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透明の向こう側  作者:
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 四月、正職員として救急部の一員としてスタートを切った真由には正式に「災害マニュアル整備副担当」と任務が割り振られた。正担当も副担当も何も、もともとそんな役職はないが、高遠が「肩書きがついてる方が仕事が進めやすいこともある」と無理やりにひねり出したのだ。事務職員の久保との軋轢を見越してのことか、と最初真由は単純に思ったが、どうもことはさほど単純ではないと気付かされた。医師たちの中にも、表立って意見する者がいないだけで、駆け出しで嘱託員の身分に過ぎない真由がマニュアル整備に関わっていることを快く思っていない不満分子のくすぶりがあったらしい。院長や事務部長はそのあたりは大らかで、真由を一人前に育ててやろうという温かい目で見守っていたのだが、まず一月の委員会で看護部長がはっきりと「看護師は渡部先生よりずっとベテランが揃っています」と反発を露にし、次いで責任者会議で医長クラスの医師の一人がやんわりと「こんな重要な仕事にはもっと適切な人がいるのでは」と意見した。それまでにも一部の医師や看護師から「渡部先生でなくてはいけないのか」という程度の反発を高遠は受けていたが、ことごとく跳ね返し、一切真由には伝えず察知させなかった。知らせてしまえば真由が必要以上に落ち込んで萎縮してしまうことを配慮してのことだった。ゆきすぎなくらい、出しゃばりすぎなくらいの勢いでマニュアルに取り組ませてやりたいと考えた高遠が正職員への採用をきっかけに整備副担当などとそれらしい業務分担を与え、看護師の中からも災害現場へ派遣された経験のある中堅から一人、同じく副担当として指名して真由と組ませることで看護部長の顔も立てたのだった。そのことに真由自身はすぐに思い至らず、市川から「お前、仕事やりやすくなったやろ」と言われてようやく高遠の配慮に気付いたのだった。そんな政治の世界にまったく無頓着な自分の器量の小ささに真由は呆れると同時に、余計な口出しをせず一歩退いて冷静に院内の動向を見ている市川の姿勢に感心すると「今頃気付いたか」と鼻であしらわれた。反発を自分に知らせないのも高遠の思いやりなら、あえてその心遣いに気付かせる市川の行動も思いやりだ。部長クラスの男二人から、異なる形で愛されている自分は心強い、絶大な安心感と信頼感があることに感謝した。

 五月二十四日に大阪、二十七日に神戸でJAMANIAの公演が予定されていた。有薗からは「たぶん当日神戸入りする、神戸の翌日はすぐに九州へ移動だから今回は会えないかな」と聞かされていた。大阪の小さなライブハウスにメンバー各々サプライズゲストとして出演する予定を組み込まれているため、大阪に連泊するらしい。そのことが真由を激しくがっかりさせた。なんとなく、彼が神戸に来れば会えるものだと思っていたし、そういう時でもなければ会う機会などない相手なのだと思い知らされる。それに『message』を聴いて感じた感動をシ接伝えたかった。しかし、彼にも会うべき関西の知り合いはほかにもいるだろうし、今回のように仕事が過密となれば真由と会うことの優先順位が下がることは当たり前で、その事実もまた、少し悲しかった。自分の中で有薗の占める位置と、有薗の中で自分の占める位置に大きなへだたりがあることを思い、いつもはわくわくと楽しみでしかたのない日々を、どんどん落ち込みながら過ごすうちにライブの日が近づいていた。

 当直明けのある昼下がり、真由は三宮で映画でも見ようと都心部へ出た。特にアテがあったわけではなく、とりあえずよく利用しているミニシアターへ足を向けると、ちょうどまもなく上映時刻となるフランス映画があったので、深く考えもせずにそのチケットを買って場内へ入った。席に着くとバッグから携帯電話を取り出し、電源を切ろうとした。すると、当直をしている間に着信があったらしく、ランプが点滅していた。まだ上映は始まっていないし、と携帯電話を開くと、有薗からの着信だった。時刻は夕べの二十三時過ぎである。真由は携帯電話に恐ろしく無頓着で、仕事に出かけるのに持っていかないことさえある。病院からの連絡にはすぐ対応できるよう、病院の外にいるときには必ず携帯するのだが、病院へ出勤するときには気にもかけない。仕事中はもちろん、仕事が終わってもすぐに着信やメールチェックなどもしないから、しょっちゅう友人からも「返事が遅い」と怒られていた。真由が不規則な仕事をしていることはみな承知だが、それでもつい小言を言いたくなるくらい、彼女は返事が遅れがちである。しかも憂鬱の波に襲われているときはさらに返事が遅れるから心配もかけてしまう。わかっているのだが、どうも携帯電話で四六時中束縛されることが気持ちよくない。有薗ももしかしたら自分から折り返し電話が来ないことを、気にしているかもしれないと少し心配になった。しかし真由独特の割り切りでとにかく映画を見ることにして結局電源を切ってバッグにしまってしまった。映画は、愛する夫が末期癌に侵され、徐々に、しかし確実に死へ向かっていることをなかなか受け入れられない悲しい妻の物語だった。物語の後半、ようやく残りの人生を少しでも楽しくともに過ごそうと決意を奮い立たせ、けなげに努める女と幼い子どもたちのひたむきな愛が、フランスの緑あふれるのどかな風景とともに叙情豊かに美しく描かれていた。全身に癌が転移し、ひとりで歩くこともままならなくなった夫を、妻が自分の肩に夫の腕をまわして力いっぱい支えて歩く姿に、自分と、癌で逝った母の最期を重ねた。真由の母も、骨転移のために最期の頃には歩行困難になっていた。もともと小柄な母がやせ細り、さらに小さくなったことに死期の近いことを感じながら、そんな思いを悟られまいと明るく振舞い、身をかがめ、母の背丈に合わせて肩を入れて真由は必死になって一緒に歩いた。母は最期まで自分の足で歩くことにこだわり、真由もそれをかなえてやりたかった。映画では夫の死は描かれなかった。生のともし火が消える直前、もはや歩くことも立ち上がることもかなわず、ベッドに横たわって窓の外の景色を夫婦で眺める姿がスクリーンに映し出されたのが、彼の最後のシーンだった。映画が終わる頃には館内にはすすり泣きの声が聞こえた。「ああ、この映画は泣く映画なんだな」悲しいかな、それが真由の感想だった。自身の体験がフラッシュバックするほど感情移入して見ていたわりに、真由の目には一滴の涙もない。愛と死、映画ではよくあるテーマだが、それでもこの映画はよくできていたと思う。しかし、それ以上でもそれ以下でもないのだ。「今日も泣けなかった」その事実に、泣き出したい思いだった。真由はストレスや悲しみのはけ口として自傷を覚えた頃から、泣くということがなくなってしまった。涙の代わりに、血を流すのだと自分を納得させていた。初めて自分の体を傷つけたとき、彼女は声をあげずに静かに泣いた。ひたすら涙がこぼれた。あれっきり泣いていない。感情という名の一切は真由の中で死滅してしまったのだろうか。


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