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透明の向こう側  作者:
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 どのくらいの時間、そうして有薗の腕にからみついてじっとしていたのか、なかなか彼に起きる気配がないので、真由は起こさないようにそーっと腕をほどくとベッドを抜け出た。リビングのカーテンを開けるとそこは広々としたベランダになっており、十四階という高さのおかげで、絶好の展望が広がっていた。ただし、空はあいにくの雨模様である。景色は全体に靄がかかっている。「うわあ」思わず感嘆の声をもらしながら、真由はサンダルをつっかけてベランダに出てみた。ベランダには椅子とティーテーブルがあり、そこに灰皿もあったので、一度リビングに戻ってタバコを手にすると再びベランダに出、当分雨模様の大都会のパノラマを眺めると、椅子に腰を降ろしてタバコに火をつけた。学校の校庭や公園も見えた。それでも神戸の見慣れた景色よりもずっと都会的に感じるのは、高層の建物があちこち目に付くせいだろうか。何より、真由の住んでいるマンションは海に近い上に真由の部屋のベランダは海を向いているから、今見ているような、どこまでも土地が続き建物が続く景色を見慣れていない。今も大勢の人がこの地上に息づき、観光に訪れ、仕事をし、勉強し、生きているのだと妙に感慨深くなるのだった。「おはよう」ふいに窓から有薗が顔を出した。「寒くない?何かはおるもの持ってこようか?」「おはよう。そんなに寒くない、平気。勝手にくつろいでます」「いいよ。でも風邪ひかないようにね。コーヒーでも飲む?」「ありがとう」しばらくすると有薗がマグカップを両手に持ってベランダに出てきた。椅子は一脚しかないから、有薗は突っ立って、景色に眺め入る真由を、眺めていた。部屋に何もないように、ベランダにもまた何も無駄なものはない。それでもあえてこのテーブルセットを置いているということは彼自身、ここからの眺めを好んでいるんだろう、いや、よほど気に入っているに違いないと推し量る。あれ、でもなんで椅子が一脚なんだ、恋人と一緒に夜景を見たりしないんだろうか、とふと疑問が湧いた。いや、そもそもベランダに出るためのサンダルが一足しかなくて、コーヒー飲む?と訊いたとき彼はベランダへ出られず、顔をひょこっと覗かせただけだった。「バーベキューできそうなくらい広いベランダね、気持ちいい」うーんと長閑に伸びをしながらそんなことを言う真由の表情はいつもどおり、朗らかだった。「バーベキューはしたことないけど、ときどきゴルフのスイングしてるよ」「ほんとに?」風景に注がれていた真由の視線が、くるっと仰ぎ見て有薗の言葉を信じきった正直な眼差しに変わる。声にも表情にも偽りなく、有薗は真由の素直さに驚き「するわけないでしょ」と小さく笑った。担がれた、と気付いて「私って馬鹿?」と有薗をひと睨みすると真由はぷうっとほっぺを膨らませてすねて見せた。「さあ?」有薗はすっとぼけながらその頬を指先でツンと突いた。頬の膨らみが右から左へと移る。膨らんだ方を再び彼がツンと突くとまた逆へ膨らみが移動する。何度かそれを繰り返し、最後には「ぷしゅー」と擬音語を発しながら真由は頬をしぼませた。そんな馬鹿馬鹿しい真似をするかと思えば急にまじめくさった顔をして「神戸はね、海と山が近いから、こんな風にどこまでも地上が見渡せる景色ってあんまりないんです。すごく新鮮」と再び風景に熱い視線を注ぐ。大人の落ち着きの中に、珍しいものを見つけてわくわくする無邪気さを秘めた独特の質感の微笑を浮かべている。「真由さんの家からは海が見えるの、山?」「海」「海が見える家ってなんかかっこいい」「と言っても砂浜の海じゃなくて人工的なものだからあんまり綺麗じゃないです。でもよくぼーっと海を眺めてるな。なんとなく落ち着くのかな」この風景も、一種の海だ。灰白色の、水面の揺れぬコンクリートの海。

「せっかくソノさんとデートなのに雨だなんて、悔しいな。日頃の行いが悪いのかな」とぽつりと呟くと真由はしょぼくれた表情を見せた。ピアノに喜んではしゃぐかと思えばぞっとするほど醒めきった顔をする。大人らしい表情で風景を眺める。子どものように澄んだ目をして雨を嘆く。君は一体何者だと有薗は胸の内で問うた。

 リビングに戻るとテーブルの上に新聞が置いてあった。「これ読んでもいい?」床にぺったりと座って真由が新聞を広げると、すぐ後ろのソファに有薗も座ってタバコに火をつけた。「私ね、旅行とか出張に行くと必ずその土地の新聞と、住宅情報誌を読むんです。土地柄がすごくわかっておもしろいの。アルバイト情報誌なんかも読んでたな。『この辺ではこういうお仕事でこういうお給料なんだなー』って」「そんなものがおもしろいの?」「おもしろい。北海道なんて、学生向けのマンションが普通に二LDK駐車場付き、とかなの。ああ、土地がいっぱいあるんだなあ、さすが北海道!って」「今度ツアーとかで全国回ったら買ってみようかな」「おもしろいよ。結構いい暇つぶしになる」「変わった趣味だね」「趣味というか、普通旅先でそんなもの買って読もうと思わへんよね」「結構旅行とかしてるんだ?」「学生時代はね。大学の夏休みって無駄に長いでしょ。だから一週間くらいぶらっとお気楽ひとり旅してた」「ひとり旅?女の子が?」「ひとりが気楽。泊まるところがどうしても見つからなくて野宿したこともあるよ」「ほんと?」「うん。夏だったからベンチにごろっとなって。さすがに熟睡はできなかったけどね」「すごいな。真由さんてなんか思いがけない経験をしてるよね。今までいろんな女性と会ったけど、野宿経験者は君だけだ」「体がでかいだけじゃなくてたぶん性格が豪快なんだろうね。母親にさえ『生んだときは女の子やったのに』って嘆かれたくらい。『生んだときはってじゃあ今はなんやねん』って言い返したら『オッサン』って素で返された。ってあっ!」後ろから回された有薗の手がふわりとジャージ越しに真由の乳房を包み込んだ。「ものすごく女性らしいと思うけどなあ?」「こりゃ!」真由は有薗のいたずらな手をがしっと掴むと胸元から離して振りほどいた。

 二人が出かけたのは結局昼少し前くらいだった。「あっ、それ!」「覚えてた?」「もちろん」いざ出かけようとしたとき、有薗は昨年真由がプレゼントした帽子を手にしていた。それはチャコールグレーの地にわずかにラメの入ったの黒のリボンのソフト帽だった。「どう?」と軽くつばに指を添えてポーズを極めて見せる有薗にしばし見とれてから「よく似合う」と言うと真由は弾かれたようにお腹を抱えて笑い出した。「なんでそんなに笑うのさ?」「思った以上にしっくりきてるんやもん」「似合ってるんなら笑わないでよ。せっかく気に入ってるのに」「ごめんなさい。でもほんとに似合ってる。良かった」

 帰りに酒が飲めなくなるから、と車は置いてマンションから駅へ向かって二人は並んで歩いていた。と言っても、昨日車で送ってもらったときも五分足らずで着いたから、距離的にはそう遠くないのだろう。昼間なのでわからないが、夜になるときっとキラキラと点灯するのだと思われるクリスマスの電飾があちこちに見られた。「駅に着く前に、フレンチレストランがあるから、まずはそこで昼ご飯にしよう。それから東京タワーに行っても余裕でしょ」「ソノさんは今日はオフだったの?」「うん、ちょうど。夜に約束があるけど、真由さんを送ってからでも全然間に合うから。明日はレコーディングの打ち合わせとかあるし、ほんと今日がオフで真由さんの来る日に重なってラッキーだった」「レコーディングって、JAMANIA?」「うん。来年の春くらいにアルバム出す。今急ピッチで準備中」「おおっ、楽しみ。じゃあまたツアーもやるの?」「もちろん。本当は年に二度でも三度でもツアーしたいのに、今年は全国を回ったのは一回だけだったんだよね。だから来年は早めに一回目をやって、なんとか年内に二回やるつもり」「ほんとに?アルバムもツアーも期待してるっすよ」そう言って真由がぐっと握りこぶしを作ると「頑張るっすよ」と有薗も拳を握って真由の拳にこつんと当てた。


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