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年明けすぐから大晦日の事故の対応についての検証を行い、この件も委員会にかけることになって真由が年末にざっと作成した報告書はさらに練られ、同時にマニュアル類を詰める作業にも追われて連日徹夜に近い状態になった。高遠も終電ギリギリまで真由につきっきりで指示や助言に当たり、どうにか委員会にかけるだけの形に仕上げ、添付資料も当初の予定以上に詳細に作成すると、高遠にしては珍しく「よく頑張った」と真正面から誉めてくれた。委員どころか正職員ですらない真由は出席できないが、高遠が委員会で「もっと事務方の協力を求める」と事務部長に詰め寄り、今後のマニュアル類の修正に伴う細かい作業については真由の手を離れることとなった。ただし、委員会では高遠の修正案が全面的に受け入れられたわけでは当然なく、今後も練り直しが続くことになった。
委員会の数日後、いつもの店で真由と市川はビールを飲んでいた。市川は幹部職員だから委員会にも出席している。席上、緊急車両に救護チームとして薬剤師も載せていく場合の議論がなされた。市川の答えは「NO」だった。神戸海原病院の薬剤師たちは、部長である市川を除いてみな若い。中堅クラスの薬剤師が不足している状態なのだ。若手では現場へ連れて行くには知識も経験も浅い。もし必要なら俺を連れて行けと言う市川に対し、高遠は「市川さんは本部に残って指揮する側だ。現場人員の第一候補にはなりえない。若い薬剤師も経験を積ませなければ」と突っぱねた。
「知らんかった、そんなやりとりがあったの」「高遠先生から聞いてないか?」「全然」「一旦お前を休ませるつもりかもしれんな。そのうち何か言うてくるやろ」緊急車両を、患者搬送ではなく医療者輸送に重点を置くよう提案したのは真由だったが、高遠は一度それを「要熟考」と言ったのみで、結局緊急車両の出動ガイドラインは大幅な修正は加えなかった。しかし委員会で高遠はその趣旨の発言をしたことになる。しかも市川と意見が衝突までしているのに、真由には一切伝わっていない。高遠の真意を測りかねた。「若手の薬剤師を、災害現場で活躍できるようにどうやって育てるつもりなん?」「救急センター専属体制を敷こうかな、と」「専属?」「そう。お前ら医者みたいにはっきりと救急部所属っていう形は無理やけど、薬剤師のシフトの中で、今日はお前は救急センターな、と当番制にするわけ。外来や病棟は無視しとけ、と。とにかく救急の経験を積ませる。もちろん患者搬送もなく落ち着いてるときには災害救急医療について、みっちり勉強させる」「いつから?」「今それとなくそういう制度にしてええかって確認してるとこやけど、まあキリのええとこで四月からかな」「当然、外来や病棟を担当する薬剤師の負担は増えるよね」「もちろん。でもそれはそれで良しや。要は、短時間で的確な判断が速やかにできるか、ケアレスミスをしないよう集中するか、そういうもんを育てるわけやから。どっちの当番になってもいい経験になる」市川の計画を聞いて真由はにやっと満足げに笑った。市川はそれを見てふんと鼻で笑って「お前はそんな顔すると思った」と言った。いずれ、薬剤師も含めた救護チームは組める。ガイドラインの改正は可能だ。
ゆったりとした間取り、開放感のある中庭等設計段階からこだわりを発揮し「この病院をこの地域になくてはならない存在にしていく」が口癖の院長自身は専門が内科で、救急医療は完全に高遠に一任している。もともと高遠は大阪の救命センターで救急医をしていたのを、設立時に院長自らヘッドハントしたのだ。高遠に言わせれば「院長は救急に関しては相当ぬるい」らしい。その高遠が、やはり設立に合わせて引っ張ってきたのが市川である。高遠と市川が本気を出して取組み、力を合わせれば「相当ぬるい」救急部門は、変わる。真由はそう確信した。
ホテルの大きなバスタブで向かい合っていた市川が、それまでふざけあっていたものを急に冷静な顔になってひょいと真由の右腕を掴み「お前これ、最近か?」と赤く腫れている部分を指した。十二月に深々と切り、高遠にも指摘された傷だ。傷口はとっくにふさがっているが、覆っている皮膚は薄く、ちょっとひっかければすぐに弾けそうな赤い腫れになっていた。去年の終わりだとだけ応えると「最近は収まってたのになあ」と寂しそうに呟いたきり市川は黙った。市川の手を離れた真由の腕は力なく、重力のままにぽちゃんと湯に沈み込んだ。彼は、理由を訊ねようとも、やめろとも言わない。真由は市川のそういう程良い距離感に心を許している。まだ真由がぴかぴかの研修医で、市川ともこういう関係ではなかった頃、食堂で昼食を終えた真由が薬を飲もうと薬包を取り出したとき、偶然隣にいた市川が「なんの薬?」と訊ねた。いくらベテランの薬剤師とはいえ、騙せば騙しとおせたのだろうが、真由は正直に「パキシル」と抗うつ薬の名を答えた。それだけで、市川には十分、新米研修医の性格も腕の傷の正体も理解できた。そして正直に答えた瞬間、真由が自分に全幅の信頼を預けたであろうことも。




