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透明の向こう側  作者:
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 店の前で、さらに次へ行く元気な者と駅へ向かう者とに別れたところでそれぞれに改めて挨拶すると、真由は以前利用した品川のホテルに行こうと思い立ち、駅へ足を向けかけた。翌日新幹線に乗ることを考慮すれば品川駅付近に泊まるのが楽だしこんな時刻にあてどなくビジネスホテルを訪ね歩く元気もないと単純に考えたのだが、空室があってもこんな時刻にチェックインさせてくれるのかと少々不安になり、まず電話してみようと携帯電話を取り出してはみたものの、あいにくホテルの番号は登録していなかった。さっき咄嗟の言い逃れで口にした高円寺の叔父のところへ行く手もあるが、恐ろしく規則正しい生活をしている叔父の就寝時刻は確か二十二時。迷惑この上ない時刻であることを思うとさすがにためらわれる。その携帯電話に、二度の着信履歴があった。有薗からだった。神戸へ帰るにしても連絡をしてくれと言っていた彼の言葉をようやく思い出した。突然斉藤から飲み会に誘われて戸惑いながら同行しているうちにすっかり忘れていたのだ。自分のために時間を空けて待っていたかもしれない有薗を思うと申し訳なさに胸が苦しくなった。とにかく一声、電話を入れようと少しでも静かそうな場所へ体を避けて、電話をしてみた。「もしかしてもう神戸に帰っちゃった?」有薗の声にはたっぷりとがっかりした残念な気持ちがにじんでいて、真由は猛烈に申し訳なさが募る。「それが、急遽私の送別会をしてくださって、さっきまで飲み会だったんです。今、立川。電話もせずにごめんなさい」真由が短い言葉で端的に事実を述べつつ精一杯詫びると、有薗はそんなことは気にしなくていいとなぐさめつつ、かえって心配そうにこれからどうするつもりだと訊ねた。とにかく品川へ行ってみるつもりだと言うとなぜと重ねて問われる。新幹線を利用するのに便利がいいからだと応えるとさも心外だという風に「え、じゃあ東京タワーは行かない?行けない?」と少々いつもの落ち着き払った声とは異なる調子になった。真由は東京タワーという言葉を聞いてあっと思うとその瞬間つい無邪気に「行きたいです」と答えていた。行きたいという返事にほっとしたのか、有薗はいつもの穏やかな口調を取り戻して、品川にこだわらなくていいねと確認してからしばしの間を置いて思案に暮れたかと思うと唐突に「とにかくさ、新宿まで行って。新宿で山手線に乗り換えて目黒で降りて」と告げ、真由が疑問を挟む余地を与えずに「駅まで迎えに行くから着いたら電話して。じゃ」と一方的に電話は切れた。

 目黒駅に着いた頃にはとうに日付が変わっていた。改札を出て有薗に電話すると、そこから少し歩いて、と道順を伝えられ、そのとおりに歩いていくと一軒の飲食店があり、その駐車場で有薗はタバコをふかしながら黒っぽい車にもたれかかっていた。彼が真由に気付き、タバコを持った方の手を軽く額の前にかざして「真由さん、こっち」と合図した。「遅くなりました、お待たせ」とたたっと駆け寄り真由らしいさっぱりとした笑顔を弾けさせるのを見て有薗はほっとした。不慣れな東京での数日を過ごした後ながら、さほど疲れは見て取れない。「乗って」と有薗は助手席のドアを開けて真由を促し、自身はくるっと車の後ろを廻って運転席に着き、エンジンをかけて車は発進した。どういうつもりで目黒を指定したのか聞かされていない真由ははっきりと目的地のありそうな有薗にどこへ行くつもりかと訊いた。「僕んち」とあっさり言われて真由はのけぞるほどに驚いた。「嫌ならどこか適当にビジネスホテルにでも送っていくけど。もう遅いしチェックインできないんじゃないの。第一、アテあるの?」「そりゃそうだけど」「何か食べたいものとかある?もう散々飲み食いしてきた?酒なら適当にあるけど」「お茶が飲みたい。お酒はもういい」もう酒という言葉も聞きたくない、ぐったりだといわんばかりに真由は目を閉じて深々とシートに沈み込んだ。その様子をチラと横目で見て有薗はくすっと笑った。この人でもこんな風になるのか、意外だと思ったがそう言えばまた「私だって酔うよ」とむきになって怒るんだろうと言葉を飲み込んだ。一方真由が目を閉じたのには実は理由がある。前方を向いたまま話しかける有薗がときおり寄越す視線がとてつもなく大人の色気を含んだ流し目に見えて、ドキリとした。有薗はもちろんそんなつもりは毛頭ない。運転しているからはっきりと横を向くことができないだけだ。それがわかるからこそ、真由は有薗を魅惑的だと感じた自分の衝動が淫らなようで恥じ、またこれ以上この視線を冷静にかわせないと理性の自信を消失し、目を閉じた。 真由の内心の動揺を知らない有薗はのんきなもので「そんなに飲んだの?」と真由がどれほどの酒で酔うのか、そのあたりに興味がそそられるらしい。「焼酎。何杯飲んだかわかんない。ご一緒した先生がとにかくすごく飲む人で、どんどん注文しちゃうんだもの」「顔には出てないね、少なくとも」「言わないで。先生にも女傑って言われちゃった。誉められてるんだかなんだか」「女傑?うーん、僕には女傑ってタイプには見えないな。確かにしっかりした人ではあるけど、なんだろうな、もっとこう、ソフトなイメージ」「そう?私はそんなに柔らかい人柄でもないと思うけど。物腰が柔らかいのはソノさんの方ですよ。入院中も、この人は接しやすい人だなって感じてたし今も、すごく優しい人だなって思ってます」「そりゃどうも。でも僕こそそんないい人じゃないと思うけど」

 マンションの地下駐車場へ車は滑り込み、有薗は降りて後部座席の真由の荷物を手にすると、有無を言わせぬとばかりにすたすたと歩を進め、二人はエレベーターで十四階まで上がった。キーを開けようとする有薗の手に真由はそっと自分の手を載せてその動作を止めた。「あの、ほんとに私、お邪魔していいんでしょうか?」言葉遣いも表情も判断力もいつもどおりだ、と有薗は冷静に真由を見た。やっぱりあんたは酒に強いよ、と無性におかしさがこみあげた。「嫌なら無理にとは言わないけど、遠慮なら無用だよ。それともどこか、朝まで飲めるとことかファミレスとかで夜を明かす?ネットカフェ難民にでもなろうか?付き合うよ」「いや、それはさすがに・・・」「どうせ明日一緒に遊ぶなら待ち合わせする手間が省けるじゃないか」結論はもう出たと真由の返事を待たずに有薗は鍵を開けて玄関に入るなりくるりと振り向きざま真由の手をぐっと引いて抱きとめるように彼女の体も共有廊下から三和土に入れると空いた方の手でドアを閉めてしまった。一瞬とはいえ有薗の腕の中になったとき、たまらない居心地の良さが真由の全身を支配したが、当人はそんな真由の戸惑いには一向気づかず、さっさと靴を脱いでいる。さきほどから妙に心臓が高鳴る自分はどうかしているが、そもそも一人暮らしのマンションを訪ねるほどに親しい間柄ではなかろうという距離感からくる遠慮が真由を大いに困惑させ、恐る恐るといった風にためらいがちに、ようやく「じゃあお世話になります」と言葉を振り絞るのが精一杯なのに、有薗はまったく頓着せず「どうぞ。うちスリッパないからそのまま上がって」と気さくに声をかけながらさっさと奥へ歩き出してしまった。

 廊下の突き当たりのドアを開けると、右手に対面カウンターのキッチンがあり、奥は暖房の効いた広々としたリビングだった。飾り気のない、まったく無駄のない空間だった。無駄がないというよりも、生活感がないと言ったほうが正しい。あまりに無機質な感じに真由は戸惑って思わず入り口で立ち止まった。「どうした?」と不思議そうに有薗が振り返り、真由は率直に感想を述べた。「ほんとにここに住んでるの?」

 一瞬真由の質問の意図がわからず有薗は言葉の続きを待って真由の顔を見たが、彼女の視線はなにやら呆気にとられたようにリビングに漂うばかりだ。彼女の目がリビングの壁を登り、天井を仰ぎ、キッチンに流れ、また足元に落ちるのを有薗も追う。そうしてしばらく奇妙な無言と視線の追いかけっこで時間が過ぎ、ようやく真由の疑問に勘付いた有薗が「住んでるよ!」とだけ語気強く反論すると大笑いした。「物がないからびっくりしたんでしょう」「うん」「嫌いなんだよ、ごちゃごちゃしてるの。どうせ一人なんだから使うものも知れてるしさ」「それにしてもシンプルっつうか、なんか、ホテルみたい。いや、ホテルならまだ絵や写真が飾ってあるだけましです」「ホテルの方がましって、ひどいな」「ごめんなさい」「いいよ、誉め言葉だと受け取っとく」ふふっと笑いながら奥のソファを示して「どうぞ、適当に座ってて」とそっと真由の肩を押しやると、有薗自身はキッチンへ入っていった。「お茶って熱いの?冷たいの?」「熱いの」「じゃあちょっと待ってて」有薗がキッチンで湯を沸かしている間、真由はこの部屋には何が足りないのだろう、と考えた。キッチンはダイニングに向かって対面カウンターになっているが、テーブルはない、当然椅子もない。リビングのソファも二人くらいは並んで座れそうだが、一脚しかない。クッションや座布団の類は床に一切転がっていない。ソファの前にガラステーブルがあるが、大きさは知れている。床がだだっぴろく視界に広がるものだからいっそうリビングに奥行きを感じさせるのだ、と結論づける。リビングボードの両サイドにスピーカーはあるがテレビがない。絵画や写真もない。当然花が飾られているはずもなく、無用な装飾品の類がとにかくない。だからやけに無機質なのだともう一つの結論を導き出す。普通ならその上にテレビが置かれるであろうリビングボードの上には何本ものウイスキーボトルが並んでいるだけだ。それでも堅苦しさを強要されないのは何故だろう、と今度は考えた。この部屋には、どことなく有薗の持つ鷹揚さが漂っているような気配がする。ああ、結局はそれが、彼がここに住んでるってことなんだ。と最後の結論に到達する。無駄を徹底的に排除し合理性を追求しているようでいても、きっと家具の配置や何かにどこかしら人間らしいほころびがあって、計算されつくしたホテルとは違う空気が確実に入り込み、主の穏やかさと融合しているのだろう。

 なぜ彼女は、そこにソファがあるにも関わらず床に座り込んでいるんだろう、変な奴だ、と有薗は真由をキッチンから眺めていた。真由はソファに肘をついてぼんやりと部屋を見渡している。そうやって真由がようやくここに有薗が住んでいるのだと最後の結論を得た頃、二つのマグカップを手に有薗が真由のそばへやってきた。「なんでそんなとこ座ってんの?」と真上から降ってくるような声を仰ぐように真由はソファから体を離して向きを変えて座りなおした。「床が落ち着くの」と言って真由は尻を上げようとはしない。一つのマグはテーブルに置き、もう一つは自分が持って、有薗は真由のすぐ後ろのソファにどっかと腰をおろした。真由の背中が彼の右足と触れ合いそうな位置だった。テーブルには今置かれたマグカップと灰皿以外に何も載っていない。雑誌が広げられているわけでも、飲み食いの後が散らかっているでもない。「何もない部屋だってみんなに驚かれませんか?」真由が何気なくそう訊くと彼はしっかり聞こえている筈なのにそれには答えなかった。あれ?と思ったが重ねて訊くほどのことでもなし、と気を取り直すといただきますと言ってひとくち、マグカップのお茶を啜った。「あー、ほっとする。おいしい」と人心地着くと、熱さに構わずごくごくっと続けて喉に流し込んだ。体中が、アルコール分解のために失った水分を得て瑞々しく元気を取り戻していくのがよくわかった。「いつから東京来てたの?」「月曜日から。本当は昨日で終わる予定だったのが、もう一日勉強していったらどうかって言っていただいて、今日までいたの」「叔父さんのところへ泊まって?」「ううん、泊まりなさいって言ってくれたんだけど、病院の近くの方が便利だし迷わないし、ホテルに泊まってた」「ホテル暮らしで、慣れない職場で、疲れたでしょう」「うん、疲れた。でも本当にすごく勉強になった。東京ってやっぱすごいなって、いろんな意味で思った」「そんなに違うものなの?」「うちの病院が後手後手で遅れてるってのもあるけど、圧倒的な差を感じたな」「そうやって外に出してどんどん勉強させてもらえるってのも嬉しいよね」「そう、そうなの。すごく嬉しい」「期待に応えようとよけい頑張れちゃうよね」「ほんとに」この、一すら言わなくとも十をわかってくれるような彼の言葉の気持ちよさはなんだろう、と真由は驚いた。自分を昔から知り抜いているような旧友ならともかく、この人が私の人となりのどれほどを知っているかと思えばますます驚きは大きくなる。「でも頑張りすぎちゃだめだよ。真由さんはメーター振り切れるくらい頑張っちゃいそうで心配だなあ」「私はいかに手抜きして楽してやろうかって考える人だから、頑張りすぎるくらいでいいんです」「そう?いつも力いっぱいって感じだけどな。あ、お茶まだ飲む?他のものにする?」「熱いお茶がいい」キッチンに立とうとした有薗にふと「どうせならシャワー浴びてきたら?すっきりするよ」と言われ「お言葉に甘えてそうしよっかな」と真由も立ち上がった。


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