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透明の向こう側  作者:
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 雪を見ぬまま、年が明けた。真由は大晦日から元旦にかけての当直だったので、自宅へ戻ったのは元日の夕方近かった。着替えてカーデガンをはおり、パソコンの電源を入れておくとさらにアノラックを羽織ってベランダへ出「さむっ」と言って肩をすくめながら一服して長い煙を吐き出した。部屋の中がタバコ臭くなるのが嫌で、どんなに暑い日も寒い日も、真由はベランダでタバコを吸う。たまにタバコを吸う友人が来るとき以外は、必ずベランダへ出る。海が望めるベランダからの景色はなんだかとても大らかのもので、気分転換にもなるのだ。海は周囲の音とともに、真由の心の中のざわめきも吸い込んでくれるような気がして、なぜかわからないが、海を見るとすっと心が落ち着く。元日の夕方、いつも以上にひっそりと静まりかえった住宅街と、穏やかな鈍色の海、冬らしくどんよりと曇った空をしばし眺めた。決して美しいとは言いがたい見慣れた殺風景な単色の風景がなんだか落ち着くし、今また新しい年が明けたこと、四月からはいよいよ研修医ではなく一人前の医師としてスタートすることを思うと気持ちがピンと引き締まる思いがする。一年のスタートとして気分をリセットする作業にしばし没頭した。さすがに寒さに体がブルブルと震え、歯がガチガチ鳴り出してようやく部屋に戻り、まずは郵便受けに届いていた数少ない年賀状を見た。東京に住む叔父からの「体調に気をつけて。たまには東京にも来てください」と書き添えられた賀状を読み、こうして遠く離れた姪を思いやってくれるありがたさに温かい気持ちになった。春からの正式な仕事が決まった報告を兼ねて一度東京へ行こうかな、と考えながら賀状をリビングのテーブルに置くと、隣室のデスクに座った。メールチェックをすると、何人かの友人から新年のメッセージが来ていた。中には「こんなに大きくなりました」と子どもの写真が添えられていたりもする。自分ももう親になっていておかしくない歳なのだと、毎年実感させられる。年々減少する賀状の枚数と増加するメールの件数に、それにしてもすっかり年賀状なんてアナログなものはすたれてきたなあ、とじみじみ思う。その中に、有薗からのメッセージも届いているようだった。思いがけない人からの着信にドキリとする。「T.ARIZONOさんよりgreeting cardをお預かりしています」と書かれたメール本文内のリンクをクリックするとカードが表示される。日の出をバックに雪だるまが五体、軽快にダンスしていた。

「あけましておめでとう!今年もJAMANIA応援頼みます!真由さんにとって今年が良い年となりますように」と簡潔なメッセージだった。大人の落ち着きの中にさっぱりとさわやかさを感じさせる彼の笑顔が、つい浮かぶ。芸能人となると年賀の挨拶をする相手も膨大な数ではないだろうか。にもかかわらず自分にこうしてメッセージを送ってくれるという細やかさがたまらなく嬉しかった。彼がほんの数分でも自分のためにカードを選び、言葉を選び、時間を割いたという事実が素直に、嬉しかった。

 真由は散々悩んだ挙句、新春らしく凧揚げをしている動画イラストのカードを選び「ソノさんのますますのご活躍とJAMANIAがさらなる高みへのぼられることを楽しみにしています」とファンとして、返信メッセージを書いた。

 ファンとして。

 昨年の暮れに有薗と会った後、自分がメールアドレスを彼に教えたのは軽率だったと考え込んでしまった時期があった。医師としての立場を利用して彼に近づいているような嫌悪感を自分に抱いてしまった。その嫌悪感はあるとき突然真由を襲った。そしてやはり有薗と個人的に付き合うことはしてはならないと思い込んでしまった。そう思い始めると思考はその方向へとめどなく流れていった。大阪で収録したラジオの放送予定をメールで知らされたときも、そっけなく「どうもありがとうございます、聴けたら聴きます」と返事をしただけで、楽しみにしているとも、その後放送を聞いたとも真由は言わなかった。そして真由の返事の冷たさを、ほかならぬ有薗は感じ取っているであろうことも予感していた。JAMANIAファンの美樹に「カウントダウンライブの宣伝を兼ねてラジオ出るみたい」と有薗から聞いた放送日時をメールで知らせたとき、その思いは決定的になった。JAMANIAのメンバー本人から得た情報をこうして第三者に流す自分の行為がとてもさもしく思えたのだ。有薗がJAMANIAのSONOだと知って自分は連絡先を教えたが、他の患者だったら同じことをしただろうか?こうしてJAMANIAのSONOと自分が直接知り合いだということを美樹にも言わないのは後ろめたさや妙な優越感があるからではないのか?

 しかし、一方で有薗自身が魅力的な人間だという思いもまた、否定できなかった。どこか温もりを感じさせる。だからこそ、真由は完全に連絡を絶つことも決意できぬまま、しかし冷たくそっけない返事をしていたのだった。有薗が最初に自分と関わってきたときと同じだと思った。初めてバーで飲み交わした東京の夜、真由は彼との接触を一度は拒否しようとした。ところがいざとなると真由の中の冷たいものが有薗の温かさになだれこむように惹かれてしまう。今もまた、彼女は葛藤に苦しんでいた。

 フラフラとさまようように再びベランダへ出、寒風に当たりながらタバコに火をつけた。タバコを持つ手が寒さに震えている。ふうと息をつき、気付くと雪がちらついていた。この冬初めて見る雪だった。すでに神戸に初雪は降ったらしいが、そのとき真由は勤務中で見ることができなかった。彼女は子どもの頃から雪が大好きだった。冬になると雪はまだかまだかと待ち望み、雪が降るとその中を駆け回った。神戸では積もるほどの雪は降らないが、それでも雪は彼女の心を浮き立たせた。今、かすかにちらつく程度の雪を眺めながら、やはり真由は晴れやかに心が浮き立った。しばらく寒さも忘れて雪に見入った。雪もまた、音もなく海に吸い込まれてゆく。海は何もかもを飲み込んでしまう・・・視線は再び海面に落ちた。

 ふわふわと輪郭も持たずに不安定に舞う白い雪、その雪の溶けてゆく黒く静かな海を眺めていると、葛藤が徐々に和らいでいた。

 いつもの悪い癖だ、考えすぎだ。悩まず、なるようになれ。

 そういう思いになりながら真由は小さくため息をもらし、部屋に戻った。すっかり手が冷えていた。はあと息を吹きかけ、両手をこすり合わせて温める。

 散々悩んでいるが、彼女自身、ひとつ確かなことがある。

 彼女は、有薗の優しさにどう接していいかわからないのだ。なぜ彼が自分を気に掛けてくれるのかよくわからないし、無条件な優しさに困惑してしまっている。もはや患者と主治医でもなく、彼の優しさに応えられる何かが自分にあるとは思えない。

 同じ頃、東京にも雪が舞っていた。恋人のタケシと肩を並べて歩いていた有薗はふわりと解けるぼたん雪をその掌に受け止めた。自分の掌で一瞬にして溶けてしまう雪のはかなさに、一瞬真由の顔が頭をよぎった。はっとして彼は立ち止まった。もう夕方になるのに近くの神社へ参った初詣客で通はごった返しており、突然立ち止まった有薗にどんっとぶつかって行く人やあからさまに迷惑そうな表情を向ける家族連れがいた。それでも彼は少しの間、その場に立ち尽くした。はかないものに真由を重ねてしまったことを自分の中で慌てて否定し、彼は軽く頭を左右に振って自分の思いを打ち消した。「どうした?足でも踏まれた?」とタケシも立ち止まって心配そうな顔をした。なんでもないと有薗は微かに笑ってみせたが、それでもすぐに足を踏み出そうとはしなかった。真由の憂いを含んだ瞳が思い浮かんだ。あれは、自分がこれからも真由と話したい、電話番号は消去しないよ、と宣言したときだった。その次に、神戸のジャズクラブに誘ったとき「芸能人のクセにそんな所に立って」といたずらっぽい表情を浮かべて現れた真由が思い浮かんだ。病院でも思ったことだが、彼女の笑顔は屈託なく、見るものを心地よくさせる力がある。そういう部分に医者としてではなく人間として惹かれたのだが、なぜだろう、彼女は他人を幸せにするだけの力を十分に持ち合わせているのに自分自身が幸せでないような気がする。あの憂いを含んだ瞳は一体何を見つめている?


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