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透明の向こう側  作者:
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 翌日、真由は自分の勤めている神戸海原病院の訓練と、東京でトップクラスの病院のそれとのあまりの違いに大いに驚かされた。都内某所でタレントのカウントダウンイベントで観客が将棋倒しになり負傷者多数という想定で訓練は行われた。訓練とわかっていても職員はみな緊張が張りつめているし、言動に無駄がない。災害対策本部の統率力も抜群だったし、連絡係を務める事務員や患者の処置に当たる救命センターのスタッフたちの連携のスムーズさ、患者受け入れ態勢を作る流れの俊敏な行動にただただ驚くばかりであった。しかも、真由の目には文句のつけどころがないかに見えるくらいだった訓練にも、夕方から開かれた反省会では各部署から忌憚のない意見が飛ぶ。「訓練が完璧にできても、実際の災害となると訓練どおりにはいかない。こればかりは実災害が人間の想像の範疇を超えるものである限り、いかんともしがたい。ならば何ができるか?いつもどおりの自分たちの本領を、いつも以上に発揮するための落ち着きと心構えだ」反省会の後、斉藤が真由にそう教えてくれた。東京は特にカウントダウンイベントのような、特定の場所に人が集中するイベントが年中、あちこちで開催されているため、地震のような天災を想定した訓練のほか、今日のようにイベントでの人的災害の訓練も欠かせないし、いつどんなイベントをやっているか情報収集には余念がない、とも言った。「もうね、嘘みたいにいろんなイベントがあるんだよ。当直医を増やすとかあらかじめいざというときの態勢を整えておくことはものすごく大事なんだよ」なるほど、と真由は感心した。イベントに合わせて当直医を増やすなど今の神戸海原病院では医師の反発や金銭的な理由から事務方の批判もありそうだと思われたが、ここは報告書で強く主張しよう、と思った。

「今日の訓練概要、後日メールしてあげるよ。四日間も東京なんて空気の悪いところで研修して疲れたろう?今日は早めに切り上げなさい」とせっかく気遣っているのに真由は「反省会の議事録も欲しいです」とひしと訴えて「なかなか欲張りだな」と斉藤を苦笑させた。欲張りと言われて一瞬真由がはっと表情を強張らせるとさらに斉藤は笑って「研修で貪欲になることはいいことだよ、これからもその姿勢で頑張ることだよ」と励ました。

 夕方、医局で真由はこの四日間東京で得たデータや部外秘を特別にコピーしてもらったマニュアルなどを整理し、デスクを片付けつつあった。斉藤の言葉に甘え、追加で送ってもらうデータも書き出して、不足がないか見直しをしていた。そこへ斉藤がやってきて「そろそろ定時だから、挨拶に行こうか」と真由を連れ出した。自分で挨拶には廻るつもりだったが、この研修の担当であり研修受け入れをOKしてくれた斉藤自身が最後まで責任を持ってこういう気配りをしてくれるのはありがたかった。以前、研修医時代に神戸海原病院には産婦人科がないために外部の病院へ短期研修に出たことがあるのだが、そこで真由は頼るべきこの人という一人を最後まで見つけることができず、不案内な病院の施設や設備にも、医師はじめ人に対してもついに馴染めず、あらゆる場面で放置され、ひたすらおろおろと過ごして散々な思いを味わったことがある。この三日間はそういう思いとはついぞ無縁だった。研修受け入れに慣れている病院の貫禄か、と感心するばかりである。

 最も多くの時間を過ごした救急部ではスタッフ皆がずいぶん別れを惜しんでくれ、医師としては先輩ながら真由と同い年の女医が「女性で救急医って大変だけどお互い頑張ろう」とメールアドレスを渡してくれ、「私でよければいつでも相談に乗るよ」とまで言ってくれる。この女医は専門は精神科で、救急部に所属しながら救急患者や家族の心のケアを担っている。精神科や心療内科を持たない神戸海岸病院では救急医がその役割も果たさねば、と真由はこまやかな気配りと温かい言葉のやりとりをじっくり観察しながら災害救急医療における心のケアの重大さも学んだのだった。

「お疲れ様でした。三年目なんですってね。今が一番気力体力ともに充実している時期だから、今のうちに大切なことを目いっぱい吸収してください」大病院の院長というと奥まった部屋でふんぞり返っているイメージを勝手に抱いていた真由にとっては驚くほど優しい口調で院長は真由をねぎらい、励ましてくれた。その後看護部長、事務部長にも礼を述べ、事務室へ向かった。無関係なようでいて、事務部はコピーのとり方ひとつから教わって何かと世話になったところである。事務室内に入ると、研修を担当している部署の職員たちがきちんと真由の言葉に耳を傾けようと一斉に立ち上がったことも驚きであり嬉しくもあった。「どうもお世話になりました。大変意義深い研修になりました、本当にありがとうございました」とさすがに少し緊張と感慨を覚えながら、真由は深々と礼をした。するとその頭上を斉藤の「これから渡部先生の送別会やるんだけど、来る人!」と言う陽気な声が通り、え?と顔を上げると事務員が数人「はいっ!」と手を挙げて参加を表明した。「送別会って?」「励ます会でも応援する会でも忘年会でもなんでもいいんだけど、要は名目をつけて飲みに行きたいだけなんだけどね。君も少しくらいならつきあえるでしょう?」「今夜神戸へ帰るつもりなんですが」「最終の新幹線までには帰してあげるから。もう医局のメンバーは参加者確定してるよ、知らないのは渡部先生だけ」東京の大病院の救急副部長ともあろう人に、こんな茶目っ気というか、押しの強さというか、あるものなんだなあと真由はおかしかった。それにしても、三日間どっぷり過ごした救急部はともかく、院長はじめ幹部から事務職員に至るまで、皆が真由に親しみを持って接してくれた温もりが何より嬉しかった。

「では渡部先生の未来に乾杯」と大げさな音頭で十数名の飲み会が始まった。真由は新幹線の時刻もあるし、一時間ほど参加して辞去する予定であったが、斉藤は大嘘つきで「君、結構いけるクチだね」と次々と酒を注文して真由に飲ませ、参加者もみな気持ちのいい人ばかりで、ついつい真由も時間を過ごしてしまった。気付けば時刻は二十三時をとうに過ぎている。見たところ、斉藤もかなりの量を過ごした筈だが、少し頬が赤いかなという程度でケロリとしている。斉藤もまた顔色ひとつ変わらない真由を見て「君すごいな。仕事っぷりも感心したけど、女傑って言葉が似合うな」とおかしな感心をした。解散する頃、斉藤がようやく真由の今夜の寝場所を心配した。高円寺に親戚があるのでそこを頼ると答えると安心したらしく「結局遅くまでつき合わせてすまなかったね」と詫びながら、高円寺なら乗り換えもいらないと電車の助言までしてくれた。「私の方こそ楽しかったです。本当に最後の最後までお世話になりました。ありがとうございます」真由はこみあげる感情に、深々と下げた頭をなかなか上げられなかった。


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