表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
透明の向こう側  作者:
73/115

73

 映画の余韻ではなく、自分が泣けないという事実に感傷的になりながら映画館を出た。日差しがまぶしい。五月も半ばをすぎ、気の早い人は半袖姿で街を歩いている。ふと立ち止まり「ああ、綺麗な腕だ」とうらやましく思った。自分はこの先一生、腕を露出する服装をすることはない。自分が、そうしてしまったのだ。永遠に負う罰。ファストフードの店に入り、コーヒーだけ買って喫煙席に着くと、バッグからタバコを取り出した。そのときタバコより先に携帯電話が手に触れたので、タバコに火をつけると携帯電話をもう一方の手に持ち、電源を入れた。着信があり、留守番メッセージが入っていた。聞いてみると有薗が「連絡ください」といやにかしこまった口調で吹き込んでいる。夕べ、そして今日の昼間と、立て続けに彼が電話してきてメッセージまで残すのはたぶん初めてのことだった。なんだろう、と少し気になり、コーヒーを急いで飲むと店を出た。特に買い物をしようとか目的があったわけでもないので、とにかく家へ帰ろうと歩き出した。繁華街を出て少し静かな通りに入ると、いかにも都会のアスファルトとビルの隙間に無理やり造りました、という感じの小さな公園がある。そこのベンチに腰をおろすと、バッグから携帯電話を取り出して有薗にかけた。「渡部です、お電話頂戴してたみたいで、返事が遅くなってごめんなさい」「いやいや、忙しかったんでしょう、こっちこそ何度もかけてごめん。今いいのかな」「大丈夫」「あのさ、急なんだけど、神戸のライブのとき、当日神戸入りって言ってたでしょ、そうじゃなくなったから真由さんの都合聞きたくて」「え、そうなの?」「うん、他のメンバーは予定通り大阪で仕事なんだけど、僕はそれがないから、神戸行きたければ行けば、って感じになって」「ソノさんはライブハウスに飛び入りしないの?」「それがさ、大阪公演の当日、ライブの後すぐ他のライブに行くんだ。大急ぎで移動してスイッチ切り替えだよ」「それはまた・・・大変ね。でもそういうのも楽しいんでしょう?」「まあそうだね、楽しみではある。だから大阪公演の日だけは大阪に泊まるけど、神戸公演のリハまでは自由行動なんだ」「えっと、ちょっと待ってね」思いがけず降って湧いた嬉しい知らせに本当は飛び上がりたいくらい嬉しいくせに、真由は必死にはやる気持ちを抑え、バッグから手帳を取り出すと膝に広げ、片手で不器用にページを繰って五月のスケジュールを見た。「二十四日が大阪でライブでしょ、二十七日が神戸。二十五日が当直だから、当直明けの二十六日の午後からなら空いてるかな」「だったら二十六日で決まりか。でも当直明けって寝なくっていいの?」「全然平気」もうツアーは始まっている。今頃はどこにいるのだろうと思って「ツアー中でしょ、今どこ?」と問うと「どこでしょう?」と問い返されて真由はいささかげんなりした。「知らないから訊いてるんですけど」と返す言葉尾冷たい。「つれない返事だな」と言って有薗が電話の向こうでかすかに笑うのがわかった。「よくいるでしょう、何歳?って訊いたら『何歳に見える?』って言う人。私あれ大嫌い。わからないから訊いてるんだっつの」「すみません」「いいえ。で、どこなんですか?」「仙台」「今夜ライブ?」「ううん、明日。昼過ぎに着いて、さっきずんだもち食ったよ」「ああ、豆でできてる緑色のやつでしょ」「食べたことある?」「仙台に行ったときに」「一人旅?」「そう。初めての一人旅は東北でした。仙台、盛岡。懐かしい。千八百円の『大正屋』っていうぼろい民宿に泊まりました。松島も行った」「松島か。今から行ってみようかな」「お天気いいですか?」「あんまり。薄曇って感じ」自分が松島を訪れたときは確か小雨が降っていた。日本三景と称される美しい景色が薄いベールをかけたようにかすんでしまって、良く言えば幻想的なのだろうが、真由にしてみればがっかりだった。松の美しい緑はやはり快晴の空と澄んだ海に鮮やかに映えるような気がする。そんなことを思い「曇りならあんまり綺麗じゃないかも、どうかな」と返事を濁してしまった。「確かね、松島タワーっていうのがあって、松島が一望できるんです、あ、でもあれなくなっちゃったかな。あっても今は入れないかも」「真由さん、タワー好きだね」「たまたまですよ。そうだ、神戸のポートタワーは行ったことありますか?」「ない」「行ってみますか?東京タワーには遥かに及ばないけど、綺麗な展望ですよ」「そうしようか」「当直明けで何時になるかお約束できないんだけど」「いいよ、適当に街ブラしてるから」「絶対お昼は過ぎるから、昼ご飯は済ませておいてね」「うん、わかった」「夜はどうしますか?ガッツリ神戸ビーフでも食って英気を養う?」「前行ったあのレストランは?僕気に入ったんだけどな」「ほんとに?嬉しいな。予約しときましょうか」「うん、そうしよう。これで決まりだ。二十六日に神戸で会いましょう」「仕事終わったら連絡します。仙台楽しんでください

 暖かい日差しを全身に浴びて体も温かだったが、心もふわりと軽く温かかった。有薗と会えることが楽しみだった。神戸へ来ることを自分に真っ先に教えてくれることが嬉しかった。自分ごときと過ごす時間を割いてくれることがたまらなく幸せだった。それまでの陰鬱な気分がすっかり晴れ渡り、俄然ライブも楽しみになってきて、自分の現金さについ笑みがこぼれる。うーんと気持ちよく伸びをするとベンチから立ち上がり、またとことこと歩き出した。鼻歌でも歌いそうなくらいいい気分だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
**ランキング参加中**
NEWVELに投票
ブログにて更新情報を掲載しています。
不透明人間
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ