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「あそこに見えてるのが売店」と真由が建物の中心がそこかと思われるような、そこだけ壁をくりぬいたようにぽっかりとした空間を指差した。「タバコは置いてないですけど、飴やガムならあるから、お好みのものをどうぞ」真由の指す方向になるほど小ぢんまりとしているが売店らしき明るさと客らしき人が数人いる様が見て取れた。
「さ、このまま外へ出てみましょう。有薗さんは別にどこも悪くないから、外へ出て気分転換する方がいいですよ。でもくれぐれも、右腕に無理はなさらないように、ね。ベースの練習しようとか無茶しないでくださいよ」と釘を刺しつつ建物の外へ足を向けた。「え、ベースって、なんで知ってるの?」有薗はきょとんとした表情を浮かべた。「搬送されてきたときに待合にいらした仲間の方がおっしゃってましたよ。自分のせいで転んだんだ、ってすごく悔やまれてました」しばらく有薗は何事か考えるように視線を空にさまよわせ、「太田かな」と心配そうな表情を見せてぽつり呟いた。「元気になって戻ればいいじゃないですか。それだけですよ」と真由は至極単純な問題を解決するかのように言ってのけた。この言葉が有薗を勇気付けるのにどれほど役立ったか、真由はまるで気付いていない。
喋りながらも真由はどんどん歩いて、有薗はその後を追った。「ここが病院の正面玄関」と言って透明なガラスの自動ドアが開くと一歩踏み出した。さらにもう一枚の自動ドアにも踏み込み、いよいよ真由の足は病院の建物から出た。二人の全身が病院の建物から出、真由の上方へ伸びた手にうながされるように有薗は上を見上げた。七階建ての病院がさわやかな快晴の空を背景に、目もくらむほどまぶしく真夏の日差しをはね返しながらそびえていた。
病院の裏手を指しながら「海に面した散歩道もありますよ」と教え「このあたりを患者さんが歩き回るのは自由です。ただし、詰め所にちゃんと外出と時間を伝えてください。それと食事や診察の時間は守るのが大原則です。この病院は地下駐車場になっているのでこの正面玄関まで送迎でくる車も多いですから、くれぐれも車には注意してください。あと、あそこに門が見えるでしょう?あれより外は病院の敷地外です。向かいに喫茶店があります。絶対に行っちゃ駄目とは言いません。タバコも吸えます」そういう秘策を与えてくれることに有薗は「へえ?」と嬉しさと不思議な感じがした。途中何人かすれ違った患者の中にも「あれ、先生こんなところで仕事さぼってる」と気さくに話しかける者もいたし看護師に車椅子を押されている患者に対しては腰を落として同じ目線になりつつ真由はほがらかに「お庭に行かれたんですか。今日は陽気がいいから気持ちよかったでしょう?」と話しかけていた。真由という医師の、人柄をなんとなくほんのりと温かく感じ始めていた。
「ねえ、その喫茶店、先生を誘って行ってもいいのかな?」ふいに有薗はいたずらっぽい少年のように無邪気に訊いてきた。真由の軽快さについつられて出た軽口ではあるが、なんとなく、病院の外でこの人とお喋りするのも楽しそうだな、と思いついたのだった。「仕事中に喫茶店に行けるわけがないでしょう」と真由は苦笑した。「じゃあ仕事終わった時刻なら?帰る頃にさ」「そうですね、その頃には有薗さんの外出許可が下りないでしょうね」と真由もくすっと笑って受け流した。「さて、中庭に行ってみましょう」くるっと真由は振り向き、すたすたと建物内に戻って歩き出した。慌てて有薗もその後を追った。「七階建てで威圧感すら感じる大きな病院でしょ?でも病室はそんなにないんです。病院の規模としては大きくない。病室や廊下、外来、すべてがゆったりと作られているんです。特にね、開放的な中庭があるんですよ。今日みたいなお天気のいい日だとそこで本読んだりぼーっとしてるのもいいものですよ」真由はにこにこしている。にこにこ笑っている真由を見て有薗も気持ちが良かった。周りの者を気持ちよくさせる人だな、と感じていた。「先生はみんなに優しくていい人だな」有薗の、まったく悪気もない素朴なほめ言葉だった。え?と言って真由は立ち止まって少し考えた。「入院患者さんの中には車椅子じゃないと病室から出られない人、重症でベッドから動けない人。いろいろあります。できるだけ公平に接しているつもりですが、どうなんでしょうね。動けない人たちからすれば、こうして動ける人と自由に歩き回るのはえこひいきみたいに映るのかもしれませんよ」と言うとしばし無言になった。「私がこうして患者さんと個人的に、少しでも入院生活を飽きさせないようにってしてることを、快く思っていないスタッフがいるのも事実です。本当は、何もでしゃばらないのが正解なのかもしれません」とほっと一息小さくため息をついた。自分の何気ない感想が思いがけず真由に重い問題をもたらすことになってしまったことを内心悔やみ、また、こういう迷いを自分に吐露してくれることに彼女の人柄への信頼を覚えた。「僕は嬉しいですよ。きっと患者さんはみんな渡部先生の良さをわかってると思うな。先生のポケットから、次はどんな飴が出てくるのかなって、楽しみもあるし」励ますつもりはなかったが、正直な気持ちだった。すると真由は左手を白衣のポケットに突っ込んでごそごそしたかと思うと「はい」と手を有薗に伸ばした。有薗の繊細な指に渡されたのはのど飴だった。「今度は地味でしょう?」真由はくすっと笑った。有薗はしばし自分の手に載せられた飴玉を見つめ、次に顔を挙げて改めて真由を驚いたように見つめた。「先生はほんとにいつもポケットに飴を入れてるの?」「だいたいね。食事を摂れなかった患者さんに糖分補給の意味もあるし、コミュニケーションツールにもなります。右のポッケには甘い飴、左のポッケはのど飴」と両脇のポケットをぽんぽんと叩いて見せた。飴は有薗の手に載せられたままだった。「今食べないですか?のど飴は嫌いですか?」と言って真由は彼の繊細そうな手に載せられたままの飴を見つめた。
「有薗さんて、編み物上手そう」ふいに真由が真顔でそんなことを言った。「編み物?」有薗はかなり驚いた風に声が裏返りそうな勢いで問い返し、真由の顔をまじまじと見た。その彼の様子を見て真由ははっとして慌てて「あ、失礼なこと言っちゃいましたね、ごめんなさいっ」と額が腿にくっつくかと思われるほど深々と頭を下げた。すると頭上を「ははっ」と有薗の軽快な笑い声が通った。真由が頭を上げると、有薗は本当に愉快そうな笑顔を浮かべていた。「僕の指、細いでしょ。たまに言われるんですよ、細かい作業に向いてそうだって。細工職人になったらどうだとか色々言われてきました。そういうもんなのかなって今まで聞き流してきたけど、編み物とはね!編み物!はは、はははっ」
真由はしばらく有薗の笑うにまかせ、有薗が落ち着きを取り戻した頃にひとこと照れ隠しのため必要以上に無機質に「こちらです」と言うと有薗の病院着の袖を少しつまんで方向修正すると歩き出した。一階は完全に外来のフロアだが、午前の診療もとっくに終わり外来患者の姿はすでになく、ほとんど人とすれ違うこともない。ところどころ壁には油絵の風景画が飾られて、各診療科受付にはぬいぐるみやナチュラルな雑貨が置かれて柔らかな雰囲気を作り出してある。閑散とした外来のエリアを抜けて角を右に折れると、そこは全面ガラス張りの、吹き抜けで心地よく陽の差す中庭が広がっていた。言われなければそうと気づかない程度に遠慮がちにサッシで縁取られたガラスのドアが付いている。「ほら、ベンチもあるし、木陰もあるし、ここは待合とは少し離れているからそんなに人も来ないし、いい所でしょう?」と真由はどこか誇らしげに空を見上げた。さきほど病院が全体的にゆったりと作られていると話したときも、やはり彼女はそんな風だった。自分の勤めている病院に誇りを持っているのがよくわかる。何脚かあるベンチのうち、二脚には病院着を着た患者がいた。しかし互いに存在に気づかぬかのようにそれぞれの時間を過ごしている風だった。「へえ、病院の中にこんな場所があるんですね」と有薗は心底感心した。病院というと年に一度の健康診断に日帰りで訪れる程度で、じっくりと施設をみて廻るようなことはしない。イマドキの病院はこんなものなのかな、とも思った。「院長の方針なんですって。この病院、できて四年なんです。建設のときに、院長が、患者様がゆったり過ごせる空間をぜひとも作ろうって。ただ、自然を尊重しすぎたあまり雨の日は使えないんですけどね。屋根がないから」と真由が空を指差しながら説明した。なるほど、庭の造りも、屋根のない開放的な空間も、自然を大切にしていることは十分すぎるほどうかがえた。「ここのベンチで編み物・・・」と有薗が言いかけると「その話はなかったことで!」と照れくさそうに目も合わさずに有薗に向かって手をかざして真由が言葉をさえぎった。「ふふっ」とこらえきれないように有薗が小さく声を立てて笑った。真由は心底照れくさそうに、やり場が無くて困った風に視線をさまよわせた。しかししばらくすると真由はきりりと表情を引き締めた。「有薗さんは付き添いの方がいらっしゃらないでしょう。ならば一人で上手に時間をすごすことを真剣に考えなくちゃいけません。幸い同室の水川さんとのストレスがないのは良いことです」と医師らしい口調になった。「この三日間を休養ととるも良し、何かを熟考する時間とするも良し。いかに無駄にしないかは有薗さん次第です」と言うと有薗の目を真剣に見つめこんだ。有薗も真剣にそのまなざしを受け止めた。ふと気づいて有薗は訊いた「渡部先生、昨日真夜中に僕が運ばれてきたとき担当だったってことは、今までずっと寝ずに仕事ですか?」真由は何事もないように「慣れです」と短く答えて小さく微笑んだ。優しさとたくましさを併せもつ美しい人だ。




