表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
透明の向こう側  作者:
56/115

56

 二人が東京タワーを出る頃には日も暮れかかっていたが、それでもまだライトアップには早すぎて、どんよりした灰色の空の下、赤いタワーが少し翳ってそびえていた。

「真由さんがあんなミニチュアを欲しがるとは思わなかった、意外だ」有薗は真剣に何種類もの東京タワーの模型を手にして見比べて悩みぬいた真由の様子を思い出してふふっと笑った。どう思い返してもたくさんのおもちゃを前に選択を絞りきれず目を輝かせる子どもそのものだった。「ミニチュア好きなんだもの。電車、動物、映画やアニメのフィギュア。色々持ってるよ。またコレクションが増えた。ありがとう」真由はほくほくと満足げに微笑んだ。さんざ悩んだ挙句、一番忠実にタワーを再現した模型に決めるとそばで見ていた有薗がそれをぽいと取って金を払ってしまった。「東京観光のお土産」と紙袋を渡されて、真由は「クリスマスプレゼントと思ってありがたく頂戴します」と両手で恭しく押し戴いたのだった。「でもこんな物がクリスマスプレゼントって、贈る側としては寂しいもんがあるんだけど」と有薗は大いに不足げであるが「何言ってるの。昨日のクリスマスソング、あのピアノは最高の贈り物!」と真由は取り合わない。「でも『戦メリ』はちゃんとリクエストに答えられなかった」「ううん、十分感涙ものです」「嘘だ、泣いてなかった」「ごめん、ちょっと誇大表現」自らの大げさな表現に肩をすくめてふふっと真由は小さく笑ったが、すぐに真剣な顔になるとあらためてありがとうと言い「本当にあのピアノは嬉しかった」と実に晴れ晴れとした顔をした。「弾いてみるもんだな。いつも夜は何かしら弾くのが習慣なだけなんだけど」「あのマンションは夜にピアノ弾いても大丈夫なの?」「防音設備の整ったところを探したから。一応僕は音楽を生業にしてるからねえ」という有薗の返事はさほど深い意味はなかったが、真由はプロのミュージシャンに対して失礼な質問だったかといささか反省した。真由が有薗にピアノがOKなのかなどと訊いてしまったのには理由がある。ついひと月ほど前、夜の八時ごろだろうか、真由がリビングでスピーカーを通して音楽を聴いていたらチャイムが鳴った。出てみるとマンションの組合の会長で「音に苦情が来ている」とのことだった。そのとき聴いていたのはロックだったが、真由にしてみればそんなに大音量にしていたつもりはない。むしろもっと迫力いっぱいに聴きたいのを我慢してかなり絞っていたほどだ。おそらくボリュームそのものの問題ではなく、サブウーハーが出す重低音の響きが下の階や隣室に伝わってしまったのだろうと思ったが推測の域を出ない。重低音のあまりない音楽なら大丈夫か、サブウーハーの配線を外してみようか、それとも全体の音量を下げれば大丈夫だろうかと考えてみたがこれで大丈夫と思う音量でまた苦情がきたら相当ショックを受けてしまうだろうし組合からは睨まれようし、近隣とのかねあいもあるし、いずれにせよスピーカーで音楽を聴く勇気が消え失せた。以来、音楽を聴くのに必ずヘッドホンを用いるようになった。大したパワーもない書斎のPCで聴くときでさえ。真由の住むマンションはファミリー向けの2DKから3LDKの間取りが主だから、赤ん坊のいる家もあれば老夫婦のみで住む部屋もあり、必ずしも八時と言う時間帯が真由のように元気一杯な宵の口ではなくすでに夜中同然という世帯もあろうし、そもそもが安普請なのだから夜の音楽は自分が思っている以上に周囲にとっては騒音だったか、と自覚のなさと自由に音楽を聴けないさびしさに激しく落ち込んだ。たまにガンガンにロックを聴きたいときなど「いっそ引っ越そうか」とさえ思うほど、音に気遣う生活に一変した。「きっと作った人が聴いて欲しいと思いをこめたもののすべてを聴けてないんだよ。ヘッドホンだとカットされてしまっている何かがあると思う。すごく悔しいな。JAMANIAだって百%の楽しさを味わえてないと思う、ごめんなさい」悔しそうにしょげた真由の横顔を有薗は気の毒そうに見つめた。たった一度苦情が来たからといって音楽の一切を諦めるなんて、生真面目すぎる。それに聴き手が楽しむことが一番なのに、たまたま自分がJAMANIAの一人だからと言ってすべてを感じ取れていないと詫びることも謙虚というよりも自虐的にすら感じる。真由が考え込みすぎなところが有薗には気になった。良く言えば感受性が豊かなのかとも思うが、そのあたりの気がかりをうまく言葉にすることもできず、また言葉にして慰めたところでどうしようも環境を変えてやれないことも十分わかっているから有薗はとりあえずその点はうっちゃって「せめていいヘッドホン使いなよ」とアドバイスしてやった。突然の苦情に慌ててそのままひと月、ずっと昔に電気屋のワゴンセールで数千円で投げ売られていたヘッドホンを使っているというのだからそれまでちゃんとしたスピーカーで聴く音に慣れていた者が満足のいくはずがない。「やっぱりいい物使ったほうがいいのかな?」「もちろん。全然違うよ」「だってどれ選んでいいかわからへんもん」「もったいない。絶対損してる」「だから好きなアーティストはなるべくライブに行くの。これまでもそうだったけど、これからはもっとライブに行って生の音楽を全身で思い切り楽しむの」気を遣いすぎだからせめて昼間くらい自由に聴けばいいだろうと言っても「無理。もしまた苦情が来たら、きっと私は一生音楽を聴けなくなる」と言下に否定されてしまう。「まともにショック受けちゃうんだね。考えすぎな気がするけどなあ」それとなく有薗が真由の自虐の精神に軌道修正を図ろうとしても「うちのマンションなんて粗末なつくりだし、お年寄りが多いから口うるさいし生活の時間帯が違うもの」と悩みの深さはどこまでも頑なである。「よし、じゃあ僕がプレゼントする。ヘッドホン」「え、いいよ、買うなら自分で買う」「クリスマスプレゼントだと思って受け取ってよ」「プレゼントはもう十分すぎるほど頂きました。そうか、でもせっかく音楽のプロがこうして知り合いにいるんだから、ちょっとくらいお願いしちゃおうかな。じゃあ、自分で買うから、いいヘッドホンってやつを教えて頂戴」「欲のない人だな。了解、じゃあこれは宿題ってことで」「ソノさんこそ、まだ誕生日プレゼント選んでもらってないよ」「だから祝う歳じゃないって」「昨日泊めてもらったお礼もしたいし」「じゃあ体で返して」有薗はニッと意味深に笑ったが真由はそんな中年男のたわむれは意に介さず「どのような肉体労働をご所望でしょうか」とあっさり受け流した。有薗は真由が即座にまったく色気のない答えをしたことにちょっとした感動すら覚えた。少しくらい照れくさそうな恥ずかしそうな、そんなかわいい顔を見せてくれたっていいじゃないか、といくらか残念に思いながらも真由の返事に調子を合わせてやった。「そうね、楽器運搬」「それってトラックの運転も含まれる?」「もちろん」「じゃあ無理。会場に到着する前にあの世へ行ってしまう」「運転下手なの?」「ペーパー歴十五年」「絶対に君の車には乗りたくない」絶対に、という部分にいやに力をこめて有薗が苦笑を漏らすので「天国への旅路をご希望でしたらいつでもお申し付けください」と言って真由はにこりと微笑み、それを見て「まだいい」とさらに有薗はおかしそうに笑った。しかし真由が「いつでもどうぞ」となお繰り返したときには冗談の中に一抹の無常を感じた有薗はとっさに、行くなとばかりにぐっと真由の体を引き寄せ「君も慌てなくていい」と真剣にたしなめた。真由は有薗の不安にはついぞ気づかず「ほんと何かお礼させて。このままじゃ帰れない」と頼むような口調で元の話題へ戻った。帰れないと言うので「じゃあもう一泊していけば?」と応じたのは半分くらいは本気だったろうか。「窓拭きでもいたしましょうか?それともトイレ掃除?」と労働で対価を払うかのように答えながらもその様子がまるで本気でないことは簡単に見て取れたので、有薗は真由ともう一夜をともにすることはありえないと諦めた。「そんなこと言って、絶対今夜は神戸へ帰るんでしょ。何日も留守にして、そろそろ自宅でほっとしたいところでしょう」「なんでわかるかな。確かに、自宅が恋しいかな」この人は他人の心を正確に見抜く能力が備わっているのだろうか、それとも自分の言動がよほど単純でわかりやすすぎるんだろうか。人の心がわかる人はきっととてつもなく優しい。人の悲しみもわかるから。有薗が何気なく発した言葉に、真由はそんなことを思った。「もう一泊とは言わないから、せめて夕飯くらいはご一緒したいな」「あ、じゃあ夕飯ご馳走します。ね?」「んー、じゃあ遠慮なくそうしようかな。牛丼とか」とふと目に入った駅前のチェーン店を指差した有薗に「なんでそんな超庶民的なの、急に。絶対牛丼食べるタイプじゃないやん」と真由は噴出した。ジャズミュージシャンに牛丼の取り合わせは似合わない。「帰りは品川?東京?」「どっちでも。たぶん最終が東京を二十一時ちょうどくらいかな。でもソノさん、夜に約束あるって言ってなかった?」「ああ、それは全然気にしないで。何時になってもいいから。メシ食う約束でもない」と答えておいて、と言っても新宿だの赤坂だのと出てゆくと新幹線に間に合うか心配になるし、東京駅まで行った方が時間にも気分にも余裕ができるが普段使わないから東京駅近辺はあまり得意ではないし、うーむ、と有薗は考え込んだ。若い女性を伴っていくのに丁度良いような店をあまり知らないし、あっても時間の制約があるし、自分の知っている店へ連れて行くのはとにかく今日はもう無理かな、と悩んだ。できれば、真由が神戸で彼女のなじみの店に連れて行ってくれたように、自分もお気に入りの店に彼女を伴いたい思いがあって、つい真由を放置して黙り込んでしまった。真由は、有薗が真剣に自分のためにこんなに考え込んでしまっていることに思い至ると驚くやら嬉しいやらで、悩み深い顔をしている有薗の横顔をじっと見つめた。つい顔がほころびそうになるが、雨の中、日も暮れて気温も下がっているのにここで時間を費やすのは互いに無益ときっぱり判断すると「丸ビルって東京駅の近くじゃなかったっけ?丸ビル行ってみたい」と田舎モノ丸出しの単純な発想で有薗の悩みを断ち切った。「とにかく東京駅まで行ってみましょう」そう決めて、一度だけふと振り返ると、すっかり暮れ落ちようとする空にほんわりとオレンジ色の暖かく柔らかな光に包まれて東京タワーが浮かび上がっていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
**ランキング参加中**
NEWVELに投票
ブログにて更新情報を掲載しています。
不透明人間
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ