げることを禁じられている。しかし医局は建物内でも海側の一角にあり、遊歩道を行き来する人がなければほんの時折、ブラインドを上げることがある。

 指導医高遠に勧められ、一緒に横浜で開催される救急医学会に参加する予定になっていて、彼から渡された抄録に目を通していたところだった。自分は外科か救急で専門医となろうと意思を固めつつあるところであった。ひとしきり窓外の風景を眺めると、郵便物や院内の回覧などを事務員が入れておく各人用の引き出しからその日の配布物を取り出すと席に戻った。郵便物の中に、東京の有薗智明という人物からの封書があった。覚えがあるようだが、誰だったろう、といぶかしながら開封すると、便箋が一枚とコンサートのチケットが一枚出てきた。チケットには東京で開催される、ジャズバンドJAMANIAの公演日時が印字されていた。JAMANIAと言えば真由が大ファンで、この夏の大阪公演にも友人と行ったバンドである。大阪公演はちょうど全国ツアーの折り返し点当たりだった。そのツアーの最終日のチケットである。便箋の文字を目で追い始めた。そこには「八月の終わりにお世話になった有薗智明です。お礼にぜひご招待したいライブがあり、チケットを送る次第です。東京までお越しいただけると幸いです」と几帳面なくせに大胆なまでに大きな文字ではっきりと書かれていた。しばし考えた後、ようやくそれが夜中に酔っ払って転倒して搬送されてきた有薗であることに思い当たった。物静かに孤独な入院生活を過ごしていたくせに、最後の最後に「神戸に再診に来たい」と思いがけぬ我がままを言い出した男だ。日に数件、数十件と患者のある救急外来で忙しさにまぎれてすっかり記憶の片隅に追いやられていたが、穏やかな人柄ながらも印象的な患者だったように思う。東京から再診に来た折は高遠から「あの人、ちゃんと来たよ。もう問題ないね」と聞かされた。

 彼からの礼が、真由の大好きなJAMANIAのライブへの招待というのはどういう偶然だろうか。真由は一度もそんな話を彼とはしていない。第一、彼自身音楽をやっているとのことだったが、どんなジャンルの音楽をやっているのか、いやプロかアマかすら知らない。有薗もJAMANIAのファンだとすると、それはなんとなく嬉しい偶然だと感じた。

 しかし、とっさにはチケットを返送しようと思った。医師は、患者からなんら見返りをもらってはならないことが頭をよぎったからだ。が、JAMANIAのツアーファイナルとなると、ファンとして血は騒ぐ。偶然にも、日程は横浜での救急医学会の日で、学会本会終了後、すぐに会場へ急げば開演には間に合いそうだった。

 ならば、行って、そこで有薗にチケット代金をちゃんと払おう。

 念のため高遠にも確認をしてみた。医師は、患者や家族からの贈答品等の受け取りは固く禁じられている。このチケットもそうなのだろうかという不安もあったし、高遠にもチケットが届いているか確認したかった。また、学会の後、普通はさらに学会の会場から場所を移して懇親会が行われることも多い。それに参加しなくともよいものか。

「何、あのときの患者さんから?お礼で?うーん、高級なサケとか商品券とかずばりカネとかだったら駄目だけど、元気になったから一緒に音楽でも聴きましょう、くらいの気持ちじゃないの。いいじゃない、素直に行けば。お前の親切が嬉しかったんだよ、きっと。惚れられたな」最後には無駄にからかわれてそれが答えになった。学会も、別に懇親会まで無理に付き合う必要はないよ、とのことだった。その返事を聞くと、せっかくJAMANIAのツアー最終日を体感できるのであれば遠慮なく行って一晩東京に泊まって来よう、と即座に決めた。チケットは一枚なので、改めて「治療は高遠先生の指導があったからなのになんだかずいぶん感謝されてしまってかえって申し訳ないな」という気持ちが大きく膨らんだ。それでも、大好きなJAMANIAのツアーファイナルを見ることができるのは正直に嬉しかった。幸い翌日は当直で夕方から出勤すればよいので、それまでに神戸へ戻れば仕事に支障はない。怪我が治って元気な有薗の姿を見ることができるのも楽しみだった。


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