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「高遠先生、緊急車両のガイドラインのことで相談があるんですけど」と忙しそうに廊下を早足に歩く高遠を呼び止めると夕方大会議室に来いと歩みを止めずに言いつけられた。
真由は一度は高遠に取り上げられた災害時のマニュアルやガイドラインの改正に再び取り組んでいた。今日が何度目の打ち合わせかもはやわからないくらいだ。
大会議室で待っていると、少し遅れて高遠がやってきた。「順調にはかどってる?」「そんなわけないでしょう。私みたいな新米が、災害対応なんて右も左もわからないのに」「大丈夫やって」ぽんぽんと真由の背中を叩くと、高遠は基幹PCの前に座った。
真由は自分が加筆修正したガイドラインを高遠の前に置き、どこが気になってどう修正したか、と丁寧に説明した。「ふんふん、いいんじゃない。この調子この調子」「ちょっと、もっと具体的にアドバイスとかないんですか?」「まあやれるだけやってみなよ。自分でもまだまだ完成形のつもりじゃないんだろう?」「それと、ご相談なんですが、事務員の誰かでもいいし、新しく雇ってでも、誰か一人、このシステムに張り付きの専門員、オペレータ置きませんか?」と真由が常時起動してシステムを動かしているPCを指すと高遠はそれまでの軽い口調と打って変わって真剣な顔を上げた。「どうしてそう思うの?」と問い返す様子は、高遠自身いくらか専門オペレータのことは念頭にあり、真由がそれを言い出した理由を明確に聞き出して損はないと踏んだに違いないと直感した。「これをいざというときもっと有効に利用するには、日頃から触り慣れている方が断然有利だと思います。このシステムは日頃は救急ネットワークとして毎日稼動はしてるんですから、朝夕だけ事務の担当者がぱぱっと入力して終わり、じゃなく、一人張り付き体制がいいと思います。緊急時にもその人は絶対にここから離れない。システムに更新される情報で何かあったら逐次報告するのを徹底する」「でも一人だと、二十四時間は無理でしょ?」「できれば交代要員がいれば最善ですが、夜間休日は当直医。もちろん救急搬送があればそちらが優先ですが、当直医のうち、当番医師は当直の夜の間、ここでシステムの監視。緊急の場合、医師や看護師は臨時召集するでしょう。そうしたら、現場へ出動する医師、救急センターや病棟で患者の治療にあたる医師、そしてここでこのシステムの情報を元に、患者受け入れ人数や緊急車両出動の判断をする医師に役割分担できると思います。もちろん本来の決定権は災害対策本部ですから、災害対策本部が立ち上がるまでの時間に限って当番医に可能な限りの権限を与えます」「じゃあ、この病院は医者たちも、全員このシステムの使い方を覚えるってこと?」「そうなります。でも私が実際に触ってみて思いましたが、直感的に使える、簡単なものです。あとはいかに自分で応用ができるか、です」「ふーん。まあ率直に言うと難しいだろうね」「やっぱり」「一人雇うってのはさほど難しくないと思う。判断や決定はしない、単純にオペレータとしてならね。それよりこれに張り付けって言うと医者の反感が強いんじゃないかな」そんな返事は予想していたと言わんばかりに真由はそれには反論せず「それと、これを見てください」と基幹PCにフラッシュメモリを挿し、それにコピーしておいたデータを次々クリックして展開して見せた。
「あれ?なんでこんなことができるの?」「びっくりした?」「このシステムの時間別、医療機関別の集計画面か」「ほかにもあります」次々と真由はシステムから取り出したログや集計情報を見せた。また、集計結果を表計算ソフトに落とし込んで分析した結果も見せた。六月の訓練時のレスポンスの様子も発生時刻からの五分毎の集計が取ってあり、一目でわかるようグラフに加工してある。「これが、応用です」「なるほど」「こうやって随時このシステムの画面の保存、データの吸い取りをして情報の分析を加えることで、弱点や課題を発見して次へつなげることができます。今見せてるのはSEさんが訓練時に保存していたログを私が加工したものですが、災害運用時も、ネットワークユーザなら誰でも同じ方法で取り出せるそうです。SEさんに確認しました」「その方法、マニュアルにできる?」「え?」「また仕事が増えたな。これは自分で増やしたんやぞ」システムの応用操作をマニュアルにしろと言うことは高遠が乗り気になっている証拠だから、真由には仕事が増えることを厭う気持ちよりも嬉しさの方が比べ物にならないくらい大きい。自分の見つけた応用を、実践すべしと評価されたわけだ。「ま、これだけ応用を見つけてきたご褒美に、今現在のマニュアルとガイドラインの修正版に一度目を通してやろう。後日、注文つけるよ。覚悟しとけよ」と言う高遠の口元は心なしか緩んでいる。
こんな重大な仕事を自分に任せるのは、それだけ高遠が真由を信頼している証だった。また、これからもっと真由を育ててみようという意思の表れだった。それがよくわかるだけに、真由はその期待に応えられるよう精一杯のことをしようと日々マニュアル類と格闘し、実際に緊急車両にも乗り込んで車内の設備を確認したりと精力的に取り組んでいた。救急センターでも、難しい手術が必要な患者が来たときなど、真由が当番医でなくとも迷わず高遠は「渡部も入れ。助手!」と技術の伝授も以前よりも熱心にしてくれるようになった。「俺がついている」と力強く言いながら執刀もどんどん任せてくる。真由に救急医が向いているのかどうかはまだわからないが、高遠なりに彼女の熱意を受け止めているようだった。
翌日、早速高遠は彼にしか判読できないであろう恐ろしく乱暴な字で細かく書き込みがなされたマニュアル類を手元に置きつつ、真由を質問攻めにした。真由はその書類を見て嬉しかった。高遠はいつもこういう風に、仕事が速い上に徹底している。彼には中途半端はありえない。自称いい加減人間で、真由にも「力を抜け」としょっちゅう言うが、そう言う高遠自身が完璧主義であることは間違いない。このマニュアル類の整備にしても、真由を鍛えがてら丸投げにしているようでいて、状況は常に見守っているし判断を仰げばすぐにチェックして助言を与えることを怠らないのだ。真由は入局して以来、彼の仕事ぶりにも惚れこんでいた。日々のらりくらりと業務をこなしている他の医師たちとは存在感が一線を画している。ただ自分と違うのは、確かに彼は力を抜くべきところでは実際に抜いているのであろうということだ。しかし力の抜き加減を自分で調整するには経験が浅すぎるし、きっと根本的に性格はまったく違っている、と真由は思う。「これはどういう理由でこう変更しようと思った?」「これは本当に可能なのかな?」等々、細かく真由の変更点を確認し、頭から否定するようなことは決してせず、ふむふむとうなずくとまた次の質問を浴びせる。たまに真由の修正をさらに軌道修正するようなことを言う以外はほとんど意見らしい意見も言わないものだから真由がさすがに不安になってきた頃、ようやく「まあでもよくやったと思う。でも正直なところ、まだまだ経験不足やな。そりゃ仕方ないけどな」と彼なりの誉め言葉を賜った。「特にここなんか、よくこんだけ割り切ったなと感心する」と緊急車両出動ガイドラインの一部をペンで指しながら笑った。現行のガイドラインでは緊急車両は医師と看護師を乗せて災害現場に急行し、現場から患者を搬送してくることを大前提にしている。医師の同乗した救急車、つまりドクターカーというわけだ。道路を緊急走行するための許可もしっかりとってあるれっきとした緊急車両だ。しかし真由はあえて「患者搬送よりも、現場へ医師看護師を運び、現場でトリアージ、初期治療に当たらせる」という医療者輸送を大前提においてみた。薬剤師を乗せて医療チームとして活動することもありうる。車には定員があるから、定員いっぱいで病院を出た場合、患者搬送が必要になれば、載せていった医師たちは現場に残される。そのために、医師は二名乗っていく。現場に残る者と、患者搬送とに同乗する者に分かれるためだ。「一人の患者より、多数の患者を救う方に重点を置く気持ちはわかる。ただ、医療チームの派遣やトリアージについては、それをできる病院が神戸だけでも大学病院に中央市民、日赤といくつもある。我々が出て行って本当に力になるか見極めないとな。それに医者の数は限られているし、これを本当にガイドラインとするかどうかは要熟考やな」「はい」「ところでな、まだ返事が来てないからはっきり言われへんけど、お前、ちょっと東京行って来い」「はい?」「東京の病院で修行。これ命令ね。俺から上の許可とか出張願いは出しとくから」「ええっ?」「知り合いがいるから今とりあえず二か所、頼んである。災害医療と救急医療をお勉強してきなさい。DMATとかやってるとこやから、勉強することは山ほどあるぞ。ほんとは日本中あちこちにいい病院あるから行かせたいけど、なかなかそうはいかんからなあ。とりあえず東京行く前に身近なとこから、近いうちに一緒に中央市民病院行こう。あそこは救命センターやし、災害拠点病院やし、ドクターカーもやってるから勉強になる。盗めるものはみんな盗むぞ」「はい!」高遠が自分に置いている信頼と期待が自分の想像以上であることを知って真由は嬉しさと心地よい緊張に身震いがした。




