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八時前にICUの有薗のベッドサイドへ行くと、彼はベッドを少し起こして、しかし体が動かないのか、気力が湧かないのか、ベッドに体を預けてじっと硬い表情で正面を眺めていた。ICUは重症患者のための病室だから、彼のように自分で起き上がっている患者は他にいない。周囲の湿り気をどんより含んだ重苦しい空気を彼が神経質に察知しなければいいがな、と多少心配にもなり、真由はにこっと笑顔を浮かべて彼のベッドサイドに立った。
「おはようございます。有薗さん、主治医の渡部と申します」とまずは挨拶し「質問疑問不安、なんでも正直におっしゃってくださいね」と続けたが、有薗はチラと無愛想な目線をよこしただけだった。しかしなおもにこにこと少しかがんで彼の顔を見つめ続けると、いたって丁寧に「よろしくお願いします」と低くしっとりと艶っぽい声で呟いた。不謹慎だが、真由はこのとき彼の声を「色っぽい」と感じた。こんな種類の声を聞いたことがない。と同時に医師として、有薗の反応が鈍いことはたぶん気にする範囲ではないな、とも感じた。今はまだ自分の状況に戸惑っているのだと思われた。しかもICUなどにいるから余計に戸惑いも大きかろう。
「眠れましたか?ここがどこかわかりますか?夕べのことは覚えていらっしゃいます?」世間話でもするように軽い調子で有薗に話しかけた。「神戸で転んで入院されてるんですよ。ここは神戸海原病院というところです」と笑い話のように告げると有薗はほんの少し微笑を浮かべた。ふっと緊張がほぐれた瞬間だった。「腕、我慢せずに痛かったらいつでも遠慮なく言ってください。ほかに痛むところがあったり心配があったりしてもすぐにおっしゃってくださいね」とは言ったものの、夕べ、彼は酔っていてしかも救急車で搬送されるという緊急事態にもかかわらず決して苦痛を声にしなかったことがどうしても気になって、結局真由は「ちょっと右腕拝見」と彼の腕をとり、内出血の範囲をあらためて見直しながら「どう、痛い?こうしても痛くない、大丈夫?」などと確認してしまうのだった。そして腕を戻してもなお「心配だったら絶対正直に言ってくださいよ」と念押しし、有薗は静かにそっと笑った。その微笑みが、真由には不思議だった。ついさっきまで戸惑いと不安が入り混じった表情だった人が、どうしてこうも落ち着き払った余裕の笑みを浮かべられるのか。真由は自分の笑顔や言葉が彼のその笑みを誘い出した事実にまったく気付かない。「もうすぐ朝食です。病気じゃないのでおかゆではないですが、病院食ですからあまり味に期待はしないでください。もう少しすれば藤原さんもお見えになると思います」とほぼ一方的に真由が喋る間、有薗はなおもじっと不思議なものでも見るように彼女見つめ続け、何も言葉を発しなかった。真由もしばらく沈黙した。と、有薗がおもむろに起き上がろうとしたのでそれを手で制止し、ベッドのボタンを操作しながらそっと上半身を起こすのを手伝った。有薗は小さく低く「ありがとう」と言ったきり、上半身を起こしても相変わらず無言で、一度正面にふと視線を向けただけでまたも真由をじっと見つめる。「ありがとう」は本当に小さな声だったが、不思議なほど胸をドキドキさせる色っぽさを含んでいて、真由は束の間どぎまぎしてしまった。そして自分を見つめ続ける眼差しはその艶っぽさと対照的なまでに無邪気さを含んでいる。大人と子どもが同居している。そんな感じだ。自分が彼の声と微笑みに多少の動揺を覚えたことにはっとして、取り繕うように慌てて「十時くらいに、怪我のことや治療、今後のことなど改めて別室で説明いたします。またそのときに」と告げると有薗に自分の状況を考える時間を与えるべく真由はその場を離れようとした。ちょうど朝食が運ばれてき、そこへ、藤原もやってきた。軽く会釈を交わして真由は詰め所へ入った。ICU内の一角をなす形でICUのベッドがすべて見渡せる造りになっている詰め所で他の患者のカルテを見たり看護師から昨夜のICUの様子などを聞き取りながら、真由はそっと有薗のベッドを窺った。藤原が懸命に有薗になにやら説明をしていた。有薗はうんうん、とうなずくばかりである。その間朝食には手をつけず、一度水を口に含んだのみだった。
話は終わったようで、藤原が腰掛けていたパイプ椅子から立ち上がると詰め所へ立ち寄りカウンター越しに「渡部先生、よろしくお願いします」と深々と頭を下げた。藤原が何か言いたそうな顔をしたので、真由は詰め所を出て直接藤原と向き合って少し首をかしげてみせた。「大変申し訳ないのですが、誰かを付き添いに神戸に寄越すというのは無理でして。今、彼にも説明しましたが、幸い怪我は右腕だけで、大抵のことは足りるようだし、自分でやってもらうことになりました。冷たい仲間だと思われるかもしれませんが・・・」心底申し訳なさそうな表情の藤原の説明には誠意がこもっている。昨日の真夜中から今日の早朝にかけて、迷惑をかえりみず、事情を説明して人を探したことだろう。
「藤原さん、誰も付き添いがいないというのは寂しいものですがあまり深く思いつめないでください。できる事は私や看護師がフォローします。ごく短期間のことですし、心配なさらないで。東京の方が神戸なんて土地で怪我をした。それはもう残念ながら運命と受け入れて、離れていてもサポートできる最善策を考えてください。それがあなたにできることだと思いますよ」と言うと真由は藤原の上腕あたりを柔らかくポンと叩いて励ました。
十時を少し廻った頃、真由は再び有薗のベッドサイドへ行った。「朝ご飯、召し上がらなかったんですね。お腹空いてませんか?」と白衣のポケットから飴を取り出して掌に載せ、有薗に差し出した。有薗はくしゃっと笑顔を浮かべ「ありがとうございます」と真由の手からそれを受け取ると「でも飴より、タバコがいいな。タバコ吸いたい」と呟いた。差し出した有薗の手が繊細というほかない、細くしなやかなことに真由は驚いた。と同時に、神戸という不慣れな土地で突然一人入院生活を強いられる羽目になった有薗の一日の始まりに、ようやく緊張がほどけてきた笑顔らしい笑顔を見て真由はほっと一安心した。この人なら大丈夫、まじめに治療に取り組み、確実に回復するであろうことを確信した。「タバコはね、残念ながら病院の敷地内は完全禁煙です。この機会に禁煙しろなんて堅いことは言いませんが、ほんの数日です、我慢してくださいとしか言いようがありませんね」有薗の笑顔につられて少しだけ真由の言葉もくだけた柔らかさを含んでいた。「先生にはスモーカーの気持ちがわからないんだよ」と皮肉でなく、ちょっとふてくされた子どものようにそっぽを向いて呟いた有薗の言葉は黙殺した。喫煙者の患者からしょっちゅう言われることで、これにはどう応えても最良の答えというのはないからだ。しばしの無言ののち、真由は気を取り直し、有薗にベッドサイドの床に綺麗に並べて置かれたスリッパを手で示しながら「さ、有薗さん、右手を着かないように注意しながらこちらへ」とベッドから離れた。少し体を動かすのにためらいを感じたのか、有薗はすぐには動こうとはしなかった。真由が黙って手を差し伸べると「え?」と意外な表情を見せ、すぐに「ありがとう」と言ってその手に左手を差し出し、真由につかまるようにして起き上がり、立ち上がった。立ち上がって歩きかけると「先生、でかいなあ」と有薗は大げさに驚いた。有薗はその歳の男性なら平均くらいの身長だが、真由はほぼ同じ高さで肩を並べている。「医者って、オンナっていうだけで不利なこともあるんですけど、身長があるのはハッタリかませるというか、得ですよ」と先を歩きながら真由は苦笑交じりに説明した。事実、主治医が女性だと男性の医者に変えて欲しいという患者や家族は少なくない。同期の友人が「研修医な上に女で、小さいってことで信頼が得られない」と泣いてこぼしたことがある。長身の真由には幸い今のところその種の悩みや苦労はなかった。
「どうぞ」とドアを開けて真由が案内したのはICUを右手に出た廊下の突き当たりにある、テーブルと椅子が四脚あるだけの小さく簡素な部屋だった。ドアを外側へ開け放したまま有薗と真由は向かい合って座った。まもなく看護師が一人やってきて、ぱたんとドアを閉め、真由の隣に座った。「あらためて、主治医の渡部です。こちらが救急部の看護師長、長船です」と自分と同席の看護師を紹介した。有薗は大げさなくらい丁寧に「どうぞよろしくお願いします」と頭を下げた。動作も口調も決して堅苦しくなく、物腰の柔らかい男だ。とは言えそれはこの部屋へ来る途中の軽口とはまったく異なっており、真由も気を引き締めて姿勢を正した。怪我の程度が軽いこともあり、午後からはICUを出て一般病棟に部屋が変わることを真由が簡単に述べ、その際希望するなら個室などを選べることと室料などを長船が説明し、有薗は少しだけ目線を空に移したがすぐに真由と長船の二人を見て「普通の部屋で」と短く答えた。真由は、本来なら入院を勧めるほどでもないと思われるものの、他所に怪我を発見する可能性、怪我の程度を見極めること、何より東京の人であることなどを考慮して、入院措置としたことも告げた。今日一日様子を見、明日もう一度検査して、痛みの程度と検査結果次第では明後日にはもう退院である。怪我が軽いことに折り紙をつけられた形で、有薗は少しほっとした表情を浮かべた。その表情をさっと確認しつつ、真由は続けて右腕に骨折などないこと、痛みの程度にもよるが鎮痛剤も使用しないことなど、治療や今後の経過について説明を行った。この場で、真由は自分がまだ研修医であることをきちんと話し、指導医たちと治療に当たるが、有薗自身もし不安があれば高遠など他の医師に迷わず相談するよう伝えた。研修医として緊張する場面である。しかし有薗はその点を不安に思う様子は見せなかったし、真由は大きなハードルをひとつ飛び越えたような安心を覚えた。問題は、退院後のことであった。
「本当なら、退院してからも一定の期間をおいてこの病院の整形外科を受診していただければいいのですが、東京からでは無理でしょうし、退院時に紹介状を書いてお渡しします。もしかかりつけの病院などがおありでしたらあらかじめこちらから連絡を取っておくことも可能ですが、いかがですか?」真由の問いかけに彼は無言で答えた。真由は気を取り直し「今すぐご返事くださらなくて結構です。退院までに次の病院の目処が立てばその後の事が運びやすい程度ですから。紹介状があればかかりつけでなくとも見てもらいやすいですし」と言葉を足した。
「では有薗さん、十一時半に新しいお部屋へご案内します。一般の病室ですと四人部屋で他の患者さんもいらっしゃいますが、本当に四人部屋でよいですか?」と椅子から立ち上がりながら長船が意思を確認した。「べつに、料金のことなら個室でも平気だけど、なんだかね、一人きりってのも寂しくて。歳かな」と有薗は小さく笑った。四人部屋といっても、昨日今日と二人が退院し、今は一人しか患者がいない。有薗と同室になるのは数日前に大学ラグビー部の練習中に右腕骨折、右大腿部打撲で救急搬送されてきた二十代の青年だ。彼は物静かなタイプだから同じ部屋で過ごして苦痛と感じることはまずないだろうと思われた。ただ、彼には面会に訪れる家族や友人がいる。面会時間の彼のベッド周りはいつもにぎやかだ。それが、神戸に一人残された男の心にどう響くかは予想できない。




